ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.1.31 怪我の功名?大名行列で和みの半日、無事帰京

2016-01-31 23:25:38 | 
 昨夜は夕食後、部屋の洗い場のついたお風呂でのんびり入浴。ちょっと読書をし始めたけれど、殆どもたず、就寝前のサインバルタを飲むのも忘れてコロリと眠ってしまった。

 そして今朝。昨日より1時間遅く目覚ましをかけ、起床。天気予報では曇りのち晴れという。今日も最高気温20度の予想だ。窓の外では、厚い雲の隙間から太陽と青空が見え隠れしている。今朝も浴槽足湯をして疲れのとれない足を労り、朝食へ。

 既に出発しているツアー客が多いと見えて、レストランは昨朝に比べて大分空いている。今日もあれこれたっぷり頂く。お腹ごなしにお庭を散策。プールやミニゴルフコースの芝生の前は白砂とエメラルドグリーンの海。グラスボートがちょうど出航するところで、波打ち際の岩場では貝殻をとっている方たちの姿も。絵になる光景である。

 部屋に戻ってパッキングを済ませ、チェックアウト。出発時間にロビーで待っていると、添乗員さんが「トラブルが発生したので説明します」とのこと。「???」と皆、不安そうだ。
 午前中の観光から空港まで乗車する予定だった大型バスが、故障して来られなくなったとのこと。このまま観光なしで各自空港へどうぞ、ということはないでしょうね!?という感じだが、さすがにそうではなく、皆がタクシーに分乗することになった。

 私達は群馬からいらした女性客2人とラッキーセブンのNo.7の黒いタクシーに同乗する。43人という大人数のツアーだから総勢10台のタクシーとジャンボタクシー1台の計11台が、同じ方向を向いて一直線。まさに大名行列である。

 このタクシーの運転手のTさん、その面白いことといったらなかった。ちょっと俳優の安岡力也さんに似た風貌。べらんめぇ調でノリが良く、車内は終始笑いの渦。ここまで笑わせてもらったら免疫力アップ間違いなしである。これが怪我の功名でなくてなんであろう。

 まずは全長1690m、どこまでもまっすぐに続く来間大橋を通って来間島へ向かう。同乗した女性はこの橋が渡りたくてこのツアーに参加したとのことで、助手席に乗って満足された様子。だんだん雲が切れてきて、海が本当に美しい。

 橋を渡ると、いきなり路地のような道に入る。静かな住宅地にタクシーが延々と11台も連なり、地元の軽トラはすれ違いも出来ず、吃驚している様子。観光バスでは乗り入れ出来ない展望台に向かうという。

 階段を昇って中国風の建物の屋上へ。そこは見渡す限り美しい海。今渡ってきた橋やリゾートホテルが見渡せる。反対側には島の小学校等が見え可愛らしい街並みだ。風が強くて写真を撮るには髪の毛がバタついて大変だったけれど、添乗員さん曰く、普通は来られない場所なのでラッキーです、とのこと。

 再び橋を渡って、道の駅ならぬ島の駅へ。ここでは地元で取れた新鮮な野菜や特産物がとてもリーズナブルに売られている。じーまみー豆腐や海ぶどう、モズクなどよりどりみどり。ここを最後に2泊3日の欲張り5島めぐりも終了。

 値段の安さに思わず買い込んだお土産と一緒に、再びタクシーで空港へ向かった。空港ではバス会社の方がお詫びに、と一人ひとりにお土産のお菓子までご用意くださった。なんだか申し訳ないくらいだ。
 搭乗手続きを済ませ、荷物を預けて搭乗口に行くと、30分ほどの遅延という。昼食を摂るにもまだお腹は空いていないし、お茶を飲んだり本を読んだりして過ごす。

 那覇空港に到着したのも予定より30分遅れ。1時間半以上の乗り継ぎ時間があった筈だったが、1時間弱となった。ここでようやく遅い昼食を済ませる。
 羽田行の便ではアップグレードが叶い、楽して帰ってくることが出来た。こちらは5分遅れで、無事到着。夕食を買い込んでリムジンバスに乗り、最寄駅まで1時間20分ととても順調に帰宅することが出来た。

