経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

うち(内)の論理

2006年09月20日 | Weblog
 「ああ、綺麗になってせいせいした」。うち(内)のゴミを、他に移動させて、掃除を終え、そういう。
  台風13号が去った。鹿児島を去ったのは、17日17時前後か。その頃、長崎・佐世保に上陸。去って良かったは、上のゴミの話で言えば、うち(内)のこと。外、その頃佐世保に上陸。「大変だ」。
 今、北海道へ上陸。まもなく抜ける。日本はやれやれ。だが・・・。
台風が地震と違うのは、事前に、うち(内)に影響あるかどうかが、概ねわかることである。わかっているから、かねがね使わない雨戸を入れ、植木を部屋に納め、竿竹を束ねて下に置く。懐中電灯の電池を確認し、あらゆる容器に水をため込む。
 鹿児島は台風王国だから、事前に様々な手を打っている。たとえば、竹だ。数年前、竹で屋根瓦をなで切りされたから、今年は屋根に近い竹は、切っておいた。こうした準備で、被害も最小に押さえられる。
横殴りの強風の中を、車で集落を回った。ボランタリィー?いや、これも経験から生まれた対策だ。うち(内)周辺は田んぼと竹と雑木の山。以前、田んぼの倉庫が飛んできて、うち(内)の屋根を削いだことがある。だから、うち(内)のために外も見張るという次第だ。
内のため、内のため。内のため、その内のためが、染みついている。
儒教の教義の根本は、「自分に近いところから大切にする」にあるそうだが、儒教を知らずとも、そうではないか、と我が思いを、振り返り苦笑。
 そして翌朝、小雨降る中、外の見回りへ出ようとしたら、家内(妻)が「まず内を」という。家内は、家の内の担当。私は家外の担当と言おうと思ったが、怖くて、うち(内)の片付けに、勤しむ。

実践できてこそ

2006年09月19日 | Weblog
「かねがね勉強の習慣がないせいか経営講習会に出ても、眠くなってだめなんですよ」
 「子供の頃から、難しいことだめで。第一、話がほとんど理解できないのです。横文字が多いし」
 「実行力がないのか、またやってもうまくできないのです」

 商人達の声である。
 本音かどうかはわからないが、みな自分のせいにしている、いい人たちだ。

 だが・・・・・・・。
眠るのならベッドがよい。時間つぶしなら落語の方がよい。講演は参加者の投資である。講演も経営支援・指導も企業の実績が上がってこそ評価されるもの。実行できそうもないこと、難しくわからないこと、お金が多大にかかること。こんな話を聞いて実行できるわけはない。

 実行できないことで自己嫌悪に陥ってはいけない。抽象的で実行できない話をする方がおかしい。わからない話をする方が、相手に話を合わせられない人だ。
 日本語があるのに、やたらに横文字を使うのは、そういうことを知っていることを誇りたいのではないか。

 ともかく、実践できてこその成果なのだ。 経営に関する講演にも、成果を求めるのは経営者として当然の姿勢だと思う。 

S店長から教えてもらったこと

2006年09月18日 | Weblog
繁盛店、R社のS店、店長の陳列を中心とする売り場作りは、凄いに尽きる。技術ではない何かがある。伺ってみた。

「やってきたことに、特別なことなどなにもない。系統立てて物事に当たっていたわけでなく、ある意味で直感的に判断していたような気がします。ただその中で気をつけていたことがあるとしたら、この二つです。
 ①自分の意志のこもった商品を売りたい。
 ②なるべく自分にうそはつかずに正直でありたい。
 取り扱う商品には、関わる私たちの意志がこもるものだと思う。その人が気に入って入れればそのように、嫌いなものであればそのように見えると思う。 自分がその商品に愛着を持てば、自然と工夫が生まれてくる。この商品をどうしたら認知してもらえるか、どうすれば手にとってもらえるか、どうすれば最終的にかってもらえるか。このテーマについてまずは誰よりなによりも商品の背景を知ろうと思った。背景が見えてくると、それを人に伝えたくなる。だから生産の現場にも踏み込む、アポなしの質問をどんどんしたりする。そうしているとだんだん伝えたいものがわかってきて、また伝えたい欲求がわいてくる。伝えるためにどうするか。まずは言葉。文章だけでもかまわないからPOPを作る。これも自分がお気に入りの商品のためかと思うと結構楽しい。でも文字だけのPOPをつけても対して認知してもらえなかった。それでどうするか考えた。「そうだ。びっくりしてもらえばいい。山のように積んでしまえ。そうすれば何か気になってそばに寄りたくなるのではないか。いつもこんな風に、自分がびっくりした利、わくわくしたりした体験を思い出しては、それを自分の売り場で再現する。スタッフもみなそうです。」

