見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

神さまの乗りもの/神輿(國學院大學博物館)

2024-09-07 23:20:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

國學院大學博物館 企画展『神輿-つながる人と人-』(2024年6月29日~9月16日)

 国学院大学が所蔵する祭礼を描いた屏風、絵巻、刷り物などから「神輿とは何か?」を紐解き、さらに「祭りの力」についても考える。絵画資料が多くて、視覚的におもしろかった。

 展示パネルによれば、神輿が歴史の舞台に登場するのは、天慶8年(945)志陀羅神などの神輿が摂津の国から移動したときのことだという。図録の解説はもう少し詳しくて、『続日本紀』によれば、天平勝宝元年(749)宇佐八幡宮の八幡神は東大寺の大仏建立を助けたいとの託宣を下し、約1ヶ月かけて平城京へ上京したが、神輿を使用したかどうかは明確でない。神輿の明確は記事は、『本朝世紀』天慶8年(945)7月28日の条になる。はじめは志陀羅神など3基の神輿と記されていたものが、自在天神(菅原道真公の霊)と八幡神という認識に変化していく。このへん、当時の社会背景(災害、感染症、内乱)や、名前の挙がっている神々の性格を考えると、とても興味深い。

 その後、天延2年(974)の祇園御霊会を早い例として、神輿で神々が移動する祭りのかたちが定着する。この前提として「古代において、神霊は『坐す』存在であり、八幡神ほか、特定の神々を除けば、原則として移動することはなかった」と説明されていたけど、そうかなあ。移動を繰り返して最終的に「坐す」に至る神々はけっこう多いように思う(伊勢神宮もそうだし)。

 展示資料では『付喪神絵詞』(江戸時代後期)が可愛かった。ネズミやウサギみたいな付喪神たちが、面を付けたり、獅子舞を演じたり、神輿を担いだりしている。歌川芳宗の錦絵『天王御祭礼之図』は、モブ(群衆)の表情にひとりひとり個性があって、細かく眺めると楽しい。

 この日は、行ってみたら「神輿を担ぐ!(学生神輿サークルによる実演と解説)」というイベントがあったので、参加してしまった。神輿サークル「若木睦(わかぎむつみ)」の学生さん4名による神輿トークで、この展示を担当した大東敬明先生が話を聞くかたちで進行した。典型的な「江戸前担ぎ」として紹介されていたのは、神田明神の神田祭、赤坂日枝神社の山王祭。神田祭では法被の下は上下とも黒が正式なのだそうだ。あれ?深川八幡祭りは白だな。季節が関係しているのか、それとも水をかぶるからか。

 本来、神輿は神様を乗り移らせ、巡行するものだが、靖国神社のみたままつりでは、英霊は社殿から動かないので、ただ賑やかな祭礼を見せて英霊を慰めるのが目的だという。品川の天王祭は「城南担ぎ」と言って、江戸前担ぎとは全く様子が異なる。神奈川県の湘南地方には「どっこい担ぎ」というのもあるそうだ。大東先生いわく、「どれが正しいんですか?」と聞かれることがあるが、その地域で長年受け継がれてきたものが正しいんです、という説明に同感である。

 須賀神社(栃木県小山市)祇園祭の神輿は「アンゴステンノ-」という不思議な掛け声をかけるそうで、大東先生の「南無牛頭天王」が訛ったものだろうという解説に深く納得した。おもしろいなあ。もっと各地の神輿を見たくなってきた。

 最後はフロアの椅子を片付けて、学生さんたちが実際に神輿を担いで見せてくれた。神輿好きらしいおじさんが飛び入り参加をしていたが、足の運びがかなり複雑で、素人がいきなり担げるものじゃないなあと思った。

(おまけ)最近、國學院大學博物館に行くときは、学食に寄ってランチをいただくことにしている。学外者も利用しやすくてありがたい。

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深川江戸資料館を訪ねる

2024-09-03 20:54:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

深川江戸資料館(江東区白河)

 門前仲町の住民になって8年目、ようやくご近所・深川江戸資料館を見てきた(コロナ禍でなかなか機会がなかったのだ)。こじんまりした施設ではあるけれど、天保年間頃の深川佐賀町の町並みの「情景再現、生活再現展示」が見どころである。

 私が展示場に入ったときは夜の設定で、夜空に月が浮かんでいた。舂米屋の土蔵の隣り、長屋の屋根でぶち猫が眠っている。その下は三味線のお師匠さんの住まいという設定。

 八百屋の店先。青物だけでなく、卵やコンニャクも商う。

 棒手振りの住まい。深川らしく、桶の中には貝がゴロゴロ。私は子供の頃、夏休みになると、深川森下町の従兄弟の家(母親の実家)に泊まりにいくのが楽しみだったが、昭和40年代でも、朝早くアサリ売りが町を歩いていた。寝床で聞いた「ア~サリ~シ~ジミ~」という売り声を覚えている。