 なんとか旅の後片付けを済ませたら、もう11時を過ぎている。明日からに備え、早く休まなくては。

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2016.1.30 猫の目の如く変わるお天気の土曜日、駆け足で4島観光

2016-01-30 21:25:52 | 
 昨夜は、マッサージの後にコテンと寝て高鼾の夫を横目に、寝付くのに出遅れた私。とはいえ、さすがに草臥れていた所為か、何とか5時間連続で睡眠。

 暮れるのが遅いので、当然日の出は遅い。いつもと同じ時間に目覚ましをかけたが外は真っ暗。ゆるゆると起き出して恒例の浴槽足湯でじんわり汗をかく。部屋は1月なのに除湿もしながらソフトに冷房設定である。
 雲の間から朝焼けを拝んだ後、バイキングレストランで朝食。地元の食材が美味しい。今日はお昼が遅いと言われていたので、たっぷり食べてエネルギーチャージ。あいにく降水確率は60%、曇り時々雨といったところ。最高気温は20度で最低気温が19度だそう。

 バスに乗り込んで4島観光へ出発。まずは昨年1月31日に開通したばかりの伊良部大橋を渡る。全長3540mは“珊瑚の島”のごろ合わせだという。明日は1周年の記念式典で午前中は通行止めだそうだ。
 中央が高くカーブを描いていて、昨日飛行機の中からも見えた美しい橋。曇天でも海の色は白砂が底のため、とても美しい。昨日はお天気が良く、本当に綺麗だったそうだ。それでも少し青空が見えてきて、海は穏やかだ。

 橋を渡るとそこはお隣の伊良部島。橋が出来るまでは1時間に2本のフェリーが出ていたというが、その港には今はクルーズ船が停泊しているだけとのこと。日本の渚百選に選定されている“佐和田の浜”は、遠浅の浜に多数の巨岩が点在し、独特の風景。明和の大津波(1771年の八重山大地震)の時に打ち上げられた岩なのだという。バスを降りるとぽつぽつと雨が降ってくる。

 写真を撮った後は、そのまま隣接した下地島へ。こちらへは短い橋を渡るだけなので、島と島の間を渡るという実感は全くない。下地島には、ジャンボ機も離着陸可能な3000mの滑走路を持ちながら今は使われていない空港がある。もったいないことだが、基地の問題もあり複雑な気持ちになる。ここでも急に雨が降ってきて傘が手放せない。

 続いて、ダイバーにとっては憧れのスポットという“通り池”へ。2つの池は下部で互いに繋がっており、さらに外界とは地下洞窟で結ばれているという珍しい所。水の色がとても濃いターコイズブルーで吸い込まれそうだ。
 どこの海も透明度が高く、これが良いお天気だったらどれほど綺麗な海が見られたのだろうとちょっと残念だ。しかし、もし燦々の陽射しだったら、日焼け止めも帽子も日傘も何一つ持ち合わせていないから、日焼けで大変なことになっていただろうから、結果オーライだったかもしれない。

 穏やかな弓状の浜が800mも続き、きめ細やかな白砂の美しさと水の透明度では県随一という“渡口の浜”。こちらでは名産の黒糖等のお土産を買い込む。今は製糖の繁忙期だそうで、あちこちのサトウキビ畑で刈入れの真っ最中である。

 宮古島に戻って車窓から“人頭税石”を見る。その昔、背丈がこの石の高さ143cm以上になると人頭税が課されたという悪名高きものだ。
 海中公園では、暑さ12cmもある窓の外で色とりどりの熱帯の魚たちが自由に動き回る姿を見ながら童心に帰る。遠くには烏賊の群れも泳いでいるのが見えて楽しい。ガイドさんによれば、観光客は「綺麗ね」と言うけれど、地元の方たちは「(お刺身や煮つけににしたら)美味しそうね」と言うので一目瞭然なのだそうだ。ここでは絞り立てのマンゴージュースや紅芋のソフトクリーム等を愉しむ。

 続いて島の名産、雪塩製塩所に到着。ギネス認定の工場で、パウダー状の雪塩6に対して水1で溶かして簡単に作れるホイップ状の天然角質取りを体験する。(普段手入れをしていない)男性の方が効果が歴然と分かります、と言われた通り、夫の手は見事にツルツルになった。説明の後はショッピングタイム。雪塩水を飲んで塩辛いと感じないとミネラル不足だそうだが、しっかり塩気を感じたので体調OKということか。

 そして、伊良部大橋の半分ほどの、全長1425mの池間大橋を渡って池間島へ。海産物が安いお店が立ち並んでいる。強い雨風に吹き飛ばされそうになって、早々にバスに戻る。車のCMでよく使われる橋だそうだ。

 バスに揺られ朝からあちこちを巡り、草臥れて夫も私もこっくりこっくり。小一時間かかって遅い昼食会場へ向かう。あらかじめ頼んだオプションのお薦め昼食を摂った後は、世界中の膨大な貝の数々を展示した海宝館を見学。案内してくれた館長の話が面白かったこと。説明、というよりも殆どセールストークなのだが、ツアー客イジリが絶妙で、いやはや何とも面白いのである。

 今日最後の観光スポットは、島屈指の景勝地である“東平安名崎”。日本百景の絶景ポイントでは雨風にもめげず、レインコートを着込んで散策。ついでに、高所恐怖症の夫のお尻を叩きながら97段の階段をものともせず、灯台を上る。登りきると遮るものが何もない360度の眺めに圧倒される。ここは突然天候が変わるので有名だそうで、酷い雨風のために、ガイドさんは傘を何本ダメにしたか分からないそうで、今日はまだましな方だったという。
 それでも43人のツアーの方たちの中で、果敢に灯台に上ったのは10人に満たず。11年の患者歴とは思えない相変わらず元気な私である。ヨガとピラティスで鍛えた甲斐があるというものだ。

 そして夕方ホテルに戻ってきた。足がだるく、ホテルのエステサロンでリフレクソロジー。なんだかあっという間に終わってしまい、不完全燃焼。
 お風呂に行くとそのまま眠ってしまいそうなので、遅い夕食まで部屋でダラダラ、である。

 夕食はホテル隣のグリルレストランでディナー。同じツアーに、茨城から参加されているご夫妻とご一緒した。ご夫妻が前回訪れた時には伊良部大橋が架かっておらず、フェリーで渡った以外は全て今回と同じ行程だったそうだ。その時はツアーがお天気に恵まれてそれは素晴らしかったので、今回の再訪となったというが、今回はお天気に恵まれず全く残念だとおっしゃっていた。お天気頼みは神頼み、何とも致し方ないけれど、そんなに素晴らしいなら私達もリベンジに来ようかしらと夫と言い合う。

 そんなこんなで、てんこ盛りの中日も無事終了。明日は少しゆっくり目の出発で空港に向かい、飛行機を乗り継いで帰京の予定である。

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2016.1.29 びっくりぽん!突然夏日の島へ

2016-01-29 23:25:01 | 
 明日、息子が20歳の誕生日を迎える。と同時に、私達も親業がようやく成人式。ということで、記念日大好きな私達夫婦は、またしても記念旅行を企画した。当初は北の方という案もあったのだけれど、“寒い→痛い”の構図が怖かったので、暖かい土地に決定。
 一昨年の2月、初めてのヨガリトリートで訪れた球美の島、昨年の1月、銀婚式旅行で訪れた八重山諸島に引き続き、トライアスロンで有名な島にやってきた。最高気温と最低気温が東京とはそれぞれ20度の差だ。このところ真冬日が続いているので、夏日の肌感覚がイマイチ分からない。荷物をパッキングしたものの基本はおおむね薄手の冬物。

 集合時間の関係で、最寄駅からのリムジンバスは諦めて、初めて経験する経路で出かけた。これが大当たりで乗り換えは楽だったし、予定より随分早く羽田空港に到着。空港は出発客で溢れている。飛行機も満席の様子でアップグレードもかなわず。空弁を買って機中の人となる。

 3時間弱のフライトは、食事をして本を読んだり。夫は大好きな苺のリキュールまで頂いて、ほろ酔い気分でご機嫌だ。私も好物のアイスクリームを頂いているうちにあっという間だ。とはいえ、やはり狭い機内で満席。足を下に向けていると浮腫んでくるし、ここ数日腰痛もあり、じっと座り続けているのは辛いことこの上なかった。

 定刻通りの着陸。降りた途端、梅雨時を思わせるような湿度と夏のような暖かい空気にびっくり。3年連続で訪れるお馴染み胡蝶蘭の鉢で埋め尽くされた空港内だ。
 トランジットには2時間近く。免税店を冷やかしたり、うろうろうろ。お昼を食べたばかりだというのに、夫はここではやはりお約束だから、とソーキソバを注文し、暑い暑いと言いつつペロリ。私もちょっぴりお相伴。こういうことをしているからメタボになるのである。私まで巻き込まないで~と言いながら、いろいろな味のアイスクリームを前に、目は味見したいのが情けない。

 そして、乗り換え便。夫の隣に座った男性がドアが閉まってすぐに気分が悪いと訴え、前の席に移られた。離陸態勢でもう降りることは出来ず、CAさんたちがケアしていたけれど、到着すると車椅子のお迎えが来ていた。どうされたのか心配だ。
 初めて降りた空港は可愛らしい赤い瓦屋根の建物。この島は昨年亡くなった夫の先輩の出身地でもあるという。追悼の旅にもなった。
 初めてツアーの方たち全員と合流。同じホテルに泊まるのは15人。もう一つのホテルが28人の計43人で、大型バス満席の御一行様だ。

 ホテル到着。リゾート気分一杯の開放的なロビーに心が浮き立つ。部屋に入ると目の前にはエメラルドグリーンの海が一面に広がっている。今日の最高気温はなんと27.5度だそうだ。ニットアンサンブルのカーディガンまで脱いで半袖になるとは思わなかった。夫もシャツ一枚で汗をかいている。

 夕食は、ステージライブも開催されるというアジアンな雰囲気が漂うオープンフードコートで郷土料理の御膳を頂く。と、突然の土砂降り。さすがに島の天気は変わりやすい。雨宿りがてら隣のマーケットを物色し、厚地のシャツしか持ってこなかった暑がりの夫に、かりゆしシャツを購入。
 あれれ、この柄、どこかで見た感じがすると思ったが、息子が小学校低学年の時に着ていたアロハシャツとよく似た柄だったことに気付く。なんというご縁だろう。そうこうしているうちに雨が小止みになり、急いで向かいのホテルに戻り、今度はシャトルバスで温泉へ。この温泉、日本最南端かつ最西端の天然温泉だそう。

 久しぶりに大きなお風呂で足を伸ばし、浮腫んだ足を労わる。極楽々々である。さすがに島の所為か、お湯が塩気がある。ブーゲンビレアがライトアップされていて、本当に1月だろうかと思うほど。展望風呂やアメジストサウナ、岩塩サウナとフルコース制覇。私は1時間も愉しみ過ぎてすっかりふやけてしまう。普段は烏の行水専門の夫は、大いに頑張ったというが僅か30分で出てきて、すっかり待ちくたびれていた様子。

 ホテルに戻ってきてからは、二人でマッサージを頼み、それこそ極楽々々である。
 明日は朝から1日観光だ。お天気があまり良くないようだけれど、果たしてどんな一日になるだろう。

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2016.1.28 少しずつ社会は変わる

2016-01-28 20:51:20 | 日記
 昨日に続き、朝日新聞医療サイト「アピタル」の記事で気になるものがあったので、以下、転載させて頂く。
 がんになってもどうか仕事をすぐに辞めないで・・・これは私がずっと思い続け、実際に実践していきたいと日夜奮闘していることである。だからこういう記事を見ると嬉しい。素直に嬉しい。
 少しずつ、少しずつ社会は変わる-そのことを実感出来たことに改めて感謝したい。

※   ※   ※(転載開始)

「がん発覚、仕事すぐ辞めないで」 両立支援の動き(神沢和敬、末崎毅)(2016年1月26日05時40分)

 2人に1人がかかるとも言われるがん。厚生労働省は治療と仕事の両立をめざして指針をつくるが、本格的な対策はこれからだ。独自に就労を支援してきた医療機関やNPO法人もあるが、仕事を辞めざるを得ない人はいまも多い。

■がん退職しないで済む社会に 医師と企業連携など対策へ
 大阪市の40代のプログラマーの男性は2015年冬、ゲーム開発会社を退職した。10年以上前に見つかったがんは治っているが、免疫力が落ちて疲労がたまると感染症などにかかりやすい。二つのプロジェクトリーダーを任されて忙しくなり、仕事量を減らすよう頼んだが、上司には理解されなかったという。
 働き続けたいと思ったが、仕事を減らすなら正社員の雇用形態は続けられないと言われて、辞めざるを得なかったという。病院と会社は十分な情報交換ができていなかったと思っていて、「病院と企業の距離が近くなれば違う結果だったかもしれない」と話す。
 千葉県銚子市の食品卸会社では数年前に40代の社員ががんと診断され、短時間勤務などで配慮してきた。2年ほどで通常勤務に戻ることができたという。桜井公恵社長は「社員30人ほどの会社では、一人一人の経験は代えがたい。できる限り働き続けられるよう本人と話し合ってきた」。
 医療機関は支援に力を入れつつある。全国に約400あるがん診療連携拠点病院には「がん相談支援センター」があり、電話でも相談を受け付けている。そのなかで大阪市立総合医療センターは13年から就労支援に力を入れる。徳永伸也医師は「早期発見や医療の進歩で治る確率は高まっていて、社会復帰はますます重要になっている」と語る。
 14年からは企業の人事・労務担当者のために研修会を始めた。がんと診断された際に、勤務時間に配慮して辞めさせないよう促している。15年11月の研修会では乳がんを例に、手術をして初期の薬物療法が終われば、健常者と同じ生活が送れることなどを説明した。「思っていたよりも副作用が軽かった。この調子なら仕事が続けられる」といった患者の声も紹介された。
 会場からは「本人があまり話をしてくれず情報が少ない」という意見もあった。センターの担当者は「偏見を恐れて話したくない人も多い。確認したいことがあれば会社の人が診察に立ち会うケースもある」とこたえた。センターのがん専門相談員で看護師の東島早百合さんは、指針で企業と病院が情報交換がしやすくなることを期待する。
 自治体でも先行事例がある。東京都は14年度から優れた取り組みの企業を表彰。支援に前向きでも具体的な方法が分からない企業は多いといい、指針は歓迎する。埼玉県は企業向けのハンドブックをつくっていて、相談窓口を設ける自治体も広がっている。
NPO法人がんと共に生きる会(大阪市)の社会保険労務士の関孝子さんには、お金の相談が絶えない。「がん=死」と受けとめ、パニックにおちいって辞める人がめだつ。医療費がかさむなか収入が減ることになり、治療を断念するケースもある。関さんはいったん会社を去ると再就職はしにくく、すぐに辞めないよう呼びかける。
 専門家に相談することも重要だ。辞めるとしても、注意点はたくさんある。退職日に無理をして職場に行くと、傷病手当の支給が受けられなくなる可能性もある。退職日に仕事ができない状況であることが条件だからだ。「社会保障制度には細かいポイントがある。専門家に教えてもらわないと、知らずに損をしてしまう」と関さんは訴える。

