6月2日、かなりひどい二日酔いながら、旅行とかに出かけたり、飲んだ次の日、多少具合が悪くても、結構早くに目が覚めるんですよね。
体調がイマイチながらも、会場である武蔵野公会堂(吉祥寺)へ向かいました。




遠野市職員さん、遠野物語研究所の方々、数名と軽くご挨拶後、どんな方々が来るのだろうと受付近辺にてウロウロ、どうやら遠野から来た一般受講者は自分ひとりであろうと確信する・・・・汗
午前10時開講

定員300名ということでしたが、ほぼ満席。
昼休みに遠野物語研究所のK先生と若干お話しをしたが、申し込み締め切り日近くまでは、予定人数の半分の150名位だったそうですが、急に申し込みが殺到して予定人数近くまで増えたらしい、さらに当日の駆け付け受講者も20名近くいて、まさに盛況でもありました。
さて、今回は早くからこのゼミナールの開催をキャッチ、3月中頃だったと思いますが、直接遠野物語研究所へ出向いて申し込みをする。
自己研修との位置づけ、さらに私が目指す遠野郷土史分野との接点、遠野物語と遠野を離れた地から見ること、そしてできれば遠野外の方々との交流を含んだ情報、意見の交換もしたい、そんな思いから、早期に申し込みをしておりました。
今回、受講してみて私が思ったのは、遠野物語が無かったら遠野はどんなところであったか、まさに遠野物語は遠野にとって宝、財産といっても過言ないものと確信いたしましたし、このことにより観光含め遠野物語がその基となっている事実があり、今後、遠野物語の舞台となった遠野をどのように守り、伝えて行くのかと・・・・幸、遠野は、遠野物語の舞台となった雰囲気が今もなお数多く残され、イメージし易い環境でもあると思います。

松崎、土淵方面(5月下旬の風景・・高清水から)
遠野物語という核を主としつつも、物語舞台としての土壌が残される遠野は、歴史的財産というべき史跡や伝承、文化も数多く残されている貴重な地でもあり、私が目指す郷土史分野との接点のみならず融合することも十分出来うる環境でもあるとあらためて思ったところでもあります。
我々、遠野人は先祖から受け継がれた文化、伝統、歴史を継承しながらも、遠野を訪れる平地人・・・笑・・・つまり遠野外の方々とも交流し、意見をいただきながら、これらを守り伝えること、これが絶対必要であると強く思いました。
おまけ
中央線なる電車に乗り、新宿なる駅に降り立つと、駅構内は人という波が濁流の如く渦巻く様相を呈していた。
その流れに身をゆだね、ヨチヨチ歩きの幼児の如く、時にはペンギン歩きにて、流れから弾き飛ばされないように、また正面、真横から来る流木に当らぬよう東口を目指したのであった。
しばらくするとぽっかりと口を開けた階段がある。
流れに逆らうことなく、そのまま階段を駆け上がる・・・まさに驚愕、表に出るや、人、人、人・・・・・どこからこのような人が湧き出てくるのか、遠野祭りの10倍はいるのだろう・・・いやっ、もっといる、たまげたどころではない、尋常ではないその光景にただ唖然とするしかないっ、が、私の後から後から湧き上がる人々の波に呑まれて前へ前と押し出され、否応無く歩みは日本一の大歓楽街、歌舞伎町へと誘われるのであった。
今時のワゲ者・・・お前はべごか、と思わせる鼻環にタグ打たれたと思わせる耳、日本人だろうが尋常でない色黒の男女、歳の離れた腕組みカップル、胸と太ももを露に思わず鼻血でも吹き出るかと思うほどの美形女、初夏とだというのに毛糸の帽子・・・・人間観察もまた興味深い。

