見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

富と豊かさ/東大・東文研公開講座

2005-11-19 21:12:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京大学東洋文化研究所 公開講座『アジアを知れば世界が見える-アジアの富』

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/

 今週は、東大関係のイベントが続く。今日は、東洋文化研究所の公開講座の1日目を聞きに行った。300人近く入る大講堂が、8割方埋まっていた。年齢層は高い。

 前半は、池本幸生氏による「アジアの富と豊かさ」についての講義。最初に、東アジア・東南アジア諸国の、国民ひとり当たりのGDP(国内総生産)、および、総人口当たりのGDPを表にして示す。すると、日本は、この地域の「富」の過半を占める巨大な経済大国であるように「見える」。おもしろいのは、ここから人々(学生)が何を考えるかで、ある者は「日本はアジアを搾取している」と考え、ある者は「日本人は勤勉で優秀だから、これは当然の結果だ」と考える。

 しかし、上記の結果は、必ずしも各国の生活実感を反映していない。そこで、各国の物価水準を掛け合わせ、調整後のGDPを比較してみる。すると、国民ひとり当たりのGDPでは、香港、シンガポール、韓国などとほとんど差はなくなり、総人口当たりのGDPは、中国に逆転される。この結果を示すと「日本はもっと頑張らなくてはいけない」という人々がいる。しかし、何のために頑張らなくてはいけないのか? GDP1位になることが我々の生活の目的なのか? 否。GDPは「富」の指標にはなるが、「豊かさ」の指標ではないのだ。

 経済学では、「豊かさ」は「効用」によって測られる。そして「効用」は、「所得」の増大にともなって無限に増大することになっている。しかし、これは誤りというべきである。『国富論』のアダム・スミスも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーも、決して、野放図な富の追求が、人間に無限の豊かさをもたらすと考えていたわけではない。

 演者は、1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センを紹介して、講義を結んだ。私の簡単な理解では、アマルティア・センは、「倫理なきシステム」としての近代経済学に抗して、経済学に倫理を回復することを訴えている学者だそうだ。

 そのあと、質疑応答の間に出た裏話がおもしろかった。プロパーな経済学をやっている学者たちにとって、センの存在は”困りもの”らしい。2002年、東京大学はセン博士に東京大学名誉博士の称号を贈ることになったが、経済学部の教員は、誰も推薦文を書きたがらず、結局、東文研の池本先生が書いた。そんなことを知ってか知らずか、名誉博士号授与のあと、セン博士は、経済学部で記念講演を行った。それは、まさに、この場所―今日の東文研の公開講座は、経済学部の講堂を借りて行われた―だったとのことである。

 外部者は与り知らないことだと思うが、東大というところは、法学部や経済学部などの「学部」が、国策や国益あるいは伝統的アカデミズムと結びつきやすいオモテの顔とすると、「研究所」というのは、それを補完するウラの顔の役割を果たしている面がある。私としては、ウラの顔に、なるべく元気でいてもらいたいと願う限りである。

 後半は、黒田明伸氏による「撰ばれる銭―中世渡来銭の謎を解く」という講義。5月に歴史民俗博物館の『東アジア中世海道』を見に行ったとき、中世日本では、圧倒的に北宋銭が使われたという事実を知って、不思議だなあ、と思った。以来、ずっと心にひっかかっていた問題である。日本の貨幣流通の「謎」は、日本国内だけを見ていたのでは駄目で、中国における経済動向、私銭の鋳造の発達や禁止、交換レートの定着などを見ていかないと解けない、という点はよく分かった。ただ、細かい点は、まだ分からない点が多い。

 オーストリアで鋳造された後、数世紀に渡ってアフリカ大陸で流通し続けたというマリア・テレジア銀貨の話も興味深かった。近代以前、貨幣は「富」であるだけでなく、別の”なにものか”でもあったということなのだろう。
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京極堂解禁/鉄鼠の檻(京極夏彦)

2005-11-14 11:28:01 | 読んだもの(書籍)
○京極夏彦『鉄鼠の檻』 講談社 2003.12

 ああ、ついに読んでしまった。京極さんの名前はずっと知っていた。”信頼できるスジ”から、ぜったい面白いよ、(あなたなら)ハマるよ、と聞かされて幾年。そう言われると、手が出せなくなるタイプなのである、私は。

