心理テストで他力本願度をチェックするというのがあったから、紹介する。
https://news.nifty.com/article/item/neta/12353-2998881/
AIの説明
「他力本願(たりきほんがん)」は、自分の力でなく他人の力によって望みをかなえようとすることを意味する四字熟語です。仏教用語が由来で、もともとは阿弥陀如来の本願によって極楽往生を得るという意味でした。そのため、現代の意味は誤用ともいわれています。
心理テストで他力本願度をチェックするというのがあったから、紹介する。
https://news.nifty.com/article/item/neta/12353-2998881/
AIの説明
「他力本願(たりきほんがん)」は、自分の力でなく他人の力によって望みをかなえようとすることを意味する四字熟語です。仏教用語が由来で、もともとは阿弥陀如来の本願によって極楽往生を得るという意味でした。そのため、現代の意味は誤用ともいわれています。
今日は、夕食を外食することにして、近所の道を100mほど行ったところで、市の防災無線のチャイムが鳴り出した。
私の住む守口市では5:30に以前は「夕焼け小焼け」の曲が流され長らくこの曲が使われていたが、4年前から「守口市歌」に変わった。知らない曲だったが古関裕而が1951年に作曲したちゃんとしたものだった。
「夕焼け小焼け」の時は、子どもに帰宅を促すために流されているものだろうと思っていたが後に知ったところでは防災無線のテストだったそうで、各市町村で違った時刻に流されていることを知った。
さて、タイトルのおもろい犬だが、そのチャイムの音に合わせて吠え出すのである。家の中で飼われているのでどんな犬かなと思っていたが、今日は窓と鉄格子の狭い場所に身を乗り出していた。ちょっと小柄な柴犬かその雑種のようである。
私が子どものころ、向かいの家の犬、ちょっと大きめの雑種だったが、この犬は松下電器の工場の終業時なんかに鳴らされるとそれに合わせて吠えるのである。
70年以上経って2匹目を見つけたので、記事にしてみた。
下の記事は2015年2月に書いた「夕焼け小焼け」にまつわる記事である。曲が変わるまではそんな気で聞いていたものである。
以下、旧記事の転記。
1 夕やけ小やけで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょ
2 子供がかえった あとからは
まあるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
いつぞや、近所のお寺さん連合の主催する講演会で宗教学者の山折哲雄氏の話を聞いたことがある。ほとんどは忘却の彼方だが、一つだけ覚えていることがある。
山折氏が韓国の学者に今日子どもたちの情操教育が疎かになっていることを嘆いた時、その韓国の学者はそんなことはない。日本では昔ほどではないが今もちゃんと立派に情操教育がされているという。それが羨ましいというのだ。
「夕焼け小焼け」の素晴らしいというのである。お寺の鐘がなり、つまり佛様のちゃんとおられ、そろそろ帰ろうねと促してくださる。そして帰るべき家がちゃんとあって夕飯の支度ができている。友達と仲良く帰る、からすや小鳥も一緒、共に生きていて別け隔てがない。
月も星にも空にもちゃんと見守られている。なんという素晴らしい世界に生きているのだ。それが日常だというのです。
その話を聞いて山折氏はなるほどと同感の意を表明したそうである。
まあ、阿弥陀経に描写されたきんきらした極楽浄土なんかが素晴らしいものと思いがちだが、あればお経の作者が想像で作り上げた作りものに過ぎず、こういう世界こそ本当の浄土というべきであろう。
昨日、ユウチューブを見ていたら、伊藤匠七段が4月20日に行われた叡王戦タイトル戦第2局で初勝利したことが報じられていた。
それまで、伊藤匠七段は11戦対戦して負けっぱなし、12戦目でやっと勝利した。負けっぱなしだったので、あまり、タイトル戦があることも気にもしていなかったが、やってくれました。
早速、深浦九段の棋譜解説を見てみた。藤井竜王が序盤でやったことのない手を指してそれが良くなくて伊藤七段がペースを掴み押し切ったようだ。
勝負事は強いのが勝ちっぱなしじゃ、面白くない。
ヤフーの知恵袋で2010年5月から、宗教のカテゴリーに参加しているが、今日、なんとカテゴリーマスターとやらになった。
2010年からだと、14年。遅いちゅうねん。
どういう基準で選ばれるのか、訳が分からない。1年、2年でなる人もいる。今回も別に通知があったわけでもなく、回答を書いたら「カテゴリーマスター」という表示が表れただけである。
仏教の世界観は、時間的には無始無終、空間的には無量無辺、つまり、無限の時空。
ところが、近代科学が観測した宇宙は時間は宇宙開闢から138億年、空間は直径930億光年、広大な時空であるが、有限ということ。
有限であるから、我が生命はその一欠片、宇宙と一体、宇宙力で生きていると言えるのである。
無限なら依って立つところがない。一体とは言えない。