 蕎麦屋の屋台。稲荷寿司や天ぷらの屋台もあった。必要な食品・調理道具・食器などを効率よく収納できる構造になっていて、おもしろい。

 川岸の杭には、都鳥ことユリカモメ。赤い嘴と赤い脚が特徴である。

 狭いエリアに、船宿、火の見櫓、稲荷、共同井戸と便所など、見どころをうまくまとめていると思ったが、解説パネルを読んだら、実際に深川佐賀町(隅田川東岸、永代橋の北側)の絵図に基づいて再現されているのだそうだ。

 なお、同館は昭和61年(1986)開館とのこと。私は、昭和の終わりか平成のはじめに、三谷一馬氏の『江戸物売図絵』の展覧会を見に来たことがあり、展覧会も楽しかったが、この街並み展示も面白かったことを強く記憶している。30年ぶりに再訪できてうれしかった。次は何かイベントの時に来てみよう。

 1階には、江東区名誉区民でもある横綱大鵬を顕彰するコーナーがあった。私は大鵬を覚えている世代だが、それよりもこのひとは樺太(サハリン)の敷香町(ボロナイスク)の生まれで、現地の郷土博物館に関連展示があったことを思い出し、その距離感をしみじみ味わった。

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理想の推し活/高畠華宵が伝えてくれたこと(弥生美術館)

2024-09-01 20:51:42 | 行ったもの(美術館・見仏)

弥生美術館 開館40周年 生誕祭!『大正ロマン・昭和モダンのカリスマ絵師 高畠華宵が伝えてくれたこと』(2024年7月6日~9月22日)

 1階展示室では、大正末から昭和初期にかけ、絶大な人気を誇ったイラストレーター・高畠華宵(1888-1966)の作品を展示。私はさすがに華宵の人気をリアルに知る世代ではないのだが、2015年の『橘小夢展』を見に行ったとき、常設エリアの華宵に関する展示があまりに面白かったので松本品子編『高畠華宵』を買って帰り、ますますその魅力に引き込まれてしまった。

 華宵の描く少年・少女は、いずれも訴えるような三白眼が印象的で、現実離れした美形だが、肉体が生々しい実感を持っている。女性は、意外とむっちりした肉付きが魅力的。

このイラストは手塚治虫の『リボンの騎士』に影響を与えているんじゃないかと思った。

古代エジプトを舞台にした小説の挿絵も描いていて、1970年代の少女マンガのエジプトブームを思い出した。直接の影響関係はないかもしれないけど。

 華宵は鎌倉・稲村ケ崎一ノ谷(いちのやと)の自宅兼アトリエ「華宵御殿」に「弟子の美少年たち」ともに住んでいた(とパネルに書いてあってドキッとした)。彼らに特別にモデルをさせることはなく、ただ日常の様子をスケッチしていたという。夜になるとトルコ風のアーチのある寝室に籠ったそうで、これは写真をもとに会場内に再現された寝室の風景。

 生い立ちの紹介を読むと、幼い頃は女の子と人形遊びをしたり、一人遊びをすることを好む子供で、のちに「私自身の素質の中に、余りにも女性に似たものがある」とも語っている。しかし一方「女性を寄せ付けなかった」という証言もあり、唯一の例外が古賀三枝子さん(のちに弥生美術館館長)だった。複雑なジェンダーの持ち主という感じがする。

 2階展示室の物語は、華宵の存在がすっかり忘れられた1960年代から始まる。戦前、熱烈な華宵ファンだった弁護士・鹿野琢見(かの たくみ、1919-2009)は、華宵が明石市の老人ホームで暮らしていることを知り、書簡を交わし、華宵会(ファンダム!)を発足させ、華宵の復権のために奔走する。ついに弥生町の自宅に華宵を招き、1966年、華宵の最期を看取り、その後、華宵の遺族から著作権を譲渡される。そして鹿野の自宅を活用して、1984年に創設されたのが弥生美術館なのである(のちに竹久夢二美術館を併設)。

 いやもう「推し活」の究極の姿ではないかと思った。自分の満足のために起こした行動が晩年の「推し」の幸せを生み、さらに同じ「推し」を持つ仲間、あるいは未来の仲間のために美術館を建ててしまうのだから。

 40年前、雑誌の挿絵や漫画・イラストを正面切って取り上げる公設の美術館はほとんど無かった。1階展示室で、同館の過去の企画展のポスターを振り返るスライドが流れており、その功績の大きさをしみじみ実感した。

