ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2018.5.30 まさしくこの気持ち~However, my life goes on!

2018-05-30 21:44:05 | 日記
 楽しみにしている毎日新聞の連載。以前何度か取材を受けたことのある記者の三輪さんが治療薬の影響で骨折され、退院後リハビリを経て、この春関西へ転勤になった。引越し等でご多忙を極めておられるのは存じ上げており、体調を案じていた。

 そんな中、今朝、待ちに待った新しい記事が掲載された。
 拝読するに、乳がんステージ4歴10年超え、今もフルタイムで仕事を続けさせて頂いている私の気持ちをまさしく代弁してくださっている!と胸が震え、膝を打った。
 長文だが、同じ立場の方たちに是非お読み頂きたいと思い、ご本人の了解を得て、以下、全文を転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)

がん・ステージ4からの眺め 仲間に感謝し定年まで働く(毎日新聞2018年5月30日 東京朝刊)

 今、がん患者の3人に1人は就労可能な年齢(20~64歳)で罹患(りかん)している。病状や治療の副作用は個人差が大きく、進行したステージ4でも働ける人は少なくない。必要なのは「自分らしく」働ける社会だ。

 「葬式で、子どもに拍手で送ってもらえるような生き方がしたい」
 腎臓がんステージ4の平松茂生さん(59)=愛知県尾張旭市=は、テレビ制作の第一線で仕事を続ける。2014年春、人間ドックで病が分かった。自覚症状はなく、「告知されても、まるで現実味がなかった」。右の腎臓を全摘。半年後、術後の治療中に肺への転移が判明した。
 ●「辞められない」
 大学卒業後、ずっとテレビマンとして生きてきた。制作会社で順調にプロデューサーへと階段を上った。55歳での告知。役職定年を迎えて給与は減ったが、長女が大学に、長男が高校に進学するタイミングと重なった。教育費に加えて治療費が肩に重くのしかかり、「仕事は絶対に辞められなかった」。
 現在、月1回の治療で約16万円を支払う。高額療養費制度で7万円ほど戻ってくるものの、負担は大きい。治療は「分子標的薬」。時期によっては強い副作用に襲われる。激しい下痢もあれば、手先の痛みでパソコンのキーをたたけなくなることもある。足の痛みがひどい時は、自宅で、はいながらトイレに行かなければならない。
 「それでも、病気になって良かったことは数え切れません」。そう話す平松さんの表情に陰りはない。周囲の気遣いや、さりげない一言。制度こそ整っていないものの、会社は平松さんの働き方に、柔軟に対応してくれた。レギュラー番組は難しいが、特別番組のプロデューサーとして今も現場で指揮を執る。「仲間に恵まれた。仕事中は、病のことは忘れて走り回っています」。肺の腫瘍は治療で小さくなり、三つ目の今の薬で1年半、病をコントロールできている。
 「病気の前より、ずっとアクティブになった」。告知されて「やることメモ」を作った。「あの店のあれが食べたい」というたわいのないものから、海外の思い出の地への家族旅行……。「項目が減っていくと、死が近づくようで怖い。でも、新たに増やせるのは喜びです」。半年後に定年を迎えるが、平松さんはその後の再雇用を希望するつもりだ。がんがわかってから、ロケット関連の特番を2本制作した。2年後の東京五輪の年には新型ロケットの打ち上げや「はやぶさ2」の帰還など、宇宙関連の取材テーマも尽きない。それまでも、その後も、走れる限りは走り続けたい。