いずれにしろ、じぇんご太郎には刺激が強すぎる眠らない街、歌舞伎町であった。
滞在時間30分、宿をとった上野界隈へ移動、こちらも都会ながらも何故か落ち着くのであった。
ごんどはらい・・・・どんどはれ
体調がイマイチながらも、会場である武蔵野公会堂(吉祥寺)へ向かいました。




遠野市職員さん、遠野物語研究所の方々、数名と軽くご挨拶後、どんな方々が来るのだろうと受付近辺にてウロウロ、どうやら遠野から来た一般受講者は自分ひとりであろうと確信する・・・・汗
午前10時開講

定員300名ということでしたが、ほぼ満席。
昼休みに遠野物語研究所のK先生と若干お話しをしたが、申し込み締め切り日近くまでは、予定人数の半分の150名位だったそうですが、急に申し込みが殺到して予定人数近くまで増えたらしい、さらに当日の駆け付け受講者も20名近くいて、まさに盛況でもありました。
さて、今回は早くからこのゼミナールの開催をキャッチ、3月中頃だったと思いますが、直接遠野物語研究所へ出向いて申し込みをする。
自己研修との位置づけ、さらに私が目指す遠野郷土史分野との接点、遠野物語と遠野を離れた地から見ること、そしてできれば遠野外の方々との交流を含んだ情報、意見の交換もしたい、そんな思いから、早期に申し込みをしておりました。
今回、受講してみて私が思ったのは、遠野物語が無かったら遠野はどんなところであったか、まさに遠野物語は遠野にとって宝、財産といっても過言ないものと確信いたしましたし、このことにより観光含め遠野物語がその基となっている事実があり、今後、遠野物語の舞台となった遠野をどのように守り、伝えて行くのかと・・・・幸、遠野は、遠野物語の舞台となった雰囲気が今もなお数多く残され、イメージし易い環境でもあると思います。

松崎、土淵方面(5月下旬の風景・・高清水から)
遠野物語という核を主としつつも、物語舞台としての土壌が残される遠野は、歴史的財産というべき史跡や伝承、文化も数多く残されている貴重な地でもあり、私が目指す郷土史分野との接点のみならず融合することも十分出来うる環境でもあるとあらためて思ったところでもあります。
我々、遠野人は先祖から受け継がれた文化、伝統、歴史を継承しながらも、遠野を訪れる平地人・・・笑・・・つまり遠野外の方々とも交流し、意見をいただきながら、これらを守り伝えること、これが絶対必要であると強く思いました。
おまけ
中央線なる電車に乗り、新宿なる駅に降り立つと、駅構内は人という波が濁流の如く渦巻く様相を呈していた。
その流れに身をゆだね、ヨチヨチ歩きの幼児の如く、時にはペンギン歩きにて、流れから弾き飛ばされないように、また正面、真横から来る流木に当らぬよう東口を目指したのであった。
しばらくするとぽっかりと口を開けた階段がある。
流れに逆らうことなく、そのまま階段を駆け上がる・・・まさに驚愕、表に出るや、人、人、人・・・・・どこからこのような人が湧き出てくるのか、遠野祭りの10倍はいるのだろう・・・いやっ、もっといる、たまげたどころではない、尋常ではないその光景にただ唖然とするしかないっ、が、私の後から後から湧き上がる人々の波に呑まれて前へ前と押し出され、否応無く歩みは日本一の大歓楽街、歌舞伎町へと誘われるのであった。

今時のワゲ者・・・お前はべごか、と思わせる鼻環にタグ打たれたと思わせる耳、日本人だろうが尋常でない色黒の男女、歳の離れた腕組みカップル、胸と太ももを露に思わず鼻血でも吹き出るかと思うほどの美形女、初夏とだというのに毛糸の帽子・・・・人間観察もまた興味深い。

いずれにしろ、じぇんご太郎には刺激が強すぎる眠らない街、歌舞伎町であった。
滞在時間30分、宿をとった上野界隈へ移動、こちらも都会ながらも何故か落ち着くのであった。
ごんどはらい・・・・どんどはれ