 なお、3階展示室では日本出版美術家連盟(JPAL)の作家展を開催中。見たかった『小松崎茂展』(2024年7月30日〜9月1日)を見ることができた。これはネットミームとしてもそこそこ有名な、攻めてくるイルカ。『なぜなに学習図鑑:なぜなに からだのふしぎ』掲載。

1980年に描かれた「宇宙コロニー」の図。

ふつうの町風景の写生画も出ていて興味深かった。

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夏はお化けと幽霊画/2024幽霊画展(全生庵)他

2024-08-31 21:09:24 | 行ったもの(美術館・見仏)

全生庵 『谷中圓朝まつり 幽霊画展』(2024年8月1日~8月31日)

 昨年は猛暑の盛りに出かけて消耗したので、今年はどうしようかと様子を見ていた。会期の最終日、じりじり近づく台風10号を控えて、東京は曇り空だったので、思い切って出かけてみたら、若い女性のグループをはじめ、ずいぶんお客さんが多かった。

 展示作品は、昨年と同じものもあれば、入れ替わっているものもある。鏑木清方の『幽霊図』は茶托に載った蓋つきの茶碗を差し出す女性。俯いているので髪型しか見えない。白い着物の袖口から淡いピンクの襦袢(?)が覗いている。この「顔を見せない女の幽霊」シリーズが私は大好き。渡辺省亭『幽女図』は、煙の立つ火鉢の向こうで背けた顔に袖を当てている。池田綾岡『皿屋敷』は、菊を描いた襖の陰に座って、袖で顔を隠す女性。そばには行灯。この行灯(あたりが暗闇であることを示す)と、襖や蚊帳(幽明の境?)は、幽霊画の大事な小道具であるように思う。鰭崎英朋の『蚊帳の前の幽霊』も蚊帳と行灯が舞台装置。両手を白い着物の中に隠し、棒立ちの女の幽霊の横顔が儚げで切ない。

 初めて見たように思ったのは、尾形月耕『数珠を持つ幽霊』。横向きの禿頭の男性が静かに俯き、額に三角巾(天冠)を付け、袖なし襦袢みたいな簡易な着物をまとって、数珠を手にしている。即興のスケッチのようだが、腰から下が描かれていないのが幽霊っぽい。

 伊藤晴雨は、恐ろしげな『怪談乳房榎図』もあったが、印象的だったのは「柳家小さん師匠寄贈」の注記のついた女性幽霊画シリーズ5点。牡丹燈籠、皿屋敷のお菊、姑獲鳥はすぐに分かったのだけど、奥女中か宮廷女房ふうの怖い顔の女性は紅葉狩の鬼女か? 御簾の下でガマの怪物と並んだ女性は滝夜叉姫かな? 姑獲鳥は赤子を抱えた女性の姿だが、肩に羽根が生えていてカッコいい。

 月岡芳年『宿場女郎図』を今年も見ることができたのは眼福。骨と皮だけの手(階段を掴む手と、水平に伸ばした手)が凄まじい。実際に宿場女のスケッチをもとに描いたという伝承があるそうで、現世に生きていた女性の姿なのだが、そのまま「幽霊画」になっている。なお、今年も髑髏の紙団扇をいただくことができ、髑髏のTシャツも買ってしまった。

太田記念美術館 『浮世絵お化け屋敷』(2024年8月3日~9月29日)

 前後期で全点展示替えと聞いたので、ひとまず前期(~9/1)を駆け込みで見て来た。なんだか初めて見る作品があるなと思ったら、前後期約170点の中には、新たに収蔵された初公開の作品38点が含まれているという。うれしい。

 前期の見ものは芳年『奥州安達がはらひとつ家の図』だろうか。逆さに吊り下げられた妊婦の、腹や乳房、さらに乳首の垂れさがり具合に現実味があって、血が一滴も流れていないのにぞっとするほど恐ろしい。しかし隣りにあった国芳『風流人形の内 一ツ家の図 祐天上人』は同じ惨劇の図を描いているのだが、安政3年、深川八幡宮で催された生人形の見世物の図という解説が付いていた。江戸の人々、何を考えているんだか。

 この「一ツ家」もそうだが、お化け・妖怪といえば、繰り返し描かれる画題がある。古くは戸隠山の鬼女、渡辺綱と土蜘蛛そして羅城門の鬼、源平の亡霊や怨霊など。東海道四谷怪談にしても、累の物語にしても、やっぱり物語の全体像を知っていると、絵画作品の解像度が上がる。本展には外国人のお客さんの姿も多かったが、もう少し英語の解説があるといいのに、と思った。