 ●復帰渋る校長
 埼玉県在住の公立中学教諭、新井美子さん(52)=仮名=に子宮体がんの存在が分かったのは15年7月。2カ月後に手術が決まり、休職に備え、終電まで自習用のプリントを作る日々が続いた。いざ開腹すると、卵巣にも腫瘍が見つかる。多重がんだった。
 1カ月で復帰可能という診断だったが、抗がん剤治療も加わり、校長から「完全復帰でなければ周囲に迷惑がかかる」と言われ、翌年3月まで休職。何とか職場復帰を果たしたが、その年の12月、腹膜への転移が判明する。この時点でステージ4。昨年1月に再び休職し、抗がん剤治療を始めた。
 会社員の夫(55)と長男(18)の3人家族。働かなくても暮らしは成り立つが、「この仕事が大好き。人を育てるのが楽しい」と新井さん。脱毛はあるものの副作用は比較的軽く、日常生活に支障はなかった。セカンドオピニオンを求めた腫瘍内科医からも「治療しながら仕事をする人は多い。両立を目指そう」と背中を押される。しかし新たに赴任した校長は「治るまでは治療に専念したほうがいい」と復帰を渋った。だが、ステージ4は基本的に完治は望めない。このままずっと職場に戻れないのか……。
 政府の「がん対策推進基本計画」では、がん患者の就労が重点課題になっている。しかし現実には、教員といえども壁は厚い。新井さんは、がん相談支援センターや法律事務所、市教委など、あらゆる機関に相談した。結果、県の教職員組合幹部が市教委や校長と交渉してくれ、昨年8月にようやく復帰がかなった。
 ●サポート教員を
 通院以外は、今も休むことなく仕事を続けている。「周囲の協力がなければここまで来られなかった」。職員会議で、新井さんのサポートを校長が呼びかけ、同僚も何かと手を貸してくれる。仕事は定時で終わらず、帰宅は午後9時を回るが、夫が自分の仕事を持ち帰って食事の支度をするなど、家族の協力も大きい。今、新井さんが望むのは「サポート教員」だ。通院のスケジュールに合わせて授業を組んでも、薬が変われば通院の頻度も変わる。同僚にかける負担も減らしたい。出産や育児のように、時短やサポート教員の制度が整わないものか。
 現在、体の不調は感じないが、検査結果によっては薬を変える必要が出てくる。薬が尽きれば、その後は新薬を待つか治験を受けるか。
 「でも、私には使える薬がまだあと二つある。こんな体だけど、定年まで働きたい」

 ●社会に貢献したい
 乳がんステージ4の記者自身も、08年暮れの告知後、1年の休職を経て8年半、治療をしながら仕事を続けている。昨年末、骨転移の薬の副作用で大腿(だいたい)骨骨折をしたことは前回の記事(2月15日)に書いた。そしてこの4月、東京から大阪への異動が決まった。つえをついた足での引っ越しは楽ではなかったが、無事に荷造りができたのも、すべて仲間のおかげだ。
 病を得ても、人生はいや応なく続く。ゴールが一瞬でも視界に入ったからには、最後まで自分らしく、そして社会に少しでも貢献できるような生き方がしたい。ステージ4でも働きたいと思う患者の多くが、そう願っているのではないか。【三輪晴美】=随時掲載

(転載終了)※   ※   ※

 最初の腎臓がんステージ4の男性は、役職定年の年に初発・再発されもうすぐ定年を迎えられるという。その後もまだまだやりたいことが、とのこと。本当に眩しくも素晴らしい。
 ここにあるとおり、仕事をしていると病気のことは忘れる。それこそが何よりの効果だと思う。もちろん、治療中だから体調には山あり谷ありだけれど、365日ずっと具合が悪いわけではないし、24時間床に臥せっているわけでもないし、安静にしていたからって治るものではない。そして少しでも元気で体力がある方が抗がん剤の副作用も酷く出ないという。
 だからこそ、動けるときには体力を落とさないように筋肉を落とさないように、なるべく動くこと、それこそが治療に負けない身体作り、患者としてやるべきこと、というのは先日も記事にしたことだ。

 私は初発43歳、再発は46歳だったから、定年には14年もあった。当時は50歳まで生きられるかどうかという認識だったから、こうして定年の話題を取り上げることが出来る日が来るなどとはゆめゆめ思わなかった。

