ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.9.30 再発治療を考える

2010-09-30 19:27:08 | 日記
 先日あけぼのハウスに参加して、考えたこと。
 テーマは「抗がん剤治療はどこまでも続けるべきなのか」(完治はないとわかっても最後まで治療することの意義)だった。興味のあるテーマだったとはいえ、あけぼのハウスに参加すればこのテーマに対する明確な答えをもらってこられるわけではない、ということも重々承知してはいた。当然のことながら、このテーマの結論は話し合って簡単に出るような性質のものではないから。

 そもそも各々のがんの性質や再発転移の部位により、患者が100人いれば100通りのがんがある。どれ一つとして同じものはない。だから、いわゆる標準治療はあるかもしれないけれど、特に再発後に至っては、各々が選択しうる治療方法は本当に様々だ。
 なるべく体に負担がかからないようにマイルドに、QOLを落とさず治療を続けていきたい人もいるだろうし、その時はきつくてもガツンと一発やっつけて頑張っていきたい人もいるだろう。まさしく完治が見込めない再発治療は、各々の人の人生観に大きく左右されるもので、「正解などない」と言ってよいと思う。
 大切なことは、他の人の意見を参考にはしても、あくまで自分で勉強して(自分の体なのだから、誰かにお任せしておしまい、という人はいないだろう。)、自分が求める一番大切なものは何かをきちんと持つこと。そして、長期にわたる治療を続けるにあたり、家族への影響を最小限にしつつ、主治医が提示してくれる選択肢のメリット・デメリットを加味しながら、治療の分岐点、分岐点毎に後悔しないように考えて結論を出していけば、(あくまで)自分にとって最も正解に近い治療方法が得られるのではないかと思う。そう、いつも「EAT SMILE THANK」を忘れずに。

 私が参加者の前でこれまでの治療経過をお話したときに、「初発の時にホルモン剤しか飲んでいないけれど、その時、抗がん剤をやっていれば状況が変わったかもしれない・・・についてはどう考えるか」という質問があった。質問された方が私にどういう答えを期待されていたのかはわからない。

 ただ、私が初発手術を受けた時(2005年2月初旬)、隔年にスイスのザンクトガレンで開催される「早期乳がんの初期治療に関する国際会議」でのコンセンサスは、35歳以下(若年性)かどうか、腋窩リンパ節転移があるかどうか、しこりが2cm以上かどうか、の3点が全て(-)(マイナス)だったらホルモン剤治療だけ、または無治療で、抗がん剤治療は行う必要がない、ということだったと思う。実際に主治医がもっていた資料を見せてもらったのを覚えている。それが大きく変わったのが、手術直前の2005年1月末に開かれた第9回会議だった。 2001年からほとんど変更がなかったリスクカテゴリー、および選択すべき治療方法の指針について、変更がなされている。要はその情報が間に合わなかったということだ。今でこそ、2007年3月のコンセンサスで、リンパ節転移がなくともHER2が3+というだけで、低リスクではなく中リスクということで術後の抗がん剤は必須だったのだろうけれど。

 それでも当時はリンパ節転移がなかったから、抗がん剤をやらなくて済むのだ、ということでほっとしたのは事実だ。放射線医からも「こうして術後放射線で叩いて今まで再発した人はこの病院には一人もいない」と言われ安心していた。勉強不足といえば勉強不足だったのかもしれないけれど。
 もちろんその時も「HER2 3+」については気になったので、主治医にハーセプチンを投与する必要がないかどうかについて相談した。残念なことに当時、ハーセプチンは再発治療であり、術後補助治療としては保険適応外だった。経済的なこともさることながら、再発するかどうかもわからないし、主治医には「低リスクだから放射線と5年間ホルモン剤内服だけでいいと思う。特に仕事を続けていくのに、毎週1回の点滴を開始するとかなり負担になると思うが大丈夫か。また、いったん始めてしまうといつ辞めていいか明確な基準がないので、辞めるタイミングも難しい」と言われ、それでもあえて「開始してください」と言うことは出来なかった。
 主治医が外科医で乳腺専門医でなかったことも、今思えばプラスではなかったのかもしれない。その時も「セカンドオピニオンをとってもらってもかまわない」と言われたけれど、また一から病院を探して予約をとって、手術や治療がどんどん遅れることは心配だった。