■国立がん研究センターの高橋都・がんサバイバーシップ支援部長の話
 がんを告知された患者は、動揺して頭が真っ白になってしまうことがあります。働く人の権利や会社の制度を知らないまま慌てて辞めると、後悔する人が多い。対応する時間はありますから冷静になって判断しましょう。
 会社側も引き留めることができれば、大事な働き手を失わずにすみます。傷病手当金制度などの公的支援に加えて、その会社が持っている支援制度を早期に示すことが大事です。
 がんの治療では通院時間の確保など職場の配慮が必要です。患者は上司や人事担当者らに相談にのってもらいましょう。その際に説明がたりないと、過度の配慮により、できる仕事からも外されかねません。自分が情報管理の要になり、できること、配慮してほしいことをはっきり伝えることがポイントです。
 同僚には言いにくいかもしれませんが、ある程度説明したほうが、長期的には理解と納得が得られます。業務が円滑に進むような気づかいや、仕事をカバーしてくれた同僚に感謝を伝えることも人間関係の潤滑油になります。

(転載終了)※   ※   ※

 辛い治療が続き、その後も副作用に悩まされ、苦渋の判断の末、仕事を辞さなければならなかったであろう沢山の方たちのことを思うと、胸が痛む。
 そして、初発から11年、再発治療8年の私をこうして正規職員として引き続き雇用してくれている職場に改めて感謝の意を表したい。
 皆が皆、私のように恵まれた環境でないことは十分承知している。けれど誤解を恐れずに言えば、環境はある程度自分で作ることも出来るのではないかとも思う。

 高橋先生のお話にもあるように、働き手としての自分の権利や自分が働く組織の制度を勉強することは、患者として生きていくうえで必要なことだ。なんとしても働き続けたいと思ったらなおさら、情報は自分で取ってくる必要がある。

 そして、病気になる前までの働き方も当然加味されることだろう。雇用主もこの職員を手放したら自分たちにとって痛手だ、と思えば支援体制を考えてくれることだってあるのではないか。何しろ2人に1人ががんになる時代である。これまで資金をかけ、手塩にかけて育ててきた働き盛りの職員が、治療のために不本意ながら職場を去らなければならないとなれば、それは雇用主にとってもただごとではない筈。

 お前の代わりはいくらでもいる、と思われないように仕事に工夫をして、何か付加価値をつけていくことは出来ないだろうか。それが本人のモチベーションアップにも繋がると思うのだけれど。

 これもまた何度も書いてきたことだけれど、自分の病気について周りに理解を得ること、これもがん患者として働いていく上で、とても大切なことだと思う。
 色々な偏見があり、がん=死という間違ったイメージが払拭されているわけでもないのは哀しいかな、事実だ。けれど、そういった社会の風潮を変えていけるのは他でもなく、今、病気と共存している働き手自身ではないだろうか。

 伝えるべきことを伝えるべき時にきちんと伝える。それが自分を守り、自分が仕事を続けていける土台になる。むろん、病気だからといってあれもこれも出来ません、と甘えるわけでは決して、ない。
 出来ることは先取りするくらいの勢いできちんとこなす。穴は開けない。けれど、どうしても難しい時、突発的なことが起こりそうになった時には、その事情を説明してどうしたら出来るのか、どうしたら乗り切れるのかということを、周りに理解して頂けるように可能な範囲で準備する。長い目で見れば、その方がずっと働き易いのではないかと思うが、どうだろう。

 初発治療ならなおさら、のこと、どうかがんサバイバーとして働き続けてほしい。エンドレスの再発治療をしながら働いている人は決して少なくはない。
 治療中であっても、いつもいつも副作用や体調不良で寝込んでいるわけではない。QOLを落とさないように、ごくごく普通の生活を送ることが出来るのだということを、一人でも多くの方たちに見てほしい。そして理解して頂きたい。

 少しずつ、少しずつだけれど社会は必ず変わっていく。2人に1人ががんになる時代、親兄弟親族を含め、がんという病気は自分には全く関係ないと言い切れる方はどれだけいるだろうか。
 そのことを前提に、社会は変わらなければ早晩立ち行かなくなるのではないだろうかと思う。
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2016.1.27 生存率のマジック