接点と場

2006年09月17日 | Weblog
人と人の接点は、点(ドッド)というぐらいですから、最小単位。1対1ということになります。これが基本です。点がもう一つの点と出会い、意気投合して接点になる。意気投合しないこともある。ですから接点を、点として求めていたのでは大変です。

ここに、「場」が必要とされるひとつの理由があると考えます。
その接点を求めるに、「場」ですと、そこに多くの人が、それぞれ接点を求めて群がってくる。それもその場の目的が概ね決まっているわけですから、意気投合の可能性も高い。場に目的があったとしても、そこへ群がる人は、場の目的とは別に、様々な人が、さまざまな目的を持っていますから、様々の方々との、様々なつながりが存在する可能性もあります。思いがけないことで、思いがけない人と意気投合する可能性だってある、ということです。そうした中から、新たな、また想定外の1対1の関係、取引もでてくる。その場だけではない。次への楽しみといった異質のつながりが生まれることだってある。
「場」にはそうした多様的な機能がある。

このことは、接点を増やす場合に、点を求めることより、「場」を増やすことの方が、効率的なだけではなく、将来(さき)に楽しみとしても望ましい、ということを意味します。

これからの宣伝広告、販促の方向性として、この「場」という考え方にもっと重点をおくべきだ、と私は思っています。 

売れる仕組み作りについて

2006年09月16日 | Weblog
 売れる仕組み作りについて、考えている。

自分では気に入った気がして、レジへ持って行こうとしたとき、「もう少し考えてみたら。あなたには、それは似合わないと思うけど」と言ってくれ
る友達がいて、買い物の相談に親身になってつきあってくれたら、と多くの人は願っている。自分で決められないといった意味ではなくて、そうしたことが買い物の楽しみという意味でも。

 こうした友人役こそ、専門店などの販売員の仕事である。くどく言えば、お店側の味方ではなく、買う側の味方で、考え、アドバイスする。これが出来るということが重要なのである。
 
 しかし、現実は店の売上の責任や個人の売上成績が、販売員に課せられているシステムの下では容易にやれることではない。      
 
 なぜなら、自分の店にお客にピッタシのものが見当たらなかった場合、「当店には生憎ございません。しかし、B店にありますので御紹介しますが」と言うことは、雇用先に対する裏切りとまでは言えないにしろ、後ろめたさがあるからである。まして、勤務成績に連動していれば尚更のことである。                       
 ここに、販売員だけを切り離して、理想の販売員の存在、仕事とその限界がある。この限界は、1に経営者が、そうした方が経営的に利あり、と科学的計算をした上で、判断し、そうした販売員のあり方を、「よし」と決断し、そうしたシステムと風土を作り上げること。これが前提である。その上で2に、この店の販売員は、常に買い手の立場から、対応してくれ、裏切りがない、ということが、消費者側にしつかり浸透すること。3に、販売員とお客との信頼関係の構築である。これは販売員が、一人一人のお客のことを知っていることとお客が、販売員のことを知っているといった人間的なつながりを意味している。

 こう考えていくと、容易にできることではない。難しいことだ。だがそれだけにこれができたら、追従者が追従し得ないお店を作れる。
 さあ、それでどうするか。経営者の決断の問題である。 

いわずもがな&トンチンカン

2006年09月15日 | Weblog
「ああ、これだ」。
私は、デジタルカメラで、それらを撮した。

「従業員買い物割引制度を導入して、優遇したのに、ウチで買わずよその店で買い物する。愛社精神をテーマに従業員教育をして欲しい」と、Aスーパーの経営者から相談を受けた。

従業員が自分の店の商品を買わない。しかも割引(この店の場合10%引きである)をしてすら買おうとしない。これがどういう意味なのか。そしてことの重大さ、そして思いこみによるトンチンカンが、ここに内包している。

「やはり、自分の買い物を同僚に知られたくない心理が働くのでしょうか。愛社精神とこの辺のことも含めて、教育をして欲しいのです」。

この二世経営者は、言葉を加える。

「安く買える従業員が、買わないことは、(割引のない)お客様はなおのこと、買わないのではないでしょうか。社員がなぜウチで買わないのか。価格以外に買わない理由、問題があるとは、お考えになりませんか」。