(メモ)国芳『百人一首之内 大納言経信』という作品は、源経信(※『難後拾遺』作者)が月夜に古歌を口ずさむと、外で漢詩を詠む声が聞こえ、見ると巨大な鬼が立っていた、というもの。鬼の口から洩れる「北斗星前横旅雁/南楼月下擣寒衣」という漢詩が気になって調べたら、これは和漢朗詠集に採録された劉元叔(伝未詳)の「妾薄命」で、この説話自体は『撰集抄』に載るという。これ、国芳が『撰集抄』を読んでいたのか、別のかたちで流布していたのか、どっちなんだろう。

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娯楽作で学ぶ現代史/映画・ソウルの春

2024-08-27 22:57:53 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇キム・ソンス監督『ソウルの春』(角川シネマ有楽町)

 話題の韓国映画を見てきた。1979年12月12日、全斗煥と同志の秘密組織ハナ会グループが、粛軍クーデター(12.12軍事反乱)によって政権を掌握する顚末を描く(登場人物の名前は微妙に変えてある)。

 チョン・ドゥグァン少将(全斗煥)は、10月に起きた朴正煕暗殺事件の捜査本部長として強大な権力を手中にしたが、陸軍参謀総長はこれを警戒し、信頼のおけるイ・テシン少将を首都警備司令官に任命するともに、ドゥグァンを首都ソウルから遠ざける人事を計画する。危機感を抱いたドゥグァンは、参謀総長の罪をでっちあげて部下に拉致させ、同時に大統領から参謀総長取り調べの承認を得ようとしたが、大統領は疑念を抱いて認可を与えない。進退きわまったドゥグァンは、大統領の判断を無視し、実力行使に突っ走っていく。

 ドゥグァンの周りに集まったハナ会メンバーの将校たち(年齢や階級はドゥグァンより上)は、事態が深刻化するにつれて、権力欲と保身を天秤にかけて右往左往する。ドゥグァン自身は最初から大望を抱いた英雄ではないが、さすがに肝が据わっており、抜群の判断力と瞬発力で危機を切り抜けていく姿は、憎たらしいが魅力的である。ドゥグァンの腹心(親友?)らしいが、傍らでおろおろしてるだけの小物のノ・テゴン少将、実は盧泰愚(ノ・テウ)がモデルと知って、あとで驚いた。

 しかし当人が小物か大物かに関係なく、軍において指導的な地位にあれば、軍事部隊を動かすことができる。上官の命令には絶対に従うのが軍隊というものだ。ドゥグァンはハナ会の将校たちを通じて、ソウル近傍に駐屯中の部隊にソウル進撃を命じる。一方、首都警備司令官のイ・テシンも、ハナ会の影響の及んでいない部隊に応援を要請する。強大な軍事力が首都の近傍に控えている怖さ(北の脅威に対する防備がリスクにもなっている)。あと、漢江が防御線になるソウルの地理をあらためて認識した。

 なんとか内戦を食い止め、ソウル市民の安全を守ろうとするイ・テシンだが、いちはやく米国大使館に逃げ込んだヘタレの国務部長官や、指揮権のヒエラルキーにこだわり、口先では俺がドゥグァンを説得するといきまく、無能な参謀次長の存在が反乱側を利することになり、万事休す。最後まで、単身でドゥグァンに詰め寄ろうとしたイ・テシンは反乱軍に取り押さえられる。高笑いするドゥグァン。数日後、大統領はあらためてドゥグァンに求められた書類にサインをするが、日付を書き添え「事後決裁だ」と言い添える。文人政治家の最後の抵抗は虚しいが、気持ちは分かる。「こうしてソウルの春は終わった」というナレーション。

 史実に基づいているので、結末がくつがえることはないと分かっていても、手に汗握る展開で、おもしろかった。ただ、ドゥグァン=悪、イ・テシン=善の対立が平板に過ぎる感じはした。後々まで振り返って「おもしろさ」を味わうには、もう少し善悪未分化の人物が描かれているほうが私の好みである。それでいうと『KCIA 南山の部長たち』の朴正煕には、そういう魅力があったが、本作の全斗煥は、わりと単純な悪役(しかも大悪人ではない)に振り切っている。これは作品の性格の差なのか、二人の政治家に対する、現在の韓国人の標準的な見方なのか、ちょっと気になる。

 なお、史実では、イ・テシンに当たる人物は張泰玩(チャン・テワン)というらしい。作中の名前は、民族英雄の李舜臣(イ・スンシン)に重ねているのだろう。ソウルの光化門広場に立つ巨大な李舜臣の銅像をイ・テシンが見上げるカットが一瞬だけある。

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東西の名品を愛でる/空間と作品(アーティゾン美術館)

2024-08-25 21:47:41 | 行ったもの(美術館・見仏)