 けれど、今や定年まであと4年弱となった。2020年、東京オリンピックまで生きていられるだろうか、と言いながら旅立った患者仲間も数知れない。気付けば、遠い先と思っていたオリンピックがあと2年なのだ。もしかしたら、この目で見ることが叶うかもしれない。いや、出来れば見届けたいと思っている自分がいる。

 この頃には大学5回生の息子も無事社会人として、それなりに自分の道を歩んでいることだろう。高校卒業を見ることも叶わないのではと思ったことを考えれば、子育ても充分やり遂げた、と自分なりに及第点を出してもいいのかもしれない、という気持ちだ。
 そして、もし望んでもよいのならば、このまま定年まで勤め上げられれば、とも思う。もちろん、贅沢な願いであるのはわかっているから、あまり欲張らずに今までどおり一日一日を精一杯、結果としてそれがついてくればもう最高、なのだけれど。

 職住近接の職場で慣れた仕事を続けさせて頂くという、出来過ぎともいえる就労環境を手放さないために、定年まで働きたいと就いた地方公務員の職を思い切って辞し、大学法人の固有職員となって4年目の春が終わろうとしている。

 当時転職に尽力してくださった上司が「退職金を2回もらえるように頑張ってくださいね。」と、お茶目に笑って仰ったのをつい昨日のように思い出す。「いえ、そんなに長く生きているかどうかは・・・」と答えたのだった。今、定年まで7年を遺した50代での転職がもうすぐ折り返し地点だと思うとやはり感無量だ。定年のその先を考える余裕はまだないけれど、「え?結局○○さんは定年まで働いたの?随分しぶとかったわね~」と笑われても、それで一人でも多くの同じ病の患者さんを勇気付けることが出来れば、本望だ。

 そして、二人目の女性教員のケース。
 再発患者が一番辛いのは「治るまでは治療専念した方が」という上司の言葉だろう。「だって、再発したら完治はしないのですよ、治るまで休め、ということは一生復帰が叶わないということですよ」と正面切って言えたらどんなにか楽だろう。同じことを言われた記憶があるので、胸が痛む。

 同じ病を患う知人に、再発してすぐに休職してしまった女性がいる。初発の時に退職しようとしていた彼女に「辞めるのはいつでも出来る、でも今は辞めないのが主流になりつつあるのだから、どうか早まらないで」と説得し、その時は復職が叶った。

 けれど、それからほどなくのことだった。再発と転移がわかったのだ。復職したばかりの職場でどう言われたかはわからない。彼女の心が折れてしまったのかもしれない。結局、彼女はこのタイミングで長期休職に入ってしまった。
 今も時折メールでの励ましを行っているが、レスはなかなか、ない。家で悶々とネットサーフィンをするほど哀しいことはない。なんとか復職のタイミングを見つけないとこのまま戻れないことになるのではないかと心底案じている。

 周りの皆にはちゃんと知ってほしい。再発しても治療のスケジュールと体調のアップダウンをなんとかやりくりしながら働き続けられることを。再発イコール即、死であったり、即、もう働けない、ということではないということを。
 私が、治療薬が変わるたびに通院の頻度も体調や副作用が変わりながらも、しぶとく勤め続けられているのは、何より職場の理解と周囲のサポートがあることに違いない。けれど、それを不可能と決め付けるのは早計なのだ。

 先日、患者会の会長さんから「あなたは十分以上に役に立っている」という有難いお言葉を頂いた。
 どなたかの役に立てる、そうあることがどれほど嬉しく、励みになることか。
 病気にならなかったら、私はこんな言葉を頂けなかったかもしれないーそう思うと、これもまたキャンサーズギフトなのかもしれないという思いを噛み締める雨の夜である。
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2018.5.27 寝足りた日曜日は、今年度合唱練習初参加