2016-01-27 22:46:33 | 日記
 先日、国立がん研究センターが公表した10年生存率について各紙が取り上げていたが、その後、朝日新聞の医療サイト「アピタル」にこのデータをどう読み取るかという興味深い記事が掲載されたので、以下、転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)

がん10年生存率どう見る 5年以降も低下なら長期観察 石塚広志、桜井林太郎(2016年1月26日07時00分)

 国立がん研究センターなどの研究グループが19日に公表したがんの「10年生存率」。
 がんと診断された全国の患者約3万5千人を10年間追跡して集計した数値だ。どう読み取り、活用できるのだろうか。
■がんの10年生存率58・2% 部位で差、浮き彫りに
 「やっぱり10年なんだね」。21日、がん患者らでつくる鹿児島市の「がんサポートかごしま」で開かれたサロン。4人が集まり、話題は10年生存率で持ちきりだった。
 参加者の一人で、8年前に乳がんを発症した40代女性は、医師に「5年の経過観察が必要」と言われ、定期的に病院に通った。しかし、5年経って病院通いをやめた2年後に再発した。
 公表された乳がんの10年生存率は80・4%。胃や大腸の生存率は5年以降、ほぼ横ばいだが、乳がんは5年(生存率88・7%)以降も同じ割合で下がり続ける。乳がん患者の一人、三好綾理事長(40)は「経過観察の年数は病院や医師によって5年、10年と違う。やはり10年のフォローアップが必要と知った」と話す。
 10年生存率では、がんの進行度合い(ステージ)ごとの生存率も示された=表(略)。ステージ1と4を比べると、胃や大腸では90ポイント近く離れており、早期発見・早期治療の重要性がうかがえる。一方、ステージ1でも肝臓や膵臓(すいぞう)では3割を切る。また、前立腺では、ステージ3まではほぼ100%だが、転移のある4では4割以下。転移の有無が生存率に大きく影響しているとみられる。
 研究グループは、2012年から生存率解析システム「KapWeb(カップウェブ)」(https://kapweb.chiba-cancer-registry.org)を公開している。性別や年齢、受けた手術などを入力すると、自分に近い条件での生存率が出てくる。今回公表された最新データも反映されている。
 1999年に初期の子宮頸(けい)がんを発症した、「愛媛がんサポートおれんじの会」の松本陽子理事長(50)は、自分の情報をシステムに入力してみた。10年生存率は91.6%と出たという。松本さんは「入力の仕方がわからない人もいる。各地のがん相談支援センターなどで対応することも必要では」と指摘する。

■新薬登場でさらに改善
 今回のデータは、99~02年に診断された患者を分析した。国立がん研究センターの若尾文彦・がん対策情報センター長は「あくまで十数年前のデータとして参考にしてほしい。バラツキもあり、個人がその数値の通りになるわけではない」と話す。
 当時は抗がん剤や放射線治療を併用する治療がようやく確立してきたころだ。今はがん検診を中心に早期の発見・診断が進み、新薬も登場した。実際に5年生存率を診断された年ごとにみると、99年と最新の07年では全部位で63%から68.9%と5.9ポイント改善した=グラフ(略)。
 若尾さんは「08年ごろから、新しい抗がん剤や分子標的薬が出てきて、現在はもっと改善された数値になるとみられる。特に肺がんや大腸がんで期待できる。不安があれば、主治医に相談してほしい」と話す。全国に約400あるがん診療連携拠点病院には無料相談窓口もある。
 10年生存率が15・3%と低かった肝臓がんの場合、C型肝炎やB型肝炎のウイルス感染が原因になることが多い。現在はウイルスを排除したり抑え込んだりする薬があり、検査を早く受ければ、がんの発症を抑えやすくなってきた。東京肝臓友の会の米沢敦子事務局長(55)は「副作用が少なく高齢の方でも使いやすい飲み薬もある。がんに対する新しい治療や薬の治験も進んでいるので、希望を持ってほしい」と話す。
 今回のデータは全国16病院の約3万5千人分だが、1月からは、がん患者の個人情報や治療歴を国がデータベース化して一元管理する「全国がん登録」が始まった。全国9千近くのすべての病院などのデータを集め、発症数や生存率を把握できる。地域差や施設差が明らかになれば、その原因を探って対策をとり、生存率の改善につなげることもできる。部位やステージだけでなく、がん細胞のタイプなどによる生存率がわかれば、患者の状態ごとによりよい治療方法を選ぶための参考にもなる。
 数値が患者に不安を与えることもあるが、愛媛がんサポートおれんじの会の松本さんは「こうした『見える化』は患者にとっても大事。医師との議論に活用できる。私たちが残したデータを次の世代に活用してもらうことも重要」と話す。<アピタル:もっと医療面・がん>

