今朝早く、たぁさんが旅立たれたという連絡を頂いた。
遠からずそういう連絡があるということを、頭では分かっていたつもりだった。
けれど、体と心がその事実をなかなか受け付けてくれない。
僅か1週間前に3時間もの長い時間、語り合うことが出来たのだ。
お暇する時には、玄関迄ご自身の足で歩いてきてくださり、ハグをして「またきっとお会いしましょう。」と手を振ってきたのだ。
本当に神様がくださった奇跡のような時間だったのだ・・・と今、唇を噛む。
呆然としている。
私より6歳年下で、同じ6月生まれの一人っ子。読書好きで想像力、ユーモアともにとても豊かなチャーミングな方。かつて西日本新聞に連載されていたエッセイ等を拝見するにつけ、その筆力には目を見張るものがあった。
同じ2005年に初発。再発したのも同じ2008年だが、私の方が少し早かった。不思議なほどいろいろな共通点があった。
ブログにコメントを頂くようになり、ある方を仲介にアドレスの交換をすることが出来、彼女から初めてメールが届いたのは去年の5月のこと。リアルな交流を始めてからまだ1年も経っていない。が、その間にどれほど沢山のやりとりさせて頂いたことか。
脳転移が判明した後、果敢にガンマナイフ治療を受け、複数の病巣を見事に消失させた。
ブログ上の臨場感溢れる報告レポートには、一体どれだけ沢山の方たちを力づけられたかしれない。
そんな彼女との、メールだけのやりとりに飽き足らなくなった頃のこと。
11月、たぁさんに逢うことを切望しながら叶うことなく旅立たれたアッピアさんの写真を持って、翌12月、思い切って彼女の住む街へ、飛んだ。
その時はご自身で運転し、最寄駅迄お迎えに来てくださり、ともにランチを愉しみ、その後はクリスマスコンサート会場へ移動、さらにまたお茶をし、日の長い土地でも辺りが真っ暗になる頃、駅迄送って頂いた。
キツい治療中の身であるから、決して無理はしないで、もし1時間でもお茶をすることが出来れば嬉しいので、と申し出ていたにもかかわらず、半日以上フルにお付き合い頂いたのだった。
感じていたとおりの凛とした素敵な女性。初めて逢ったとは思えないほど話が弾んだ。初対面ではとても話せまいというような、お互いの家の事情などもすんなりと打ち明けあった。そして「ブログを通じ憧れていた。こうしてお会い出来るなんて夢のようだ。もしよければ自分のことを妹だと思ってほしい。」とまで言って頂いた。闘病しながら3人のお子様を育てておられるしっかり者の彼女に、こんな頼りない姉で良かったのかどうか。
以来、兄弟姉妹のいない私にとって彼女は大切な妹になった。
予約しているホテルはツインだし、もし許すことなら一緒に泊まって頂いてお喋り出来たら・・・、とまで思うほど。とても時間が足りなかった。そして「必ずまた会いましょう。」と約束した。「今度は私がそちらに行けるように頑張ります。」とおっしゃって。
その時から、彼女との連絡は専らLINEになった。お好きだという編み物で素敵なマフラーを2種類も編んで送ってくださった。私の大好きな色―お嬢さんが私の写真を見て選んでくださったという―だった。この冬、どれだけ毎日活躍したかしれない。どれほど根を詰められて編んでくださったのか・・・と思うと、やるせない。
今年になり、もはや治療薬が尽きたと聞いた。
待望の新薬T-DM1の薬価が決まらず、11月の予定だった販売が4月にずれ込むということだった。そのT-DM1の治験に参加される直前に2回目のガンマナイフ治療を終え、2月末に入院された。しかし、1回目のT-DM1投与後に胆嚢炎、脊髄転移が判明し、引き続き放射線治療をされ、一旦は、生死を彷徨うほどの容態であったが、なんとかこれを乗り越えられた。けれど、体力的に2回目のT-DM1投与が叶わない状態である、とのことだった。
4月1日のこと。そう、桜満開の息子の大学入学式だった。お花見も叶わず入院が長引いている彼女に、少しでも春を感じて頂きたいとLINEで桜の写真をお送りした時、「突然ですが、今日退院します。」とお返事があった。
が、その退院の意味することを理解した時に、絶句した。