2018-05-27 20:59:41 | 合唱
 昨夜は早めに就寝。たっぷり眠ってしっかり充電。寝覚めよく、満ち足りた朝だ。
 就寝前に予約洗濯していた綿毛布やベッドパッドも洗いあがっており、干すだけ。朝食もたっぷり摂って、朝からお通じも2回、極めて快調である。

 夫がクリーニング店に出かける間、昨日後廻しにした拭き掃除。夕飯の副菜だけ支度して、母にご機嫌伺いの電話をした後は、いざ、今年度初めての合唱練習にお出かけ、である。
 誘ってくれた同期のソプラノの友人は、今日は別の合唱団の練習で残念ながら欠席とのこと。先日、とりあえず楽譜だけはダウンロードして、You Tubeでざっと聴いて雰囲気を掴んだだけで、ろくに音取りも出来なかった。今日は本番を振る指揮者氏が別の合唱団指導で不在のため、ピンチヒッターの方が見えると伺っていた。

 往きの電車内では譜読みはせずに、小林美希さんの「ルポ 保育格差」(岩波新書)を読む。
 保育園には息子が丸6年お世話になったけれど、「どの保育園に入るかで大違い」という第1章を読みながら、虐待が横行する現場の記述のあまりの酷さに震えてしまった。これでは女性が輝きながら安心して働くなんて夢の夢、である。その延長である学童保育もしかり。色々考えさせられつつ私鉄からJRに乗り換え、練習場所の最寄り駅に到着した。

 駅ナカでキッシュとサラダの軽食を済ませて練習場へ向かう。いいお天気。日差し燦燦、夏のような空だ。日傘を差して練習場へ向かう坂道を歩きながら、まさかこの練習場にこれほど長く通うことが出来るとは思わなかったな、としみじみ。2009年初参加だから、足かけもう10年になろうとしている。我ながらびっくりだ。

 ホールの扉を開けるとちょっと寂しい人数。男性も女性も4人、その他ピアニストと指揮者の先生しかいない。10分ほど遅れてしまい、既に最初の準備体操が始まっていた。私が入ると、すぐに幹事の先輩が気づいて受付をしてくださる。名前を書いて参加費をお支払いして外国曲の楽譜のコピーを頂き、邦人曲の楽譜を併せて購入。しっかり専用の領収書も出来ていて、素晴らしい。

 すぐにバッグと日傘を置いて準備体操に参加する。驚いたことにヨガのポーズのよう。ゆっくり呼吸をしながらクロスした両手を耳の横まで伸ばし、同時にヨロヨロしないように足をクロス。背伸びしてキープする。身体を捩じって腕の可動域を確認する等々。姿勢を正し、お腹を引き上げて体幹を安定させるのは、全ての動きにおいて必要なことだと改めて思う。ゆっくりと長い呼吸もまた、しかりである。

 そして発声練習。初めてお目にかかるピンチヒッターの指揮者先生は芸大声楽家卒とのこと。声域も声量もさすが。4パート分ファルセットも含めて全てカバーされ、驚くばかり。それにつられてこちらの出ない声もなんとなく出るようになってしまうのだから、歌える指揮者のチカラは偉大である。
 チラホラと遅れて入って来られる方もいて、ソプラノは5人、アルトが2人、テナーが1人、ベースが5人という人数になった。

 まずは卒団生のステージで歌うHeinrich Schūtzの曲から。最初なので譜読みと言葉付けからスタートして頂けてとても助かった。 パートごとに音取りをしながら、ドイツ語の言葉をつけていく。高校時代に少し齧ったのに加え、大学時代の第二外国語はドイツ語だったから、カタカナっぽく読むだけは読めるけれど、それらしく発音するのはブランクが長すぎて難しい。それっぽく聞こえる色々な発音テクニックを教えて頂き、なるほど、と頷くことしきり。指揮者の先生は声量が素晴らしく、4パート合わせている中で、ではソプラノ助けます、次はベース助けます、と自由自在。久しぶりに歌ったけれど、少しハモってくると、もう楽しくてワクワク、知らず知らずに笑顔になった。

