― 「あなたが社長としての合格点を得られるか、得られないかは、大きく二つの要素できまる」
ここで言われたひとつの要素が、業績である。売上高であり、利益を上げられたかどうかだ。さもないと会社は継続できないからである。そしてもうひとつ、業績と並んで重要なこととして氏が挙げたのが、自 分 の 後 継 者 を 育 て た か ど う か 、という点だった。 ― [強調、いか@](新将命、『伝説の外資トップが説く リーダーの教科書』)
【大きな鳥瞰的プロローグ】 1919年
パリ講和会議への日本代表は、西園寺公望である。
西園寺公望の政治人生の始まりと終わりは次のごとし。1868年、クーデターで成立した大日本帝国の発足において、そのクーデターと内戦(戊辰戦争)の時から「小僧」として参加。鳥羽伏見の戦いの時、朝廷は薩長に加担すべきと主張。岩倉具視から「小僧、よう言った!」とほめられた。なお、岩倉具視の家と西園寺の家では全然西園寺の家の方が位は高い。そして、1940年、大日本帝国が瓦解する5年前に死ぬ。なお、死ぬ年に大日本帝国を瓦解させることになる近衛文麿内閣が発足した時の近衛のラジオ演説(1940年7月23日)を聞いて、「聲はいいし、言ふことは大體判るが、内容は實にパラドックスに充ちてゐたように思ふ。なんだか自分にはちっとも判らなかった。うまくやつてくれればいいけれども......。」といったとされる(原田熊雄、『西園寺公と政局 第八巻』)。西園寺公望はこの後、日米開戦の約1年前の1940年11月24日に死ぬ。90歳。日帝の瓦解を目の当たりにすることは免れる。
西園寺公望が代表であったパリ講和会議への日本外交団に参加した「中堅」、「小僧」あるいは「丁稚」として、松岡洋右、近衛文麿、吉田茂がいる。
ドイツ皇帝カイゼル・ウイヘルム二世が休戦条約に署名したのは一九一八(大正七)年十一月十一日であった。日本政府のベルサイユ講和会議への全権は、前首相西園寺公望侯爵(後に公爵)と決まった。列国が首相を代表に選んでいるので、日本の全権に箔をつける意味で、この元老を原首相が口説き落とした。しかし実際に外交の衝に当たる人として前外相牧野伸顕(後に伯爵)と、それを補佐する珍田捨身(駐英)、松井慶四郎(駐仏)、伊集院彦吉(駐伊)の三大使が全権に任命された。松岡(洋右)は情報担当先任[ママ]書記官(彼は役職上課長とも呼ばれたが、事実上の情報部長であった)として随員に選ばれた。(デービッド・J・ルー、『松岡洋右とその時代』)
世間の目が近衛に集まるようになった直接の原因は、彼がヴェルサイユ会議全権団の随員に選ばれたことであろう。この会議は世界の視聴を集めた晴れの舞台であり、ここに登場できたということは、それだけで有能な人物であるという証明書をもらったようなものである。
さらに、西園寺公の抜擢ということがある。政界に絶大の力を持つ西園寺が、彼を庇護し、彼を育て上げようとしているということは、それだけで彼が将来大物になるという約束手形を持っているようなものである。彼に期待の目が集まるのは、当然といっていいだろう。 (杉森久英、『近衛文麿』)
済南領事となって間もなく、第一世界大戦終結後の世界秩序を決めるパリ講和会議が開かれることになる。首席全権の西園寺公望とともに牧野[伸顕:吉田茂の妻の父親@いか註]も渡仏すると聞いた茂は興奮で胸が湧きたった。
先人たちの苦労が実を結び、ついに欧米列強と対等の立場で参加することとなった晴れの舞台である。この目で見たいという思いが募り、いてもたってもいられない。ついに思いあまって牧野に直訴し、彼の秘書官として参加することを特別に認めてもらった。(北康利、『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』)
【プロローグ】 1966年6月18日
前北京大学党委員会の幹部であり、陸平の右腕といわれていたYが引き出された。司会役の女子学生が金切り声で叫ぶ。
「要不要給他載高帽子?」(彼に三角帽子をかぶせる必要がありますか?)
「要! 要!」 (ある、 あるぞ!)
ぼくも大声で叫んだ。
「給他載高帽子!」 (三角帽子をかぶせろ!)