こうした仮説でアプローチを進め、検証していけば、他の(それがおおかた真因なのだが)理由が掴めるはずである。

ちなみに当店の約半数は主婦のパートである。割引制度は、当初は社員だけであったが3年ほど前に近くに大手スーパーができたことで、パートが、自分お店を利用しないのではと心配し6月以上勤務の全従業員にはチラシ掲載の特売品を除く全商品を一割引で購入できるようにした。

この1割は福利厚生費として経費で落とせるし、これで少しでも売上が上がれば儲けもの、というのが経営者の計算であった。

しかしそのとき実施したパート向けアンケートによると「一割り安くしたら、当店で買う」と、回答した彼女たちは、相変わらず自分の店で買い物をしない。

「裏切られた思いです」、と彼はまた加える。

「なぜ彼女たちは、安くしても買わなかったのでしょう。考えてみたことありますか」私は、社長に会う前に、お店で移した写真を、彼に示した。

「黒く変色したキノコ」、「水取紙に血がにじんでいるリパックした肉」、「葉が開いたキャベツ」、「昨日加工の刺身」などなどである。
これらは、いずれもパートの彼女たちの作業により、売り場に並べられた商品である。


それでも続けますか。

2006年09月14日 | Weblog
何のため接客が必要なのだろうか。 
なぜ接遇やサービスが重視されるのだろうか。
何のため営業パーソンや販売員といった人が必要なのだろうか。

答えは簡単。売るためです。
ところが、この売るために存在する人たちが、実は売れない大きな理由になっているのです

事実、「売れない商品を売る努力をすればするほど、その店は不振になっていく」のです。

あなたがお客になってみてください。あるお店で、あなたに、売れない商品、気に入らない商品を、あの手この手の接客テクニックで売り付けられたとしたら、次にまた、喜んで買う気になりますか。どうでしょう。                
 お客一人が一生に一度来ていただくだけで成り立つ店は少ない。どんな店でも繰り返し来店して貰って成り立っているのである。結果として無理に売り付けたり、買った後で後悔するようなものを勧めたり、といったことでは、一時的に売上は上がっても、そうしたことを繰り返すごとに、お客を減らし、確実に売上は落ちてくることになるのは自明の理です。     
                            
 それでも、今のありかた、やりかたをお続けになりますか
 関連HP: http://jatsudon.in.coocan.jp/page006006.html

謙虚さ

2006年09月13日 | Weblog
 長い間、実践学会を始め、学会で、論文発表を続けてきた。
今年、父の死去などがあって、論文を仕上げる余裕がなく、久々に座長、コメンティター、そして聞き役に回った。

 鏡をひっくり返しても,映る風景は変わらないが、自分が逆立ちしてみると、風景はひっくり返って見える。問題は自分が逆立ちしていることに気づかず、風景がひっくり返っているがごとく思ってしまう。
 AとBが、対年の状態では、見える風景はまったく違う。口では、「相手の立場にたって」といっても、現実は立っていない。このことを意識して人と対峙することはこのことはきわめて重要なことで、常に意識しておかねばならないことである。

 わたしは、自分では常に当たり前のことをいったり書いたりしているのだが、「経営を知らないのではないか。異論だ、変わっている人だ」といいたいところを、必死に押さえて、気を使い「ユニークですね」とか「個性的ですね」といった言い方をされる。

 このことは、他者との差別化になり、独自性にもつながるから、むしろ私としては歓迎してきた感がする。だからといってことさら、変わった見方や考え方をスタンドプレーよろしくなしてきたつもりはない。ないが、人間は、と人ごとに書きたくなるが、実は自分のことだが、こんなことにしても慢心するもので、私から見たら、相手様の方が、逆さまに見えてしょうがなくなった。

 「理論と実践は違います」といった場合の、実践の立場に立って、やたらと「理論」をおかしい、と思うようになった。
 
 学会で話す立場から、聞く立場に立ったとき、そこに謙虚さ、素直さを喪失しつつある自分がポツンといた。もう遙か昔、診断士の受験勉強のために、講師の発するアカデミックな、自分の知らない理論や技法に、目を輝かし、聞き耳を立てた、あの時の自分とは違う、自分がここにいる。
学ぶのに年齢は関係ないが、謙虚さは不可欠と思った。

真・企業の論理2-2

2006年09月12日 | Weblog
 昨日UPした稿の続きである。

 「企業倫理」の話が姦しい。
 人でない企業に倫理など有ろうはずがない。人がなしたことを、企業に責任転嫁、と揶揄したくなる。
 ともかく、
 
 道徳や倫理の話にしてしまうから曖昧になり繰り返されるのである、と私は思っている。談合事件などまさにその典型的事例であろう。
「なぜそうした企業存亡の危機を賭してまで消費者を裏切り、背を向けさせる言動をとるのか」と、突き詰めることが必要ではないか。そしてその突き詰めの根拠として、「企業の命取りになる馬鹿なことをしてはならない」。「間尺に合わないではないか」と、昨日の稿でふれた、採算の論理で冷厳に考えてみて欲しい、と申し上げているのである。

