昨日の続き
この小笠原には今回が4回目になるのかな、一番初めの時に帰るときに台風に会い大変な目にも
合ったのにも関わらず、よく何度も来たものです、釣り師ほど性懲りもなくというのがあてはまるのかも
しれないなー、と思いました。
この最初の時に東京の初芝桟橋を出て南に1000キロ、途中伊豆7島を過ぎると、次は青ヶ島、そしてベヨネーズ列岩
そして鳥島をすぎ、聟島列島、嫁島父島、母島、妹島、姉島につづきその先に硫黄島があります。
伊豆7島を過ぎるともう一切の船も見えない航海です、夕方に出船するのですから翌朝目が覚めてからは、
四方海しか見えない、そして船の影もない航路です、お昼過ぎに突然甲板場が騒ぎ出したので何事かと見たら
潜水艦が浮上してきていたのです、退屈していた私たちには、なんだなんだという感じ映画では見るが実際に
浮上してくるのを見るのは初めて、潜水艦の浮上と潜水までの楽しみでした。
友達に話すと42時間もかけてよういくなーと、なぜ飛行機で行かないのという、だれもがそういうのですが
戦地中は確かにあったそうですが今は使用できなくなっているという、逆にいまは不便な方が人がドット
押し寄せなくてよいのではないだろうか、緊急時は硫黄島の自衛隊の基地からヘリが来るという、
出なければ日本の最後の楽園と言われるところもあっという間にただの観光地となり果てるであろう
めったに来れない釣りの別天地であるからこそ不便なままでいいのでしょう?
先にも話しましたが、この大きな船から迎えに来る遠洋の航海の漁船に乗り移り、その船から再度小舟をおろして
乗り換えて磯近くまで行ってもらい磯際に止めた小舟から飛び亘るという危ないことをするのです、今の各地にある
渡船のように磯に押しつけるなどはしてくれません、釣具を放り投げておいて飛ぶか泳ぐかです。
この当時は若い者しか磯渡りできませんでした、(わたくしも若かったのです)
ただ上がりさえすれば大物が入れ食いします、仕掛けを投入したものから順に竿を抱えてたすけてくれと応援を
求めてるという状態です、低い磯の小穴にいるイイダコ?を捕まえて、それをエサとして釣ることもできた。
このように楽しい釣りの楽園でしたが、1度などはの海が荒れてきて磯から小舟に渡り、それから漁船に
のり移ったのは良かったのですが本船に帰るまでに酔ってしまい大揺れの胴の間にうつぶせになったまま動けず、
頭の上からザンブザンブと波をかぶって死んだようになって身動きができない目にもあった。
それまでして何故釣りに行くのかと・・・その時はもう2度と行かないと思って帰ってきているが、日にちが立つと
いい釣りだけが思い出してまた行きたくなる、そこに魚がいるからだ!と・・・・
いい思い出だけの魚拓が今も我が家の玄関に飾ってあります。
追伸・・亡き中井戸嘉彦さんの事、
11PMの大阪支部長をされていて私の当時の大阪府釣り連盟の顧問もしていただいていた。
世界をまたにかけて服部さんと釣り歩かれていた、温厚な方でした、中井戸さんのお家にも
行かせてもらい美しい宝塚出の奥さんにも合わせてもらいました。
その時にいただいた思い出の品、手塚治虫コレクションの近畿版ふみカード(今はもう手に入らないと思います)
と、中井戸さんの名前入りのウキ