「遊街! 遊街!」
「白状すれば寛大に扱うぞ!」
「頑固に抵抗すれば決してよい末路はないぞ!」 (西園寺一晃、『青春の北京』)
【極私的プロローグ】 2013年10月13日
この日の夜、おいらは、テレビでNHKスペシャル「中国激動 "さまよえる"人民の心」を見た。北京のホテルでにおいてだ。中国ではNHKの国際放送を放映している。ただし、たまに共産党政府に都合が悪いことが報道されると当局に放映が遮断される。この遮断が起きるとそのことがニュースとなる。この夜、NHKスペシャル「中国激動 "さまよえる"人民の心」は無事に北京でもNHKの国際放送を通して放送されていた。つまり、当局に遮断されなかった。日本語ができる中国人も受像器があれば見れて内容を受信できたはずである。内容はネットにある。google [NHKスペシャル「中国激動 "さまよえる"人民の心」]。経済成長著しい中国では拝金主義に走ったことへの反動と社会のひずみから生じる不都合からの逃避のために、宗教ブームが起きているという報道である。ローマンカトリックの例、そして、儒教が復興しているという話。やはり、中国人は孔子さまに走るのか。
【本編】
西園寺公望が死んだのは1940年11月。日支事変は泥沼化していたが、対米英戦争はまだ始まっていなかった。公望は戊辰戦争・明治維新には若くして参画したが大日本帝国の瓦解は目の当たりにせずに済んだ。これは、戊辰戦争に幼くして巻き込まれ「朝敵・賊軍」となるも、後陸軍大将、しかし大日本帝国の瓦解を見届けた柴五郎とは異なる(愚記事:『ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』)。その西園寺公望は、のち最後の元老となるのだが、後継者の育成に努めた。そのひとりが近衛文麿である。自分の家の後継育成は当然のことだ。結果、近衛文麿は支那事変を解決するどころか拡大、収拾不可能とし、結局対米英戦へと日本を運んでいく。一方、自分んちの嫡子である孫の西園寺公一(きんかず)はゾルゲ事件に連座する。つまりは、碌な後継者を育てることができなかった。
そして、その西園寺公一の息子、西園寺一晃が「日本人最初?の紅衛兵」ではないか!?というのがこの愚記事の趣旨[2016/12/25訂正] 主旨。
戦後西園寺公一は、「家族を連れて中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長としての月給は500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの待遇だった。」[wikipedia]
それにしても、文化大革命初期の細かい点になじみがない人も多いとおもうので、小谷野敦さんの御指導に従い、年表にしてみた。年表といってもわずか半年にも満たない月日(つきひ)だ。この「年」表の黄色塗られた出来事が、西園寺一晃さんが遭遇し、『青春の北京 北京留学の十年』(1971年[昭和46年]刊行、中央公論社)に記録を残している事件だ。例えば、上記エピローグにある西園寺一晃さんが「三角帽子をかぶせろ!」と叫んだのは、下の表の6月18日の出来事だ。
1966年5月25日
この5月25日に北京大学であったことを厳 家祺、高 皋、 辻 康吾、『文化大革命十年史』にみる;
「五・一六通知」が中央政治局拡大会議を通過した後、聶元梓[じょうげんじ]と陸平[北京大学学長]の確執を知った「中央文化革命小組」は「北京大学から火をつけ、上に向かって展開する」方針を定めた。一九六六年五月一七日、康生の妻である曹軼欧(そうてつおう)は北京大学党委員会の陸平、彭珮雲[ほうはいうん]の頭越しに聶元梓と連絡をとり、陸平らに対する造反を進めるよう励まし、さらに彼らには支持者がいることををも示唆した。
五月二十五日午後二時ごろ、聶元梓ら七名の署名による「宋硯(北京市党委大学問題部副部長)、陸平、彭珮雲は文化大革命においていったい何をしているのか」と題する壁新聞が北京大学学生大食堂の外側に貼りだされた。この壁新聞は、陸平らが文化大革命を破壊したと強い口調で糾弾し、その矛先は宋硯の率いる北京市委員会大学部と北京大学党委員会へ直接向けられていた。 (厳 家祺、高 皋、 辻 康吾、『文化大革命十年史』)
