ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2023.8.7 週の初めは読書とヨガでリラックス

2023-08-07 23:01:26 | 読書

 昨夜も就寝が遅くなる。明日仕事に行かないでよい、という生活はどうも後ろにズレがちである。少し涼しいのでエアコンを入れずに休みたいな、と思うと夫を和室に追いやることになる。それでもお互い快適に眠れる室温がかなり違うのは事実なので、無理にどちらかが我慢するのはよろしくないだろう。

 週初めの月曜日、出勤は息子一人。目覚ましとスマホアラームが時間差で鳴り、のそのそ起きる。息子はまだ起きていないが、隣の部屋でアラーム音が鳴り響いている。
 朝の瞑想ヨーガを終える。いいお天気だ。
 息子を送り出してから夫と2人で朝食を摂る。

 「寄り添い方ハンドブック」でお世話になった花木裕介さんが新書を出したというメールを頂いたので、早速ポチッとしてあった。「キャンサーロスト 『がん罹患後』をどう生きるか」(小学館新書)。昨夜冒頭の触りだけ読み、朝食後の1時間ほどで読み終わった。
 帯には「今や5年生存率は66%、生涯付き合っていく病気だからこそ『治療を終えてからの人生は、想像以上に長くてつらい』」と。
「実はこんな言葉に罹患経験者は傷ついています 『座っているだけでいいんだよ』『できなくたって仕方ないよ』『大変な仕事を任せるのは悪いなぁ』『命が助かっただけでも良かったよね』 自らも38歳で『ステージⅣ』の中咽頭がん宣告、1万人の罹患経験者と接してきた著者からのアドバイス 名医でも手術でも薬でも治せない『がんサバイバーの苦悩』との向き合い方」ともある。

 まさにそうだなぁと思う。まあ、私の場合は再発・転移組だから治療を終える=終末期もしくは死であるから、治療を終えてからの人生はそれほど長くはない筈なのだけれど、初発治療を終えてから、と読み替えれば、もうすぐ20年、相当長い道のりを過ごしてきているわけである。
 去年実施された「キャンサーロスト」のアンケートには私も協力させて頂いた。「キャンサーギフト」という言葉はもうかなり一般的だけれど、「キャンサーロスト(がんを抱えながら生きる難しさ)」という言葉はそれほど知られていないのではないか。

 本文にもあったけれど、罹患経験者本人が「キャンサーギフト」というのは「あり」かもしれないけれど、それを(罹患経験者でない)他人様から当然のように言われる言葉ではないと私も思う。
 43歳で初発、46歳で再発・転移した私は、職業人として残すところ15年を割っていた。それでも仕事人生をある意味「諦めて過ごす」には決して短い時間ではなかった。

 だから30代での罹患とそれに伴うキャンサーロストは名実ともにかなりキツイものだと思う。職場で必要以上にお客様扱いされるのも、健康な人以上に頑張らせられるのもどちらもつらい。
 今後の病状の進行等、明白に先が見えないから無責任に安請け合いも出来ない。とはいえ、いつもいつも具合が悪いわけではない。そうした心と体の折り合いをつけながら、我ながらよく15年間近く粘ったものだ、と今更ながら思う。

 夕飯の下ごしらえの後、読書と片付けを終えて、昼からはM先生のリラックスヨガのクラスに向かった。夫は何やら朝食後、やけに静かだと思ったら、ベッドで食休みどころかしっかり朝寝である。出かける時に声をかけたけれど、全然びくともしなかった。

 今日の参加者は20名ちょっと。明日は立秋ですね、とお話がスタートした。この暑さで秋の訪れはピンとこないけれど、日の入りは間違いなく早くなっている。
仰向けの呼吸観察から座りポーズ、四つん這い、ダウンドッグ、プランクの後、うつ伏せでコブラのポーズやバッタのポーズ、最後はシャヴァーサナ。たっぷり汗をかけた。
 シャワーを浴びて、夫にLINEをする。まだ寝ているのかなかなか既読にならない。ドラッグストアで牛乳等を買い足して帰ると一応連絡したら、「起きた、荷物を持ちに行こうか」と返事が来た。お昼もまだ、と言うので、では、とファミレスで合流してお昼を一緒に摂って帰ることにした。

 ランチをシェアしてドリンクバーも頼んで、更にデザートも追加。まさか外でお昼を摂ってくることになるとは思わなかったので、Tシャツ一枚で羽織りものを持っていなかった。店内はギンギンに冷房が効いている。お腹が冷えてきて寒くなって早々に出た。
 訊けば起きたのは昼過ぎだとのこと。延々3時間近く朝寝したようだ。凄い。