アーティゾン美術館 『空間と作品』(2024年7月27日~10月14日)

 おもしろい展覧会だという噂は聞いていたが、これほどとは思わなかった。「美術品が在ったその時々の場を想像し、体感してみること」をテーマに、和洋(+中華?)の絵画・立体作品140点余りのさまざまな鑑賞方法を提案する。

 はじめに「祈りの対象」では広々とした展示室に置かれた2体の円空仏。「依頼主と」はピサロの『四季』連作4点。何の変哲もない農村の四季風景なんだけど、とてもよかった。ある銀行家がダイニングルームに飾るために発注したそうだが、毎日見るならこういう穏やかな絵がよいね。「持ち主の存在」は、同館のコレクションの中でも有名なピカソの『腕を組んですわるサルタンバンク』で、かつてピアニストのホロヴィッツが所蔵していたという。本展は、このあとも旧蔵者をクイズふうに書き添えたセクションがあって、ほうとかへえとか唸りながら、興味深く眺めた。川端康成旧蔵の古賀春江作品が複数出ていたが、Wikiを読んで、二人に深い交友関係があったことを初めて知った。

 「建物の一部」では、大和郡山の柳沢家伝来とされる応挙の『竹に狗子・波に鴨図襖』を展示。展示室の一角に畳の床がしつらえてあり、畳に上がって、ガラスなしで襖と向き合うことができる(ただし近づきすぎると警告アナウンスが流れ、監視員さんに止められる)。現在は「竹に狗」面の展示(-9/8まで)。この仔犬がめちゃくちゃ可愛い。私は応挙の仔犬はあまり好きでなかったのだが、この子たちは元気があって私好み。

 展示品は洋画が圧倒的に多いのだが、どうしても私の関心は日本・東洋美術に向いてしまう。驚いたのは『平治物語絵巻 六波羅合戦巻断簡』が出ていたこと。安井曾太郎旧蔵だそうだ。写真まで自由に撮らせてくれるなんて、なんちゅう太っ腹!

 伝・宗達の『伊勢物語図色紙・彦星』は前田青邨旧蔵。2023年の久保惣美術館『宗達』展の図録を引っ張り出して「益田家本」の1枚であることを確認した。

 因陀羅筆『禅機図断簡・丹霞焼仏図』はあまり見た記憶がないので、初見かと思ったら、2017年に京博『国宝』展で1回だけ見ていた。いや眼福。筑前藩主・黒田家に伝わったものだという。

 

 ほかにも雪舟筆『四季山水図』4幅(重文、東博所蔵の同名作品とは異なる)や『鳥獣戯画断簡』など、あっと驚く「古美術」作品がところどころに潜んでいた。

 一方で西洋絵画を「旧蔵者」や「額」(表装!)に注目して鑑賞するのは、東洋古美術の鑑賞法を応用するようで面白かった。西洋絵画の額装にも様式の流行り廃りがあり、今では当たり前の「白一色」「黒一色」のシンプルな額が登場したときのインパクトを想像すると楽しい。コレクターが古い額装を変えることがあるのは、東洋絵画の表装と変わらないように思った。青木繁『海の幸』の額(木製、四隅に2匹の魚の装飾)について、会場内のネットからは興味深い解説が読めたのだが、一般には公開されていないのかな? 残念。

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長浜・総持寺の千手観音立像とギャラリートーク(東京長浜観音堂)

2024-08-21 20:54:36 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京長浜観音堂 『千手観音立像(長浜市宮司町・総持寺)』(2024年8月1日~9月1日)

 令和6年度第2回展示の千手面観音立像を拝見し、8月17日に開催されたギャラリートーク(浅井歴史民俗資料館・秀平文忠氏)を聴いてきた。秀平さんのお話は、2023年11月にもお聴きしたことがあるが、そのときの肩書きは「高月観音の里歴史民俗資料館学芸員」だったので、異動されたのだな、と思った。浅井歴史民俗資料館、行ってみたいけれど、車がないと、かなり難しそうな立地である。

 今回お迎えしている千手観音立像は、平安時代(12世紀)の作と見られ、後世の修理の結果、「泥地古色彩」と呼ばれる黒っぽいお姿をしているが、よく見ると、小さな金箔の残りが散見される。丸顔で柔和なお顔立ちは、平安後期に流行した定朝様式を踏襲しているとのこと。長浜の観音としては、かなり「都ぶり」のお像である。

 医王山 総持寺は長浜市宮司町にある真言宗豊山派の寺院で薬師如来を本尊とし、近江国内の豊山派の触れ頭(ふれがしら)とか中本山とも呼ばれている。我が家は豊山派なので、ご縁があって嬉しい。長浜に多い、地域の集落でお守りされている観音さまとは少し違うようだが、宗旨にこだわらない支援組織を持っているところが似ている、という解説をされていたと思う(曖昧な理解になってしまったので、いつか現地に確認に行きたい)。