 スタートから2時間弱で15分休憩。その後小一時間で2曲を見て頂いた。最後はなんとか通して歌う。ああ、やっぱり歌うって楽しいと身体が内側から喜んでいるのが判る。
 今日の参加者は、昨年のOB・OG合唱団でご一緒した先輩が殆ど。女性の一番年長は9期上のソプラノの先輩。OB・OG合唱団の常連さんでここ数年ずっとご一緒してきた。昨年初めて参加された3期上のソプラノの先輩がお一人、2期上のソプラノの先輩がお二人、アルトの先輩は2期上、1期上で学生時代にお世話になった方ばかりである。

 時間通りに無事終了。先生はご挨拶されてお帰りになり、私たちはホールの原状復帰。先輩方にご挨拶してぶらぶらと最寄り駅まで戻った。隣で歌ったソプラノの先輩からは「今日は一緒に唄えて楽しかったわ。」と言って頂き、嬉しい限り。
 車内で同期の友人や、夫や息子に「楽しかった~」と報告のLINEをするうちに乗換駅に到着。夕食当番を引き受けてくれた夫にお土産のスイーツや明日の朝食用のパンを物色して、贅沢だけれどライナーで帰宅した。快適、快適。疲れ方が全く違う。隣もいなかったし、荷物をゆっくり置いて新書の続きを読むことが出来た。

 記念演奏会とOB・OG音楽祭の前日は、前泊の手配も早々に済ませてしまった。こうしてお膳立てが終われば、それに合わせて体調をキープしつつ練習についていくことになる。
 夫に最寄り駅まで迎えに来てもらって、スーパーで買い物。お茶もご馳走してくれてご機嫌で帰宅した。

 夕食も済ませ、さて明日からまた新しい1週間が始まる。週末は早くも6月。今年は梅雨入りが早いそうだ。体調を整えながら仕事と家事をこなしつつ、合唱の練習に参加し、ヨガで筋力もキープして憂鬱な季節を乗り切りたい。

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2018.5.26 寝足りない土曜日もあれやこれや

2018-05-26 21:51:02 | 日記
 昨夜は夫が宴会で帰りが遅く、日付が変わってからベッドに入る羽目に。
 今朝は朝の連続テレビ小説をベッドで視た後、そのまま起きることが出来ず二度寝を決め込む。でも、そう長くも寝ていられず、ダラダラと起き出す。

 先週は息子がいたので、なんだかんだと疲れたね、と2人でのんびり朝食。食後は寝具等の大洗濯で、洗濯機を廻すこと2回。ベランダ一杯に洗濯物が翻った。夫はその間、月1度のクリニックへ薬を頂きに。
 朝寝坊のおかげで出足が遅かったので、ベッドメイキング等をしているうちにあっという間に昼になる。本当は掃除を済ませたかったのだけれど、怠くて眠くて断念。リビングのソファでゴロゴロしながら明日廻しにすると宣言。お昼は夫が沖縄そばを作ってくれて有難く頂く。

 午後、郵便局で息子に送金してから、やさしいパワーヨガのクラスに参加。男性が多くて、落ち着かなかったけれど、最初から沢山汗が出る。代謝は悪くなさそうだ。身体をゆっくり丁寧に動かして呼吸にも集中出来て、すっきりデトックス。シャワーでサッパリした後は、映画館で夫と合流する。
 何度も予告を見せられて、まあこれなら面白いかもと夫も乗り気になった「蚤とり侍」を観たのだけれど、贔屓の役者も想像以上に体当たりの演技で、いやはや役者というお仕事は大変なことだ、としみじみ。大学の同級生だった女優の演技には度肝を抜かれた。

