朝日新聞で連載中のモデル・女優である杏さんの「杏の気分ほろほろ」。いつも興味深く拝読しているのだが、最新号に本当にそうだなと思ったので、以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
モデル裏舞台あるある(杏の気分ほろほろ:37)2016年2月26日09時30分
モデル、という言葉をフランス語で言うと「マヌカン」。デパートの洋服売り場で並んでいるマネキンのことだ。つまりモデルとは服を表現するための存在だ。私は生きたハンガーのようなものではないかと思う。
思春期にすこしずつ背が伸びてきて、「やってみれば?」と言われたときは、まだ身長は160センチ台後半だった。最終的に174センチまで背は伸びたが、それでも世界の舞台の中ではギリギリの身長。当然、始めたばかりの160センチ台の私はショーモデルになるとまでは夢にも思わなかった。
雑誌のモデル、ショーのモデル、国内外、色々なモデルのお仕事を経験させていただいている。最近は女優業もやってバラエティー番組で話す機会もあるせいかあまり言われなくなったが、初対面の方には「もっとクールで話しづらい人かと思った」と言われることが多かった。
そもそもモデルというとマネキンなわけだから、表現上、個人の人間的な背景はあまり必要がない(あってもデフォルメされ、言葉無しのビジュアルだけで表現できる範囲)。
それにしても「モデル=近寄りがたい」という図式は依然と存在する。日常を超越した夢の世界の表現者である側面も考えるとあってしかるべきだとも思うが、イメージが先行して独り歩きしすぎている部分は少し訂正してみたい。
華やかな世界だが、実際は季節も逆転、気候と戦い汗にまみれたり凍えたりする、想像よりはずっと地味な仕事である(こんなことを言うと夢がない!と言われてしまうのかしら)。
昨今、バックステージと呼ばれるファッションショーの舞台裏の様子がテレビなどで興味深く紹介される機会も多いので、そのなかに映るいかにもモデルらしい姿や態度が高飛車と誤解される一因なのではないかとも思ったりする。
そんな誤解されやすい行動にも幾つかは理由があったりする。
まずつんとすまして靴を履かせてもらっている構図。スタイリストやアシスタントの方にかしずくような体勢にさせてしまうことで、「靴くらい自分で履けないのか?」と思われるかもしれない。
しかし、自分で靴を履こうとかがむと、それまでにつくったヘアスタイルが崩れる可能性があり、またてこずって時間がかかると頭に血が上り、顔に余計な赤みがさしてしまい、メイクのカラーバランスが崩れる可能性もある。ひも靴やリボンの装飾がある場合、結び目の美しさなどのバランスを鑑みると最初からスタイリストがやったほうが話が早かったりする。そういうわけで、なるべく顔の水平を保ちながら私たちは靴を履かせてもらうのだ。
手の指のネイルが塗りたてだったりすると、それを守るためにボタンすらも閉じていただくこともある。
撮影の合間やショーの舞台袖で本番直前の最終的なヘアメイク、服の直しをされている時、モデルの腕を組んでただ突っ立っている姿に「あの非協力的な態度は何だろう」と思われるかもしれない。しかし、座ったりかがんだりすると服にシワがよるため、いくら高いヒールを履いていても、背を合わせようと座るわけにもいかない。頭のテッペンや顔、服など至近距離にヘアやメイク、スタイリストが来るので、自分の手が彼らの身体に当たったりして気を使わせないように、手先を上に上げている姿が自然と腕を組む形になるのだ。
ほんの少し例を紹介してみたが、いかがだろうか。そういえば見たことあるようなモデルっぽいあの舞台裏の姿にも、一応理由があったりするのだ。
一方で10代で親元を離れ、様々な目的のために気を張って、遠い外国の地で働こうと奮闘しているモデルの子はどの国にも(もちろん日本にも)たくさんいるので、自然と強気にならざるをえないんだなぁ……と感じることも多い。というわけで、高飛車な(そうならざるを得ない心境の)子も、そうでない人も、どちらもいる。ということでざっくりと「モデル・裏舞台あるある」を〆たいと思う。
