ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.5.30-31 実家詣での土曜日と大ボケの日曜日を過ごして

2015-05-31 20:42:38 | 日記
 5月最終の土曜日。
 いつものようにベッドの中で朝の連続テレビ小説を鑑賞。ヒロインの弟と幼馴染の結婚話で考えさせられる台詞が。ヒロインの父は「幸せにしてやれよ」、幼馴染の父「(娘を)幸せにしなかったら許さない」と言うが、当の弟は「幸せはしてもらうものじゃなくて、2人でなるもの」。弟に一本!である。本当にそうだ。幸せは相手にしてもらうものじゃない。一緒に歩んでいくことで2人がともに幸せを感じることが出来ればそれが一番。だから、お互いを思いやり、2人で幸せになろうと努力することが必要なのではないか。それは当然我慢も伴う話であり、消極的な受け身の姿勢や、上から目線で○○してやる、という態度では決して掴めないものだと思う。

 さて、お天気がいいので洗濯物もどっさり干してベランダは一杯。その後、午前中の深呼吸ヨガのクラスに参加。久しぶりにHさんのクラスで、体の芯からリラックス。寝ポーズや座りポーズだけのクラスだけれど、信じられないほどたっぷり汗が出る。文字通り“奇跡の深呼吸”だ。
 シャワーでスッキリしてから夫と最寄駅で合流し、実家詣でに。年が明けて以来、父の足腰がすっかり弱っており、もはやバスや電車で移動することが難しくなっている。歩行器で歩く練習をしているというけれど、少しでも近い方がいいだろうと、前から気になっていた実家に近いイタリアンレストランを予約してもらっていた。
 到着すると、母が一人で落ち着かなく立ったり座ったりしている。父は、と訊くと、お手洗から出てこないという。夫に見に行ってもらったら、鼻血が出て、出てこられない様子。
 なんとか出てきたものの、ご機嫌が悪いし、子どものようにティッシュを鼻に突っ込んだり出したりしている。母が手を出そうとすれば振り払い、本当に気難しい。さすがに夫には気を遣っていると見えて、ようやく止まった時には「みっともない姿を晒してすみません」などと頭を下げている。切ない。それでも、ランチは中止で家に帰ると言い出さずに良かった。
 ランチコースは旬の食材をふんだんに使っており、大満足の美味しさだった。そのままタクシーを呼んでもらい、まっすぐ帰れば3分のところ、再開発された近隣地区を私達に見せたいということで、大回りをして帰宅した。父は、自分の足で行きたい所に行けないことが相当ストレスなのだろう。これも、切ない。
 人間の尊厳は食事、排泄、移動が自分で出来ること、というが本当にそうなのだ、と思う。娘である私もそうだけれど、血液をサラサラにする薬を飲んでいるので、どうしても粘膜もやられて血が止まりにくいようだ。これまで鼻血など出したことのない父が、頻繁に出るようになった鼻血をまだ受け容れられていないのだろう。母も気を遣って手を出して怒られているのだから、なんとも気の毒である。特に真夏のような日だったから、のぼせた所為もあるのだろうけれど。
 実家に戻り、この前の京都行きなどの写真をスライドショーにして見せたりして夕方まで過ごす。夫はいい気持ちで縁側でお昼寝をしている。父は自分の定位置の椅子に座ってこれまたウトウト。
 先日、87歳の誕生日を迎えたばかりの父。もうすぐ60年目のダイヤモンド婚式。母のストレスがこれ以上増えないように、なんとか仲良く過ごしてね、と言って実家を後にした。

 帰りは夫のリクエストで、実家の最寄のバス停からJRの乗換駅まで。これまた夫のリクエストで買い物。思いのほか遅くまでブラブラしてしまう。結局、駅ビルで夕食を摂ることに。ほぼ食事を終えようとした時に、あの地震である。横揺れが長く、10階にいたせいもあり、かなりの揺れ。皆、スマホ等の情報から小笠原が震源、かなり大きいと、騒然としていた。
 館内アナウンスも流れてどうも早じまいの様子。慌ててお手洗を済ませ、帰途についた。電車は動いており、特に混乱もなく帰宅することが出来たけれど、口永良部島の噴火に続き、やはり大地が、地球が怒っているのを感じ、背筋が冷たくなる。
 なんだかんだと12時間近く出ずっぱり、ちょっと欲張りすぎた一日になってしまった。