それ以降、どうか12日にそちらに伺うまで待っていてください、と祈り続ける毎日だった。
そして、彼女は私との約束をきちんと果たしてくださった。
彼女は、見事なほど正確にご自分のことをわかっておられた。常に冷静に自らの病状を分析し、決して人任せにすることなく、ご家族と過ごす時間を大切にしながら、果敢に辛い治療を続けてこられた。
合言葉は「細く長くしぶとく!」―何度そう言い合ったことかわからない。
こうして言葉にすると薄っぺらくなってしまうのだけれど、本当に、本当に良く頑張られた、お疲れ様でした、と思う。
まだ小学生、中学生、高校生の3人のお子様たちとご病気のお母様を遺して逝かなければならなかった彼女の無念を思うと、言葉が、ない。
唯一の救いは、最期の日々を病院で複数の管に繋がれることなく、ご自宅で、最愛のご家族に見守られて穏やかに旅立たれたということか。案じていた痛みは、お目にかかった時には、コントロールされているので大丈夫、とのことだった。
もちろん、その陰にはご家族の方々、訪問看護師の方々のご準備の大変さも並大抵ではなかったのだろうと察せられる。
彼女から最後にLINEの連絡があったのは、12日にお会いした折に撮らせて頂いたお子様たちや猫ちゃんの写真をお送りしました、と連絡した火曜日、その御礼だった。
「家族皆に逢って頂けて嬉しかった。これからもどうぞよろしくお願いいたします。長男と○○さん(我が息子)がお友達になってくれればよいのですが・・・」と。
東京からの郵便が届くには、大抵は中1日かかるようだった。木曜日に到着したのではないかと思うのだが、いつもなら到着すればすぐに御礼の連絡が入るのに、連絡が来ることはなかった。
それでも木曜日の朝までは、私が入れたLINEは「既読」になっていた。お送りした写真は見て頂けたのだろうか。速達にするのだった・・・と悔やまれる。
お目にかかった時、「急にこんな身体になってしまって、なかなか返事が出来なくて、本当に申し訳なくて・・・」とおっしゃる彼女に「返事など心配しないで。迷惑でなければラインの連絡を続けます。既読になれば、それで十分なのだから」と別れてきたのだ。
そして、いつものように金曜日の朝、LINEで朝の挨拶をしようとした途端、「LINEに問題が発生しました。終了します。」と表示が出るや否や、画面が暗転し強制終了になってしまった。何度繰り返しても同じだった。
言い知れぬ嫌な予感がした。彼女に何があったのだろうか。いや、私があまりにしつこく連絡しすぎて、体調が優れない彼女が電源を切ったのだろうか、とも考えた。
詳しくは判らないが、どうも今までのやりとりが膨大になりすぎて、容量オーバーしたようだ。悔しいことにバックアップをとっていなかったので、彼女とのやりとりをもう一度見ることすら、出来ない。
そして土曜日の夜、息子さんによる、状況が良くないとの更新があった。
彼女がコメントに返事をすることが出来ないことをとても気にしているのをまるで肩代わりするように、刻々と増え続ける全てのコメントにその都度、丁寧に返事を続ける息子さんの心中を慮るに、胸が張り裂けそうな昨日の日曜日であった。
そして今朝早く、昨夜の訃報を知らせるご主人の更新が続いた。
繰り返し読みながら、まだどうしていいのかわからない。
飛んで行けないのが口惜しいばかりである。
12月にお目にかかった時、「私が死んでも、誰も私のことなんかブログに書いてくれないでしょうね。もしそうなったら、どうか書いてくださいね。」などと言っていたたぁさん。とんでもない。どれだけ沢山の方たちが貴女を想っていることか。
私が貴女のことをこういう形で書かなければならなくなったことは本当に辛いけれど、どれほど貴女が素敵な方だったのか、一人でも多くの方に知ってほしい、と切に思います。
たぁさん、今頃、天国でアッピアさんとお会いになって弾丸トークをされていることでしょうね。
本当に、本当に長い間良く頑張られました。
貴女の分まで細く長くしぶとく、頑張りすぎずに頑張っていきます。
沢山の勇気と希望をどうもありがとうございました。
どうぞ安らかに。いずれ必ずまたお目にかかれますからね。
