他とのつながりを、損得とか利害とか、効率とかいった、おおよそ非人間的要素でしか見ず、他との関わりをいわゆる打算の論理、そうした関係上にしか構築できない人は、世間から孤立するだけではなく、そうした人が率いる企業は、他の企業体にとっては、「困る」存在になる。それで結果的に排除される。
社会は有機的システム。個はすべからずそのシステムに内包されている一有機体と考えたい。
だから、ある意味では皮肉なことだが、自分一人ひたすら頑張り、努力するタイプと言うのは孤立する。それが講じると、実は死へまっしぐらしていることになるのだが、その結果が出るまで本人にはわからない。
だから、こう言う。
「一所懸命がんばってきたのに。どうして!?」。
正常細胞を死に至らしめたガン細胞に待っているのは、自らの死滅。その寸前にインタビューしたら、同じように、「僕らは、正常細胞より遙かにまじめにがんばってきたのに、どうして!?」と言うに違いない。
そこに怖さと、他者から見たときのお気の毒さがある。
そうした観点から極端を言えば、友達がいない人が率いる企業体と言うのは、その意味でまずうまくいかなくなる危険性は高い、と、私は、企業を診断するとき、そうした俗論も仮説のひとつとして、大事にしている。
社会は有機的システム。個はすべからずそのシステムに内包されている一有機体と考えたい。
だから、ある意味では皮肉なことだが、自分一人ひたすら頑張り、努力するタイプと言うのは孤立する。それが講じると、実は死へまっしぐらしていることになるのだが、その結果が出るまで本人にはわからない。
だから、こう言う。
「一所懸命がんばってきたのに。どうして!?」。
正常細胞を死に至らしめたガン細胞に待っているのは、自らの死滅。その寸前にインタビューしたら、同じように、「僕らは、正常細胞より遙かにまじめにがんばってきたのに、どうして!?」と言うに違いない。
そこに怖さと、他者から見たときのお気の毒さがある。
そうした観点から極端を言えば、友達がいない人が率いる企業体と言うのは、その意味でまずうまくいかなくなる危険性は高い、と、私は、企業を診断するとき、そうした俗論も仮説のひとつとして、大事にしている。