 そして、初発の時に地元のクリニックから紹介されたこの病院は、私の住んでいる地域の救急医療・がん医療を重点に取り組む中核病院であり、近所のクリニックから紹介されるのは皆この病院だったから、最初からここを無視して都心の有名な病院に行く、ということについては(今後長く通うことになるのだから、なるべく通院が負担にならないように・・・)ということであまり考えなかった。

 結果として3年経たずして再発をみることになったが、術後半年ごとに行っていたもろもろの検査も5回目となる2年半までは全く異常なしだったので、術後ハーセプチンをやっていれば再発しなかったのではないか、とか、術後抗がん剤をやっていれば再発しなかったのではないか、と今になって悩むことはなんの生産性もない、と思う。術後抗がん剤をやっても再発している方はいないわけではないのだから。
 その場でも言いかけたけれど、「それは(考えても仕方がない。)こうなったからには前だけを向いて治療をしていくほかない。」というのがやせ我慢でも強がりでもない正直な気持ちだ。

 長く再発治療を続けるにあたって、「もし、だったら、もし、○○していれば」の「タラレバ」は不毛なことだし、そのことについて悶々と考え続けるのはそれこそ時間の無駄だと思う。そして初発の方々が「再発したらどうしよう・・・」とあまりに不安に思い悩み過ぎるのも精神衛生上良くないし、結局のところ時間の無駄だと思う。その時その時にきちんと納得のいく治療をして、それでも再発してしまうのだったら、それはそれで神様の与えてくれた試練であり、運命である。それからをどう生きるか、が問題だ。
 もちろん再発しなければしないほうがいいに決まっているし、7割(再発せず完治)の集団に入れなかった、3割(完治しない再発)の少数派集団になってしまった、という事実は確かにラッキーではないことだけれど、だからといって今更7割に入れ直してください、ということは現実問題として不可能なのであるから。前にも書いたが、確率はあくまで確率にすぎない。自分に起きるか起きないかは“All Or Nothing”である。一人の人間の体の中で30%だけの再発はあり得ないのだから。

 特に再発して以降、自分で納得いくまで悩みつつ、これだ、と決めたらもう迷わずに躊躇わずにタイミングを逸すことなく治療を始める。あれこれと先を思い煩うよりも、事態が変わったら即、考える。これが再発治療とつきあう私にとっての極意である。

 さて、昨日の投与で今日の体調だが、昨日は早めに休み、普通に起きて、普通に仕事に行って帰宅した。
 さすがに吐き気止めの点滴のせいで今朝は便秘。出がけにマグラックスを飲んだけれど1日お腹が気持ち悪いだけ。それでも昼をしっかり食べたので、胃から上に何か引っかかっている感じがする。

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2010.9.29 ハーセプチン112回目、ナベルビン2クール1回目

2010-09-29 20:01:12 | 治療日記
 今日も採血があるため、早めに家を出て、予定通りの時間に病院に到着した。月末だからか採血も10人ほどの待ち人数で15分ほどで内科受付へ移動することが出来た。その後、入院受付で必要な書類を提出。帰りには一緒に会計が出来ることを確認した。

 それから1時間ほど待って診察室へ。開口一番、先生から「先週はごめんなさいね・・・」と謝られてしまった。(先生が悪いわけでも誰が悪いわけでもないのに・・・)手術台で造影検査をしたとき、2回目までは明らかに漏れているわけではなかったので、今後は毎回生理食塩水を流して確認してから(だましだましでも)使っていけばいいかと思っておられたそうだ。ただ、やはり3回目にはっきり結果が出てよかった、と。そうでないといつかまた事故が起きて、ナベルビンが漏れたら大変なことになっていただろうから。3回目はやってよかった、とのこと。全く同感だ。