 日曜日。今日は目覚ましをかけることなく、寝坊を決め込む。遅いブランチを摂り始めたところ、見慣れない携帯番号の電話が。出るとリフレクソロジーサロンのオーナーからである。一瞬何が起こったかわからない。彼女は「ああ、良かった」と言っている。
 次の瞬間、来週またも京都行のため、何時ものパターンを1週前倒しにして今日朝一で予約をしていたことを想い出した。なんということ!10年以上お世話になっているが、予約を失念したのはこれが初めて。先方は、私が急に体調を崩して来られなくなったのでなかったのでほっとした、と。
 本当に申し訳ないことをしてしまった。彼女にサロンから最寄駅まで車で無駄に往復させてしまったのだ。今日はもう予約が一杯ということで、改めて次回の予約を入れさせて頂いた。
 食後は掃除。雨が降るという予報に反してお天気がいいので、昼からまた大物も洗濯することに。そして、簡単に昼食を済ませてリンパヨガのクラスに参加。帰りは夫のリクエストで映画鑑賞。今日も夕食当番は夫に任せてしまった。

 そして明日からは水無月6月。今年も誕生日の月がやって来る。無事に54歳が迎えられるだろうか。
 先週大腸がんで亡くなった俳優の今井雅之さんは4月生まれだったが、ああ、同級生だったんだ、と思う。54歳になったばかりの若さ。翌日には、10年ほど前になんば花月の舞台で拝見した今いくよさんも胃がんで逝かれた。
 いつだったか、今は亡き義母が新聞を見ながら言った言葉を思い出す。「ああ、またがんだ。この人もがんで死んだ」。
 “2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで亡くなる時代”をまたしても痛感させられてしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015.5.29 痛みの表現、人さまざま

2015-05-29 20:03:58 | 日記
 ここのところ、カドサイラ(T-DM1)が“地味に”効いてくれている(主治医の弁)おかげで、一時のような酷い胸痛が治まっている。
 それでは全く痛みから解放されているか、といえば、残念ながらそんなことはない。

 こうして胸骨付近の痛み(鈍痛、圧痛)と付き合うことになって早くも8年が経つ。
 一番初めに痛みを感じたのは、2007年5月、ゴールデンウィークのこと。ノルバデックスの副作用が原因とされる卵巣のう腫(と同時に見つかった子宮筋腫)の開腹手術のための病気休暇からまもなく復帰する、というタイミングだった。当時はまだ腫瘍マーカーCA15-3も正常だし、骨シンチを撮ってみても生理的な集積があるということだけで、骨転移の疑いすらかかっていなかったのだけれど。それでもしぶとく続く嫌な痛みだった。
 「骨転移の痛みは(もっとずっと酷くて)そんな(我慢が出来るほどの)ものじゃないよ」と言われ、近所のクリニックで処方されたボルタレンを塗ったり、お風呂で温めたりと、対症療法をとっているうちに痛みにも慣れてきた。そうこうするうちに秋口からマーカーが上がり始め、年末の各種検査の結果、多発骨転移(ほか両肺多発転移、縦隔リンパ節転移、局所再発も同時に)の確定診断が下った。

 以来、程度の差こそあれ、ずっと痛みと共にある。もう何年もの間、朝食後のロキソニンは欠かしたことがない。
 それでも、毎食後ロキソニンを飲まずにいられなかったり、ロキソニンでは痛みが抑えきれずにコデインを足したり、ということがなくなったので、私としては日常に戻ったという状況である。

 そもそも痛みには結構強い方、我慢強い方だと思っていたけれど、20年近く前の出産の痛みはやはり想像以上のものだった。結局1昼夜頑張ってみたもののあえなくダウン。自然分娩を諦め、緊急で帝王切開になった。
 看護師さんからは「二人分産んだね!」と言われたけれど、うーん、皆がちゃんと頑張ってやっていることを自分は頑張れなかった、ヘタレだな・・・と、その時はちょっと自分を責めたりもした。
 そうはいうものの、痛みというのは実に主観的なものだ。10段階の痛みのスケールというものがあるというけれど、そもそも痛みの感じ方も耐性も人によって違うから、これ以上無理!とか、耐え難い痛み、の線をどこで引くかは難しい。
 けれど、本人が痛いといっているのだから痛いものは痛いのである。なんとかそれを軽減してもらえれば、日常生活はぐっと楽になる。終末期に限らず、疼痛緩和ケアの大切さを思う。