同じ職業の中でも様々なタイプの性格がいるのは、どの職種でもきっと同じなのだ。
(転載終了)※ ※ ※
要はどのくらいその人の立場になって物事を考えられるか、相手に対して敬意を表して思いを致すことが出来るかだろう。先入観で多少でもネガティブなイメージがあれば決して良い解釈は生まれてこない。
けれど、例えばモデルという人種は自分の美しさを鼻にかけてツンとしたイメージで、といういかにも紋切り型の発想はあまりに貧相で哀しいものではないか。
暑い夏に汗もかけずに来るべき秋冬シーズンの撮影をし、逆に冬に寒さに震えることもできず春夏の撮影をする。考えただけで大変な仕事だ。当然のことながらそれをおくびに出さず、体調を整えるのだから。プロ意識がなければとても勤まらないだろう。
杏さんの最後の一文が利いている。―どんな職種の中にも色々な人がいる。
と同時に、靴を履かせてもらうには、それなりの理由がある-どんなことにも必ず理由がある。-にも頷ける。
この二つのことを忘れずに、思ったことをすぐに口に出すことなく、ちょっと一呼吸置いて自分の周りを見つめることが出来れば、世の中そう住みにくいことにはならないのではないか。
何よりも、自分の解釈で勝手に相手のことを決め付けてしまうことはとても残念なことだろうと思うけれど、どうだろう。
さて、今日は1936年に起こった二.二六事件からちょうど80年の日。
日本が暗く切ない時代に突入するきっかけとなった日だ。その日は雪が降りしきっていたという。そこに生きた若人は何を思っただろうか。
翻って、今日は朝から久しぶりの快晴。日中の陽射しが真冬に比べて大分柔らかくなってきたとはいえ、今朝の冷え込みも厳しかった。その厳しい寒さも今日で底だという。
このところ日一日と日の出は早くなり、日の入りは遅くなり、間違いなく春の足音が聴こえてくる。
国公立大学の二次試験前期日程も終了。精一杯頑張った受験生たちには文字通り嬉しい春の知らせが届くだろう。
そしてつい3年前に大学生の仲間入りをした新4年生たちは、あっという間に就活始動の春である。
遠く80年前の事件を想いながら、若い人たちにとって希望の春でありますように、と願わざるを得ない夜である。
※ ※ ※(転載開始)
モデル裏舞台あるある(杏の気分ほろほろ:37)2016年2月26日09時30分
モデル、という言葉をフランス語で言うと「マヌカン」。デパートの洋服売り場で並んでいるマネキンのことだ。つまりモデルとは服を表現するための存在だ。私は生きたハンガーのようなものではないかと思う。
思春期にすこしずつ背が伸びてきて、「やってみれば?」と言われたときは、まだ身長は160センチ台後半だった。最終的に174センチまで背は伸びたが、それでも世界の舞台の中ではギリギリの身長。当然、始めたばかりの160センチ台の私はショーモデルになるとまでは夢にも思わなかった。
雑誌のモデル、ショーのモデル、国内外、色々なモデルのお仕事を経験させていただいている。最近は女優業もやってバラエティー番組で話す機会もあるせいかあまり言われなくなったが、初対面の方には「もっとクールで話しづらい人かと思った」と言われることが多かった。
そもそもモデルというとマネキンなわけだから、表現上、個人の人間的な背景はあまり必要がない(あってもデフォルメされ、言葉無しのビジュアルだけで表現できる範囲)。
それにしても「モデル=近寄りがたい」という図式は依然と存在する。日常を超越した夢の世界の表現者である側面も考えるとあってしかるべきだとも思うが、イメージが先行して独り歩きしすぎている部分は少し訂正してみたい。
華やかな世界だが、実際は季節も逆転、気候と戦い汗にまみれたり凍えたりする、想像よりはずっと地味な仕事である(こんなことを言うと夢がない!と言われてしまうのかしら)。
昨今、バックステージと呼ばれるファッションショーの舞台裏の様子がテレビなどで興味深く紹介される機会も多いので、そのなかに映るいかにもモデルらしい姿や態度が高飛車と誤解される一因なのではないかとも思ったりする。
そんな誤解されやすい行動にも幾つかは理由があったりする。