そして、西園寺一晃さんの体験談;
昼寝を二時間ほどして、まだ寝たりない重い頭をかかえるようにぼくは政治経済学の部厚い参考書をひろげていた。(中略)
一区切り読み終えた参考書を横に、赤線を引いた箇所をノートに写していると、急に外が騒がしくなってきた。時計を見るとまだ三時すぎだった。まだグラウンドに出るには早すぎる。その時、数人の学生が何かを叫びながら走っていった。ちょうどぼくらの部屋はグランドに面した二階にあるので、窓から首を出してみたが、グランドに人影はなかった。どうも宿舎の入口側の道路のようだ。ワアワア言いながらまた一団が駆けて行く。ぼくは何だろうと、部屋から廊下に出てみた。同じように一体何事だと他の部屋からも数人の学生が出て来ていた。ぼくはその一人に
「一体どうしたのだろう。君知ってるかい」
と聞いてみたが、その学生も知らないようだった。ぼくの前の部屋の学生が見えたので、
「一体何事なの、君の部屋からは見えるだろう」
と聞くと、彼は、
「わからないが、大勢の学生が大食堂の方に走って行っているんだ。ぼくはこれからちょっと見てくるから」と早口で言うと、バタバタと階段を駆け下りて行った。
走って行く学生たちの数はますます増えるようだった。ぼくも落ち着いていられなくなり、靴をはくともう一度部屋の外に出た。その途端、戻って来た前の部屋の学生とぶつかりそうになった。
「大食堂の正面入口に校長攻撃の大字報が出たんだ」と彼は早口で言い、「おーい、みんな」と宿舎中に響くように叫んだ。ぼくは大食堂めがけて全速力で走った。
(中略)
大食堂の前には百人以上の学生が集まっていた。大字報は食堂の東側入口の両側にびっしり貼られてあった。三、四十枚もあるだろうか。ぼくははじめそれらが全部校長<攻撃>の大字報かと思った。よく見えないので人をかきわけ、前に出てみると、破られている大字報もあった。下の大字報を隠すようにして上に貼られたらしい大字報もあった。まだ貼って間もないと思われる大字報の一つに大きな字で「聶元梓らの反革命大字報粉砕」と書いてある。校長は陸平という元陸軍中将である。それに十人近くいる副校長の中にも聶という姓の人はいない。聶元梓という名は聞いたことがなかった。内容を読んでみると、校長<攻撃>の大字報を書いたのは聶元梓という哲学部の人たち七人で「彼女らが『三家村』批判を妨害するために、学内に若干ある学校に対する不満を利用し、大衆を煽動し、学生たちの闘いの鉾先を校長と学校指導部に向けた:というのである。
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』
今からみれば、現在の歴史の本に「北京大学で聶元梓(じょうげんし)らの「大字報」(壁新聞)が張り出される」と書いてある出来事は、いろいろ複雑らしい。すなわち、聶元梓(じょうげんし)らの「大字報」(壁新聞)があっさり貼られ、みんなが関心して眺め、読んだわけではないのだ。聶元梓ら「造反派」の壁新聞は大学の管理部門(学長陸平以下"被造反"派=造反されちゃう方)との軋轢、けんかですぐに当初の壁新聞は無きものにされたらしい。
1966年5月25日、北京大学の聶元梓ら「造反派」の壁新聞とされる写真
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』にも掲載されている。
1966年6月1日朝
この日の『人民日報』の一面は今でも語り草になっている。 横掃一切牛鬼蛇神。
これだ↓
一九六六年六月一日、この日はおそらく北京大学の歴史に永遠に残るであろう。それは朝送られてきた『人民日報』からはじまった。
この日の『人民日報』は一面トップに特大の活字を使った社説「すべての妖怪変化を一掃しよう」を載せた。ぼくたち学生はこれをむさぼるように読んだ。一字一句が肉声となってぼくたち学生に語りかけ、励ましているような文章だった。それは学生たちが持っている疑問、頭の中のモヤモヤ、何かに押し潰されそうな重苦しさ、苛立たしさ、これらすべてを一掃し、限りない勇気を与えてくれる文章だった。
「ブルジョアジーの啓蒙家たちは、つねに大衆を見くだし、大衆を愚かなものとみなし、自分を人民支配者と考えるものである」
北京大学の<指導者>たちに何と似ていることだろう!
