9月24日(木)、5連休明けの早朝のこと、92歳になる母が急に福岡に住んでいる姉のところに行きたいと言い出した。
23日に孫娘が大阪に帰ってしまい「大木が倒れた気がする」と気落ちしていたので寂しさに耐え切れずポッカリと空洞が出来たらしい。
週2回来ている訪問看護師さんに相談したところ「たまには気分転換もいいのでは」ということで、姉に申し入れたところ「いいよ」との快諾だったので薬や簡易トイレ、リハビリパンツなど身の回り品を一切合財クルマのトランクに積み込んで一路福岡市南区に向けて出発。
7月の交通事故で前のクルマを廃車し、8月から別のクルマに変えてから高速道に乗るのは初めて。ETC関連の登録事項の変更をパソコンで処理していたものの「レーンをうまく通過できるかな」とやや心配していたがどうやら無事通過でホット一息。平日の高速道なので随分空いていた。
以前と様変わりでビュンビュン追い越すこともなく安全運転に徹して片道150kmほどをトイレ休憩を含めて2時間ほどで到着。大宰府インターから都市高速に乗ったので便利が良かった。
それから2時間ほどの昼食休憩を挟んで再び別府まで折り返しターン。
いつ亡くなってもおかしくないような年令の母なのに何だか物体をポンと置いてくるみたいで気が重くなるが、どうせいつものように4~5日も経つと別府に帰りたいと我儘を言い出すに違いないなんて思いながら帰途に。
自宅に帰着したのは15時半頃だった。帰りは至る所に覆面パトが暗躍していてスピード違反で捕まっていたクルマを2台ほど見掛けたが以前の運転なら捕まっていただろう。危ない、危ない。
肝心の燃費の方だが、300km走って平均燃費が14.1km/ℓを表示していた。排気量2500ccのクルマにしては上出来で驚いた。
翌日、25日〔金)の午前中は気軽な気持ちで図書館へ出かけた。母がいると、いつも「(帰るのが)遅すぎる」と文句を言うのでおちおち本の選択もゆっくり出来ないが今日はゆったりした気持ちで広い館内を本の匂いに包まれながら散策できる。至福の時間である。
先日、「ホワイトアウト」の作者「真保裕一」のエッセイ本「夢の工房」を読んでいたら自らが読んで面白かった本を羅列していた。通常、作家は商売敵に当たる他の作家の本を推奨しない、それにプロの作家が読んで面白かったというのなら間違いはあるまいとノートにメモしていたのを捜し歩いて貸し出し制限一杯の10冊借りた。
「理由」(宮部みゆき)、「魍魎の匣」(京極夏彦)、「シャル・ウィー・ダンス?アメリカを行く」(周防正行)、「唇の後に続くすべてのこと」(永井するみ)、「レギュレイターズ」(リチャード・バックマン)、「双頭の悪魔」(有栖川有栖)、「慟哭」(貫井徳郎)ほかにP・D・ジェイムズの「わが職業は死」「黒い塔」、そして貫井徳朗の「烙印」。
以上、「シャル・ウィー・・・」を除いて全てミステリー。
ついでに市立図書館にも寄ってこちらも制限一杯の5冊。こちらは全て新刊。
「真実の一球」~怪物・江川卓はなぜ史上最高と呼ばれるのか~、「悩まない力」(大島清)、「ジパング再来」~大恐慌に一人勝ちする日本~、「元兵庫県警マル暴刑事の裏事件簿」、「フェルメールの楽器」~音楽の新しい聴き方~(梅津時比不古)
このうち早速「真実の一球」に目を通した。
「江川卓」がなぜ「怪物」と呼ばれ「史上最高の投手」と謳われるのかを解説した本。高校時代のときが全盛期だったそうだが、たしかに当時のテレビ映像で観た江川の速球はケタ違いでいまだに記憶に鮮明に残っている。
軽く投げている印象なのに球が打者の手元でグゥーンと浮き上がってきていた。それにいかにも球が重そうな感じ。これがホントの「剛球」(「豪球」?)。
現代でもダルビッシュなどいい投手はいくらでもいるがモノが違うという印象で当時の江川を越える投手はいまだに出会わない。あの松坂でさえも物足りないほどで、当時を知っている同じ年代の方ならこの説に多数同意されるのでは。
江川はその後大学、プロ野球と進んだものの通算成績の方は”いまいち”だった。彼の場合、プロ野球に行くのなら大学生活は明らかに余分だったし、才能が有り余り過ぎて高校時代にピークを迎えたのが悲劇だった。
あの黒澤明が監督人生の比較的若いうちに「七人の侍」というパーフェクトな作品を作ってしまったせいで、その後の作品が全て見劣りしてしまいジリ貧になった印象と重なってくる。北欧フィンランドの作曲家シベリウスも30代後半が全盛期で後は駄作ばかりになってしまい才能が枯渇した感がある。
一方では晩年になればなるほど成熟する芸術家もいる。あの葛飾北斎がそうだし、ベートーヴェンだって・・・。
年輪を味方につけるのも才能の一つだろうか?
さて、午後はカミサンが大阪に居る娘と一緒に宝塚を観劇するというので駅まで送っていった。これから久しぶりに一人暮らしで大いに羽を伸ばせる。
とはいっても、せいぜい邪魔が入らないでオーディオの音を大きくして聴けるくらいのもの。
一風呂浴びて午後の4時くらいから試聴に入った。朝の間、天気予報の番組のBGMが耳に残っていて、まずその曲から手始め。
その曲とはジャズ史上空前絶後の傑作とされる「サキソフォン・コロッサス」の一曲目”セント・トーマス”(ソニー・ロリンズ)。
どうです、田舎の民放局にしては気の利いた選曲でしょう!
久しぶりにボリュームを大きくして堪能した。この曲は自分のオーディオ装置を変えたときの試聴の「切り札」でもある。冒頭のシンバルが澄んだ音できれいに抜けなければ「それはオーディオではない」とさえ思っている。
低域用のユニット「リチャードアレン」に羽毛の吸音材を直接被せて、中高域用のアキシオム80との”カブリ”を薄くしたのが功を奏してボリュームを少々上げてもウルサクないので気持ちがいい。
左が「アキシオム80」、右が「リチャードアレン」
市販のスピーカーの完成品をそのまま利用している方は別として、自分でネットワークを工夫している方はお分かりのことだと思うが、低域ユニットが受け持つ周波数のうち高い方へ減衰する部分と、中域ユニットが受け持つ周波数の低い方へ減衰する部分との”カブリ”の処理次第で音質全体がガラリと変身する。
”カブリ”を多くすると音質が豊かで濃密になり、薄くすると音階が明瞭になって解像度が増す。この辺が各人の好み次第で自由自在、自作オーディオの愉しみとも妙味とも言えるところ。
通常は、チャンデバを使ったりコイルとコンデンサーを使って調整するが自分の場合はそれに加えて、こうして「羽毛を詰め込んだ吸音材」を使っており、手軽で簡単、しかも微妙に調整できるので大いに重宝している。
”セント・トーマス”のあとは同じジャズの「枯葉」(アダレイ&マイルス)に移り、いよいよ本命のクラシックへ。
モーツァルトのK・136の二楽章(トン・コープマン指揮)、ヴァイオリン協奏曲一番二楽章(オイストラフ指揮、演奏)、マーラーの「大地の歌」六楽章(クレンペラー指揮)、そしてベートーヴェンの「田園」。マリナー盤もいいけれど久しぶりにワルター盤を聴いたがやはり定番といわれるだけのことはある。聴き惚れてしまった。
そして最後はいつものとおり、グレン・グールドが弾くモーツァルトのピアノ・ソナタ。自分にとってはまるで子守唄のような存在で、ピリスやアラウなどいろんな奏者がいるのに不思議なことに最後は自然とグールドに還っていく、そして3枚目くらいで眠たくなる~。