 左右の脇手は19本ずつ、持物は全て後補ということだが、精巧に作られていて面白かった。向かって右上側、パセリか春菊みたいな緑の植物が見えると思ったのは楊柳。

左下のトウモロコシみたいな植物は葡萄だった。

 

 ギャラリートークでは、千手観音の様式の変遷(最初に日本にもたらされたのは、神護寺の高雄曼荼羅)や長浜の千手観音の紹介があった。千手院の千手観音(川道観音)は33年ごとに開扉される秘仏だという。拝観したいなあ…。「たかつきのあんこうじ」は、長浜市高月町だと思って聞いていたが、大阪府高槻市の安岡寺(あんこうじ)に平安時代後期の千手観音坐像があるのだな。これも拝観したい。いろいろ気になる情報をいただけて、楽しかった。

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歴史物語としての魅力/吾妻鏡(藪本勝治)

2024-08-19 00:17:55 | 読んだもの(書籍)

〇藪本勝治『吾妻鏡-鎌倉幕府「正史」の虚実』(中公新書) 中央公論新社 2024.7

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公式記録として1300年頃に編纂された史書で、治承4年(1180)に源頼朝が伊豆で挙兵してから、文永3年(1266)に第6代将軍宗尊親王が京都に送還されるまでを各将軍ごとに漢文編年体で記している。鎌倉幕府の草創から中期までの事蹟を記した、ほぼ唯一のまとまった文献であり、現在一般にイメージされる鎌倉時代の歴史像は『吾妻鏡』によって形成されてきた。私はこの時代にそれほど詳しくないけれど、一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を熱心に見ていたので、『吾妻鏡』にはこう記載されている、という解説には、けっこう気を配っていた。

 ところが、近年の研究によれば、『吾妻鏡』の本質は、多くのフィクションをまじえて構築された虚構のストーリーであることが分かってきたという。本書はこれを「頼朝挙兵」「平家追討」「奥州合戦」「比企氏の乱」「和田合戦」「実朝暗殺」「承久の乱」「宝治合戦」に焦点を当てて読み解いていく。

 たとえば「頼朝挙兵」について、『平家物語』では後白河の院宣と以仁王の令旨という二つの端緒が描かれるのに対して、『吾妻鏡』は令旨のみである。これは頼朝の挙兵を、頼政の宿意に端を発する源家再興の事業と位置づけるためと、令旨拝受の場に北条時政を介在させ、北条氏と源氏の結びつきを強調するためと考えられている。北条氏が自家の優越性を主張するために源氏将軍の権威を利用しているとも読める。ちなみに頼朝と時政の関係は、頼義(東国に源氏の地盤を確立)と平直方(助力者となった地元の豪族)の関係を想起させるように記述されている。

 もちろん『吾妻鏡』には、北条氏以外の忠臣の活躍も書き込まれている。こうした記事は、各家が頼朝と結びつこうとした家伝や、合戦の論功行賞のために提出した資料をそのまま取り込んだと見られている。その結果、複数の家の物語の相克が明らかになったり、敗者の声が紛れ込んだりしているのは、頼朝の支配の正統性を描くという構想の「ほころび」なのだが、そこにこの史書の魅力があるとも言える。

 頼朝の死後、頼家は徹底した悪王として描かれ、これと対比的に、北条泰時こそ頼朝の政道を継承する者として描かれる(このへん完全に『鎌倉殿』の配役でイメージ)。続いて登場する実朝は「文」(文芸、文書)の力を持ち、神仏と交信する存在であるのに対し、泰時は「武」と仁徳で武士たちを率いるという分業が意識されている。これは『吾妻鏡』編纂当時の、親王将軍と得宗家の分掌体制を反映してるという論も面白かった。

 しかし実朝は徐々に悪王化し(武を軽んじ、華美を好む)、神仏の加護を失い、暗殺される。この「悪王化」の一例として、唐船建造(失敗)説話が語られているが「これは虚構である可能性が高い」とのこと。「東大寺の大仏を再建した技術者である陳和卿が、海岸に船体が浮かぶかどうかという基本的な構造設計・地形調査を怠るはずもない」って、まあそうだよね。

 そして「承久の乱」を経て、頼朝以来の正統を受け継ぎ、神仏に庇護された英雄・泰時によって、得宗執権体制が確立される。なお京都では、その後の三浦義村の頓死、北条時房の急死、さらに泰時の死も後鳥羽院の怨霊の所為と考えられたが、『吾妻鏡』に後鳥羽院の怨霊に関する記事はない(泰時死去の年は欠巻)。編纂の同時代に近づく『吾妻鏡』後半の筆致が、前半の「文学的」魅力を失っていくのは、まあ仕方がないことかもしれない。