 さて気になる白血球であるが、今日は4500あり、うち好中球が4割強で、難なくクリア。ナベルビンの通常量が私にとっては多いのかどうか。出来れば量は減らさない方がいいのだが、少ない量でも好中球が下がるということなら通常量では多いのかもしれない。ただ6月までは全く問題がなかった好中球の割合が、7月に一気に少なくなっており、それ以後3割を割り、低かったので、ヒスロンH内服のせいかもしれない。今はもうヒスロンHが抜けているからそれほど下がっていないのかもしれないので、100%でやっていきたい。来週も白血球を確認して、下がっていなければ通常量で継続する。下がっている数にもよるが、次のクールまでに回復していないと困る。逆に下がっても次のクール開始までに上がってくれれば問題がない、とのこと。前回1クールは1回目でお休みしてしまったが、数え方を確認すると、1度休んだら新しいクールになるとのこと。よって今日は2クールの1回目だそうだ。

 処置室へ移動。抜糸をして頂く予定が、前回執刀して下さった先生が内視鏡検査中。待っていると遅くなるので、ということで先に点滴開始。
 ハーセプチン、吐き気止め、ナベルビン、生理食塩水の4本で2時間45分ほどかかった。今日はナベルビン全開にしたが、新しいポートでは15分弱で終わった。また生理食塩水も10分強。前回の半分の時間だ。今回設置したポートは逆血(血の逆流)がわかるタイプということできちんと針が刺せているのかどうか目で見て確認できるので安心だ。
 順調に4本の点滴が終わり、針を抜いてベッドに移動して抜糸を待つ。さすがに抜糸自体はチクチクと痛むが、糸を抜いてもらえたので、引きつれ感がなくなり、首が回らなかったのが嘘のよう。

 会計で先週の入院費用も合わせて12万円ほどの支払い。
 なんとか3時までのランチタイムに滑り込みが出来た。

 今日は4冊読めた。
 1冊目は山口真美さんの「美人は得をするか『顔』学入門」(集英社新書)。山口さんは中大の教授で、赤ちゃんの顔認識の研究で有名な方。というのも息子が赤ん坊だった頃、我が家のポストに『研究に協力してくださる赤ちゃん募集』のチラシが入っていたので覚えていた。題名はインパクトがあるけれど、気になる『顔』を科学する、ということで面白く読めた。それにしても終章でご本人がストレスから顔面麻痺を発症し、それをかかえながらの執筆であったことを初めて知り、驚いた。

 2冊目は小西慶三さんの「イチローの流儀」(新潮文庫)。10年連続200本安打を達成したことは、プロ野球にもMLBにも全く疎い私も知っている事実。「これまで彼の試合を最も多く観続けてきた記者が綴る、人間イチローの真髄」ということで興味を持った。天才どころかどれほど努力を重ねた結果であるか、は想像していた。日々凡人には考えられないほどの努力を重ねながら、天才だから当然と言われては心穏やかではないだろう。それにしてもやはり凄い人なのだ、と感服する。まだまだ進化を続けるのだろう。

 3冊目は石原結實さんの「免疫力がアップする食べ物」(日文新書PLUS)。夫がコンビニで見つけたから、と買ってきてくれた。トマト、ニンジン、ダイコン、タマネギ、きのこ類、セロリ、キャベツ、海藻類、ショウガ、ゴマが10食材。このうち弱点といえばセロリか、ということで早速買ってきた。レシピもついてあっという間に読破。

 4冊目は佐野洋子さんの「シズコさん」(新潮文庫)。単行本が出たときから読みたかった本。文庫化が待ち遠しかった。裏表紙には『4歳の頃、つなごうとした手をふり払われた時から、母と私のきつい関係が始まった。・・・私は母が嫌いだった。やがて老いた母に呆けのきざしが-。母を愛せなかった自責、母を見捨てた罪悪感、そして訪れたゆるしを見つめる物語』とある。親子といっても何人も子供がいれば、当然相性はあるだろう。「母を疎み、母を捨て、母を看取る-娘がつづった、本当の物語。」という帯。一人の娘として考え込まされてしまった。それにしても佐野さんご自身乳がんが脳に転移されており、闘病中だ。乳がん患者がいかに多いのか、改めて思う。

 夕方、仕事で帰宅するより30分ほど早めに帰宅できた。義妹がメールで息子が電車に乗った時間を知らせてくれていた。あと1時間くらいで帰ってくるか・・・とのんびり片付けものをしていたら、なんと私の帰宅後殆ど10分もしないで帰ってきた。一番早い快速に乗れたそうだ。行きはあんなに時間がかかったのに・・・。
 早速留守番していた義母に御礼の電話。話し相手が出来て、楽しかったようだ。

 明日で息子の秋休みも終わり。あさってからは後期開始だ。

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2010.9.28 病院で死ぬということ

2010-09-28 21:18:02 | 映画
 山崎章郎さんの原作本は何年か前に図書館で借りて読んでいた。
 「ある時、偶然手にした一冊の本が僕の運命を変えることになった。その一冊とは1926年にスイスに生まれたアメリカの精神医学者 E・キューブラー・ロスが書いた“死ぬ瞬間”という本であった。読み始めて30分もしないうちに、それまで培ってきた医者としての常識がいとも簡単に覆され、どうしても解けないでいた胸のしこりが解け、まるで体じゅうの血が逆流するのではないか、と思うような深い感動を受けたのだ。」(本文より)。
 キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」は、読みたいけれど読むことを躊躇いつつ何年か過ごしていたが、ようやく意を決して今年の1月に読んだ本だ。このブログでも書いた記憶があるが、私はこの気持ちが言いたかったのだ、本当に読んで良かった・・・と思えた一冊だった。

 今回、「末期がんに侵された入院患者たちのエピソードを丹念に描き、ターミナルケア(終末期医療)のあり方に波紋を投げかけた山崎章郎の同名小説を映画化。終末期医療といっても、最末期の痛みを伴うような場面はなく、病気に対する不安、混乱、受容までのプロセスにフォーカスして4人の患者と家族たちとのエピソードを準タッチで綴っている。」と紹介された平成5年の市川準さん監督の映画がテレビ放映されていたので、録画して観た。

 息子夫婦や孫たちに囲まれた老夫婦、夫に先立たれ3人の子供たちを女手ひとつで育て上げ、さあこれから・・・、という年配の女性、40代の働き盛りの男性のがん患者とその家族たち・主治医の描写。

 カメラはひたすら病室のベッドをフィックスしたまま回っていく。病室以外の場面は殆どない。ベッドが空くと新たな患者がやってくる。病院の繰り返される日常。その間に四季折々の普通の方たちのドキュンメンタリー的映像が挟みこまれていく。

 この映画が作られた17年前、すでに平成になってからも、「あなたは○○がんである」という告知もされずに闘病することがこれほど当たり前だったのだと、驚いた。そして、皆全然良くならないじゃないか・・・、と猜疑心の塊になり、精神的にアンバランスになっていく。
 当然だ。患者は皆、良くなるんだ、治すんだ・・・という希望をもってきつくて辛い治療にあたる。それが治療をしてもきつくて辛いだけ、全然良くならないどころか自覚症状はどんどん悪くなる、それでも医者が本当のことを言ってくれなかったら、患者は一体何を信じて頑張っていけばいいのだろう。ただ、私のような乳がん患者は手術をすれば外観でわかるから、告知なくして治療はあり得ない。特殊といえば特殊なのかもしれないけれど。
 そしてみな最期が近付くにつれて「家に帰りたい」と言う。

 老夫婦は夫が大腸がん、妻は肺がん。家族の希望と病院の配慮で2人同室になったが、妻は治療の関係で転院を余儀なくされる。息子たちが父の願いを聞き、ある日彼を妻のいる病院へ連れていく。たった30分の再会であったが、家族にとって忘れられないものとなった。

 年配の女性は、最初は子供たちと明るく過ごしていたが、2度の手術を経、入院生活が長くなるにつれて、いら立ちを隠せなくなる。そこでようやく主治医は真実を告知。彼女は自宅に帰りたいと言い、主治医はその意思を尊重する。

 働き盛りの男性も病名を知らされないまま入院。手術でがんを摘出することが出来ず、そのままお腹を閉じただけ、という手術の真実すら説明を受けぬまま、いったん元気に退院。 やがて主治医の予想通り再入院。彼も妻や周囲に当たり散らすようになる。会社の同僚たちが見舞いに来る場面は身につまされた。
 しかし、その後、望んで真実を告知された彼は、次第に冷静になり5日間の外泊で自宅に戻る。そして子供たちにも全てを話し、充実した時間を過ごす。自分が近いうちに死ぬのはもう少しも怖くない、ただ子供たちのために一日でも長く生き延びたいと主治医に語り、どんな治療も受ける、と依頼する。
 そして子供たちへ宛てた手紙には「死を乗り越えることが出来るのは、勇気でも、あきらめでもなく『愛』なのだ」と遺すのだ。

 ちょうど直近に病院から帰ってきたこともあり、淡々とした病室の画像がやけにリアルに迫ってきた。あそこにいるのは未来の私?という感じ。在宅での最期を希望しても、夫と息子という我が家の家族構成ではとても末期の介護は望むべくも無い。ホスピスだって順番待ちでいつ入れるかもわからない。結局、最期は病院で、という可能性が一番高い。

 ラスト近くで、主治医を演じた役者のナレーション「病院とは不思議な場所だ。当たり前のことだが、この場所は、どの人にとっても最初から必要とされていた場所ではない。私たち医療者はその人の人生の過程に突然登場し、その人の前に大きく立ちはだかってしまうように感じる。死を自覚した人の前で、私たちに願うことが許されるなら、矛盾した言い方のようだが、この場所が『死ぬための場所』ではなく『良く生きるための場所』であるということを最期のときまで感じてほしいということ。自分の意思で自分の死を取り戻す場所であってほしいということだと思う。」の重みにしばし考え込んでしまった。

 「良く死ぬことは、良く生きることだ」これは1987年に46歳の若さで乳がんで亡くなったジャーナリスト千葉敦子さんの言葉でもあった。
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2010.9.27 1回でいいです

2010-09-27 21:13:34 | 日記
 一生付き合わなければならない病気になったことは確かに不運なことだけれど、不幸ではない、と私は思うようにしている。というのも、病気にならなければ巡り会うことのできなかった方たちとの新しい出会い、家族、友人等周りの人たちとの関係の見直し、変化、ひいてはあらゆること、今ある自分の心と体に対してさえも、謙虚に感謝の気持ちを持てるようになったことは、やはりキャンサーズギフト以外の何物でもないのだと思うからだ。(こう書くと“ええかっこしい”かもしれないけれど、実際そう思わなければやっていられないところもある。)

 昨日、プチ虹のサロンの方たちとお話していた時のこと。
 それでもね・・・、というお話だ。Sさんの火事の件も、Kさんのお母様の件も、そして私のポートの再設置の件も、やっぱりついていないよね、と。普通の人はそうそう逢うことのない確率なのに、私たちの身にしっかり起きてしまった事件だ。「神様、もう十分ですから。痛い目にあうのは一人一回でいいですから。私たち、もう十分チケット切りましたから・・・」と思わず言いたくなるよね、と。そう言いつつ、皆で豪快に笑いあう。そのことに対して、もうお一人のSさんが「凄いよね、それでもこうして皆で笑っているんだから」と。

 確かにそうだと思う。
 先日、映画を観たときに、今の私にとってのモットーは「食べて、笑って、感謝して EAT SMILE THANK」だ、と書いたけれど、こうして嘘偽りなく本音で話し合える同じ病と共生する友人と、食べて、笑って、お互い感謝しながら過ごせることは何よりも元気の素。それ以外の何物でもない。本当に有難いことだ。そして、こうして笑って言い合えるうちは、私たちはまだまだ大丈夫、だと。
 先日、Sさんとお会いしたときの約束。メールで「『来年の○(私)さんとSさんの50歳バ-スデ-祝い』を約束したので、1日を大事に積み重ねていきたいです」という言葉にまた励まされる。

 病にならなければ、出会わなかったであろう友たち。“痛い目”以上に本当に大切なものを神様はくださったのかもしれない。

 さて、あいにくの本降りの雨の中、息子は出勤する夫とともに早朝から義妹宅に出かけた。自宅からドアツードアでたっぷり3時間以上かかるけれど、そろそろ着く頃だろうかと思っていたら、“公衆電話”から私の携帯に電話があった。(学校でも携帯を持っていけないので、定期入れにはテレカが常備されている。)今日は充電していた携帯を持って行くのを忘れたのだ。しかも2回の乗り換え後、最後に乗る電車はパスモ等のICカードが使えないから、と旅費として現金を渡していた。自分で財布にそのお金を入れたのに、その後は記憶が曖昧な様子。『財布どこに入れたの?』ときた。私は自分で持ったとばかり思っていたのだが、息子は、私がカバンのどこかに入れてくれているだろう、と自分では持っていかなったらしい。それにしてもどうしてこうも他力本願なのだろう・・・。これまで全て、あまりに先回りをしてお膳立てをしてきすぎた結果がこれである、と改めて反省しきりである。

 義妹夫婦は仕事で出かけているから、義母が一人で孫の来訪を首を長くして待っているはずであった。義母に徒歩数分の最寄駅まで旅費を届けてもらうように電話でお願いして、息子には「駅員さんに、祖母が旅費を持って最寄り駅まで必ず届けてくれるから、と事情を話してそのまま最寄駅まで乗らせてください、とお願いしなさい。」と指示した。さすがに雨の中、義母に乗り換え駅まで来てもらうには忍びなかったので・・・。
 結局、駅で「それは出来ない」と言われ、義母を乗換駅まで呼び出して早お昼を食べ、運賃を払ってもらって義妹宅に無事到着した、というのが顛末だ。とりあえず、お財布がなくてパニックになってしまい、お土産の入った手提げをどこかに置いてきた、ということはなく、無事義妹に渡せたようだ。夫とはつくづくエピソードに欠かない息子だ、としみじみため息を付き合った。

 従兄弟たちは公立中に通っているから当然秋休み期間中ではない。夕方か遅ければ夜までは会えない。日中は義母の話し相手になり、読書でもしてリフレッシュしてきてくれればよいのだけれど・・・。
 そして、夫と私、どうしても2人で一緒に構いすぎてしまう息子に、少し逃げ場を与えるための2泊3日。私たちにとっても、カッカときた頭をリセットするための2泊3日の息子の不在である。
 夫の禁煙パッチを薬局で受け取ってきた。今晩入浴後からいよいよ禁煙開始、だそうだ。
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2010.9.26 第19回あけぼのハウス参加

2010-09-26 20:43:22 | あけぼの会
 あけぼの会HPで「9月は『みんなで考える:患者から見て、どうしても必要なのか?』をテーマにしました。 みんなで考えましょう。患者のためというが、本当は誰のため? 3回目は『抗がん剤治療はどこまでも続けるべきなのか』(完治はないとわかっても最後まで治療することの意義)」というお知らせを見つけ、早速申し込んだ。
 完治はないとわかっても最後まで治療することの意義、このことを自分できちんと納得していなければ今後エンドレスの治療を継続していく上で、気持ちが折れてしまうこともあるだろうから。

 プチ虹のサロンの方たちも興味のあるテーマということで、「ランチをしてから一緒に出席しましょう」ということに。5月に初めて集まって以来、6月にSさんのご自宅が火事にあわれたり、Kさんのお母様が倒れられたり、と災難続きのメンバー。4人が4ヶ月ぶりにようやく顔を揃えることが出来た。
 思えば私もこの4ヶ月間いろいろあった。アロマシンが効かなくなり、最後のホルモン剤ヒスロンHに望みを託したが、わずか2ヵ月半で内服打ち切り。ナベルビンを始めた矢先にポートの不調で皮下漏出のトラブル。骨髄抑制で好中球が低下し、今だに2回目以降の投与が出来ない。そして先週はポートの再設置手術で一泊入院。

 昨日の夕方で手術から72時間経過、ということで夜、入浴した。こわごわガーゼをはがしてみた。3箇所の縫い傷はまだ赤く盛り上がっており、周辺部は広範囲に内出血している。また、これまでカテーテルが入っていた血管と思われる部分には、くっきりとミミズ状の赤黒い筋。いつも手術の後には傷跡を見て(こんなになっちゃったんだ・・・)と思うけれど、今回もしかり。退院後の保護はガーゼつきのテープ1枚ではあったが、外したらなんだかとても不安で、都心まで行くのに人とぶつからないように右胸をかばい、知らぬ間に猫背で歩いている自分が哀しい。
 本当は昨日、懇談会の後に美容院に行ってきちんとカットしてもらい、かつらを外してきました、と言って皆さんにお会いするつもりだったが、さすがに傷口がひきつれたまま仰向けでシャンプー台にあがる元気がなかったので、キャンセル。抜糸後の来週末に再度予約した。

 今朝は出がけに、息子の態度と嘘に夫の大きな雷が落ち、非常に険悪なムードで家を出た。せっかくの爽やかな青空、秋晴れの朝だったのに、気持ちはちょっと憂鬱だった。

 ランチではそれぞれの近況報告。あっという間に時間が経ち、4人揃って開始時間10分前に会場へ入った。
 入り口で早速事務局Tさんのお顔を見つけ、ご挨拶。今日の報告書を書くことの依頼があったので快諾。
 定刻どおり13時にTさんの挨拶で開始。会長さんは高知の講演会からの帰途にあり、今、羽田からこちらに向かっている、とのこと。ほどなくして黒いお洒落な帽子をかぶって颯爽と登場された。高知では家族性(遺伝性)乳癌のお話をされ好評を博したとのこと。
 また、ハーセプチンやフェマーラ、ゼローダを製造している中外製薬の方のご紹介もあった。

 さて、今月は会長さんの発案で「ドクター抜きで患者の本音を話そう」という試みなのだそうだ。初発治療は完治する可能性があるから、やれるならしっかりやった方が良いが、再発は完治が難しいので、どういう治療をするかはきわめて個人的な問題になる、とTさんがお話を始める。そして御自身が卵巣転移の手術を控えておられることも紹介された。たとえば初発の抗がん剤と違って、ハーセプチン治療は高価でエンドレス。なるべくずっと投与したほうがよいが、経済的な事情等で一時的にでも止めるなら、悪くなる可能性も覚悟して納得の上でと医師は言う、とも。
 定員50名で40名強の方が参加しておられたが、挙手の結果、再発治療中が2/3以上。ホルモン剤治療中7、内服抗がん剤7、点滴治療中11だった。

 なんと、そこで会長さんから指名があり、私に前に出てこれまでの治療経過を話すように、とのこと。
 私はこうして書くことは好きだが、人前で話すことはどうも苦手である。が、そうも言えず前へ出て、2005年2月の初発から術後治療、卵巣のう腫摘出手術後に痛みを感じるようになってから再発転移確定、再発後、セカンドオピニオンを取得した後での転院、その後のホルモン治療、抗がん剤治療等を順を追ってお話した。つい水曜日のポート再設置手術まで。30分ほどお話しただろうか。その場で会場の皆さんからの質問にお答えし、開始1時間10分ほどで前半終了の休憩。

 後半は、会長さんから一人ひとり出席者が名前を呼んでもらい、顔を確認して頂く。和歌山から出席されていた方は17年前に初発、4年後に骨転移、その後肝臓と肺に転移されておられるという。
 高知でも、会長さんはこの「あけぼのハウス」の活動紹介をされ、患者対医師でない患者同士の集まりについていろいろな方から興味をもたれた、とおっしゃっていた。こうして患者の真実の声、生の声を聞くと、普通の人が難しい医学をきちんと受け止め、きつい治療を続け、副作用に耐えている。凄いことだと思う。今日の様子をビデオに録画しておくのだった、との感想を述べられた。

 その後、来月のハウスの開催予定日の連絡があり、今後どんなテーマで開催してほしいか、会場からの意見や希望を募った。予定終了時間の16時より30分前にいったん解散。あとは個別相談やフリートークをどうぞ、となった。私のブログを読んでくださっている方たちからも声をかけられ、とても励みになった。

 会場最寄り駅や乗り換え駅で、「10月9日の大会でまたお会いしましょう。」とご挨拶しながらメンバーたちと別れた。途中ターミナル駅で、明日から息子がお世話になる義妹宅へのお土産類等を購入し、帰宅した。最寄り駅ではなんと雨が降り出しており、日傘が雨傘に変身した。
 夕食は息子の好きなお寿司をとってしまったので、帰宅後すぐに届き、簡単に済ませた。そしてデザートはKさんが作ってくださった栗の渋皮煮に舌鼓。

 明日からまた、1週間が始まる。水曜日には抜糸。傷も落ち着き、ナベルビンも無事に投与できるよう体調を整えたいと思う。
 週末は早くも10月だ。今年もピンクリボン月間がやってくる。 
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