 自らの破滅、所属する企業の破滅を、自ら招くことこそ、自分たちの信条としている、採算の合わない投資は見合わせるという「企業の論理」に合わない、損することではないか。論理矛盾ではないですか、と申し上げたいのである。

 私たちは、こうした事件の発生のたびに他社や他人を肴にする。そして自らが当事者になったら口をつぐむ。こうした繰り返しが、次の不祥事を呼ぶ。他社・他者を非難することやさげすむだけでは経営者としては「もったいない」と考える。せっかく他社・他者が、一石投じ、存亡に関わる事例を示してくれたのである。こうしたことを常に他山の石として、自分の戒めとして、わが身やわが社を振り返って、組織改善を計る、良き体質作り、良き習慣づくりの強化の契機にし、自社が、未来永劫的に存続し続ける(ゴーイングコンサーン)企業の礎(いしずえ)を積み重ねる。他社、他者での間題を、現実の自分の問題として取り込み、その痛みを感じることが、人の知恵、謙虚さであり、死を誘う魅惑から逃れえる”おまじない”にする。

 こうした経営者として、企業としての、「しぶとさとたくましさの発揮」が重要ではないか。これを3つ目の真企業の論理に加えたい。ひいては企業犯罪が減少することになり、大きな社会的損失の圧縮に貢献すると考えるからである。
企業論理の根本は、損得である。これ自体は悪ではなく善でもない。はいせきするものでもないし、してはならない。むしろ突き詰めて、「ほんとうに、長い目で見てどちらが企業にとって損なんか、得なのか」の見極めこそが重要ではなかろうか。その際のメルクマールの幼稚な試案として、3つの企業論理を提示してみた。


真・企業の論理試案1-2

2006年09月11日 | Weblog
これまでの「企業論理」にたいし、消費者中心主義を提唱している。それは爾来、両者が対立構図上に存在するからだ。択一になれば、企業は後者を捨て、前者を採る。これは自明の理。

 そこで、対立しない企業論理を考えてみたくなった。

試案だし、まだ思いつきのレベルだが。

真・企業の論理として、1に「我が身、企業中心の論理では事業も自分も人も幸せにはなれない」を挙げたい。

人の幸せを心底から念じ、そのための営み行動することで成り立つのが企業の本質と考えるからである。だから消費者の幸せと喜びに思考と行動の基準を置きさえすれば事業は健やかに伸びていけるのである。

 それを自らの生き延びのために、事業の命綱にも等しい消費者を、裏切り、だまし、不安に陥れて、自らの企業の生命を自ら絶つ浅はかさは、まさに癌細胞そのままである。

 もとより消費者を裏切り、消費者に害悪を加える企業は不必要な存在だから、さっさと静かに自滅すればよい。

 だが新聞紙上を毎日のごとく登場している企業の不祥事に内包される因は、断定していい。決して特殊・固有、希有のものではない。大なり小なり濃淡はあっても、組織に内包されている共通のものであるといっていい。

 否、人間が元来内包している哀しい性ともいえる。だからひとつ間違えば誰しもやらかしかねない魅惑あふれる誘惑に見える。それはこうした囁き(ささやき)から始まる。「もし露見しなければ、会社も自分もまるまる得ではないか」。

 事実、たぶん露見しなかったら、彼ないし彼女のその行為は、その組織にしたら「勲章モノ」であったはずだ。ガン細胞の組織でも、ガンバル細胞がリーダーになれるのだろうから。

 しかし、1にこの「もし露見しなければ」という片面だけを頼りに、「もし露見したら」というもう一面を行動する際に考慮に入れなかったこと。2に、今回だけは運良く(?)露見せずとも、成功体験は繰り返され拡大化するのが常だから、その露見の確率は右肩上がりで高くなる。つまり、

1に、最初から経営者なりの資質、能力が欠除している、といわざるを得ない。

2に、冒頭に触れた事業の本質、すなわち「事業はお客に役に立って何ぼ、お客に支持されて存立できる」という根本が理解できていない。

 人間として、経営者とか管理者としての資質と常識ができないのである。真企業の論理として、ここで「美しい企業は存続し、醜い企業は死滅する」を挙げておきたい。(続く)