お早うございます。
生き生き箕面通信1934(140409)をお届けします。
・集団的自衛権は「×」、集団的平和構築権は「〇」
安倍首相が「集団的自衛権の行使」にこだわっているのは、ご承知の通りです。しかもそのこだわり方は、異常といえるほどです。
はじめは、憲法改定をもくろんでいるのだろうと思っていました。アメリカに押し付けられた憲法を改め、日本人自らの手に成る自主憲法を制定すべきと考えていたように受け取っていました。それが、「戦後レジームからの脱却」を口癖にさせているのだと思っていました。
ところが、どうやらそれだけではないようです。
自主憲法という形にこだわるのではなく、憲法が変えられないのなら、憲法解釈を変えればいい。ともかく他国(アメリカ)の軍隊とともに戦争ができるようにする。つまり、「戦争ができるようにする」ことが最大の目標だった。
安倍首相は最近は、「限定的行使」という言葉をしばしば口にしています。「アメリカの艦船を狙って、たとえばミサイルが飛んできたとき、近くに日本の艦船がいたら、何もせず黙って見過ごしてもいいのか」と、問題を投げかけています。
ともかく”針の穴”を開けたい。ひとたび、針の穴を開けてしまえばこちらのもの。後は少しずつ穴を広げていきさえすればいい。そんな作戦が浮かびあがってきています。
近い将来、尖閣の領有をめぐって中国が尖閣に上陸することも想定しておかなければならないと考えているのでしょう。国の防衛は、あらゆる事態を想定して対応策を考えておかなければならないのは基本です。
安倍首相は、中国からの尖閣上陸などがあった場合、直ちにアメリカ軍の力も借りて反撃する。武力を行使する。これを実行できる態勢を急いでいるようです。
しかし今、尖閣上陸の事態を想定しても、最も力を入れなければならないことが集団的自衛権行使容認なのでしょうか。
中国との関係なら、もっと努力することがほかにあるのではないでしょうか。まず、両国の首脳が会談が出来ない状況の打開こそ、急ぐべきは誰でも感じていることです。
安倍首相は、中国との首脳会談ができなくなることを承知していながら、「靖国参拝」をあえて実行しました。そのうえで「対話の窓は常に開いている」(私に会いたいのならどうぞ)という態度です。
中国が「面子をことのほか大事にする国」と知っていながら、その面子を土足で踏みにじるようにしておいて、「どうぞおいで下さい」という人を食った態度です。
尖閣上陸の事態を考えてみても、これは個別自衛権の範囲です。その自衛権は憲法9条に反しない、自然権として国際的に認められているものです。
日本の周辺で起きる国の存立に関わる事態は「個別自衛権」の範囲で対処するものです。そのうえで、同盟を結んでいる他国の協力も求める。これは、集団的自衛権ではありません。
集団的自衛権とは、日本に直接危機がなくても、他国と一緒になって他国で武力を行使することです。それは、「国際紛争を解決手段としては、武力の行使はこれを放棄する。交戦権はこれを認めない」と、日本国憲法で明確にしています。
日本外交は、集団的自衛権を基礎にするのではなく、「集団的平和構築権」ともいうべき分野で最大の努力を発揮すべきですよね。
安倍首相のもとで、私たちは再び危険な道にさまよいこまされそうです。私たち大人には責任があります。次代に生きる人々に、「平和な国」を引き継ぐ義務があります。それには、あらゆる人ができるところで、できる努力をすることが求められます。
まず、自分の頭で考えましょう。自分の頭で判断しましょう。政治家や官僚の言いなりは拒否しましょう。本当の民主主義が通用する国にして、次代の人々に引き継ぎたいものです。