(転載終了)※   ※   ※

 様々ながんの中でも、こと乳がんについては予後が長いことが知られている。患者会でも初発から10年以上経過した方が少なくないし、その後に再発した方もいらっしゃる。
 私は初発ステージ1、温存手術後の放射線治療から3年が経過する直前、5年予定のホルモン治療(ノルバデックス内服)中に再発・多発転移が判明した。2008年の1月、もう8年前のことになる。あの時には、あと5年生きられるのかどうかと覚悟したことはこのブログでも何回も書いたとおりだ。

 けれど、これまでの間、その時その時に自分自身が納得した治療を、絶やすことなく続けながらこうして命を繋ぐこと8年余り。
 当時、再発治療を10年続けられるのは20人に1人と言われていた。10年生存率5%ということである。当然、今回発表された調査は、今を遡ること10年前を起点とした調査に基づく統計上の数字だから、そこにタイムラグが生じるのは上記の記事にあるとおりである。
 なんとなれば、当該調査の時点では使うことの出来なかった分子標的薬等の新しい薬が次々と開発されて、10年前には使うことが叶わなかった数々の薬のおかげで命を繋げているわけだから。

 だから、ここに示されている生存率はあくまでも過去のもの。今から将来を生きる私たちはもっと長くなっていてしかるべきだ。

 ちなみに私のケースをKapWeb(カップウェブ)で試してみた。
 2005年2月にステージ1,43歳(40代)で初発、現在まで11年が経過しているから、診断から現在までの生存日数は4000日超えているのだが、ここでは10年の3650日までしか設定できないのでそのとおり入力し、部位等を選んでみた。設定が悪かったようで時間がかかりすぎてタイムアウトとなり、結局のところ答えが出なかった。

 では、と2008年1月、再発多発転移によりステージ4になったわけだから、その時の年齢(同じく40代)で入力し、診断から現在までの8年間2920日の生存期間を入れたところ、グラフは2年で止まっており、5年生存率も10年生存率も出てこなかった。
 症例数は10件で、実測生存率は1年が0.7、2年が0.6であり、相対生存率(がん患者ががん以外の病気で亡くなる分を実測生存率に「かさ上げ」した補正済みの生存率)は各々0.711、0.611とあった。
 1997年から2002年の5年間でステージ4と診断された40代の女性乳がん患者が既に8年生存している場合、あと1年の生存率は0.7、あと2年の生存率は0.6ということらしい。

 けれど、実際に私が知っているだけでも、私よりも長い間再発進行乳がんと共存している方は一人や二人でない。だから、今回示された数字よりも間違いなく現在の生存率はアップしているのではないだろうかというのが、患者会や実際の患者仲間と接していて感ずることである。

 もちろん部位により予後も異なるし、新薬の開発状況もさまざまだろうけれど、ひとつだけ間違いないことは、この10年で医療は確実に進歩しているということ。
 私が初発の手術を受けた11年前と現在、状況は驚くほど変わっている。

 だから、これからこの病気と共存していくことになった方たちには、ここに出ている数字を見て落ち込みすぎることなく、希望を持って頂いてよいのではないかと思うのだが、いかがだろう。

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