1回目の小笠原釣行記 1970年4月
小笠原の釣りに、初めは東京の初芝桟橋から出たように思います、大阪から東京にまで
大きな釣道具を抱えていきました、説明での釣りはどの魚もでかい魚と聞いているので
どうしてもかさばってきますが、仕方がない、一番初めに出かけた時は、当時のクラブの
顧問でした調理師会の会長で今は亡き宮本さんと出かけました。
行く前の説明会の話だけでもう胸はワクワクで仕事はそっちのけでした。
その当時仕事の方は順調で任せて置ける番頭ともいえる者がいたので頼んでの1週間のお休み
1航海1週間です、それも何も問題がなければの話で、片道42時間の船旅です、こんな長く船に
乗るのも初めてです、船ではいろいろな催しがあり、退屈しないようにと配慮されてました、
私はこの時に知らない方がたと麻雀をやって時間つぶしをしましたが、あとからようヤルナー
知らない方がたと、言われましたが別になんにも考えていなかったのでしょう、当時から
今考えると麻雀が好きだったのかも・・・
そんなこともなかったら,42時間もの船の上で過ごせません、初日の夕方に東京を出て小笠原までの
1000キロ程の海上、翌1日、船の1隻も見えない太平洋をもう一晩寝て翌日の朝、小笠原に到着です。
この時の船はオリエンタルクイーン号(12000t)で小笠原に墓参に行く方がたに便乗させてもらうという
企画だったようです、それを当時の大橋巨泉さんがやっていた11PMの釣り番組に取り込んだのです。
服部さん、中井戸さん、大竹さん、という当時の釣りに名前が売れている方がたが一緒でした。
この大きな船から地元小笠原漁協の協力で遠洋の漁船に乗り移りそれから再度小型の船に2度乗り換えての
磯渡しでした、それも磯に船が当たるといけないとのことで飛び亘るという大変な磯渡しでしたので、波のない
裏磯からの上陸でした、そのためにあれてきた3日目は渡れなかった、でも2日でたっぷりと釣りを楽しんだ。
バラハタやフエフキや、クエなどが次々に釣れ上がった。
こんな楽しい釣りの中でも無茶をする人がいて船の停泊している二見港と島との間を泳いだ人がいて、海流が
激しくてどんどん流されて行き、皆さんが船から心配して声をかけるのですがどうにもならずで、急遽船から
ボートを出して救助に向かい助け上げたという、もう少しで楽しい釣が悲しい釣になるとこでした。
この時の忘れられない釣としては、各釣り人を何班かに分けて班長を決めての釣りでした、たまたま私も5人ほど
預かることになり一緒に磯に上がりました、その中の京都の方が遠征の釣りなどやられたことがない方でその方の
お手伝いをしたのですが、夕方引き上げる方と夜釣りをする方とに別れました、私も帰りたい一人でしたが、
この京都の方が夜釣りをしたいと言い出して、一人で置くわけにもいかず、責任上私も残りました、
満点星空の良いお天気ですが、風が出てきて、寒くはないのですが、カッパを着ているところに砂が飛んできて
パラパラと当たるのがなんか気色悪くて一晩眠れなかった、その上貸してあげた竿まで折られてわやでした。
それと帰りの船は台湾で台風が発生したとのことで大急ぎで釣りを切りあげての退散、12000トンの船も大揺れで
私など東京までの間ベッドにしがみついたままで、飲まず食わずでした、でもそんなときも宮本さんは食事もしたよと
ケロットして言われてましたので、すごいなーと感心しました今は良き宮本さんとの思い出です。