 はじめは、かなり警戒しながら読み始めた。冒頭のドタバタは、ふうむ、これがエンターテイメント小説ってものか、と思ったが、不慣れなもので、文字を追うのがめんどくさくてしんどかった。しかし、登場人物の会話が、仏教史の講義じみてきて、紙面に漢字が多くなるにつれて、面白くなった。

 しかし、私は寺によく行くし、最近は美術史の関係から、禅宗にも興味を持っているので面白かったけど、こんな小難しい小説がベストセラー上位にランキングされるわけ? すごいなあ、日本のミステリー読者って。なんだか、変な感心をしてしまった。

 この1冊、主人公の京極堂は、あまり活躍しない。ほかもこんなものなのかな? それから、難をいうと、箱根の山奥の忘れられた禅寺という舞台があまりに特殊すぎて、昭和20年代という時代設定が、あまり生きてこない。たぶんほかの連作では、もう少し当時の社会世相や雰囲気が出ているのではないかと思う。

 そうねえ、次は、私の住んでいた逗子が舞台だという『狂骨の夢』でも読んでみようかな。
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仏像の寺・覚園寺/鎌倉国宝館

2005-11-12 19:36:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
○鎌倉国宝館 秋季特別展『覚園寺-開山智海心慧七百年忌記念-』

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/top.html

 今回は、特別展とあって、ふだんの仏像常設展が全て片付けられ、館内は覚園寺の寺宝一色になっている。入口を入ると、ホール中央の壇上に、厳しい表情の地蔵菩薩が立っていた。覚園寺の黒地蔵である。脇侍はなく、20センチほどの小さな千体地蔵が両脇に飾られているが、ほとんど単身で立っている印象を受ける。地蔵菩薩の前面にまわって、あっと思った。後ろの壁面に、雄偉で動きの大きい、十二神将の優品がずらりと並んでいるのである。

 本来、十二神将は、薬師如来に付属するもので、地蔵菩薩とは無関係だ。仏教の教義上もそうだし、覚園寺での安置もそうなっている。また、私は国宝館に何度も来ているが、ホール中央の”島”になった展示台と、背後の壁面の展示台を、一続きのものとして感じたことはない。しかし、今回に限っては――どう見たって、この地蔵菩薩は、後ろの十二神将を従えているように見える。慶派らしい、厚みのある体躯、若武者の御大将のような地蔵菩薩に、マッチョな十二神将がよく似合う。なんとも心憎い演出(?)である。

 ちょうど学芸員による列品解説が始まるところだったので、これを聞いてしまった。覚園寺の縁起から、仏像の特徴、資料の来歴など、内容豊富で、なかなかよかった。行ったことのある寺ではあるが、「写真の宝筐印塔は4メートルあります」なんて言われると、あれ~そんなの、あったっけなあ、と思う。「鎌倉近在では、亡くなられた方があると、その後3年間、8月10日未明の黒地蔵の縁日にお参りするという風習が今でも生きています」というのも初耳だった。

 覚園寺は、非常に仏像の多い寺で、そのほとんどが、応永(南北朝)の頃、朝祐という人物によって造られたらしい。十二神将のうち、一体(戌神将)だけは朝祐作という確証がなく、もう少し古いのではないかと考えられてきたが、やはり、同時期とするのが妥当だろう、というようなお話も聞いた。また、覚園寺の十二神将が、同じ鎌倉の辻の薬師堂の十二神将(鎌倉時代)のポーズを模倣している、というのも面白かった。同様に、本尊の阿弥陀三尊は、浄光明寺の三尊(鎌倉後期)に倣ったものではないかと言う。

 はじめ「45分くらいで」とおっしゃっていたが、結局、1時間を超過してしまった。それでも聴衆の数は減らず、むしろ最後は最初より増えていた。私は、国宝館で列品解説を聞くのは初めての経験だったが、最近始まった試みだとしたら、ぜひ続けてもらいたいと思った。
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東大黎明期の学生たち(東大附属図書館)

2005-11-11 23:55:38 | 読んだもの(書籍)
○東大附属図書館『東大黎明期の学生たち-民約論と進化論のはざまで-』

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2005/index.html

 11月16日(水)から11月30日(水)まで、東京大学附属図書館(総合図書館)で、同名の資料展示会が開催される。いま、私の手元にあるのは、その「展示資料目録」のゲラ刷りである。

