新版「資本論」の全巻が刊行された。
最後の12分冊は第48章の「三位一体的定式」からはじまる。ここはマルクスの草稿を整理したエンゲルスが、断片Ⅰ、Ⅱ、Ⅲなるものを並べたものだ。
私も事務所にある1972年の大月書店と1989年の新日本出版社の「資本論」の第28章を比較してみた。その構成はほぼ同じだ。
そして新版「資本論」だ。
この「三位一体的定式」の文章の並びを大きく変えている。マルクスの「未来社会論」が、断片Ⅲのなかに埋もれてしまっているからだ。
断片Ⅲの最初の段落を最後にまわし、次の段落が「未来社会論」となっているので、これを章の冒頭にもってきている。
そして断片Ⅰ、Ⅱ、Ⅲという数字は使わないことにした。
マルクスが考えていた「未来社会」論が、28章の冒頭になった。わずか4ページだ。
「すでに見たように、資本主義的生産過程は、社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。」
壮大な人類史のなかに位置付けている。人類が生きて行くための生産は、どのように変化し、そして資本的生産に移っていったか。その資本主義の次の社会的生産過程は?
自由と必然という哲学的命題がここでもいかんなく発揮されている。
「人間の力の発達が、真の自由の国・・・始まる。労働日の短縮が根本条件である。」で締めくくっている。
ここに「未来社会論」がある 必然の国から自由の国へと、人類の本史がはじまるという壮大な展望が示されている。(「空想から科学へ」にも)
マルクスは未来社会をこと細かに描かない。それは「型紙」をつくりことになり、あてはめるという観念論に陥るからだ。
未来をつくるのは、未来の世代の人間だ。
8時間労働制は、人類がたたかいとったものだ。それでも資本主義的生産のなかでは、10時間、12時間もの労働が繰り返し生まれる。日本ではサービス残業などと公然化されている。
生産力の増大は、労働時間を短くしていける、しかし資本主義的生産では、より一層の長時間労働への圧力がかかる。
もしこれが6時間、4時間労働が当たり前となれば、どれほど人間の自由な時間が持てるようになるであろうか。
文化、スポーツ、芸術、そして科学技術・・・、人間の豊かな発達の可能性が・・・夢が大きくふくらむ。
今、相変わらず日本共産党を「左右の全体主義」に入れようとする政治家がいる。
あまりにも事実を見ようとしない。
それどころか、自公政権のこの間に強行採決してきた「安保法制」「秘密保護法」「秘密保護法」「土地規制法」など、確実に戦争と「全体主義」に近づいているではないか。小説「1984」の世界のように。