20世紀初頭のアメリカの大恐慌は世界を震撼させた。
そうしたなか、ケインズ、ハンセン、ガルブレイス、ドラッカーなど、いわゆる「ケインジアン」という経済学派がアメリカ経済を引っ張っていた。
当時から「新しい資本主義」が言われていた。いわゆる「産業社会論」だ。
ガルブレイスのように資本主義は「賢明に管理」さえすれば貧困をなくし、豊かな社会を作り出せるし、そのために大学の高度な最新の専門的な知識をもったテクノストラクチャーたちが政府と政治を担うべきだと主張した。
いまドラッカーが経営理論として注目されているが、もともとかれは「産業社会の危機」の克服を目指していた。資本と経営の分離という資本主義社会の発展を目の前にして、経営者と労働者をどのように同じ市民にしていくか、に心血を注いでいった。
それでも労働者は労働者であり、マック労働など非正規労働が拡大していった。
その後、経済を数理モデルとして、統計学や多変量解析、微分方程式など最新の数学を活用し、政策を決めていくものになっていった。
コンピューターの発達もあいまって貢献していった。
しかしノーベル経済学賞を受賞した「金融工学」のショールズ氏が運営していたLTCMは倒産してしまった。
経済学の巨人ともいわれた人たちが、資本主義経済を分析し、さまざまな問題を解決しようとしてきたが、依然として「格差と貧困」は解決するどころか、いっそう拡大している。
さらに巨万の富が一部の人たちに集中していった。
そして中産階級といわれた人たちの没落が激しい。
環境破壊まで突き進んでいる巨大な生産力をいまだにコントロールできないでいる。
日本では「Society 5.0」が花盛りだ。
格差と貧困、環境破壊もこれで解決するがごとく。
そこには「資本の運動」に対する理解がまったくない。いや見ようともしない。
21世紀、資本主義の根本、土台から解明するカギは、やはりマルクスの「資本論」だ。
大学では「ケインズ学派」がほとんどになってしまった。
現実の経済との格闘からうまれた「金融工学」などとともに、その本質的な「資本の運動」を理解する「資本論」とのドッキングが求められているのではないか。
どんなに「金融工学」が発展しても、どれほど精緻な数理モデルをつくっても、「Society 5.0」の社会になっても、「マルクスの呪い」からは解放されない。それを解くには「資本論」を学ばなければならない。