 帰宅後、それまで快調だったお腹が、案の定壊れてまた下痢になった。門前薬局の薬剤師のIさんからご機嫌伺いのLINEが届いて、土曜日についつい食べ過ぎてお腹を壊したけれど、今日は快調です、と報告をしたばかりだったのに。
 帰宅後はソファと一体化してドラマの録画を視て休息。夕方、夫はジムに向かった。
 母にMeet通話。今日はデイサービスに行き、夕食は自分で煮物を作ったとのこと。食器棚がガラガラになって食器が取りやすかったそうな。さもありなん。1日30分でもいいから頑張りましょう、と励ます。

 息子は残業。先に夫と2人で夕食を済ませたところで帰宅した。駅を降りたら土砂降りで折りたたみ傘を差したそうだが、可哀想にかなり濡れての帰宅になった。

 食後はオンラインでR先生の「暑くて寝苦しい夜に!ぐっすり眠れて夏疲れを乗り切る『快眠ヨガ』」の1回目。(計4回)
 「質のよい睡眠をとるには、体と心がリラックスできていることが大切。しかし、暑くて寝苦しい夏はなかなか寝つけなかったり、暑い室外とエアコンで冷えた室内との往復で自律神経のバランスが乱れたり…このままでは暑い夏が乗り切れない!8月は、いつもより少しリラックステイストの『快眠ヨガ』がテーマ。体の疲れやコリをオフするリラックスヨガと、「ヨガの眠り」とも呼ばれるヨガニードラを組み合わせたレッスンを行います。ヨガニードラは10分で1時間の睡眠と同じリラックス効果と言われています。自律神経を整えてみなさんを快眠へ導きます。」に参加。

 初回の今日のテーマは「お疲れ下半身のむくみ解消→疲れたりむくみが出やすい下半身を中心にほぐしていきます。後半はヨガニードラにトライ。」で、夜ヨガでは自分がリードさせて頂くヨガニードラに受講者の立場として参加した。
 心地よく身体を動かして、寝落ちはしなかったけれど、このまま眠れたら幸せ、である。
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2019.2.23-24 通院用に買い求めた筈だったけれど・・・

2019-02-24 20:37:26 | 読書

 2月最後の週末だ。来月からは、これまで3週間に1度だった通院が2週連続3週目休み、と倍になることが確実になった。このところすっかりペースが落ちていた読書の時間も倍になる!ということで新刊の新書を数冊買い求めた。
 それが手に取ってみたら止まらなくなって、結局この2日で2冊を読んでしまった。

 1冊目は坂井律子さんの「<いのち>とがん 患者となって考えたこと」(岩波新書)。
 この朱色に黒のひらがなだけの表題がいきなり目に飛び込んできて、迷わず手に取った。既に著者が他界されているとも知らず。

 この本を読み始める前に、たまたま本書を紹介した朝日新聞の記事「がんとともに がんのTVディレクターが知った『死の受容の嘘っぽさ』」を読んで息を呑んだ。
1960年生まれで、私より1つ年長でおられるけれど、就職は1985年だから働き始めたのは男女雇用機会均等法施行前の同期社会人だ。我が息子より少し年長の一人息子さんがおられる家族構成も同じ。
 私は患者歴が既に15年近くになっているので、仕事に至っては細々と・・・のフルタイマーだけれど、この方は2016年4月に山口県への単身赴任を終えて東京に帰任後、ほどなくして進行した膵臓がんが発覚する。NHKのディレクター、文字通りバリバリのキャリアウーマンである。福祉や医療の番組を制作され、ライフワークは出生前診断をどう考えるかだったという。

 この本は、手術ときつい抗がん剤治療を乗り越えた挙句、再々発の告知を受けた昨年2月から亡くなる11月にかけて書かれた書である。あとがきは病室で口述したものを息子さんが筆記したそうだ。保育園の帰路に息子さんが好きだと言った「ホソイオツキサマ」のエピソードから、三日月の写真を撮影されたのも息子さんだという。
 2年半余りの、ご本人も書いている通りのジェットコースターのような闘病生活、復職はついに叶わなかった。けれど、TVの伝え手としてより正確に真実を記そうとしつつ、死を見つめる一人のがん患者としての揺れる思いに徹頭徹尾ノックアウトされた。