 とはいえ、いつもいつも「痛い、痛い」ばかり言っていると、本当に痛くなった時に「また~?」とスルーされる“狼おばさん”になってしまうかも、と静かに反省する私である。
 蛇足ながら、実際痛みが増す時は寡黙になる(いつもは五月蠅いってこと?)ので、夫はすぐわかるようだが・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015.5.28 懐かしくも愛おしい時間

2015-05-28 20:40:59 | 日記
 先日、読売新聞のコラム「こどもの詩」の選者を長く勤めていらした長田弘さんの訃報に接した。
 あのコラムに掲載される詩は本当に可愛らしくて、思わず口に出して読んで夫に聞かせてしまうこともしばしばだった。
 長田さんはじめ、代々の選者を務められた方たちのコメントもまた暖かくて、実に味があって、好きだった。

 珠玉のような・・・と言ってしまえば月並みなのだが、子ども時代にしか言えないような言葉を大切に書きとめて、それこそシャボン玉のように消えてしまわないうちにお母さんが応募したという詩。
 それから20年を経て、20代の若者になった本人が読んで、今でもその言葉に感動するという記事もあった。切り抜いておけばもう少し正確に書けるのだけれど、残念。
 私の記憶に残ってクスッと笑って、うんと暖かい気持ちになったのは「おとく」というもの。

 おとく(6歳の男の子)
 
  ママ いつでも
  ぼくのこと
  ギューって(抱きしめて)
  していいよ
  ぼくはあったかいから
  さむいひは
  おとくだよ

 冬の寒い日に、お母さんがその子の手を包んで「暖かいね」と言ったところ「(冬の寒い日、僕の手は暖かいから)おとくだよ」と返ってきたという。
 なんて可愛い!思わずギューッと抱きしめてしまいたいようだ。
 お母さんは“おとく”が好き。何を隠そう私も“おとく”が好き(誰も訊いてないか・・・)。
 きっとお買い物について行った時か何かで、お母さんが「これはおとくね」と言って手に取るのをじっと見ていたのだろう。大好きなお母さんは“おとく”が好きなんだな、と。僕もおとくなんだよ、だから好きでいてね!と。

 職場で30代のワーキングマザーたちと世間話をすることがある。
 まだ保育園児だったり小学校の低学年だったり。朝は文字通り戦争の時間を過ごして出勤してくるようだ。
 私にとっては、それは懐かしいトイレトレーニングの話だったり、学童クラブのお祭り準備の大変さだったり。

 頑張れ~と思う。早く早く大きくなあれ、と思っていたのに、気付いてみればそんな時間はあっという間。
 一緒に手を繋いで「ママ、ママ」と歩いてくれた時間、顔を真っ赤にして泣きながら突進してきてくれた時間がどれほど尊く愛おしく感じることか。
 過ぎてみないと分からないことは多いけれど、本当にあの時息子が発したあの言葉、あのフレーズ、「こどもの詩」に応募はしなくとも、きちんと書きとめておくんだったなあ、と一人懐かしく思うのである。

 まあ、おねしょをした時のコメントやら、お医者さんごっこの折に言った台詞など、本人に言わせれば「黒歴史!」と一刀両断にされてしまうことも多いのかもしれないけれど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015.5.27 使える薬がなくなったら・・・

2015-05-27 19:53:19 | 日記
 先日、依頼された原稿を書きながら、これまでの治療でお世話になった薬の数を数えてみたところ、15種類を超えていた。
 ホルモン陽性、HER2強陽性のトリプルポジティヴだから、使える薬、恩恵に与ることのできる薬は多い。とても恵まれていると思うし、武器が沢山あるということは有難いこと、感謝すべきことだと思っている。

 がん患者になって足かけ11年、再発して7年半が経過した。この間の医学の進歩-こと乳がん治療の進歩には本当に目を見張るものがある。
 当時は名前も知らなかった薬を、現在当然のように使わせて頂いている。

 いつだったか、診察室で、「(病気にならなければそれが一番ですが)出来れば後から病気になった方がいいですよね、どんどんいい薬が出てきますし」と言ったところ、先生から「それでも、これまでハーセプチンをはじめ、色々な薬が使えたのだから・・・」と言って頂いたことを思い出した。そう、ハーセプチンが開発される前にこの病気になっていたら、とっくの昔にこの世の人ではなかっただろうと思う。