 映画の後は日用品の買い物を済ませてから外食。まだ時間が早かったので旅行代理店で夏の旅行のパンフレットを物色したり、夫のシャツやちょっとへたってきていた夏用の寝具を買い求めた。
 帰宅後は1度洗濯機を廻してから。せっかくなので、と夏用の寝具に取り換えた。

 なんだか1日中眠かったし、時折耳鳴りがしたりして、体調は絶好調とはいえなかったが、ゼローダ7クールも今日で内服終了。10日間80錠無事飲み終えた。怠さと眠さはかなりあるし、指先に力を入れてファスナーを引っ張る作業ですら手の指の腹は真っ赤に凹む。あちこちささくれだらけだし、爪は赤黒く変色して縦線が入り放題。手先足先の色素沈着も気にならないと言えば嘘になる。気圧の変化とともに胸痛も出てくる。それでもこうして普通の生活が出来ているのだから、有難いと思わなくては。

 今日は早めに休んで、明日こそ寝坊はせずに午前中に掃除をしよう。午後からは今年初めての合唱練習参加の予定である。


 

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2018.5.25 どちらが先でも・・・

2018-05-25 23:29:36 | 日記
 愛読している朝日新聞の医療サイトアピタルで、さもありなんという記事を見つけた。
 以下、転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)
シリーズ:その他
「妻より先に死にたい」男性8割 ホスピス財団調査(阿部彰芳 2018年5月25日06時00分)

 女性よりも男性の方が、配偶者より先に死にたいと考える人が多い――。こんな意識調査を日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団(大阪市)がまとめた。「自分が先に」と答えたのは男性は78%、女性50%と大きな差がみられた。
 緩和ケアや死生観などについて聞く調査で、インターネット上で昨年12月、20~70代の計1千人に実施した。今回は既婚者694人に「自分が先に死にたいか、後に死にたいか」も尋ねた。男性ではどの年齢層でも「自分が先に」が多かった。女性は50代までは男性と同様に「自分が先に」が多かったが、60代以上で逆転。「自分が後に」が多くなり、70代では67%を占めた。
 「自分が先に」と答えた435人にその理由を聞くと、男女とも「パートナーを失う悲しみに耐えられない」が最多。「死ぬときにそばにいて欲しい」「パートナーがいないと生活が難しい」が続いた。上位三つを選んだ割合は、男性のほうが高かった。一方で「葬儀や墓について考えたくない」や「パートナーの介護をしたくない」を選んだ割合は女性に多く、男性より10ポイント以上高かった。
 「自分が後に」を選んだ259人に理由を聞くと、男女ともに6割が「パートナーの最期をみとってあげたい」を挙げた。「パートナーの生活が心配」は男性で3割、女性5割だった。
 理想の死に方を全体に尋ねると、心臓病などでの「突然死」は8割が望み、病気などで徐々に弱る「ゆっくり死」は2割だった。一方、大切な人の死の場合は、ゆっくり死が4割に増え、20代では過半数を占め、年代ごとに開きがあった。

 (転載終了)※   ※   ※

 いつだったか、このブログで、遺される方が辛いという記事を書いた記憶がある。
 連れ合いを亡くした後、直ぐに後を追うことなく天寿を全うして矍鑠と生き切る男性は、自分の身の回りのことの始末に困らない方だと思う。だから家事全般について全て母に負っていた父は、母に逝かれたらあっという間だったのではないか、という気もする。

 我が家を顧みると、夫に関しては衣食住全く問題ないだろう。針仕事等は私より得意だし(我が家ではボタンが取れると、息子は「お母さ~ん」ではなくて「お父さ~ん」と呼んでいた。恥)、器用だからDIYも任せて安心。息子は寮暮らしも5年目を迎え、洗濯だけは修行中の身ではあるけれど、これからの男子たるもの、何も出来ないで済まされるわけがない。

