ふろしき王子のブログ◎
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今日は、まず田町で買いもの。お塩など。
スタッフの方たちとお話しして交流。

次に、稲荷町の小料理屋にふろしきを届けます。
出前弁当配達用。
浴衣地三巾の大風呂敷が、そこで使うにゃちょい大きすぎる
とのことで、ひと回り小さく縫い直してきました。
保育園に送る風呂敷と合わせて、
一晩で18枚縫製。
裁断は前日にしています。

お届けしたお店で、今度ランチをしてまた紹介したいと思います。

13時からは実家のお店。
路地の水槽用に、エビと水草を持ってきました。

こまめく通うようになると、徐々に自分の世界を
作ってゆく。

実際に鉢植えを置いたり、整理整頓して見える化すると、
物や場と知り合いになり、それらは味方になってくれる。

急な変化は長つづきしない。
日々、ほんの少しずつでも
手と思いを込めながら、
場や物と、言葉のない対話をつづけているうちに
いつの間にか、揺るがないものとなっている。

それを支えるのは、これまでの思いの蓄積。

嬉しさや楽しさによる、思いの深まりももちろんですが、
悲しさや悔しさはより忘れたくないものでもある。

新しい水槽にヌマエビを移したとき、
水質の急変によって死なせてしまったことがある。

しかし、元の水をたくさんは持ってこれないこともあるので、
出来るなら、エビが元々いた所の砂利を、
洗い流さずに持ってくるとよいと思う。

透明だったエビは、死ぬると赤くなり、
魂の抜けたことを見せつけられる。

金魚やメダカは、意外と新しい水にも順応するように見える。
それはきっと、粘膜が守っている。

エビが死んだことを悔やみながらも、
自宅の水槽にはまだ沢山いて、殖えている。

死骸は団子虫が食べにくる。
お互い、殻が頼りの存在なので
引き寄せるものがあるのかも。

ともあれ、人は意図も予期もせず、
当然悪氣がなくとも、失敗はつきものだから、
それを前提に、システムを構成する必要がある。

うまく行かずとも、いつでも元通りにほどいて
もどせるのは、まさに風呂敷の方法。

死んだエビは団子虫の一部となり、
食物連鎖を通して
様々にいのちの形を変えながら、
またいつか、きっと
エビに関わる要素に舞いもどるだろう。

さて、お店の後に
熱帯魚屋まで自転車を漕いで、
金魚を買いました。
金魚すくいにいるような、小赤と呼ばれる
ワキンの子どものようなもの。

路地に置いた水槽にボウフラがわかないようにという
目的が半分で、
あとは心の潤い用。

江戸できんぎょが流行ったのも
ボウフラ対策という説があります。

このような多目的性を期待するため、
風呂敷も金魚も、
それ自体はシンプルなものを選びたい
感覚があります。

何にでも似合うというのは、
全てに共鳴できるという意味で、
シンプルというのは要素が少ないのではなく、
全部あるから飛び抜けた特徴が分からないという
完全無欠のシンプルであろうと、
矜持を抱いております。

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