見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

逝きし世の旅人/パネル展・オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸(江戸博)

2011-05-17 22:06:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特集展示『オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸』(2011年5月1日~5月29日)

 江戸博の常設展エリアで行われる特集展示を、私はけっこう楽しみにしている。本展は、日独交流150周年を記念し、万延元/1860年、プロイセン政府から派遣されたオイレンブルク遠征隊の特集。

 オイレンブルク伯爵(Friedrich Albrecht zu Eulenburg, 1815-1881)は、通商条約の締結のため、日本をはじめとする東アジア諸国に派遣された外交官で、帰国後、その公式記録は『オイレンブルク日本遠征記』(日本語訳)として出版された。本展は、同遠征隊が撮影した写真4点と、公式画家として随行したベルク (Albert Berg, 1825-1884)が描いた絵画22点(うち8点は彩色)をパネルで紹介するもの。近代の資料はパネル(複製)でも十分楽しめる。

 万延元年(1860)の写真に残る江戸の風景(王子、石神井川岸など)は、私の記憶する1960年代初頭の東京下町と、あまり変わらないような気がした。帯刀したお侍が写っているのが不思議なくらいだ。

 美しいのは、画家のベルク描く江戸の風景である。豊かな緑、高く抜ける青空、木陰に潜むように暮らす人々。典型的な東洋人顔に描かれてはいるが、悪意は感じられない。そして、遠征記の本文なのだと思うが、パネルに添えられた文章がいい。「農業は日本では名誉ある職業とされている」「日本人は樹木を非常に大切にする」「どの農家の傍らにもある竹林は日本の風景に大きな魅力を与えている」等々。これは、森を愛するドイツ人ならではの観察と理解ではないかなあ。なかでも私が感銘を受けたのは、「日本で最も美しいものの一つに墓地がある」という一文。私も同感だが、この感覚、いまの日本人にどのくらい通じるだろうか。 

 私が気に入った絵は、新宿十二社(じゅうにそう)の森。水上に張り出した粗末な小屋掛けは、東南アジアの風景のようだった。神奈川(相模湾)から見る、薔薇色に染まった富士の美しいこと(ちょっと山頂が尖り過ぎだが)。

 オイレンブルクのことを調べていたら、『逝きし世の面影』にたびたび引用されているようだ。ああ、なるほど。あの美しい本にぴたりとくるような文章と絵である。
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竜頭蛇尾でもいいじゃない/五百羅漢(江戸東京博物館)

2011-05-17 00:12:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 特別展『五百羅漢-増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信』(2011年4月29日~7月3日)

 予定より大幅に長引いたシンポジウムを聞き終え、いよいよ会場に入って、第一の展示ケースの前に立つ。

 増上寺に伝わる狩野一信筆『五百羅漢図』は全100幅。だいたい画面は172cm×85cmくらい。表具を入れると縦は3メートルを超える。基本的に2幅ずつ対になっているので、展示も、この対を崩さぬように配慮されている。したがって、私が最初に目の前にしたのは、第1幅(右)と第2幅(左)。前景には、各々五人の羅漢さんと数人の従者、童子など。遠景には、楼閣、海、山容が描かれ、雲のたなびく青空が広がっている。この青空が、まことに涼しげで美しかった。シンポジウムで、安村敏信先生と山下裕二先生が「本物は、意外と色彩がアッサリしている」とおっしゃっていたことに納得する。絹本の特性であり、裏彩色の効果でもあるらしい。

 いま、江戸博の図録を広げて、この文章を書いているのだが、私の記憶に残っている青はこんな色じゃない、と思う。第1~20幅あたりまでは、とにかく細密。羅漢たちの袈裟や衣はもちろん、調度品、カーテン、テーブルクロス(?)など、あらゆるものが精緻な文様で埋めつくされている。さらに、人物の髭や頭髪、皺、爪、歯、種類の異なる様々な植物の描写も細かい。

 第21~40幅は六道めぐり。最初の「地獄」もすごいが、私は「修羅」が好きだ。「人」は石橋の美しさに惹かれる。第41幅からは再び羅漢の修行生活が描かれる。第61~70幅は「禽獣」。一信は人物画が得意だったというが、動物を描くのも好きだったのではないか。私は、比較材料としては、『寧波』展で見た大徳寺の五百羅漢図しか知らないが、あれはもっと淡々と羅漢たちの日常生活を描くのみで、こんなに動物は登場しなかったと思う。いや、そろそろ羅漢の顔が変わってくる感じもするので、動物ネタに頼ろうとしたのは弟子の一純かもしれない。しかし、どちらにしても、画面のあちこちに見え隠れする動物はかわいい。私は第69幅の、じじむさい顔をした白澤(麒麟じゃないよ~)、第70幅の羅漢さんに抱かれた白黒のモルモット(?)、第66幅の画面奥に小さく描かれたミミズク、童子になつくモモンガも好きだ。

 第81~90幅は、黒一色の背景に浮かび上がる、陰鬱な「七難」の図。しかし、前半の「地獄」の迫力には及ぶべくもない。第91~100幅、四洲の南→東→西→北をまわって幕。次第に画面の遠景(雲の上)に追いやられた羅漢の姿は、いよいよ小さくなるばかり。人物も建物も、かなり頑張って描いているんだけど、どう見ても素朴絵並みに下手だ。「この寂びしげな結末を、果たして一信自身、どれほど見届けることができたのか」という図録の評語が感慨深い。「竜頭蛇尾」という一語が去来する。でも、竜頭蛇尾というか、最後がデクレッシェンドでない人生を送れる人間なんて、どれだけいるものか。栄枯盛衰を直視するのはつらくても悲しくても、全100幅を通観することの意義は大きいと思う。長編小説を読み終えた、あるいは長い交響曲を聴き終えた気分。

 なお『五百羅漢図』に勝るとも劣らない圧巻は、成田山新勝寺の『釈迦文殊普賢四天王十大弟子図』である。金地の紙本に水墨で描いたもの。照明が凝っていて、ゆっくりと暗くなったり明るくなったりするに連れ、仏菩薩たちの姿がはっきり浮かびあがったり、虹色の光輪に溶け出していったりする。素晴らしい! この1作品だけを4トン車で借りに行ったというが、その価値は十分にあったと思う。

 それから、一信の五百羅漢図には、大地に身体をかがめて礼拝する羅漢の姿がところどころに見え、印象的だった。一信の信仰心をあらわしているのではなかろうか。普通の羅漢図(たとえば大徳寺本)には、こういう姿の羅漢は、あまり描かれないものではないかと思う。

※おまけ:会場出口の外、みやげもの売り場の奥の壁に貼られていた手づくりの「羅漢新聞」。





5/7(土)に行われたトークショー「羅漢応援団、狩野一信を応援する」の特集らしい。



今頃は、5/14(土)のシンポジウム特集号も貼られているのかな。見に行きたい。
コメント (2)
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