おはようございます。
生き生き箕面通信2361(150611)をお届けします。
・「安保法案が違憲かどうかは、最高裁が判断する」という安倍内閣の大ウソ
こんな屁理屈で国民をだまそうなんて、「ふてぇ野郎だぜ」と思わされました。安倍政権が持ち出した論法のことです。憲法学者がそろって「安保法案は違憲」と断じたことに反論する安倍政権の論法のことです。
政権側はもっぱら菅官房長官が先頭に立って、安保法制違憲論の反論にやっきになっています。まず最初は、菅氏が「安保法制を合憲とする学者はいくらでもいる」と記者会見で述べました。ところが昨日6月10日の国会で、辻元清美委員に「では、具体的にどなたが合憲と言っているのか挙げて下さい」と突っ込まれると、ようやく2人ほど挙げたものの、結局、「数ではないと思っている」と、逃げました。逃げる時の遁辞が、「合憲か違憲かは、最高裁が決めるのだ。(憲法学者じゃない)」でした。そして、その根拠に持ち出したのが、1959年の最高裁の砂川判決でした。
しかし、この砂川判決こそが、最高裁が憲法判断を放棄することにした決定的な悪判決だったではないですか。それを、国民が知らないとでも見くびってか、最高裁が判断すると大ウソをこいたのでした。
砂川判決は、ご承知のように米軍の砂川基地反対闘争の中で出されたものです。東京地裁が画期的な「違憲判決」を出したのに対し、危機感を持ったアメリカの駐日大使が時の外務大臣に強(こわ)談判し、最高裁へ跳躍上告させて、「合憲判決」を出させた一件です。このとき、最高裁の田中耕太郎長官は、「高度な政治的問題は最高裁の判決になじまない」と、最高裁が憲法判断を停止する前例を示したのでした。それ以来、今日まで、「高度な問題」は最高裁ですべてひっくり返されて、時の政権のやることが合法化されるようになっています。
最高裁が、憲法判断を停止するなら、本当に違憲か合憲化かは、誰がするというのでしょう。最高裁は自ら「法の番人」たる役割を放棄し、時の政権がやりたいようにできる道を開いたのです。
本日のメディアの社説で見ると、読売新聞は例によって政権の広報紙よろしく、「(政府の一連の反論は)妥当な内容である」と、世論を誘導するものでした。さらに、「自民党の高村正彦副総裁が『憲法学者の言うことを無批判にうのみにする政治家』を批判しているのは、理解できる」と、持ち上げても見せました。
読売の社説の結びは、中国脅威論をあおり、「抑止力を高めるのは当然だ。国会でも、そうした観点の論議を展開してほしい」と、戦争法案の成立へ向けて尻を叩く内容でした。
他方、朝日新聞の社説は、「『違憲』法制 また砂川とは驚きだ」を見出しにしました。安倍政権が反論として主張した内容は、「牽強付会」と、上品に批判しました。
砂川判決に関しては、「争点は憲法9条のもと在日米軍の駐留が認められるかどうかであり、最高裁は違憲との一審判決を破棄し、日米安保条約のような高度に政治的な問題に裁判所の審査はなじまないとの判断を示しただけだ」と、政府側の主張は筋違いと明確に論破しました。
「最高裁はまさに砂川判決がそうであったように、『高度な政治的な問題』への判断は避けてきた」と、最高裁は憲法判断から逃げる前例に重ねて言及しました。
朝日社説が頭の部分で「牽強付会」と評した牽強付会とは、「自分に都合のいいように強引に理屈をこじつけること」ですよね。しかし、安倍政権がやっていることは牽強付会との表現では生ぬるく、国民をなめきった「大ウソ」と断じるべきでした。
伊達判決でしたね。
今なお、日本の首都圏の制空権は米軍にあることは矢部さんの本で熟知しました。
田中耕太郎。これが曲学阿世 世:時の政権 。害悪は計り知れません。日本国民を従米に縛り付けました。
ここでも立憲主義の意義が覗えるのでしょうか。
統治行為論は学説も多数説ですし,政治的な事柄を,選挙の洗礼も受けず,国民の付託を得ていない少数の人達が,裁判所の内部という非公開の場で決めちゃってもいいと思われるんでしょうか。
■枝野幸男議員 意見陳述一部抜粋:
※誤字脱字があっても気にしないでください