合掌。
遠からずそういう連絡があるということを、頭では分かっていたつもりだった。
けれど、体と心がその事実をなかなか受け付けてくれない。
僅か1週間前に3時間もの長い時間、語り合うことが出来たのだ。
お暇する時には、玄関迄ご自身の足で歩いてきてくださり、ハグをして「またきっとお会いしましょう。」と手を振ってきたのだ。
本当に神様がくださった奇跡のような時間だったのだ・・・と今、唇を噛む。
呆然としている。
私より6歳年下で、同じ6月生まれの一人っ子。読書好きで想像力、ユーモアともにとても豊かなチャーミングな方。かつて西日本新聞に連載されていたエッセイ等を拝見するにつけ、その筆力には目を見張るものがあった。
同じ2005年に初発。再発したのも同じ2008年だが、私の方が少し早かった。不思議なほどいろいろな共通点があった。
ブログにコメントを頂くようになり、ある方を仲介にアドレスの交換をすることが出来、彼女から初めてメールが届いたのは去年の5月のこと。リアルな交流を始めてからまだ1年も経っていない。が、その間にどれほど沢山のやりとりさせて頂いたことか。
脳転移が判明した後、果敢にガンマナイフ治療を受け、複数の病巣を見事に消失させた。
ブログ上の臨場感溢れる報告レポートには、一体どれだけ沢山の方たちを力づけられたかしれない。
そんな彼女との、メールだけのやりとりに飽き足らなくなった頃のこと。
11月、たぁさんに逢うことを切望しながら叶うことなく旅立たれたアッピアさんの写真を持って、翌12月、思い切って彼女の住む街へ、飛んだ。
その時はご自身で運転し、最寄駅迄お迎えに来てくださり、ともにランチを愉しみ、その後はクリスマスコンサート会場へ移動、さらにまたお茶をし、日の長い土地でも辺りが真っ暗になる頃、駅迄送って頂いた。
キツい治療中の身であるから、決して無理はしないで、もし1時間でもお茶をすることが出来れば嬉しいので、と申し出ていたにもかかわらず、半日以上フルにお付き合い頂いたのだった。
感じていたとおりの凛とした素敵な女性。初めて逢ったとは思えないほど話が弾んだ。初対面ではとても話せまいというような、お互いの家の事情などもすんなりと打ち明けあった。そして「ブログを通じ憧れていた。こうしてお会い出来るなんて夢のようだ。もしよければ自分のことを妹だと思ってほしい。」とまで言って頂いた。闘病しながら3人のお子様を育てておられるしっかり者の彼女に、こんな頼りない姉で良かったのかどうか。
以来、兄弟姉妹のいない私にとって彼女は大切な妹になった。
予約しているホテルはツインだし、もし許すことなら一緒に泊まって頂いてお喋り出来たら・・・、とまで思うほど。とても時間が足りなかった。そして「必ずまた会いましょう。」と約束した。「今度は私がそちらに行けるように頑張ります。」とおっしゃって。
その時から、彼女との連絡は専らLINEになった。お好きだという編み物で素敵なマフラーを2種類も編んで送ってくださった。私の大好きな色―お嬢さんが私の写真を見て選んでくださったという―だった。この冬、どれだけ毎日活躍したかしれない。どれほど根を詰められて編んでくださったのか・・・と思うと、やるせない。
今年になり、もはや治療薬が尽きたと聞いた。
待望の新薬T-DM1の薬価が決まらず、11月の予定だった販売が4月にずれ込むということだった。そのT-DM1の治験に参加される直前に2回目のガンマナイフ治療を終え、2月末に入院された。しかし、1回目のT-DM1投与後に胆嚢炎、脊髄転移が判明し、引き続き放射線治療をされ、一旦は、生死を彷徨うほどの容態であったが、なんとかこれを乗り越えられた。けれど、体力的に2回目のT-DM1投与が叶わない状態である、とのことだった。
4月1日のこと。そう、桜満開の息子の大学入学式だった。お花見も叶わず入院が長引いている彼女に、少しでも春を感じて頂きたいとLINEで桜の写真をお送りした時、「突然ですが、今日退院します。」とお返事があった。
が、その退院の意味することを理解した時に、絶句した。