 東京大学の前身が「開成学校」と呼ばれたことは、知っている人も多いだろう。しかし、明治初年の開成学校は、ストレートに東京大学に移行したわけではなく、大学南校、南校、第一大学区第一番中学、第一大学区開成学校、東京開成学校を経て、明治10年の東京大学まで、めまぐるしく名前が変わっている。その間、教育目的も、カリキュラムも、修学年限も、名前同様に試行錯誤を繰り返した。

 我々は「明治初年」という時代に、一定の共通イメージを抱いている。昨今、いちばん受けがいいのは、司馬遼太郎が描くころの、坂の上の雲をめがけて、一途に駆け上がっていく、誇らかな”青春群像”としての「明治」であろう。

 しかし、この展示を通して知ることのできる「明治初年」は、それほど単純無垢な時代ではない。無意味な混乱があり、熾烈な相剋があり、残酷な転向がある。棄てられたもの、忘れられたものがたくさんある。中年を過ぎた人間が、どのように美化しようとも、実際の”青春”とは、そういうものではなかろうか。

 「展示目録」の著者は、ひとつの典型として、東京大学の初代総理(総長)加藤弘之という人物を取り上げる。加藤は、はじめ、「人は生まれながらにして自由、平等である」という天賦人権論に共鳴し、立憲政体を賛美していたが、やがて社会的ダーウィニズムの強い影響を受け、天賦の人権を否定した著書『人権新説』を刊行するに至る。今では、ほとんど読まれることもないこの著書には、「優勝劣敗是天理矣」(優れたものが勝ち、劣ったものが敗れるのは天理である)という黒々とした墨書が印刷されていて、何か、見てはいけないもの――東京大学誕生の暗部を見てしまった後ろめたさにとらわれる。

 当時、最大の強者は「国家」だった。かくて、東京大学は、国家のために有益な人材(優秀な官吏)を供給する機関として、帝国主義の世界の中で生存競争を続ける国家に寄り添いながら、今日に生き残った(もちろん、いつの時代にも例外者はいたけれど)。

 明治初年、東京大学(の前身)の在学者名簿には、中江兆民、夏目漱石、南方熊楠など、「国家のための人材」の枠に収まらない、強烈な個性を持つ才能が、綺羅星の如く揃っていた。そこから、我々は何を引き継ぎ、何を棄てたのか? 「展示目録」の著者は、あえて多くを語らない。「多忙ノ世」の始まりを嘆く、無名の漢学者の著書を以って、最後を余韻嫋々と結んでいる。

 この展示会に出品されている資料の多くは、東大図書館の書庫の中でひっそりと眠っていたものだ。中には、図書館の資料として最低限の待遇(目録を取って、書架に並べること)さえ受けられず、「整理待ち」の棚で朽ちていくのを待つ状態だったものもある。この展示会は、いわば「歴史の忘れもの」の埃をぬぐう試みである。

 「展示目録」の著者は、文学部教授の月村辰雄氏。資料と資料、資料と人物、事件、社会的背景を、縦横に結びつけた「解説」は、単独のエッセイとして読んでも十分面白い。著者の、暖かく、瑞々しい知性に深く心を動かされる。

 展示会は、短い期間だが、一般の見学者も入館できるし、土日・夜間も開館している。もし、この記事に目を留めてくれる方がいたら、ぜひ見にきてほしいと思っている。「展示資料目録」は、無料で配付される。

 私は、仕事でこの展示会のお手伝いに関わらせていただいた――無上の幸福であった。
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加茂の古刹・海住山寺(2)

2005-11-10 22:45:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○海住山寺~恭仁京址

 海住山寺の五重塔は小じんまりとして、端正である。周囲の樹木が高いので、箱庭の置物のように感じられる。四方の扉は、風入れのために開け放たれ、小さな四天王像が安置されていた。ただし、正面の札に「四天王立像(重要文化財・鎌倉時代)は奈良国立博物館に寄託中です」とあって、これは別物らしい。