長谷部先生は自民党推薦として呼ばれていて、立憲主義などについては違憲をうかがうのにふさわしい専門家であると、自民党の皆様も判断されたわけです。
そして、定着した解釈の変更という、安保法制の問題点とは、お招きしたテーマの中心である立憲主義との関係で憲法適用性が問われているものです。
立憲主義について自民党の皆様も清聴に値すると判断された先生から、立憲主義違反との指摘を受けたということは、誰よりも自民党自身が重く受け止めるべきである。
長谷部先生は、自民党の皆様と異なる特別なイデオロギーや政治性を持っているわけではなく、憲法学の専門的・客観的検知から正しいと判断されれば、自民党の進める政策を支持する事を含め、中立・厳正に意見を述べられて来た方であり、自民党寄りとの誹謗があっても学者としての信念に基づき、筋を通されて来た先生であると云うことである。
小林先生については、自民党の皆様こそよくご存じでしょう。
憲法9条について、早くから改正の必要性を強調していました。
小林先生の詳細なご意見を学ぶまで、自民党寄りの偏った学者ではないかと偏見を持っていたくらいです。
その小林先生が今回の安保法制を「違憲」だと明言されている。
要するに、単にたまたまお招きした3人の先生方が、そろって違憲とおっしゃったのではなく、中立的で、むしろ自民党の考え方に近いとすら受け止められて要る方が少なくても2名も含まれている中で、一致して憲法違反との指摘を受けたということです。
その上で、4日の審査会の後に、一部から出ているその重みを無視しようとする、具体的な意見に対し2点ほど指摘したいと思います。
1つは、自衛隊発足の当時から、憲法学者の間では、自衛隊違憲論が多いとして、自分たちとは基本的な立場が異なると云う発言もあります。
しかし、そもそも自衛隊発足時の違憲論は、日本国憲法が制定され、9条についての解釈が確立する前の、言わば白字での議論であります。それに対し、今回の参考人のご意見は、いずれもこれまでに積み重ねられ、定着している政府の憲法解釈を前提として、集団的自衛権の容認などが憲法違反であると論理的に指摘をするものです。
つまり、参考人のご意見は自衛隊合憲論を前提としており、その限りで私たちと自民党とも基本的な立場は一致しています。
そして白地の状況では、批判自体が確立していませんから、条文の文言に基づく、どのような批判に導くのかが問われます。
このような場合には、方論理の問題だけに留まらず、一定の価値判断が含まれ、政治性を帯びることも避けられません。
すなわち、条文と齟齬を生じない限り、新たな批判の成立に向けた政治判断・価値判断が加わることが、「この時点では」あり得ることです。当時の方権力が法論理の専門家である学者の意見を参考にしながらも、政治的価値判断を踏まえ、当時の多数意見とは異なる結論を導いたことにも、一定の正当性がある。
これに対して参考人の指摘は、すでに確立した解釈、つまり一定の批判を前提に論理的整合性が取れないことを専門的に指摘するものです。論理的整合性は政治性を帯びる問題ではなく、純粋法論理の問題ですから、政治家が政治的に判断できることではなく、専門家に委ねるべき問題です。論理の問題と一定の価値判断・政治判断が含まれる問題との峻別(しゅんべつ)ができないのでは、法を語る資格はありません。
2つ目は、集団的自衛権容認の論拠として、「砂川事件最高裁判決」を引っ張り出し、且つ、憲法判断をするのは学者ではなく最高裁だと主張がなされている事です。
云うまでもなく、砂川判決で論点になっていたのは、個別的自衛権行使の合憲性であり、集団的自衛権行使の可否はこの裁判では全く問題になっていません。そこで示された論理は、あくまでも個別的自衛権行使の可否に関するものであり、その論理の一部をつまみ食いして、集団的自衛権行使が可能であると導くのは、判例のとらえ方に関する法解釈学のいろはのい、基本に反するものであります。
また、政府が示すように、砂川判決の論理から集団的自衛権行使容認を導きうるなら、砂川判決の後も政府が一貫して集団的自衛権行使を憲法上許されないとしてきたことを、どう説明するのでしょうか?