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』 造反有理、 一九六六年六月一日
1966年6月1日夜
この日の夕方六時すぎ、今晩八時半から中央人民放送で<重要放送>があると予告があった。ちょうどみんなで集まって今後の闘いの進め方について相談していた時だったので、重要放送とは一体何だろうという話になった。
(中略)
「それ、八時半、八時半」
と一人が置時計を指差しながら叫ぶ。小徐は両手をひろげ、大げさな素振りで、
「同志のみなさん、御静粛に。只今よりある問題についての重大問題がありますのでよくお聞き下さい」とアナウンサーの口調を真似たが、今度は誰も笑わなかった。
一瞬緊張した空気が流れた。宿舎中はシーンと静まり返り、ラジオの音だけが響いている。
「中央人民放送局、只今より重要ニュースをお伝えします・・・・・」
「・・・・・只今から北京大学哲学部の聶元梓等七人が五月二五日、北京大学に貼り出した大字報”宋硯、陸平、彭 雲は文化革命の中で一体何を行ってきたか?・・・・・」
西園寺一晃、『青春の北京 北京留学の十年』 造反有理、 一九六六年六月一日
1966年6月18日
毛沢東の指示による聶元梓ら「造反派」の壁新聞の文章のラジオによる全国放送で、北京大学での情勢が変わった。それまで必ずしも優勢ではなかった造反派が毛沢東のお墨付きを得て反撃、陸平らのグループを圧倒し始めた。それが6月18日の陸平北京大学学長らの吊し上げである。西園寺一晃さんも参加したと手記にある;
前北京大学党委員会の幹部であり、陸平の右腕といわれていたYが引き出された。司会役の女子学生が金切り声で叫ぶ。
「要不要給他載高帽子?」(彼に三角帽子をかぶせる必要がありますか?)
「要! 要!」 (ある、 あるぞ!)
ぼくも大声で叫んだ。
「給他載高帽子!」 (三角帽子をかぶせろ!)
「遊街! 遊街!」
「白状すれば寛大に扱うぞ!」
「頑固に抵抗すれば決してよい末路はないぞ!」 (西園寺一晃、『青春の北京』)
紅衛兵誕生
最初は100人よりやや少ない人数の紅衛兵がいつどこで発生したかわかっている。これは奇妙なことに思えるかもしれない。なぜなら、文化大革命で中国全土で紅衛兵大交流というのを実施し、北京の紅衛兵大集会だけでも1300万人が中国全土から集まったとされる。紅衛兵が発生したのは1966年5月29日に北京の北西部にある円明園のかつて清朝末期に英仏軍に破壊された廃墟においてである。精華大学付属中学の生徒によって共産党の指導を受けず発足した。「紅衛兵」という名を創ったのがこの生徒の中にいた張承志である。のち、造反する若者がこの「紅衛兵」を名乗るようになる。
「日本人最初?の紅衛兵」の誕生の日付は不明である。(そしてこの愚記事では西園寺一晃が日本人最初の紅衛兵との前提で書いている。後日記事を書くが、これは?である。)
ただし、西園寺一晃、『青春の北京』によれば、西園寺一晃はこの6月以降日本に一か月半一時帰国している。
ぼくは予定通り一時帰国することになった。老李やTさんに激励されて、ぼくの一生を賭けるだろう戦場を見に帰ったのだった。 (西園寺一晃、『青春の北京』)
したがって、7-8月は北京にいなかったのだ。その間の7/16に毛沢東は長江を泳いでみせて、闘志満々であることばかりでなく体力も大丈夫であると宣伝をした。
このYouTube [毛沢東の中国:大いなる実験 2 of 5]の冒頭50秒あたり
1966年8月5日
そして、8月5には毛沢東自ら大字報を出す、司令部を砲撃せよ ;
さらに、紅衛兵を100万人集めて天安門広場で文化大革命祝賀大集会を実施。
この日、毛沢東は宋彬彬@人殺しに紅衛兵の腕章を受ける(関連愚記事: 詫 び る 老 「老紅衛兵」、あるいは、“要武”の顛末)。
なお、日本に一時帰国していた西園寺一晃はこの紅衛兵100万人集会に出ることはできなかった。日本でどう聞いていたのだろう。その西園寺一晃がのち勤めることになる朝日新聞は伝えている。その日の夕刊である。北京放送の内容を、裏をとらずに、流してた...。
昭和41年(1966年)8月18日 朝日新聞夕刊
