仏教の世界観は、時間的には無始無終、空間的には無量無辺、つまり、無限の時空。
ところが、近代科学が観測した宇宙は時間は宇宙開闢から138億年、空間は直径930億光年、広大な時空であるが、有限ということ。
有限であるから、我が生命はその一欠片、宇宙と一体、宇宙力で生きていると言えるのである。
無限なら依って立つところがない。一体とは言えない。
「生命力は宇宙力」「宇宙力が生命力、生命力が宇宙力」という言葉も有限だから言えるのである。
仏教の世界観は、時間的には無始無終、空間的には無量無辺、つまり、無限の時空。
ところが、近代科学が観測した宇宙は時間は宇宙開闢から138億年、空間は直径930億光年、広大な時空であるが、有限ということ。
有限であるから、我が生命はその一欠片、宇宙と一体、宇宙力で生きていると言えるのである。
無限なら依って立つところがない。一体とは言えない。
「生命力は宇宙力」「宇宙力が生命力、生命力が宇宙力」という言葉も有限だから言えるのである。
淀川堤防へポタリングしているが、ところどころに桜の木があって中に大きな八重桜の木がある。ちょうど、満開になっていたので、今が見頃と思われた。
近くで八重桜の名所と言えば、造幣局の通り抜けである。見に行こうと思ってネットをチェックすると、4月の4日から1週間、しかも、1月に予約申し込みをしなければならなくなっていた。
残念。
向こうに見える橋は鳥飼大橋。昭和29年、小学の時分に旧橋が竣工し、大きな橋が近くでできたので友達と見に行ったことがある。今は2代目(令和3年竣工)。
知恵袋を見ていたら、「今日はお釈迦様の誕生日、何を食べますか」と質問が出ていたので、つられてちょっと考えて桜餅と応えた。
4月8日はお釈迦様の誕生日だが我が夫婦の結婚記念日、特別な日なのだが今日まで特別なことはしてこなかった。
ご馳走を食べに行く予定もないし、時節柄桜餅が食べたいと思った次第。
夕方、近くの百貨店の買いに行くと、老舗の和菓子屋で1個380円、予想外の値段でどうしようと思ったが1個しか無かったので買わずにスルー。
他の買い物をして帰り道にある丹波屋を覗くと1個170円、桜餅2個、よもぎ餅2個を購入。
久しぶりに妻と桜餅を賞味、曰くがついたのでいつもより美味しくいただいた。
来年、食べられるかどうか。
私は美しい花を愛でるのは大好きだが、中でも桜に特別郷愁を覚える。縁を感じるところを書き出してみる。
1 我が家の家紋が桜であること。
2 実家の庭に桜の木が植わっていたこと。
3 私の結婚式が4月8日花祭りの日。
4 父親の葬式が4月6日、菩提寺で執り行ったが桜が満開、後からどなたからも「桜が満開で最高のお葬式でした」と言われたこと。
西行法師の「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」の歌を思い出し、親父はいい時に死んだなと思ったものだった。
4 この度、与謝蕪村の句碑から歌碑を連想することになった。
まずは筆頭に挙げなければならないのは、吉野山の勝手神社にある折口信夫の歌碑である。
「吉野山 さくらさく日に もうで来てかなしむ心 人しらめやも」
折口信夫は父方の祖父と従弟、私とは6親等、法律上の親戚に引っかかってる。吉野の桜は見たかったが出不精で混雑嫌いだから見に行けてない。
https://ameblo.jp/yoshimizushrine/entry-12493853516.html
5 桜を詠んだ和歌と言えば本居宣長のこの歌が一番と心得る。この歌を見聞きすると「ああ、俺は日本人だな~。日本に生まれてよかった」とつくづく思うのである。
「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
https://www.kankomie.or.jp/report/1686
6 死期の近づきつつある私にとって西行のこの歌に心惹かれる。
「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」
如月の 望月とは2月15日、つまり、釈尊の亡くなった日、入涅槃の日である。今の2月15日には寒中真っ盛り、桜花を望むべくもないが旧暦に当てはめると年によって日が変わるが今年は3月24日となる。
https://iesiat.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-8011.html
注:写真はURLの記事から引用させていただいて表示した。
仏式で葬式する人の多くは死んで仏になるように思っているようである。死んでから戒名(法名)をつけたり、年忌に追善供養したりしている。人としてその存在が無くなるのであるから成仏のしようがないのである。
人の生涯は、仏教では十二支縁起で示されている。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死である。しかし、この生以前なんて考えてみても意味がない。
さて、私が考えてみた生から死を示してみたい。
「人として生まれ、人間として生き、人格を作り、仏格を得て、涅槃に入る」
今日は 縁起について考えてみたい。
「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」
「法を見るものは、我(仏)を見る」
だから、縁起を極めれば仏教が分かる。
縁起は仏教の根本概念で四諦、十二支縁起、四法印、五蘊説、大乗仏教の空といった概念もこの縁起から派生する。
縁起は、すべての存在が相互の因縁によって生起することだが、縁起というと 、切ったり結んだり、 良かったり悪かったり、あったりなかったするような因縁話がよくある。
これは複数の事物を時間的あるいは空間的に関連付けてみた上の話でこれは頭の中の事実の世界の話である。十二支縁起(時間的関連)、五蘊説(空間的関連)なんかもそれにあたる。
真実の世界にあっては、一切が繋がり相互作用しその縁は切りようがないのである。私は宇宙全体と繋がり切り離しできない。宇宙全体が縁起し私はその一欠片だからである。
電磁力と重力の影響範囲は無限大であり、あらゆるものは相互作用、相補性原理で存在し運動しているのである。
「縁は切れない」、そんな縁起を理解する必要がある。
あなたと私は繋がっている。私がいればこそあなたもいる。あなたがいればこそ私もいる。
プーチンにも習近平にも金正恩とも繋がっているのである。私がいて彼らもいる。彼らもいて私もいる。
前回は 古代ギリシャ哲学者エピクロスの言葉を紹介した。
「 我々が存在するとき死は存在せず 死が存在するとき 我々は存在しない」
去年の10月には、古代ギリシャ哲学者 キケロの「死者の命は生ける者の記憶に留まる」という言葉を用いて文章を書いた。
それに関連するが「人は二度死ぬ」ということが言われるようになった。
「一度目の死は肉体が滅んだ時、二度目の死は全ての人から忘れられた時」という意味で使われるようだ。キケロのいう記憶に留まっていたものもなくなってしまうと意味である。
永六輔が言い出した言葉のようで膾炙されるようになってまだ日が浅い。
お釈迦さんなんか多くの人に今も記憶されているお方だから生存中ということになる。
まあ、悪名を残さないようにしましょう。
ヤフーの知恵袋の質問で「死ぬのが怖い」という内容のものがあったので、参考までに次のように回答した。
私の回答:
他人の死はあれども自分の死はありません。
自分の死は自分で体験できないからです。
古代ギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341-270)
「 我々が存在するとき死は存在せず 死が存在するとき 我々は存在しない」
昨年3月に打ち上げを失敗したH3ロケットが故障箇所を修正して本日朝9:22に種子島宇宙センターから打ち上げられ打ち上げは成功した。
前回はたった一つの小さな部品の不具合が原因だったようだが、そのため原因究明に苦労したようである。
ともあれ、これで日本の宇宙開発も順調さを取り戻すだろう。
天地創造といえば、一神教の神によるものがよく知られるところである。
ここでは私の天地創造説を紹介したい。神ならぬ自己による天地創造である。
まず、天地に2つがある。前から述べている真実界と事実界よるものである。
事実界の天地とは頭の中で造られたイメージだから、自己の造ったものであることは容易に理解できるはずである。想像による創造である。
真実界における天地創造はその前提として宇宙の中にいる宇宙と一体となった自己、とすると自己が動けば宇宙が姿を変える。
たとえば、右手に持つ物を左手に持ち替える、そんな他愛のない行為であっても状況、景色は変わってしまう。微小極まりない変化であっても宇宙は姿を変えたのである。その変化は相互作用によって周辺に伝搬していく、距離が離れるに従って影響力は弱まっていくようだが、時ところによって増幅作用を持つTVや携帯電話のような装置もある。
私の今書いている拙い文章だが、閲覧数のトータルが100万を超えている。内容には賛同なく影響されなかったとしても、閲覧する時間は取られているわけだから多大なる影響を受けている。
閲覧によって意識の流れが変わる、意識が変われば行為が変わる、行為が変われば他の人に影響する。連鎖反応が私から始まり広がっていくのである。
バタフライエフェクトは天地創造の一形態といえるだろう。
近頃、中国関係のユーチューブを見ていると、政治経済情勢に関し鄧小平の言葉が引用して使われることがちょくちょくある。
それは「事実に基づき真実を求める」というものである。私が強調している真実と事実の意味と違うが、真実と事実とが使われているので関心を引いた。
鄧小平がどういう意味で使っているか、意味不明だが私なりに解釈してみた。
事実だがこれは現状のこと、それは中国伝統の共産主義に資本主義を取り入れたもの、資本家の存在を認めたこと、これは共産主義に反するものだけれどこれにより経済発展させようというものである。国民が資本家になることを認めるに留まらず外資を導入することまでやった。
深圳等の経済特区を設けて開国開放という政策が実行されているというのが事実。
真実を求めるというのであるから、理想とする状態を言うのであろう。
共産主義者なんだから、共産主義社会の実現と考えていたのであろうか。それとも資本主義を入れ込んだのだから共産主義社会は無理だから、経済大国を目指すことにしたのだろうか。
平たく言えば、鄧小平の真実とは金なんだ。資本主義も共産主義も結局は金、金が本尊という話ということになる。
私のいう真実と事実とは次元が違うようだ。
節分は験担ぎの日だ。
筆頭が豆まきである。「福は内 鬼は外」。老若男女、誰でも楽しめる。
しかし、この掛け声は問題ありとするのが物事を逆から考える癖のある私からすると、違うのではないかと思ってしまう。
家内に鬼がいて福がない家庭なのかなんて考えてしまう。
折角の日なんだから、気持ちだけでもあるものを外に出す「福は外」と掛け声をする。それだけでも気持ちが豊かになる。
「雑巾を当て字に書けば蔵と金、あちら拭く拭く(福々) こちら拭く拭く(福々)」
節分に雑巾がけなんて下のゲン担ぎよりずっとよさそうだ。
雑巾は汚いもののようだが、実は相手の汚れを吸い取って自分は汚れつつ相手を綺麗にする、その自己犠牲は美しいのだ。
節分のゲン担ぎには、他に以下のようなものがあるようだ。(Bingより)
佐々木閑 花園大学特別教授は現在アビダルマの講義をされている。
婆沙論によると、釈尊は前世において、3阿僧祇劫+90劫の修行の期間があり、その間において228006人の仏に会いそれぞれから仏になれるという授記を受けたというのである。
最後の90劫の間に出会った6人の仏、( 毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、その過去仏に釈迦牟尼仏を加えたものが七仏ということになる。
そのどの仏も共通して説かれた戒めの言葉が七仏通戒偈という。
具体的にどうするのかというと、私は次のとおりと考える。
「諸悪莫作 衆善奉行」 事実界を分別智を用い、つまり瞑想等の実践行によって清浄ならしめること
「自浄其意」 真実界を無分別智を用い、つまり禅定によって清浄ならしめること
佐々木先生は、仏道修行は瞑想修行が大事と言われている。瞑想とは精神集中だと言われる。この意見には賛成できない。精神となにか、誰がどこにどのように集中するのか。
坐禅は集中ではない。集中を解くことである。内山興正老師のいうように頭の手放しである。といってだらっとすることではない。
「生命力は宇宙力」は、私のキャッチフレーズである。
これは、「宇宙力が生命力」と「生命力が宇宙力」と併せ持つ意味となる。
「宇宙力が生命力」は、我々人間は宇宙の中に宇宙の一部分、一欠けらとして生まれて宇宙と一体的に存在している。宇宙力は宇宙を形成し運動せしめる力と解すれば、その力は宇宙中に遍満しその力は当然切れ目なく宇宙の欠片にも及んでいる。
「生命力が宇宙力」は、前の逆で部分があって全体がある。
つまり、この私を抜いたら宇宙が成り立たないということである。
宇宙全体を一つの生命体と考えると、分かり易く理解できるかもしれない。
宇宙力としてはいろんな力があるが四つの力のうち、電磁力と重力は計数的に測られ、その影響範囲は無限大であるという。宇宙の中のあらゆる存在は繋がって一体として存在している。
「我あるがゆえに彼あり、彼あるがゆえに我あり」
最も嫌う者や敵とも生命的に繋がり、依存しているのである。
昨日の私の事実世界の様子を書いてみよう。
病気自慢で紹介していたように、私の眼は近、乱、老、白、乾の疾患があって、まともに見えていないのである。
家の中にいる時は、眼鏡なしでパソコンもこの眼で見ている。自転車で外出する時、夜間の外出は眼鏡をかける。見え方は全然違うが面倒くさいので家の中ではかけないのである。
さて、昨日パソコンでユーチューブを見ていた時のことである。文字の1文字が見えにくくなるのである。見えないわけではない。おかしいなと思いつつ、目を見開いて文字を追っていたが、5分ほどして左下方に移すと、画面の白地を外れたところから雷光のようにギザギザに光るひも状のものが見えた。
閃輝暗点(せんきあんてん)だ!!
40歳半ばくらいから時々症状が顔を出す。10~20分で治まるが出ている間は、その部分は見えなくなるので大事な時には困る。
私の頭の中の事実世界に傷がいき、10分ほどで元に戻る、そんな感じである。
ここ10年ほど出なかったので、見えにくくなった時点では閃輝暗点とは気が付かなかった。
閃輝暗点については、ご存知でない方も多いと思うので、グーグルの生成AIの説明をご覧いただきたい。