 もう40年も前のことになるが、父方の祖父は、祖母が亡くなってから毎日のように「死にたい、早く○○(祖母の名前)に迎えに来て欲しい。」と繰り返していた。父の兄(次男)夫婦と三世代同居で、内孫には私より3つ上と2つ上の兄弟がいたけれど、長男は高2の時オートバイ事故で命を落としていた。その後祖母が長患いの末に亡くなり、以来ずっと部屋に籠っていたように思う。

 ある朝、父の義姉(兄嫁)が朝食に起きてこない祖父を起こしに行ったら、床の中で亡くなっていたのだった。前の晩にはちゃんと入浴して髭も剃って普通に食事も晩酌もして。ピンピンコロリの理想的な最期だったのかもしれない。
 とはいえ、そうそうこんな最期は望むように訪れてくれないだろう。

 父が急逝してもうすぐ2年。60年近く添い遂げた母のダメージも時薬のお陰か、少しずつ癒されてきているようだ。昨年は黄斑前膜の硝子体手術などもあり、経過もイマイチでそれなりに時間はかかったけれど、低値安定でもとにかく何とか一人暮らしを頑張ってくれていることは何より喜ばしいことだ。私なんぞは家族がいるから(やむなく)食事を作るけれど、一人だったらどれだけ手抜きになることか・・・今日も夫が宴会なのをいいことにインスタント食品オンパレードだったから、想像に難くない。

 その母は、父が亡くなり、80歳を超えて初めて止むを得ず一人でタクシーに乗ったらしい。先日は生まれて初めて、一人でファミレスで食事をしたと得意げに電話をしてきた。(これもかなり浮世離れしているけれど)最近ではこれまで気難しい父の手前、誘うのを遠慮してくださっていたお友達に誘われて、近くのカフェまでお茶に出かけることもあるようだ。

 今、不肖な娘が出来ることは最低一日おきの生存確認の電話と月に1度程度のランチ相手、病院の付き添い程度。もちろん今の健康状態が続いてくればという前提で。それより何より、いつも近くにいるお友達と、父がいた折には遠慮して交流出来なかった時間を出来るだけ取り戻すべく愉しむべきだと思う。私はそうした気持ちにせっせと背中を押す係だ。

 私自身は、再発してからはすっかり夫に対して「後はよろしく、お先に失礼」と旅立っていくつもりだったけれど、ここまで予定外(?)に生き長らえていると、夫からは「自分の方が先かもしれない」と言われる始末。それでももし予想外に夫が先に・・・、ということになれば、免疫力がダウンしてあっという間に増悪してしまうかもしれない。

 哀しいことに、どんなに仲の良いパートナーでも一緒に亡くなることは出来ない。人は一人で自らの人生の幕引きをしなければならない。孤独な、けれど人として最後に残された大仕事である。
 その時に「いい人生でした、ありがとう」と心穏やかに微笑みを持って言うことが出来るように、これからも私なりに私らしく日々を過ごしていきたいと改めて思う週末である。

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2018.5.23-24 ゼローダ7クール7日目、8日目、体調のこと雑感

2018-05-24 22:44:02 | 日記
 白血球と好中球の値が低く、フルで休薬した6クール目が終わり、朝4錠、夜4錠で日に8錠(既定量の3分の2)の私流減量ゼローダ7クールが始まって1週間が経過した。今日で8日目。本来14日内服、7日休薬だけれど、これまた減量カスタマイズで10日内服、11日休薬が今の私のゼローダとの付き合い方だ。

 基本的には家事も仕事も普通に出来ているのだけれど、気圧の変化に滅法弱い。とたんに胸部の圧痛が出るし、怠いし眠い。身体が重い。皮膚科クリニックに2ヵ月半通ってようやく先週末に一旦経過観察になった足の爪も、悪化はしないけれど眼に見えて良くなっていない。月曜日の朝で、ずっと内服していた化膿止めフロモックスはとりあえず終わりとなった。

 フロモックスを止め、ミヤBM錠も引き続き飲んでいるから少しはお腹の調子が復調するかと思いきや、快調すぎるくらい。1日3食食事をすると、それ以上の回数のお通じがある。便秘は辛いけれど、お通じはこんなに頻繁ではなく1日1回で充分だと思うのだけれど。しかもちょっと食べ過ぎるとすぐにお腹を壊す。

 昨日は息子が関西に戻り、夫が宴会だったので、仕事を終えてからリラックスヨガのクラスに行けるかなと予約をしていたのだけれど、とにかく午後あたりから仕事をしながらも怠くて怠くて、一度帰宅したら再び外出することが出来なかった。
 ヨガはキャンセルし、適当な夕食(かといってそう食べ過ぎたわけでもなく)を終えて、リビングでダラダラ撮り溜めたビデオを視ているうちに気付けばウトウト、そしてお腹が痛くなって目覚める始末。

 宴会を終えてライナーで帰って来た夫に「お茶でも淹れてあげようか」という台詞もなく、ひっくり返ったまま、さっさと入浴してベッドに行ってしまった。愛想の欠片もない。結婚生活28年を超えたダメ妻である。

 怠さもお腹が緩いのもゼローダの副作用だ。指先は手袋をしていてもすぐにささくれる。あと2日飲めば、また休薬に入れるのだけれど、内服後も血中濃度が長く保たれる薬であるから、なかなか副作用が収束しない。ずるずるずるずる続いているうちにまた次のクールが始まる。そういう意味では点滴の方がずっとキレがいい。

 「がん治療の虚実」のブログを書かれているSHO先生の「病院では教えてくれない抗がん剤治療の新常識2018」のWebセミナーを拝見すると、がん治療で体調のアップダウンは当たり前なので、動ける時には動いて筋力を落とさないこと、元気な人ほど抗がん剤の副作用は酷く出ない、無用な安静は寝たきりと治療の失敗を早める、という。
 本当にそうだ、と思う。だからちょっとくらい調子が悪くても、ダラダラ寝ているのは良くないのはこれまでの経験で充分わかっている。まあ、デスクワークとはいえフルタイムで働けているのだから、仕事の後、夜も頑張ってヨガスタジオまで行かなくとも、最低限の筋力だけはキープ出来ているのだろう。

 それにしてもお天気が不安定だ。昨日は予報どおり昼から小雨が降り、肌寒い一日だった。今朝はなんとか止んでいたけれど、昼休みから早めに戻って会議の待機をしている時に、あれ、凄い音、と思ったら雹が降ったらしい。くわばらくわばら。気圧の変動に伴って痛みや不調が出ないように、出来るだけ穏やかに過ごしたいものである。

 今週も残すところあと1日、なんとか無事に乗り切らなくては・・・とちょっと弱気になっていたのだけれど、夜、息子から連絡があった。
 今朝、最終面接を受けた本人希望の企業から、夕方になって内定電話があったという。先日内定を頂いた企業は東京、今日の内定は関西だ。関西だろうと東京だろうと、君が幸せに働くことが出来るなら私もハッピー、そうLINEで送り出した。

 この数か月、彼なりによく頑張ったと思う。まだ選考が続いている企業もあるけれど、これでほぼ活動は終息しそう。とにかく是が非でも卒業しなくては、とお尻に火が付いた模様。昨日宴会だった夫は、今夜は一人で祝い酒。顔を赤くしてひっくり返っている。

 彼からの電話を受けながら(話が止まらない、食事は中断)私も不調がどこかに吹き飛んでしまった感じ。病は気から、は本当かもしれない。そしていつだったか、ある方から言われた「心配の種がなくなったら逆に安心して長生き出来ないのでは、だからこそ息子さんは色々気を揉ませて(楽しませて)くれるのでは」という話もまんざら嘘ではなさそうだと思う木曜日の夜である。
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