 もう使える薬がない-。
 そのことくらい患者にとってショックなことはないだろう。それは、もう積極的な治療が出来ないということになるからだ。
 私自身、今使っているカドサイラ(T-DM1)に耐性がついてしまったり、その副作用で身体が受け付けなくなってしまったり、という事態になれば、残るは同じ抗HER2薬のパージェタのみである。この2つでどのくらい粘れるか。それらが使えなくなってしまった時、果たしてすんなりと潔く、「もう積極的治療はおしまいにします」と言えるのかどうか。想像してはみるものの、簡単に答えは出ない。

 けれど、「あなたにはまだ使える薬があるから、まだまだでしょう?」と言われると、それはそれでちょっと微妙である。
 病状や体調によって使える薬が変わってくるし、一般的に考えれば多額の開発費がかかっている新薬は旧薬よりも効き目が高くなっている筈。となれば、新しい薬に既に手を付けていて、それが効かなかったからといって古い薬に戻っても「効く」という保証はないわけだ。
 とかく抗がん剤は自分の身体で試してみるまで効くかどうかわからない。その副作用の出方も千差万別だ。だからこそ、常に背水の陣という感じがする。

 しかし、見方を変えれば、もう使える薬がないということは、つまりその時点での最先端医療の恩恵は全て使い尽くすことが出来た、ということではないだろうか。
 誤解を恐れずに言えば、その人にとって、今ある全ての武器を使い尽くせるほど長い時間闘う事が出来たということ、すなわち副作用にも耐えることが出来、その恩恵にも与ることが出来、命を繋いでくることが出来た、不戦敗ではなく、その時における最善の闘いが出来たということにはならないだろうか。

 逆にまだ使っていない薬があったとしても、既に身体がその副作用に耐えられない状態になっていたり、骨髄や肝臓、腎臓といった命にかかわる臓器の機能障害が起きていれば、どうにもならない。

 だからこそ、大切な武器をここぞという時に使う為に、自分の一部でもある悪い細胞がなるべく静かにしていてくれるように、だましだましでも共存しながら体調管理に励み、体力保持に努め、過激な治療は出来るだけピンポイントの期間で済ませ、十分身体を休めながら不変の状態に持ち込む。
 これが今の私に出来る最大の戦い方だ、と思っている。

 さて、雪まで舞って寒かった4月の後、やってきたのは暑い5月である。昨日、今日と真夏日が連続。本来ならば7月からしか入らないことになっている空調だが、試運転で今日は一部の教室に入ったようだ。日射しがきつく、日傘を差していても昼休みの外歩きは顎が出る。
 今週もあと2日、体調管理に努めなくては。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015.5.25 頭部MRI撮影後、神経内科受診

2015-05-25 20:52:58 | 治療日記
 週明け月曜日。9時半から別棟で会議、職場に戻ってからは11時から定例会議。2つの会議の合間に電話対応と、ドタバタした午前中を過ごし、午後から休暇を取った。
 先週水曜日の通常治療に続き、脳のMRI検査で珍しく月曜日午後からの通院である。

 昼過ぎなので、電車は空いている。検査の時間まで余裕があるので、とりあえず病院最寄駅まで行って、遅いランチを摂ることに。
 今日のお伴は、恩田陸さんの「私と踊って」(新潮文庫)。“ミステリからSF、ショートショート、ホラーまで彩り豊かに味わい異なる19編の万華鏡”という裏表紙のとおり、どれもこれも恐ろしくも不思議に面白い。中でも特に「二人でお茶を」が一番印象に残った。

 検査開始15分前には受付を済ませるように、とのことだったので、それより10分ほど早く到着する。大きな地震があった時は病院に向かって歩いていたため、全く気付かずだったが、お友達から大丈夫ですか、とLINEが入り、夫や近県に住んでいる義妹にメールして安否確認。(震源地お近くにお住まいの皆様、大丈夫だったでしょうか。かなり揺れたようですが・・・。)