「生命力は宇宙力」「宇宙力が生命力、生命力が宇宙力」という言葉も有限だから言えるのである。
淀川堤防へポタリングしているが、ところどころに桜の木があって中に大きな八重桜の木がある。ちょうど、満開になっていたので、今が見頃と思われた。
近くで八重桜の名所と言えば、造幣局の通り抜けである。見に行こうと思ってネットをチェックすると、4月の4日から1週間、しかも、1月に予約申し込みをしなければならなくなっていた。
残念。
向こうに見える橋は鳥飼大橋。昭和29年、小学の時分に旧橋が竣工し、大きな橋が近くでできたので友達と見に行ったことがある。今は2代目(令和3年竣工)。
知恵袋を見ていたら、「今日はお釈迦様の誕生日、何を食べますか」と質問が出ていたので、つられてちょっと考えて桜餅と応えた。
4月8日はお釈迦様の誕生日だが我が夫婦の結婚記念日、特別な日なのだが今日まで特別なことはしてこなかった。
ご馳走を食べに行く予定もないし、時節柄桜餅が食べたいと思った次第。
夕方、近くの百貨店の買いに行くと、老舗の和菓子屋で1個380円、予想外の値段でどうしようと思ったが1個しか無かったので買わずにスルー。
他の買い物をして帰り道にある丹波屋を覗くと1個170円、桜餅2個、よもぎ餅2個を購入。
久しぶりに妻と桜餅を賞味、曰くがついたのでいつもより美味しくいただいた。
来年、食べられるかどうか。
私は美しい花を愛でるのは大好きだが、中でも桜に特別郷愁を覚える。縁を感じるところを書き出してみる。
1 我が家の家紋が桜であること。
2 実家の庭に桜の木が植わっていたこと。
3 私の結婚式が4月8日花祭りの日。
4 父親の葬式が4月6日、菩提寺で執り行ったが桜が満開、後からどなたからも「桜が満開で最高のお葬式でした」と言われたこと。
西行法師の「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」の歌を思い出し、親父はいい時に死んだなと思ったものだった。
4 この度、与謝蕪村の句碑から歌碑を連想することになった。
まずは筆頭に挙げなければならないのは、吉野山の勝手神社にある折口信夫の歌碑である。
「吉野山 さくらさく日に もうで来てかなしむ心 人しらめやも」
折口信夫は父方の祖父と従弟、私とは6親等、法律上の親戚に引っかかってる。吉野の桜は見たかったが出不精で混雑嫌いだから見に行けてない。
https://ameblo.jp/yoshimizushrine/entry-12493853516.html
5 桜を詠んだ和歌と言えば本居宣長のこの歌が一番と心得る。この歌を見聞きすると「ああ、俺は日本人だな~。日本に生まれてよかった」とつくづく思うのである。
「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
https://www.kankomie.or.jp/report/1686
6 死期の近づきつつある私にとって西行のこの歌に心惹かれる。
「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」
如月の 望月とは2月15日、つまり、釈尊の亡くなった日、入涅槃の日である。今の2月15日には寒中真っ盛り、桜花を望むべくもないが旧暦に当てはめると年によって日が変わるが今年は3月24日となる。
https://iesiat.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-8011.html
注:写真はURLの記事から引用させていただいて表示した。
桜のシーズンになると、毎年、花見に出かける。
歳も歳とてひょっとして今年で見納めになるかも知れないという思いで花を愛でている。
昨日は、近所のパナソニックのさくら広場へ出かけてた。今年はいつもより開花が遅れて4日現在満開といかなかったようである。開園日を3日伸ばして6日までとしたようだが、ちょうど満開日に閉園するようである。
今日は桜之宮公園へ自転車で行ってきた。途中で人が増えて自転車を降りて通らなけならない場所があった。外国人の花見客が増えて喋り声が多く聞かられた。ゆっくり花見をしたいこちらとしてありがたくない客である。写真は公園に入って間もない、空いている場所である。
写真は公園内にある自転車が通行できる歩道橋である。春風橋という。なぜ、そういう名称になっているのか、以前、ふと思ったことがあった。
今日、その謎が解けた。毛馬の閘門近くに与謝蕪村の句碑があって、その俳句が「春風や堤長うして家遠し」。与謝蕪村の生まれの地が毛馬なのであった。
仏式で葬式する人の多くは死んで仏になるように思っているようである。死んでから戒名(法名)をつけたり、年忌に追善供養したりしている。人としてその存在が無くなるのであるから成仏のしようがないのである。
人の生涯は、仏教では十二支縁起で示されている。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死である。しかし、この生以前なんて考えてみても意味がない。
さて、私が考えてみた生から死を示してみたい。
「人として生まれ、人間として生き、人格を作り、仏格を得て、涅槃に入る」
今回でとうとう80種。前回は腎盂炎で入院する羽目になったが、今回は麦粒腫である。
17日頃から右目にゴミが入ったようにコロコロした感じで使用中の保健的目薬で流そうとしたが取れない。いつまでもいう訳ではコロコロ感がなくなる時もある。流れ出たかと思いきや、また繰り返す。2日ほど辛抱したが、治らない。
2日経ってこれは眼科に行った方が良さそうだと、何年も前に係ったことのある近所の眼科へ行ってみた。予約制になっていた。予約するとすれば25日だという。予約の間が空けば受診可能だがいつになるか分からないという。
待ってられないので、もう少し離れた予約制でない眼科を受診した。麦粒腫であるとの診断で目薬を2種処方してもらった。5日間点眼してどうやら治まったようだ。
しかし、数日前から左目も違和感があり、昨日辺りからコロコロ感が出て来たので、両眼に1日4回点眼しているような状況である。
というようなことを書いて病歴を更新しようとしたら抜けているのに気がついた。踵のひび割れである。寒くなって踵が乾燥してひび割れてくる、尿素クリームを常用している。
よって、自慢件数81,歳の数だけあることになる。
病歴
<頭、顔部>
脱毛症、白髮、健忘症、脳貧血、黒子、ガングリオン
<眼部>
近視、乱視、老眼、白内障、ドライアイ、網膜穿孔、網膜変性症、閃輝暗点、濾胞性結膜炎、飛蚊症、結膜炎、緑内障、右白目部出血、麦粒腫
<耳部>
中耳炎、耳鳴り
<呼吸器系>
感冒、インフルエンザ、蓄膿症、鼻炎、咽頭扁桃炎、気管支炎、胸膜炎、耳下腺炎
<口腔、歯科系>
虫歯、歯周病、口内炎、口唇ヘルペス、歯欠損、顎骨脱臼、口角炎
<消化器系>
逆流性食道炎、胃炎、胃ポリープ、食中毒、十二指腸虫症、腸炎、大腸ポリープ、痔疾、回虫、肝臓病、胆石、
<循環器系>
高血圧、冷え性、腹部大動脈石灰化、高ガンマグロブリン血症、足動脈狭窄、頸動脈プラーク、右足深部静脈血栓症
<泌尿器系>
慢性腎臓炎、腎臓結石、前立腺肥大症、貧血症、腎盂炎
<骨格>
橈骨骨折、肋骨亀裂骨折2回、腰椎椎間板ヘルニア、踵骨亀裂骨折、顎脱臼、手足の脱臼、各所捻挫、脊柱管狭窄症、第一腰椎圧迫骨折、骨粗鬆症
<皮膚>
擦り傷、切り傷、虫さされ、水虫、皮膚炎、両母趾巻き爪、日焼け炎症
<筋肉>
五十肩、こむら返り、背筋痛
以前テレビ放送された安泰寺の修行風景がユーチューブにアップされたので興味のある人はご覧ください。
今日は 縁起について考えてみたい。
「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」
「法を見るものは、我(仏)を見る」
だから、縁起を極めれば仏教が分かる。
縁起は仏教の根本概念で四諦、十二支縁起、四法印、五蘊説、大乗仏教の空といった概念もこの縁起から派生する。
縁起は、すべての存在が相互の因縁によって生起することだが、縁起というと 、切ったり結んだり、 良かったり悪かったり、あったりなかったするような因縁話がよくある。
これは複数の事物を時間的あるいは空間的に関連付けてみた上の話でこれは頭の中の事実の世界の話である。十二支縁起(時間的関連)、五蘊説(空間的関連)なんかもそれにあたる。
真実の世界にあっては、一切が繋がり相互作用しその縁は切りようがないのである。私は宇宙全体と繋がり切り離しできない。宇宙全体が縁起し私はその一欠片だからである。
電磁力と重力の影響範囲は無限大であり、あらゆるものは相互作用、相補性原理で存在し運動しているのである。
「縁は切れない」、そんな縁起を理解する必要がある。
あなたと私は繋がっている。私がいればこそあなたもいる。あなたがいればこそ私もいる。
プーチンにも習近平にも金正恩とも繋がっているのである。私がいて彼らもいる。彼らもいて私もいる。
前回は 古代ギリシャ哲学者エピクロスの言葉を紹介した。
「 我々が存在するとき死は存在せず 死が存在するとき 我々は存在しない」
去年の10月には、古代ギリシャ哲学者 キケロの「死者の命は生ける者の記憶に留まる」という言葉を用いて文章を書いた。
それに関連するが「人は二度死ぬ」ということが言われるようになった。
「一度目の死は肉体が滅んだ時、二度目の死は全ての人から忘れられた時」という意味で使われるようだ。キケロのいう記憶に留まっていたものもなくなってしまうと意味である。
永六輔が言い出した言葉のようで膾炙されるようになってまだ日が浅い。
お釈迦さんなんか多くの人に今も記憶されているお方だから生存中ということになる。
まあ、悪名を残さないようにしましょう。
ヤフーの知恵袋の質問で「死ぬのが怖い」という内容のものがあったので、参考までに次のように回答した。
私の回答:
他人の死はあれども自分の死はありません。
自分の死は自分で体験できないからです。
古代ギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341-270)
「 我々が存在するとき死は存在せず 死が存在するとき 我々は存在しない」