 そういえば、数年前、友人たちと一緒に正倉院展を見に来たとき、奈良博の旧館で、ここの四天王像を見た。仏友のひとりが、「僕ね、これが見たくて、昨日、海住山寺まで行ったんですよ~」と泣き笑いしていたのを思い出す。あれはもう、3、4年前ではないかしら。案内のおじさんに尋ねてみると、「ええ、ずーっと博物館に行ったっきりなんですけど、来年のこの時期には、戻って来るらしいです。いや、聞いた話ですわ」とのこと。

 それから、本堂へ。ご本尊の十一面観音(平安時代)には、これまで写真で何度かお会いしていて、憧れを持っていたのだが、ちょっとイメージと違った。うーん。難しいものだ。

 気を取り直して、隣を見ると、寺宝の仏画が壁にかけられている。ひときわ大きくて、目を引くのが「法華経曼荼羅図」(重文・鎌倉)。畳1枚ほどもある大きな画面に、赤・青・オレンジの衣を着た小さな仏たちが散らばっている。砂地にこぼれた五色豆のようだ。長年の摩滅が、幻想的で、はかなげで、味わい深い画面を作り出している。

 別の「阿弥陀浄土曼荼羅」(鎌倉)も不思議な図だった。蓮池と楼閣が描かれているが、中心となる大きな仏がいないのだ。小さな仏たちばかりが、楽を奏し、踊っているが、主役不在の物悲しさが印象的である。

 このほかにも、鎌倉~室町の仏画がたくさん掛けてあって、博物館ならガラス越しにしか見られない古物を、鼻のくっつきそうな至近距離で眺めることができる。だから寺院の宝物風入れって好き!

 山を下り、ハイキングコースの道標に導かれるまま、恭仁京址に立ち寄った。聖武天皇によって遷都が決定されたが、造営半ばで棄てられた都である。その後、恭仁京の大極殿は、山城国分寺の一部として廃物利用されたそうだ。海住山寺の五重塔とは比較にならない、大きな塔があったのだろう、巨大な礎石が残っている。
 


 今つくる恭仁の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし(万葉1037・大伴家持)
 
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加茂の古刹・海住山寺(1)

2005-11-09 23:40:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
○海住山寺までの道

 海住山寺(かいじゅうせんじ)には、以前から行ってみたいと思っていた。ただし、時期が限られる。毎年、11月3日をはさむ1週間ほど、国宝・五重塔の開扉と特別展が開かれるので、行くなら、この期間しかない。今回、関西旅行を決行するに当たっては、「海住山寺」の4文字が念頭を離れなかった。しかし、事前調査をしているヒマもなく、地図も持たずに、現地に来てしまった。

 観光案内所で聞こうと思っていたのだが、奈良博を出たあと、向かいの飛鳥園に「海住山寺特別公開」の立て看板が出ているのを発見。「行きかた」をよく読んで、頭に入れる。なるほど、なるほど。JR加茂駅に出て、バスに乗った。そうしたら、あっという間に「岡崎」というバス停に着いてしまった。

 下りてみると、何もない。ちょっと動揺したが、よく見ると、足元に小さな石の道標があって「海住山寺」を指している。ほかに何の手がかりもないので、とりあえず、これを信じて進むことにした。



 しばらく進むと、大きな立て看板が現れて、どうやら方角は間違っていないことが分かる。しかし、のどかな田園風景が続くばかり。いったい、どこに寺があるのだろう?と思って訝りながら歩いていくと、第二の立て看板「海住山寺 左折1.4Km」が見えてきた。



 1.4kmねえ...まあ、時間はあるし、いいかあ、と思ったのだが、道はどんどん急坂になる。かなり、つらい。ようやく、道路の脇に山門が見えた。ところが、喜び勇んで山門を入ると、何もなくて、反対側に降りる石段だけがある。びっくりした。これは、トマソンで言うところの「純粋階段」ならぬ「純粋山門」である!