それ以降、どうか12日にそちらに伺うまで待っていてください、と祈り続ける毎日だった。
そして、彼女は私との約束をきちんと果たしてくださった。
彼女は、見事なほど正確にご自分のことをわかっておられた。常に冷静に自らの病状を分析し、決して人任せにすることなく、ご家族と過ごす時間を大切にしながら、果敢に辛い治療を続けてこられた。
合言葉は「細く長くしぶとく!」―何度そう言い合ったことかわからない。
こうして言葉にすると薄っぺらくなってしまうのだけれど、本当に、本当に良く頑張られた、お疲れ様でした、と思う。
まだ小学生、中学生、高校生の3人のお子様たちとご病気のお母様を遺して逝かなければならなかった彼女の無念を思うと、言葉が、ない。
唯一の救いは、最期の日々を病院で複数の管に繋がれることなく、ご自宅で、最愛のご家族に見守られて穏やかに旅立たれたということか。案じていた痛みは、お目にかかった時には、コントロールされているので大丈夫、とのことだった。
もちろん、その陰にはご家族の方々、訪問看護師の方々のご準備の大変さも並大抵ではなかったのだろうと察せられる。
彼女から最後にLINEの連絡があったのは、12日にお会いした折に撮らせて頂いたお子様たちや猫ちゃんの写真をお送りしました、と連絡した火曜日、その御礼だった。
「家族皆に逢って頂けて嬉しかった。これからもどうぞよろしくお願いいたします。長男と○○さん(我が息子)がお友達になってくれればよいのですが・・・」と。
東京からの郵便が届くには、大抵は中1日かかるようだった。木曜日に到着したのではないかと思うのだが、いつもなら到着すればすぐに御礼の連絡が入るのに、連絡が来ることはなかった。
それでも木曜日の朝までは、私が入れたLINEは「既読」になっていた。お送りした写真は見て頂けたのだろうか。速達にするのだった・・・と悔やまれる。
お目にかかった時、「急にこんな身体になってしまって、なかなか返事が出来なくて、本当に申し訳なくて・・・」とおっしゃる彼女に「返事など心配しないで。迷惑でなければラインの連絡を続けます。既読になれば、それで十分なのだから」と別れてきたのだ。
そして、いつものように金曜日の朝、LINEで朝の挨拶をしようとした途端、「LINEに問題が発生しました。終了します。」と表示が出るや否や、画面が暗転し強制終了になってしまった。何度繰り返しても同じだった。
言い知れぬ嫌な予感がした。彼女に何があったのだろうか。いや、私があまりにしつこく連絡しすぎて、体調が優れない彼女が電源を切ったのだろうか、とも考えた。
詳しくは判らないが、どうも今までのやりとりが膨大になりすぎて、容量オーバーしたようだ。悔しいことにバックアップをとっていなかったので、彼女とのやりとりをもう一度見ることすら、出来ない。
そして土曜日の夜、息子さんによる、状況が良くないとの更新があった。
彼女がコメントに返事をすることが出来ないことをとても気にしているのをまるで肩代わりするように、刻々と増え続ける全てのコメントにその都度、丁寧に返事を続ける息子さんの心中を慮るに、胸が張り裂けそうな昨日の日曜日であった。
そして今朝早く、昨夜の訃報を知らせるご主人の更新が続いた。
繰り返し読みながら、まだどうしていいのかわからない。
飛んで行けないのが口惜しいばかりである。
12月にお目にかかった時、「私が死んでも、誰も私のことなんかブログに書いてくれないでしょうね。もしそうなったら、どうか書いてくださいね。」などと言っていたたぁさん。とんでもない。どれだけ沢山の方たちが貴女を想っていることか。
私が貴女のことをこういう形で書かなければならなくなったことは本当に辛いけれど、どれほど貴女が素敵な方だったのか、一人でも多くの方に知ってほしい、と切に思います。
たぁさん、今頃、天国でアッピアさんとお会いになって弾丸トークをされていることでしょうね。
本当に、本当に長い間良く頑張られました。
貴女の分まで細く長くしぶとく、頑張りすぎずに頑張っていきます。
沢山の勇気と希望をどうもありがとうございました。
どうぞ安らかに。いずれ必ずまたお目にかかれますからね。
合掌。