○東京大学東洋文化研究所 公開講座『アジアを知れば世界が見える-アジアの富』
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/
今週は、東大関係のイベントが続く。今日は、東洋文化研究所の公開講座の1日目を聞きに行った。300人近く入る大講堂が、8割方埋まっていた。年齢層は高い。
前半は、池本幸生氏による「アジアの富と豊かさ」についての講義。最初に、東アジア・東南アジア諸国の、国民ひとり当たりのGDP(国内総生産)、および、総人口当たりのGDPを表にして示す。すると、日本は、この地域の「富」の過半を占める巨大な経済大国であるように「見える」。おもしろいのは、ここから人々(学生)が何を考えるかで、ある者は「日本はアジアを搾取している」と考え、ある者は「日本人は勤勉で優秀だから、これは当然の結果だ」と考える。
しかし、上記の結果は、必ずしも各国の生活実感を反映していない。そこで、各国の物価水準を掛け合わせ、調整後のGDPを比較してみる。すると、国民ひとり当たりのGDPでは、香港、シンガポール、韓国などとほとんど差はなくなり、総人口当たりのGDPは、中国に逆転される。この結果を示すと「日本はもっと頑張らなくてはいけない」という人々がいる。しかし、何のために頑張らなくてはいけないのか? GDP1位になることが我々の生活の目的なのか? 否。GDPは「富」の指標にはなるが、「豊かさ」の指標ではないのだ。
経済学では、「豊かさ」は「効用」によって測られる。そして「効用」は、「所得」の増大にともなって無限に増大することになっている。しかし、これは誤りというべきである。『国富論』のアダム・スミスも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーも、決して、野放図な富の追求が、人間に無限の豊かさをもたらすと考えていたわけではない。
演者は、1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センを紹介して、講義を結んだ。私の簡単な理解では、アマルティア・センは、「倫理なきシステム」としての近代経済学に抗して、経済学に倫理を回復することを訴えている学者だそうだ。
そのあと、質疑応答の間に出た裏話がおもしろかった。プロパーな経済学をやっている学者たちにとって、センの存在は”困りもの”らしい。2002年、東京大学はセン博士に東京大学名誉博士の称号を贈ることになったが、経済学部の教員は、誰も推薦文を書きたがらず、結局、東文研の池本先生が書いた。そんなことを知ってか知らずか、名誉博士号授与のあと、セン博士は、経済学部で記念講演を行った。それは、まさに、この場所―今日の東文研の公開講座は、経済学部の講堂を借りて行われた―だったとのことである。
外部者は与り知らないことだと思うが、東大というところは、法学部や経済学部などの「学部」が、国策や国益あるいは伝統的アカデミズムと結びつきやすいオモテの顔とすると、「研究所」というのは、それを補完するウラの顔の役割を果たしている面がある。私としては、ウラの顔に、なるべく元気でいてもらいたいと願う限りである。
後半は、黒田明伸氏による「撰ばれる銭―中世渡来銭の謎を解く」という講義。5月に歴史民俗博物館の『東アジア中世海道』を見に行ったとき、中世日本では、圧倒的に北宋銭が使われたという事実を知って、不思議だなあ、と思った。以来、ずっと心にひっかかっていた問題である。日本の貨幣流通の「謎」は、日本国内だけを見ていたのでは駄目で、中国における経済動向、私銭の鋳造の発達や禁止、交換レートの定着などを見ていかないと解けない、という点はよく分かった。ただ、細かい点は、まだ分からない点が多い。
オーストリアで鋳造された後、数世紀に渡ってアフリカ大陸で流通し続けたというマリア・テレジア銀貨の話も興味深かった。近代以前、貨幣は「富」であるだけでなく、別の”なにものか”でもあったということなのだろう。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/
今週は、東大関係のイベントが続く。今日は、東洋文化研究所の公開講座の1日目を聞きに行った。300人近く入る大講堂が、8割方埋まっていた。年齢層は高い。
前半は、池本幸生氏による「アジアの富と豊かさ」についての講義。最初に、東アジア・東南アジア諸国の、国民ひとり当たりのGDP(国内総生産)、および、総人口当たりのGDPを表にして示す。すると、日本は、この地域の「富」の過半を占める巨大な経済大国であるように「見える」。おもしろいのは、ここから人々(学生)が何を考えるかで、ある者は「日本はアジアを搾取している」と考え、ある者は「日本人は勤勉で優秀だから、これは当然の結果だ」と考える。
しかし、上記の結果は、必ずしも各国の生活実感を反映していない。そこで、各国の物価水準を掛け合わせ、調整後のGDPを比較してみる。すると、国民ひとり当たりのGDPでは、香港、シンガポール、韓国などとほとんど差はなくなり、総人口当たりのGDPは、中国に逆転される。この結果を示すと「日本はもっと頑張らなくてはいけない」という人々がいる。しかし、何のために頑張らなくてはいけないのか? GDP1位になることが我々の生活の目的なのか? 否。GDPは「富」の指標にはなるが、「豊かさ」の指標ではないのだ。
経済学では、「豊かさ」は「効用」によって測られる。そして「効用」は、「所得」の増大にともなって無限に増大することになっている。しかし、これは誤りというべきである。『国富論』のアダム・スミスも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーも、決して、野放図な富の追求が、人間に無限の豊かさをもたらすと考えていたわけではない。
演者は、1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センを紹介して、講義を結んだ。私の簡単な理解では、アマルティア・センは、「倫理なきシステム」としての近代経済学に抗して、経済学に倫理を回復することを訴えている学者だそうだ。
そのあと、質疑応答の間に出た裏話がおもしろかった。プロパーな経済学をやっている学者たちにとって、センの存在は”困りもの”らしい。2002年、東京大学はセン博士に東京大学名誉博士の称号を贈ることになったが、経済学部の教員は、誰も推薦文を書きたがらず、結局、東文研の池本先生が書いた。そんなことを知ってか知らずか、名誉博士号授与のあと、セン博士は、経済学部で記念講演を行った。それは、まさに、この場所―今日の東文研の公開講座は、経済学部の講堂を借りて行われた―だったとのことである。
外部者は与り知らないことだと思うが、東大というところは、法学部や経済学部などの「学部」が、国策や国益あるいは伝統的アカデミズムと結びつきやすいオモテの顔とすると、「研究所」というのは、それを補完するウラの顔の役割を果たしている面がある。私としては、ウラの顔に、なるべく元気でいてもらいたいと願う限りである。
後半は、黒田明伸氏による「撰ばれる銭―中世渡来銭の謎を解く」という講義。5月に歴史民俗博物館の『東アジア中世海道』を見に行ったとき、中世日本では、圧倒的に北宋銭が使われたという事実を知って、不思議だなあ、と思った。以来、ずっと心にひっかかっていた問題である。日本の貨幣流通の「謎」は、日本国内だけを見ていたのでは駄目で、中国における経済動向、私銭の鋳造の発達や禁止、交換レートの定着などを見ていかないと解けない、という点はよく分かった。ただ、細かい点は、まだ分からない点が多い。
オーストリアで鋳造された後、数世紀に渡ってアフリカ大陸で流通し続けたというマリア・テレジア銀貨の話も興味深かった。近代以前、貨幣は「富」であるだけでなく、別の”なにものか”でもあったということなのだろう。