まずつんとすまして靴を履かせてもらっている構図。スタイリストやアシスタントの方にかしずくような体勢にさせてしまうことで、「靴くらい自分で履けないのか?」と思われるかもしれない。
しかし、自分で靴を履こうとかがむと、それまでにつくったヘアスタイルが崩れる可能性があり、またてこずって時間がかかると頭に血が上り、顔に余計な赤みがさしてしまい、メイクのカラーバランスが崩れる可能性もある。ひも靴やリボンの装飾がある場合、結び目の美しさなどのバランスを鑑みると最初からスタイリストがやったほうが話が早かったりする。そういうわけで、なるべく顔の水平を保ちながら私たちは靴を履かせてもらうのだ。
手の指のネイルが塗りたてだったりすると、それを守るためにボタンすらも閉じていただくこともある。
撮影の合間やショーの舞台袖で本番直前の最終的なヘアメイク、服の直しをされている時、モデルの腕を組んでただ突っ立っている姿に「あの非協力的な態度は何だろう」と思われるかもしれない。しかし、座ったりかがんだりすると服にシワがよるため、いくら高いヒールを履いていても、背を合わせようと座るわけにもいかない。頭のテッペンや顔、服など至近距離にヘアやメイク、スタイリストが来るので、自分の手が彼らの身体に当たったりして気を使わせないように、手先を上に上げている姿が自然と腕を組む形になるのだ。
ほんの少し例を紹介してみたが、いかがだろうか。そういえば見たことあるようなモデルっぽいあの舞台裏の姿にも、一応理由があったりするのだ。
一方で10代で親元を離れ、様々な目的のために気を張って、遠い外国の地で働こうと奮闘しているモデルの子はどの国にも(もちろん日本にも)たくさんいるので、自然と強気にならざるをえないんだなぁ……と感じることも多い。というわけで、高飛車な(そうならざるを得ない心境の)子も、そうでない人も、どちらもいる。ということでざっくりと「モデル・裏舞台あるある」を〆たいと思う。
同じ職業の中でも様々なタイプの性格がいるのは、どの職種でもきっと同じなのだ。
(転載終了)※ ※ ※
要はどのくらいその人の立場になって物事を考えられるか、相手に対して敬意を表して思いを致すことが出来るかだろう。先入観で多少でもネガティブなイメージがあれば決して良い解釈は生まれてこない。
けれど、例えばモデルという人種は自分の美しさを鼻にかけてツンとしたイメージで、といういかにも紋切り型の発想はあまりに貧相で哀しいものではないか。
暑い夏に汗もかけずに来るべき秋冬シーズンの撮影をし、逆に冬に寒さに震えることもできず春夏の撮影をする。考えただけで大変な仕事だ。当然のことながらそれをおくびに出さず、体調を整えるのだから。プロ意識がなければとても勤まらないだろう。
杏さんの最後の一文が利いている。―どんな職種の中にも色々な人がいる。
と同時に、靴を履かせてもらうには、それなりの理由がある-どんなことにも必ず理由がある。-にも頷ける。
この二つのことを忘れずに、思ったことをすぐに口に出すことなく、ちょっと一呼吸置いて自分の周りを見つめることが出来れば、世の中そう住みにくいことにはならないのではないか。
何よりも、自分の解釈で勝手に相手のことを決め付けてしまうことはとても残念なことだろうと思うけれど、どうだろう。
さて、今日は1936年に起こった二.二六事件からちょうど80年の日。
日本が暗く切ない時代に突入するきっかけとなった日だ。その日は雪が降りしきっていたという。そこに生きた若人は何を思っただろうか。
翻って、今日は朝から久しぶりの快晴。日中の陽射しが真冬に比べて大分柔らかくなってきたとはいえ、今朝の冷え込みも厳しかった。その厳しい寒さも今日で底だという。
このところ日一日と日の出は早くなり、日の入りは遅くなり、間違いなく春の足音が聴こえてくる。
国公立大学の二次試験前期日程も終了。精一杯頑張った受験生たちには文字通り嬉しい春の知らせが届くだろう。
そしてつい3年前に大学生の仲間入りをした新4年生たちは、あっという間に就活始動の春である。
遠く80年前の事件を想いながら、若い人たちにとって希望の春でありますように、と願わざるを得ない夜である。