最高裁判決では容認されていた集団的自衛権行使を内閣の判断でできないとして来たのでしょうか?政府は、最近の安全保障環境の変化によって集団的自衛権行使の一部容認が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うする為に必要になったのだ、と言っていますが、つじつまは合いません。
仮に最近の環境変化で必要性は生じたのだとしても、法理論上は可能であったはずであり、この間の説明も「砂川判決に基づき、集団的自衛権行使も法理論上は合憲であるが、その必要がないので行使しない」、こう言ってこなければおかしかったはずです。
要するに、砂川判決と云う唯一の自衛権に関連する最高裁判例は、「集団的自衛権行使を容認したものでは全くなく、しかも、その判決が有りながら、集団的自衛権行使はできないと云う、政府見解が積み重ねられたと云う事実を踏まえれば、砂川判決は集団的自衛権行使容認が憲法違反であると云う事の補足理由にはなっても、行使容認には到底結びつきません。
この他にも、全く論理性のない批判が参考人の皆様に対して成されていますが、私の観点から別途、戦前の失敗の分かれ道の1つとなった、天皇機関説排撃運動について指摘をしておきたいと思います。
昭和10年、明治憲法において通説だった天皇機関説に対し、国会内外での排撃運動が燃え上がり、美濃部達吉東京帝大教授の著書「憲法講話」が頒布禁止処分になるなどしました。そしてこの事件が、憲法と云う観点からは、道を誤るきっかけの1つとなりました。
私は一部で言われているように、明治憲法が悪い憲法だったと思っていません。あの当時の世界の状況の中では、昭和初期までの適切な運用が続いていれば、相当程度評価できる憲法だったと思います。ところが、天皇機関説批判で、専門家でもない人達が政治的思惑や感情論で、憲法解釈の通説を排撃し、解釈を恣意的にゆがめ、その結果その後の統帥権独立の拡大解釈などへとつながって、国を亡ぼす一歩手前まで進んだのであります。
今回の騒動もあの時と同じように、専門家の論理と学識を政治家などが一方的に無視し、論理になっていない論理をごり押ししようとするものであり、同じ過ちにならないことを危惧するものである。
安倍総理は海外において「法の支配」を強調しておられます。国内において「法の支配」とは法に基づかない権力行使を行わないと云う事に他なりません。
そして憲法は、権力が守らなければならない基本中の基本となる法です。その解釈を、専門家の指摘も無視して一方的に都合よく変更すると云う姿勢は、法の支配とは対極そのものです。国際社会において、法の支配を軽視し、力による現状変更を進める中国やロシアを強く非難するのは当然です。
しかしそのご本人は、国内では、ロシアや中国と同じように法の支配を無視していると云う事を指摘せざるを得ません。まさに同じ穴のムジナであるという事を申し上げ、意見陳述と致します。
裁判官は法の番人だから「違憲状態」との判決は出来ます。
しかし政治や軍事の専門ではないし外交権も無い裁判官(国民の負託を得てない)が高度な政治判断を出来るわけがない。
裁判官の裁量で日米安保を破棄して自衛隊を解体したら日本は直ぐに侵略されます。
憲法守って国を失う事が正しい判断と言えますか?
だから最高裁は違憲か合憲かの判断は出来るが、最終的には政府の裁量権に任せる事になるんですよ。