 自動再来受付を終え、地下の放射線受付へ。お手洗を済ませ、MRI待合室に行くと、ほどなくして更衣室に案内される。検査着に着替え、再び待っていると名前を呼ばれ、部屋へ案内される。ポートが入っていることなど自己申告した後、金属探知機でチェック。前回同様ポップなオレンジ色の耳栓を頂く。慣れた感じで両耳に詰めて台に横になる。今日は造影剤なしなので、食事も済ませ、身軽なことこの上ない。上から鳥籠のようなお面で軽く固定される。
 目を閉じてリラックス。前回同様太鼓のバチの掛け合いのような剽軽な音、ブザー音や工事音等かなりの騒音が延々と続くが、前回は夕方で空腹だったことを想えば、お腹は満ち足りているし、注射で痛い思いをすることもない。目を瞑っているとなんとなくウトウトしてしまう。図々しくなったものだ、と思うが、ずっと動けないこともそれほどストレスに感じないまま、30分近く経過。順調に終了した。部屋から出て着替えを済ませる。

 放射線科受付に寄り、今度は3階の神経内科へ。さすがに夕方最後の時間なので、待合椅子も閑散としている。電光掲示板ではお隣の神経外科は「診察終了」と出ている。
 本を読みながら小一時間待つと、中待合へどうぞ、の番号が点いた。待っている間、念のため血圧測定。113-68、脈拍は87。今回のように当日検査ですぐに読影して頂き、結果説明というのは本当にウルトラC(腫瘍内科の主治医の弁)だそうだ。本当にそう思う。休暇を取ってくるのだから(何回も、では気の毒)、という有難いご配慮である。

 まずは20日間近く、起床後と就寝前に測定した血圧管理手帳をご覧頂く。110前後なら全く問題ありませんね、と言われる。
 PC画面には自分の脳の輪切り画像が一杯、で医療ドラマの主人公になった気分である。4分割した画像をそれぞれ説明してくださる。53歳という年齢ゆえ、20代の時から比べれば縮みがあり、隙間があるのはやむなしであり(若年性アルツハイマーではなかった)、白いポツポツも経年変化であるとのこと。
 「お酒を飲みますか」と問われ、「一切飲みません」と答えたところ、「やはり年齢からくるものですね」だそうだ。脳幹部、小脳部分にも特に異常はなし。言葉が出なくなったという症状はこの辺り、右の視野が欠けたという症状は左脳のこの辺りに問題があると考えられるが、どちらも問題がない。梗塞や腫瘍も見当たらないので、これらの症状が起こった証拠は見つからないとおっしゃる。
 続いて、前回、血管の様子を見てみないと判断が出来ないと仰られたことについて、頚部から脳に連なる血管画像も見せて頂く。血管の分かれ目になる辺りが詰まりやすいが、そこもきちんと映っているので、血栓が飛んだということも考えらないという。
 また、言語と視野の両方に障害が出るとなると、首から頭への血管でそれらの部分が繋がっている筈だが、それについても問題ないとのこと。実際には、ここの血管が繋がっているケースが1割ないし2割の人に見られるという。決して珍しいことではないそうだ。
 結論として、TIA(一過性脳虚血発作)というよりも疲労と偏頭痛の発作だったのではないかとのこと、あまり心配しなくてOKだそうだ。若い時から頭痛持ちだったこともあり、偏頭痛にはよく分からないことも多いが、こうした視野のみの障害が出ることが多いという。
 ただ、白いポツポツ(血流の悪い部分)があるのは事実だし、年齢により変化することも考えられるので、時々は朝食前に血圧を測りましょう。それ以外は気にしないでよいでしょう、と言って頂いた。
 この20日間ですっかり習慣になったので、手帳がある限りは続けます、とお答えする。
 「良かったですね」と言って頂き、「本当にありがとうございます」と深々と頭を下げた。しかし、ならば、バイアスピリンを飲まなくて良いかといえば、まあ、飲んでおいた方がよいようなので、暫く様子見、である。
 これで、とりあえず腫瘍内科の治療に専念できることになり、ほっと胸をなでおろした。

 そして、1階に降りて会計を待つ。あと少し遅くなったら救急外来での支払になるところ、なんとか滑り込みで窓口支払が出来た。今日は8,000円弱のお支払い。

 外は薄曇り。夫に報告メールをすると、残業で少し遅くなるというので、なんとか私の方が早く帰宅出来そうだった。昨日も夕食当番、今日も引き続き、では申し訳ないと思っていたので、良かった。

 というわけで、本日は薬局にも寄らず、病院の滞在時間は2時間強。
 帰りは通勤時間帯に引っかかってしまったが、ラッキーにも席を確保することが出来て、読書も進んだ。明日から4日間は普通に勤務である。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする