いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第88週

2016年07月02日 21時04分23秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の草木花実

おいらのかぼちゃ

■ 今週の 忌


https://twitter.com/Iwanamishoten/status/747672957372203008

有名作家の命日は、しばしば、忌の名が与えられている。 さて、林芙美子にはあるのだろうか?とネット調べたら、「あじさいき」とあった。どうやら、尾道の林芙美子顕彰組織がやっているらしい(site)。ちなみに、林芙美子ゆかりの地として有名なのは、尾道、北九州、そして逝去した落合の旧自宅、現在林芙美子記念館だ。その落合の林芙美子記念館では特に、「あじさいき」というのはやっていない模様。

現在、新宿区落合の林芙美子記念館で催しているのは、アトリエ展示 「巴里の交流」(site)。


パスポートの文字は「大日本帝国外国旅券」。身長が1.47Mと記載されてるとのこと。昔のパスポートは身長を記入したんだ。

右は『1932年の日記』(関連愚記事)の"原稿"。パリのデパートで買った育児用日記を使って書いた。

『林芙美子 巴里の恋、巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』にある”巴里の小遣ひ帳”の原稿はこんな風;

■ 今週の 50年

今週のニュースで、ビートルズ来日50年[google]というのがあった。 そうなんだ。 中国で文革が勃発した頃、ビートルズが来日したのだ。

おいらは、以前書いた;

1966年のビートルズの来日の状況はホントのところはどうだったのだろうか?

でも、史実として、騒いだらしい。おまわりさんが。羽田空港から都心までビートルズが車で来る時、首都高は封鎖され、異常な数の警察・機動隊が動員された。

それは、1960年のハガチー事件[1]の経験を踏まえた、来るべき騒乱の時代への演習であったとされている。 

首都と羽田空港を結ぶ攻防戦での佐藤首相訪米阻止闘争(wiki)は、ビートルズ来日の3年後。

すごいぞ!警視庁の先見性。 (愚記事; アムステルダムで、約半世紀前の日本版Beatlesアルバムを見た 

どうやら、間違いであると、気づいた。

■ 今週知ったこと ①

ビートルズ来日後、首都中枢と羽田空港を結ぶ道路を巡る最初の重大な公安事件は、上記の1969年の佐藤訪米阻止事件ではなく、1967年の羽田事件[wiki]なのだ。ビートルズ来日から1年ちょっとだ。 「第一撃」を見落としていたのだ。

六七年十・八の歴史的な意義は、単にゲバ棒の登場にあったのではなく、ベトナム人民を前にした或る羞恥の感覚、この消費文明の中に生きることにはすでに「原罪」がはらまれている、「なぜって、それはみにくいから」(山崎博昭の”日記”)という、原罪意識の復権にこそあった。自らの根拠と闘う、自分を革命の主体でもあれば対象でもあるととらえるプロレタリア的闘争が、「戦後」の、「近代」の解体が、ここに始まった。こうした根源性、そこにおける闘争の質的断絶の表現が、闘争の暴力的形態だったのである。 
津村喬、『われらの内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』、1970年、三一新書

こうして六七年、最も完成された市民運動としての中核派とべ平連の季節がやって来た。六七年から日本帝国主義は「高度成長」のもたらした消費文明の安定にのって、いよいよ本格的に東南アジアへの進出を開始する。佐藤の訪越に抗議した学生と「市民」のヘルメットとゲバ棒は、消費文明の重層的仮象に挑戦した、劇的虚構(悪いイミは全くない)であり、日帝への現実的打撃というより、日常性への挑戦により「市民」の自己組織化、プロレタリア化を促す手段だったのだ。山崎博昭は自らの死を予見するかのように「日記」に書く―この消費文明の日常に生きることは「みにくいから」すでに「原罪」だ、と。 
津村喬、『魂にふれる革命』、1970年、ライン出版

 一九六七年秋、日本人民は、この文化戦争への反撃の、文化革命への、「第一撃」を見出したのだ。街頭を舞台に変えた「異装」集団によるゲバルト闘争がそれである。この破壊性―主要には想像力にとっての―は、大学闘争というかたちで普遍化し、定着した。持久戦への状況の反転の序幕は、まつりの真似事として、貧弱にもせよスタイルの饗宴として、実現した。
津村喬、『戦略とスタイル』、1971年、田畑書店

そして、上記の文に続くのは4年後(1971年)の現実である;

そしていま、出発から四年近くが経とうとしている。われわれは今一度夢見、そして、醒めた。しかし、醒めていながらなお、<持久戦>について口にすることをやめない。「七〇年」が語られた。やがてそれは、「七〇年代階級闘争」にとってかわられ、その言葉も消えた。われわれは疲労し、その口は重くなった。しかもなお、<持久戦>について語ることをやめない。 津村喬、『戦略とスタイル』、1971年、田畑書店

津村喬は毛沢東主義者であった。そして、同じく毛沢東主義を奉じた連合赤軍のリンチ事件が発覚するのは翌年、1972年である。

■ 今週知ったこと ②

ネット情報によるとビートたけしが1967年の羽田事件に参加していたとのこと[wiki: ビートたけし(羽田事件に参加したといわれる[3])]。

そのたけしは最近の雑誌文藝春秋で云っている; 

たけし 確かにおいらも学生運動に打ち込んだことがあるしね。でも、60年代後半の「ベトナム戦争反対」や「日米安保反対」でワーワー騒いでいたのは、「ファッション」だった。 (ソース

そのたけしが「1968」の経験から得た考えはこれだ;

たけし ちょっと前だけど、民進党の辻元清美代議士が学生時代に創設した「ピースボート」も似たような活動だったかも。SEALDsのメンバーたちも、結局、政治家になりてえのかな。でも、「弱者の味方」のフリをするやつにはいつの時代も気を付けた方がいい。スターリンや毛沢東のような独裁者は最初、そんなこと言ってたんだから

●そして、今、知ったこと;

戦後最大の不況と謂われた昭和40年(1965年) [google]

つまり、50年前のぬっぽんずんは、経済的にも、常に、「もはや戦後ではない!」を信じ切れず、政治・経済ともに、「逆コース」にまっさかさまを恐れていたのだろうか!!!???

■ 今週の本屋

(兵役とシベリア抑留の)五年半ののち、私は生きながらえて妻子のもとへ帰ったが、改造社の山本実彦社長は十一年の私の労働にたいしただの一銭の退職金も払わず、私の妻は学校の教師の口が見つかるまでのまる四年間、ピアノや衣類を売ってようやく三人の娘を育てたのだという。私が召集令状を受けとって中座した日の社長との交渉は拒否されたと昔の仲間から聞き、私はこれはあわれな最期をとげた改造社史の汚点として必ず書き残しておくべき事実だと思った。 (高杉一郎、『わたしのスターリン体験』

そのアインシュタイン来日の企画を立ててスポンサーとなったのが、改造社。今はない出版社だ。その創立社長(おそらく廃社時も)が、山本実彦。愚記事

とかつて書いた。 今週、甲府に行って、駅ビルの本屋を覗くとびっくり。 改造社の看板が...。

ネット調べると、出版はやめたが、「現在では改造社書店、改造図書出版販売株式会社として関東地方と中部地方の複数店舗で書籍の販売業などを営んでおり、」とのこと(wiki)。 知らなかった。

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