 本書は、京都の貴族の日記など、できるだけ同時代の史料を参照して『吾妻鏡』の曲筆、虚構を指摘しているのだが、参照資料のひとつとして、何度か定家の『明月記』が登場する。たとえば「和田合戦」について、鎌倉で起きた大事件だし、後世の編纂と言っても幕府の公的な史書なのだから『吾妻鏡』のほうが信用できるだろうと思ったら、実は『明月記』の記事の切り貼りで、しかも三浦義村の働きを省筆して、北条義時の美化が追加されているという検証には笑ってしまった。『明月記』、身近な京都の出来事だけを記録しているのではないのだな。あなどれない。

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2024年7-8月展覧会拾遺

2024-08-18 21:13:35 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 館蔵・夏の優品展『一味涼爽』(2024年6月22日~7月28日)

 「夏」と「涼」をテーマに、夏の情景を詠んだ古筆、日本画に表された消暑風景、清雅な禅僧の墨跡などを紹介。陶磁器に季節はなさそうだが、青磁や青花には涼しさを感じる。南宋・龍泉窯の『青磁鳳凰耳瓶』は、この種の瓶の中で最も大きい作例とのことで圧倒された。

日本民藝館 特別展・朝鮮民族美術館設立100年記念『柳宗悦と朝鮮民族美術館』(2024年6月15日~8月25日)

 1924(大正3)年、浅川伯教・巧兄弟と柳宗悦が、京城(現在のソウル)に朝鮮民族美術館を設立してから100年の節目に当たることを記念し、その足跡をたどり、当時集められた品々を中心に、設立募金関連資料や開催された展覧会の資料を交えて展示する。大展示室だけでなく、2階の各展示室は、全て朝鮮の絵画・工芸がテーマになっており、名品の数々をたっぷり楽しむことができた。満州族っぽい人々を描いた狩猟図が面白かった。

 パンフレットの解説によれば、3,000点以上に及んだと言われる朝鮮民族美術館のコレクションは、伯教によって国立民族博物館(ソウルの?)に移管され、後に国立中央博物館に収蔵されたという。日本民藝館に残されたのは、陶磁器を中心とするおよそ100点とのこと。残念なようでもあるが、正しい持ち主のもとに戻ってよかったというべきか。

千葉市美術館 企画展『岡本秋暉 百花百鳥に挑んだ江戸の絵師-摘水軒コレクションを中心に』(2024年6月28日~8月25日)+企画展『江戸絵画縦横無尽!摘水軒コレクション名品展』(2024年6月28日~8月25日)

 岡本秋暉(おかもとしゅうき、1807-1862)は濃厚華麗な花鳥画、とりわけ孔雀の名手として名を馳せた江戸後期の画人。世界一の秋暉コレクションを擁する摘水軒記念文化振興財団の所蔵品を中心に、約100件の作品で生い立ちから画業を通覧する18年ぶりの回顧展。私も岡本秋暉といえば孔雀画しか知らなかったのだが、様々な鳥を好んで描いたことを初めて知った。『鳥類写生図巻』『鳥絵手本』『百花百鳥図』など、どれも楽しい。『十二ヶ月花鳥図』は他の画家にもあるが、秋暉の場合、鳥の存在感が目立つ。そして秋暉が逗留したことで知られるのが、柏村(現千葉県柏市)の名主であった摘翠軒・寺嶋家で、ここにル-ツを持つのが摘水軒記念文化振興財団(理事長・寺嶋哲生氏)であるという。

 今回、岡本秋暉展と合わせて、摘水軒コレクションの名品展も開催されている。又兵衛、若冲、応挙、蘆雪、北斎などのビッグネームもあり、肉筆浮世絵、風俗画、博物画など、ジャンルも多様だが、最大の魅力は「ちょっとヘンな絵」が適度に混じっていることだと思う。柴田是真の『葡萄栗鼠図』は、なぜか葡萄の樹から真っ逆さまに落下するリスを描いたもので、思わず手を添えて写真を撮ってしまった。

目黒区立美術館 生誕130年『武井武雄展~幻想の世界へようこそ~』(2024年7月6日~8月25日)

 武井武雄(1894-1983)の豊富な創作活動をふりかえる展覧会。黒柳徹子さんの創作物語に武井の過去作品を挿絵として編集した絵本『木にとまりたかった木のはなし』を知ることができてよかった。

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第1季からパワーアップ/中華ドラマ『唐朝詭事録之西行』

2024-08-16 14:44:38 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『唐朝詭事録之西行』全40集(愛奇藝、2024年)