 再び、石段が見えてきた。今度こそ本物の山門に続いている。門をくぐると、秋の陽のそそぐ境内に、国宝の五重塔が立っていた。(続く)
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正倉院展は大混雑/奈良国立博物館

2005-11-08 23:47:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
○奈良国立博物館 特別展『第57回 正倉院展』

http://www.narahaku.go.jp/

 今年も正倉院展に行ってきた。昨年の記事にも書いておいたが、金曜日の夜、新宿発のバスに乗り、翌朝、近鉄奈良駅のスタバで一服、深煎りのコーヒーで目を覚まして、開館直前の奈良博に並ぶのが私の定番である。

 ところが、例年どおりの時間に奈良博前に着いてみると、すでに入場待ちの列は、博物館の建物の幅をはるかに超えて、三列目の折り返しに入っている。呆然とした。数年前は、開館前から並ぶような熱心な物好きは少なくて、白髪のおじさんと美大系の女子大生が「僕は昨日、会社が終わってからこっちに来たんだ」「私は夜行バスできました」なんて、和気あいあいと会話しながら開館を待っていたものだ。

 しかし、予想された事態ではあった。奈良博のホームページで分かるとおり、今年の正倉院展は、JR東海、日本生命、大和ハウスグループが「協賛」し、読売新聞社等が「協力」している。ちなみに、昨年のページも残っているので、見比べてみると分かるとおり、昨年までは「協賛」も「協力」もない。

 要するに、法人化によって、博物館も営業努力が求められるようになってしまったのだ。手っ取り早いのは、マスメディアの力を借りることだ。今年は、読売新聞が積極的なキャンペーンを行っており、東京都内でも、正倉院展の大広告を見ることができる。

 そんなわけで、今年の正倉院展は、異様な大混雑だった。開館直後、会場内は、あっという間に人で埋まってしまった。展示ケースの前に行き着けないので、「あんた整理員だろ、ちゃんと整理しろよ!」と怒鳴るおじさん。気の弱そうな場内整理員が「前に進んでください」と促すと「前が動かないんだから進めるわけないじゃないか!」と怒鳴り返すおじさん。なんだかなー。こんな殺伐とした雰囲気の正倉院展は初めてである。それでも入場者数が増えていれば、「成功」ということで評価されるのだろう。来年から、しばらく行くのはやめようかしら。

 とは言っても、宝物を目にすると、あたりの喧騒を忘れて恍惚となる。今年の「目玉」は、だいたい、奈良博のページに写真が掲載されているとおり。「木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)」は、写真より本物のほうが感動的だった。

 これら以外では、『一切経校生等手実』『紙充帳』などの古文書がおもしろい。前者は、写経生の報告書、後者は経師に支給された料紙の枚数を記録したもので、さまざまな種類の紙を切り継いでおり、筆跡も一定でないうえ、訂正や閲覧の跡で汚れている。しかし、きちんと清書された文書よりも、かえって、古代の人々が身近に感じられて、おもしろいと思った。

参考:2004年の正倉院展参観記
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無常迅速/夜の京都博物館

2005-11-06 21:25:04 | なごみ写真帖
 2泊2日(夜行発+土日)の関西旅行のはずだったが、今朝の新幹線で東京に戻ってきた。それでも土曜日1日で、奈良博の正倉院展と、海住山寺の特別公開と、京博の「最澄と天台の国宝」展を見てきたので、まずまず好成績と言えるだろう。

 昨日、京博で「天台の国宝」を見ている最中に、私の携帯電話が鳴った。慌てた。展示室の隅で小さくなって受けようとしたら、説明員に手招きされて、トイレに押し込まれた。しかし、電波が切れてしまったので、どうしよう、と思っていたら、また、かかってきた。相手に「ちょっと待ってください」と断って、出口に走った。

 電話をかけてきたのは、このところ、一緒に仕事をしている年長者である。高齢のお父さんの看病を続けているのだが、厳しい一進一退が続いている。昏睡状態になって病院に運び込まれたかと思えば、点滴で意識を取り戻したり、衰弱で便が出せず、浣腸で排泄させたり、そんな毎日を続けながら、時間をやりくりして貰っている。明日(つまり今日)は少し仕事ができそうだというので、私は昼までに東京に戻る約束をした。

 電話を切ってから、会場内に戻って、もう一度、仏たちを眺めた。その昔、人の命は軽かった。庶民なんて、病気になって、ちょっと衰弱したら、そのまま野垂れ死んだものだ。貴族だって、せいぜい大勢に泣いてもらうか、祈祷してもらうのが関の山で、「無常迅速」は万人の道理だった。だから、死にゆく人々を、散華と楽の音で包み、極楽に迎え取るのは、仏の重要な役割だった。