 副作用の味覚異常で、食べられたものリストでは酸辣湯や冷やし中華、ジャンクな味の濃い焼きそば等、あまりに似ていたので、勝手に、そうそう、と親近感を持ったり。都内とはいえ、自宅からは遠いのでまだ訪れたことがないが、一度行ってみたいと思っているマギーズセンターの様子を興味深く読んだり。
 5歳年下の友人カメラマンに乳がんが再発し、昨年6月に見送ったエピソードにも胸を揺さぶられた。遺影はスキンヘッドだったが、棺の中の彼女には2ミリ程度の黒々とした髪の毛が生え始めていたという。生きたかったんだろうと思う・・・、というくだりに目の前が見えなくなった。
 胸腺腫で亡くなられたお父様が最後まで治療法を模索しておられたことも。

 死の受容なんて嘘っぱち、きれいごと。本当にそうなのかもしれない。心穏やかに、潔くなどとわかったようなことを言っている私だけれど、死を受け入れてから死ぬのではなくて、ただ死ぬまで生きればいいんだと思うーという彼女の魂の叫びにも似た文章に、やられた。

 2冊目は片田珠美さんの「一億総他責社会」(イースト新書)。
 なぜ他人の幸福や、活躍が我慢できず、「自分だけがつらい」と訴えるのか。気鋭の精神科医が迫るという帯につられて、手に取った。

 現代社会の行き詰まり感、閉塞感に苛まれている人は多い。
「互いに被害者意識を抱き、刺し合う現代社会。ベテランと若手、正社員と非正規、家庭持ちと独身、男と女、夫と妻・・・。立場の異なるものが互いに『自分だけが損している』と訴え、相手の悪口を言う。ときには「自分は“被害者”なのだから、“加害者”である相手に鉄槌を下す権利があるはず」と信じて攻撃する。誰もが被害者意識を抱いて不満と怒りを募らせ「自分だけがつらい」と訴える現代社会の構造を分析する。実際に診察したケースや時事問題などの具体例を挙げながら、より弱い者に怒りを向け帰る「置き換え」となんでも他人のせいにする他責的傾向をキーワードに鋭く切り込む」~という惹句にあるとおりで、のっけから巻き込まれるように読み進めた。

 程度の差こそあれ、不平等を嘆き、妬み、羨むのは哀しいかな、人の性(さが)なのかもしれない。けれど、羨望の対象の失墜に熱狂する世間、弱った人をここぞとばかりバッシングする悪意に満ちた匿名のネット世界等のエピソード等、背筋が冷たくなる感じ。
 矛先がずれた無関係の相手に怒りをぶつけられてはたまらないし、怒りをため込んで病気になってもたまらない。

 過度に要求されるコミュニケーション能力、空気を読めという無言の圧力の結果として、鬱憤をぶつけられるサービス業の方たちは本当に気の毒だ。悪質なクレーマー、モンスター○○級の人たちの増加も恐ろしい。
 最終章では、こうした現代社会~平成から次の御代への過渡期~を生き抜く処方箋が記されている。
 身も蓋ないと言われても、魔法のような解決策はないというのは正直なところだろう。そして格差が拡大する中で、公平さを望みすぎるな、他人と比べるな、とあるが、つまるところそうなのだろうと思う。

 他人(ひと)と比べることはどんどん自分を辛くする。努力したら報われるならそれがベストだけれど、実際は必ずしもそういうわけでもない。それでもたゆまず腐らずコツコツと続ければ必ず見ていてくれる人はいる-これは間違いない事実だと思う。やっても無駄だから、と放置したって何も始まらない。事故だって病気だって、畢竟、運・不運の問題だ。自分の置かれた場所で自分が出来ることを精一杯やるしかない。
 自分自身の不遇を他の誰かのせいにして幸せになった人はいない・・・そのことを忘れてはならないという一行に凝縮されている1冊だった。
 
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2019.2.21 読みました! 大津秀一先生の「1分でも長生きする健康術」

2019-02-21 21:52:55 | 読書

 「2000人の終末期患者を診療した医師が教える 1分でも長生きする健康術」を読んだ。隠れファンを自認している緩和医療医・大津秀一先生の新刊だ。
 ベストセラー「死ぬときに後悔すること25」をはじめ、先生の著書や新聞連載等はこれまでずっと拝読してきた。今も先生のブログを愛読し、メルマガも登録させて頂いている。

 先生は早期緩和ケア(診断時やがん治療中からの緩和ケア及びがんに限らない緩和ケア)の普及・実践のため、昨年8月に遠隔診療を導入した日本初の早期緩和ケア外来専業のクリニックを開院された。機会を作ってぜひ一度伺ってみたいとも思っている(ミーハー・・・)。
 さて、先生のブログやメルマガでこの度新刊が出ると知り、早速ポチッとネットで購入。届いたのが昨夜のこと。今日は都心出張で読書タイムがたっぷりあったので、いそいそと持参し、往復でさらっと読み終えた。

 何よりとても平易で読みやすく、難しい言葉はない。ごくすんなり頭に入ってくる。帯には「科学的に証明された食事×運動法でお金をかけずに健康寿命を延ばす! 今日から!カンタンに!誰でもできる!」正しい情報に基づいた心掛けで“人生100年時代”はもっと長~く楽しめる」とある。

 まあ、ステージⅣ歴患者を10年以上やっている私が人生100年は欲張り以外の何物でもないけれど、それでも学ぶところは沢山だ。先生の仰る長生きの鍵は3つ。「情報」・「食事」・「運動」だ。
 なるほど、今は情報戦の時代。PCをちょっとクリックすれば、それこそ玉石混交の情報がどーんと押し寄せてくる。何が正しくて何が誤っているのか。それを見分けるリテラシー、取捨選択する力がないと本当に痛い目に遭う。限られた時間、後悔先に立たず、である。がん患者の弱みに付け込む詐欺まがいの治療情報を流す輩がいるのも悲しいかな、事実。だからこそ科学的根拠に基づいた信頼できる情報をセレクトしないといけない。
 あまりに安易な話、シングルイシュー化されたファストな言説~いわゆる手軽で便利なもの~こそ私たちをダメにしている、と先生は書かれている。

 2人に一人ががんになる時代。基本、がんにはなると思っておいたほうがよい、というのも実に明瞭な論法だ。つまり、あなたと私がいたら、どちらかがかかるのですよ、ということ。そして、がんになってからでも健康の基本は食事と運動である。バランスの良い食事をし、適度な運動をする。これはがん患者に限らず誰にでも通じること。○○を食べるだけでよい!なんて偏ったことがある筈はない。
また、“ヨガでもラジオ体操でも「続けられる運動」を”とある。ハイ、やっています!と思わずにんまりする。
 何事もやり過ぎは良くない。ほどほどに、バランスよく。笑顔で美味しく感謝しながら食事をして、適度に体を動かしてきちんと疲れて心地よく眠る。そんなの当たり前だ、と言うなかれ。それこそなかなか万人が出来ることではないのだから。

 「抗がん剤治療のキモは、将来やってくる痛みや不調を出来るだけ先延ばしにするために今、ある程度の不調を受け入れることであり、それが理解できていないと辛い。今がんによる自覚症状が出ていない人は、辛い副作用を受け入れ難いのではないか。その点、私は現にある痛みや不調が治療によって軽減された体験を持っているから、ある程度辛い治療も受け入れることが出来、ある意味幸せなのだと思う。」とこのブログでも書いた記憶がある。まさしくがん医療が不信を生じやすいのはそういうことだ、と先生も書いておられる。

 ともあれ書き出すともうきりがないけれど、とにかく読み終わってとてもすっきり。今の感じで進んでいけばいいのだな、という確信が持てて再び治療に前向きになれそうだ。

 今日は、先日撮影した遺影の写真を受け取ってきた。前回EC治療の脱毛前に撮った遺影から既に6年以上が経過し、あの写真を使ってはもはや詐欺でしょう!と思って再び撮影し直したのだ。この後「あら、また6年経ってしまったわ~、撮り直さないと」と笑って言えるかどうかは神のみぞ知る。
 人は生まれてきたからには必ず死んでいかなければならない。がんであれ、別の病気であれ、老衰であれ。だからこそ、最期まで笑って今ここにある幸せを感じながら過ごせたらこんなに素敵なことはない。 

 1分でも健康で長生き!この本をまた指南書としてこれからの日々を送ってきたいと思う。お薦めです。
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2017.12.19 言葉は蓄積する~悲嘆の門

2017-12-19 21:34:21 | 読書
 久しぶりに宮部みゆきさんの作品を読んだ。「悲嘆の門」(上・中・下)(新潮文庫)。
 合計1,100頁、これほどの長篇、そして物語らしい物語を息もつかさずに読ませて頂いたのはとても久しぶりだ。そして、私の心に残った言葉が今日の表題の「言葉は蓄積する」という主人公の上司の言葉だ。
 “書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句でさえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。つまり<蓄積する>。言葉は消えない。溜まっていく。その重みはいつかその発信者自身を変えてゆく。
 「英雄の書」(上・下)(新潮文庫)と対を成す物語だというけれど、こちらは未読だ。それでも十二分に楽しむことが出来た。
 
 帯には上巻に「切断魔による猟奇殺人 全国で見つかる身体を切り取られた死体。そして、新宿のビルの屋上から会仏像が消えた・・・。あなたに会いに来たのよ 少女は問うー」というおどろおどろしい文字が躍る。そして中巻には「第五の事件、怪物の降臨。 幸太郎の前に現れた謎の美少女と、クマーを襲う悲劇。慟哭と悔恨を経て、青年の胸に決意が宿る。おまえは後悔する “物語”は終焉へー」と、下巻では「犯人を生んだ悪の物語。連続殺人を追う元刑事・都築と幸太郎。だが、憎悪の連鎖は身近な少女に迫っていた。」と。
 
 裏表紙にあるサマリーをかいつまんでご紹介すると、“主人公はインターネット上に溢れる情報の中で、法に抵触するもの、犯罪に結びつくものを監視、調査するサイバー・パトロール会社「クマー」でアルバイトをする大学一年生、三島幸太郎。
 全国で起きる不可解な殺人事件の監視チームに入ることになるが、その矢先、同僚の大学生が行方不明になる。失踪した同僚を探す中、西新宿のビルで元刑事・都築に出会う。2人を待ち受ける“怪物”と呼ぶべき存在、謎の美少女ユーリとの遭遇。
 主人公が尊敬し、あこがれる社長を悲劇が襲う。悪意による言葉(物語)が拡散し、汚濁に満ちた闇が日常へと迫る中、正義と復讐に燃えた主人公は、ある決断を下す。お前は後悔するーという守護戦士の度重なる忠告に耳を貸さず、連続切断魔の特定に奔走する。
 なぜ、惨劇は起き、どうして憎しみは消えないのか。犯人と関わる中で、主人公の心もまた、蝕まれていく。一方、主人公の妹の友人の周囲で積み重なった負の感情が、新たな事件を引き起こす。都築やユーリの制止を振り切り、主人公が辿り着いた場所<悲嘆の門>が、いま開く”。

 ジャーナリストの武田徹さんが解説を書いておられるが、“ネットに一度書き込んだことは、たとえ本人が削除したところで消えることはない。期待や妄想や情念、一時の感情に駆られて書き捨てられた暴言や誹謗中傷がネット上には蓄積される。”―まさにそうなのである。
 物語の中で「言葉という精霊(すだま)」という言葉があるが、「言葉がなかったら、誰も物語を語れない」一方で、「言葉の始原についての語りは、物語である」はあまりに正しい。言葉を使う動物である私たち人間は常に「物語」の中にいる。

 日々、私たちが言葉にして想うこと、それが善であれ悪であれ、全て自分を形作っている。見る人が見れば自分の器である外観とは違う黒い大きな巨人の影が見えていたら・・・。そう考えると、その恐ろしさに息を飲む。
 ネット上で、匿名だから何を書いてもいい、誰かを傷つけるのはハンドルネームのネット上の自分で、本当の自分とは無関係。そんなことはあり得ない。

 “『悲嘆の門』の正しい読書法のひとつは、決定できない目眩のような感覚を存分に味わい、楽しむことだと思う。その経験は、フェイクニュースや日々ネット上に吐き出される暴言の類までも生み出しながら、「物語」を盛んに更新し続けているネット社会のリアリティを知り、自らもその被害者にならずに生きるために必要な「物語」に対する適度の距離感や、「物語」への免疫力を身につける機械にもなるのではないか」という武田さんの解説の言葉の重み-こうしてブログという発信をしている者の一人としてそのことを感じざるを得ない。

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2017.12.18 いつもこの本を心のどこかに~死ぬときに人はどうなる10の質問

2017-12-18 21:33:02 | 読書
 愛読している緩和医療医の大津秀一先生のブログで、「死ぬときに後悔すること25」(このブログでも紹介させて頂いたことがある。)の続編が文庫化されたと知り、早速注文して拝読した。光文社知恵の森文庫の最新刊である。

 帯には「“最期の時”について考えてみませんか?」とある。
 裏表紙には「悩みのない人間はおらず、だれもが生きる上でそれぞれの問題を抱えています。私がその問題を解決することは、残念ながら出来ません。しかし、皆さんが自分の問題を解決するときに力となる方法が一つあります。(中略)それは、死を考えること、なのです。自らの死を、です」(本書より)とある。

 人が色々なことに不安になり、一番恐怖を感じるのは「わからないこと(経験したことのないこと)」に対してだという。わかっていることなら対策も立てられるし、自分であらかじめ準備をすることもできる。けれど、こと自分が死ぬということについては自ら予習して体験してみることが出来ない。三途の川を渡りかけたけれど、蘇生しましたという人が、そのお花畑のような情景を語るなどということもあるようだけれど、本当の意味ではまだ亡くなっていないわけだから、実際に死出の旅に出た人から話を聴くことは叶わない。

 先生のこの書は、題名のとおり10の質問とその答えから成っている。
 1 死を語るあなたは何者ですか?  -こういう人間です。
 2 死ぬときに人はどうなりますか? -こうなります。
 3 人はどんな風に思って死んでいくのでしょうか? -迷いながら、受け入れて、です。
 4 人は死期を語るのでしょうか? - おそらく、そうだと思います。
 5 健康に気を使っていれば、死ににくいですか? -そんなことはありません。残念ながら。
 6 なぜ死を見つめることが必要なのですか? -人間は意外に楽観主義だからです。
 7 死後の世界について言い切らないのはなぜですか? -死後の世界も、人それぞれだから、です。
 8 孤独死は不幸でしょうか? -必ずしもそうではないと思います。
 9 死とは不幸ですか?死ななければ幸福ですか? -物質的な成功では死を乗り越えがたいのは事実です。
 10 死をも左右する力を手に入れた人間は、本当に偉いのでしょうか? -偉くもあり、愚かでもあります。

 詳細は是非手に取ってお読み頂きたい。
 特に2についてきちんと自分で理解しておくことは本当に必要だ、と思った。死に至るまでの経過は3つに分類される。そのうち、がんという病は比較的長い間機能が保たれ、最後の2か月くらいで急速に機能が低下するものだ。特に今では医学の進歩により薬でかなりコントロール出来るようになったせいで、最後の経過があまりにもあっという間で、あんなに元気だったのに、なぜ、と本人だけでなく周りの家族も受けいれるのがとても難しいという。

 余命が週単位になった時の症状は、全身倦怠感、それも普通の程度のものではない、なんとも形容しがたい辛さだという。ステロイドでそれが緩和出来なくなってきたら、命が終息するまでの時間はかなり短くなっているということだろう。それを知っていれば、そうなる前にやれるべきことはやっておかなければならない、動けるうちに動いておく、ということを肝に銘じておかなければ、と思う。
 その後の余命日単位、余命時間単位の描写は読みながらかなり辛いものだったけれど、それでもきちんと頭に入れておかなければいけないと思った。言いたいことは言えるうちにきちんと伝えておかなければ、と強く思う。
 そして、家族にもこのことをきちんと知っておいてほしいと思う。
 聴覚は最後まで保たれるというのは今ではよく知られていることだけれど、この段階において患者は既に苦痛から解放されて夢の中にいるような状態にあり、一方で声がしっかり聞こえているだろうということだ。だから、家族にとって、辛そうに見える(本当はもう辛くない)患者の傍らにいるのが辛くとも、最後まで患者のそばにあってほしい、耳元で優しく語りかけてあげるのも良いだろう、と書いておられる。

 現代は死を話題にすることがタブーにされ過ぎている時代なのだと思う。いつのまにか家で亡くなるよりも病院での死が多くなり、人の死を身近に見ることがなくなって久しい。
 けれど、冷静に考えれば皆、生身の人間なのだから、いつかは必ず死んでいかなければならないものだ。そして、今この瞬間を生きていられるのは本当に奇蹟なのだけれど、そのことを忘れすぎている、と思う。

 こうして10年近く再発治療を続けている私でさえも、もしかしたらこのまま薬で完治する日がくるかもしれないという一縷の希望がないといったら嘘になる。
 けれど、きちんと今を生きるために、死ぬことをきちんと考えることはとても大事なことだと改めて思う。
 先生のこの書は、いつも心の中に持っておかなければならないと思うのである。


 
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