 2022年に公開された『唐朝詭事録』の続編である。前作はまあまあ楽しめたが、エピソードによっては退屈なものもあり、私は「ハマる」ほどではなかった。それが今回は激ハマりしてしまった。本作は第1季の登場人物そのままに「降魔変」「仵作之死」「風雪摩家店」「千重渡」「通天犀」「雲鼎酔」「上仙坊的来信」「供養人」の8つのエピソードで構成されている。

 「降魔変」の舞台は長安。大唐第一の絵師・秦孝白は成仏寺に降魔変の壁画を描いていたが、壁画の魔王が抜け出して人を襲う怪事件が起きる。大理寺少卿の盧凌風は、魔王との対決で重傷を負い、墓守に左遷されていた蘇無名が呼び戻される。最終的に事件は解決し、公主と太子を狙った国家転覆の陰謀を未然に防ぐことができたが、乱戦の中、盧凌風は公主に「娘(かあさん)」と呼びかけてしまう。孤児として育った盧凌風の母親が公主であることは前作で明らかになったが、一部の者だけが知る秘密だった。

 その後、皇帝は譲位を表明し太子が即位(これ玄宗なのか)。盧凌風は寒州雲鼎県の県尉に降格され、任地に赴くことになる。政治的な雲行きの危うさを察した蘇無名も職を辞し、桜桃とも別れて長安を離れるが、結局、一行は「仵作之死」の舞台である拾陽県で集合し、西を目指すことになる。博学と弁舌の蘇無名、安定の武闘派・盧凌風、やや無鉄砲な女侠の褚桜桃、絵画と観察力の裴喜君、毒薬にも詳しい神医・費鶏師が、それぞれの得意技を発揮して、チームで難事件を解決していく展開がとてもいい。昭和生まれの私には懐かしい「戦隊もの」みたい。

 前作の陰鬱な怪奇趣味はやや薄まり、論理的な「謎解き」に力点を置いたエピソードが多いのもよかった。「供養人」は童女の何気ないひとことが犯人捜しの鍵になる。私は中国語の七割くらいしか理解できていないので「不好惹」(なめてはいけない)の意味を初めて覚えた。「仵作之死」と「供養人」に出て来た古代の仵作(検死人)による死因の調査方法、あれは創作なのか、何か典拠があるのか気になる。

 荒唐無稽を突きつめたようなエピソードが「千重渡」で、大河(たぶん黄河)を船で渡ろうとした一行は、水中の怪物「破蜇」に出会う。 鮫の頭、蠍の尾、蟹の爪、蛸の足、蝙蝠の羽根を持つ(五不像)ウルトラ大怪獣みたいなやつ。この怪物と槍の使い手・盧凌風の対決が迫真のアクションで手に汗を握ってしまった(どう考えてもCGなのだが)。

 前作では青臭さの残る青年だった盧凌風が、徐々に世間知を身に着け、蘇無名とのバディ感を強めているのも嬉しい。「雲鼎酔」では唐の国禁を破って毎晩夜市が開催されている状況に怒るのだが、当地の庶民のためという前任県尉・司馬亮の意図に最後は理解を示す。「上仙坊的来信」では殺害された被害者の悪行三昧が明らかになるにつれ、容疑者の女性たちへの追及を取りやめる。本当の悪人は許さないが、基本は義理より人情の物語なのである。

 「風雪摩家店」で盧凌風らは摩什大師の舌舎利を得るが、これは鳩摩羅什が火葬されても遺言どおり舌が焼け残ったという伝説を踏まえているのだろう。「通天犀」の舞台となった寒州城はたぶん涼州(武威)で、武威にはゆかりの羅什寺塔が残る。「雲鼎酔」は盧凌風の任地・雲鼎県城が舞台だが、犯罪集団の本拠地に人々の意識を失わせる酒池があったのは、酒泉を念頭に置いているのかもしれない。そして最後の「供養人」は敦煌が舞台で、莫高窟で旅人のガイドを務める利発な少年が登場する。私は30年近く前、一回だけ河西回廊を旅行したことがあって、むちゃくちゃ懐かしかった。現地の風景は、もうすっかり変わっているんだろうなあ…。

 最終話は、一行が陰謀渦巻く長安へ呼び戻されるところで終わる。第2季が第1季より面白いというのは滅多にない事例なので、第3季にも大いに期待したい。ところで、雲鼎県で盧凌風の部下になった捕手の策龍(張層層)が好きだったんだけど、第3季の出番はないですかねえ。あと無骨一辺倒の盧凌風には剣より槍のほうが似合うと思うのだが、「通天犀」で失われた(?)槍は戻ってこないだろうか。

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