 しかし、今では、普通の庶民も、ぎりぎりまで延命治療を受ける。人間たちは、堅いタッグを組んで、死にゆく者を仏の手に渡すことを、最後の最後まで拒み続ける。こんな時代に、仏たちは困惑してはいないのかしら。

 平和と繁栄の時代に生きる我々の死(無常)は、必ずしも「迅速」ではなくなってしまった。しかし、緩慢な死は、我々に、新たな苦悩を強いているように思う。かくて、我々は仏の慈愛と叡智を求め続ける。そんなことを考えながら、夜の京都博物館を後にした。


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今日もお仕事/生協の白井さん(白石昌則)

2005-11-04 02:12:20 | 読んだもの(書籍)
○白石昌則、東京農工大学の学生の皆さん『生協の白石さん』 講談社 2005.11

 昨日は秋らしい好天のお出かけ日和。鎌倉の「宝物風入れ」でも行こうと思っていたが、結局、休日出勤で1日つぶれてしまった。やれやれ。社会人はつらいよ。

 そんなわけで、帰宅途中の本屋で買ってしまった話題の1冊。電車の中で読んでいると、微笑を誘われて、気持ちがなごみ、明日もがんばろうと思えてくる。

 と言っても、知らない人には何のことだか分からないと思うので、いちおう説明しておくと、東京農工大学の生協の「ひとことカード」を通して、実際に学生たちから寄せられた投書と、「白石さん」の回答を集めたものである。

 ドキュメンタリーだけど遊び心にあふれ、ネタのようで大真面目、匿名のようで匿名でなく、謎といえば謎という、「そこはかとなさ」加減がいい。いまどきの大学生が心地よいと感じるコミュニケーションって、こういうものかも知れないと思った。あと、毎日、たのしくお仕事するコツも。

 個人的には「牛を置いて!」と「学長の日程おしえてー」が好きだ。後者の回答は「細かい事はわかりかねますが、色々とお忙しい様です」だった。うふふ。

※追伸。本日の夜行バスにて、週末は関西方面に出かけてきます。明日は、朝イチで奈良博に並んで、正倉院展!
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中国書画の精華/東京国立博物館

2005-11-03 00:10:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特集陳列『中国書画精華』

http://www.tnm.jp/

 今年も、『中国書画精華』の季節がやってきた。毎年、10月から11月にかけて行われる特集陳列だが、絵画は古いものから順に出るので、南宋絵画を見るなら、10月中に行かなければならない。最後の週末に、慌てて行ってきた。

 国宝5点、重文12点の豪華ラインアップ。どこかで一度は見た記憶のある名品が多い。たとえば、李迪の『紅白芙蓉図』や、伝毛松筆の『猿図』など。

 初めて見るなあ、と思ったのは、伝胡直夫筆『夏景山水図』。山梨県の久遠寺の所蔵である。画面右下に背を向けた老師がひとり。着物の袖と裾が風に舞っている。あやしく乱れる薄墨が、谷底から立ち上る気の動きを示すようだ。武侠小説の挿絵みたいで、いきなり、敵手が飛び上がってきそうだと思った。

 その隣は、けれん味のない小品『寒江独釣図』で、さらに隣が、ちょっとデカダンな『竹虫図』、そして飄逸な水墨画『二祖調心図』と続く。うーむ。これは、単に時代順(筆者の生没年順?)で並べただけなのかも知れないが、アンソロジーの妙がすばらしい。勅撰和歌集を編むみたいなもので、これだけ個性的な名品が多いと、並べるほうも楽しいだろうなあ。

 画家別では、梁楷筆が5点と、いちばん多い。私は、『出山釈迦図』の、農夫のように愚直な顔をした釈迦像がおもしろいと思った。

 『瀟湘臥遊図巻』は、昨年も見たが、端から端まで広げてあるので、絵画の倍くらい序や跋文の分量があるという、画巻の姿がよく分かる。終わりから二番目、内藤湖南の書き入れに「癸亥九月大震時幸免」とあり、関東大震災に際して、旧蔵者の菊池惺堂が、身を挺して煙の中から救い出したことを記す。先日読んだ『吉備大臣入唐絵巻の謎』を思い出し、今日に伝わる美術品がたどってきた、綱渡りの運命をしみじみ思った。
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