なお、西園寺一晃は中国からの正式帰国後の日本は「ぼくの一生を賭けるだろう戦場」と言っている。つまり、朝日新聞を舞台に「ぼくの一生を賭けるだろう戦場」で戦うつもりだったのだ。第二の尾崎秀実を目指していたのだろう。
そして、日本人最初?の紅衛兵
西園寺一晃さんが一か月半の日本一時帰国ののちに北京に戻った日付の情報は西園寺一晃、『青春の北京』には記載されていない。おそらく、9月に入って、北京で、西園寺一晃さんは紅衛兵になった;
「われわれの闘いはまだ終わったわけではないのだ。本当の大学改革はこれからだ。老西も帰ってきたことだし、ぼくたちはますます張り切って北京大学を真の毛沢東思想の学校にするため闘おうではないか」
そういうと老李は僕が日本に帰っている間に生まれたについて話してくれた。それによるとは工作組との闘いで生まれた闘う学生の組織で、文革を徹底的に、最後までやりぬく任務を持っているという。毛沢東に支持されたはいま全力を挙げて工作組の流した害毒と闘っている最中だった。
「老李の言うとおりだと思う。われわれのの真価を発揮するのはこれからだ。あっ、そうだ。老李、あれを・・・・・」
学友の一人にいわれて老李は「ああ、そうそう」と言うと、布カバンから赤い腕章を取り出しだ。彼はそれをぼくの目の前で広げると、
「さあ、これは君のだ」と僕に差し出した。
真紅の布に黄色い字で、
『新北大紅衛兵』と染めてある。
「これをぼくに・・・・・」
「そうだ。これと同じさ」
みんな誇らしげに左の腕をつき出してみせた。赤い腕章をしている。
「それから、これを貰っておいてあげたわよ。新しい校章よ」
Tさんはそういうと、ビニールに包まれたバッジをポケットから大事そうに出した。
「Tさん、それを老西につけてあげないさいよ。私は腕章を巻いてあげるから」
小徐はそういうと、赤い腕章を老李から受け取り、僕の左腕に巻いてくれた。Tさんもぼくの前にくると、そっとバッジをつけてくれた。
「みんなありがとう」
ぼくはこみ上げる感動をかみしめながらそう呟いた。
(西園寺一晃、『青春の北京』)
Amazon 5円です。 ご縁がありますように。
この西園寺一晃、『青春の北京』は、1971年3月に出版されている。もう少し遅れれば出版されなかったかもしれない。なぜなら、この本が出た時点で林彪事件は起きておらず、文化大革命の暴虐さもあまり日本に切実さをもって伝えられてなかったであろうからだ。
何より、連合赤軍事件(その党派の半分は毛沢東思想の信望者であった)とニクソン 訪米 訪中 [1] が「勃発」する前だったことが、出版を可能にしたに違いない。
[1] 2016/12/23訂正。 ニクソンが訪米してどうする! (あ~、恥ずかしい)。そして、蛇足ながら、ニクソン米国に「訪米」したのは我らがひろひとさんである。
なお、西園寺一晃は1966年に北京大学を卒業。帰国し(「ぼくの一生を賭けるだろう戦場」)、朝日新聞で勤務。「朝日は貴公子さまが好き」の好事例である(愚記事:でも、貴公子さまが好き)。
【エピローグ】
それぞれの顛末
■ 西園寺公望
伊藤博文や井上馨に負けず劣らずの大変な女好きであり、花柳界では「お寺さん」として有名な通人であった。(wiki)
最後の元老=国亡族を輩出
ってか、国亡族を輩出したから、自らが最後の元老になったんだよね。
もし、みんな孝子だったら、彼らが元老になって、大日本帝国は存続していたはず。
■ 松岡洋右 ⇒ 東京裁判被告 獄中死、 今、靖国神社
ヒトラーとスターリンの両者にあった人間って松岡洋右以外何人いるのだろうか???
■ 近衛文麿 ⇒日支事変を解決不能に ⇒ 仏印進駐 ⇒ 対米英戦争が避けられない状態にして政府を投げ出す
コスプレは好きだけど、 御白洲は嫌よ!
■ 吉田茂
―サンフランシスコ講和条約、1951年―
人生2回目の講和会議。最初は戦勝者として、そして、2度目は...
国亡びて、 孔子 孝子出ず ? この署名の後、保護国条約・安保条約にひとりで署名@画像なし
■ 西園寺一晃@ 倭国の孔子学院 学院長は、元紅衛兵
"さまよえる"貴公子殿のこころ、最後は、孔子さまにたどり着く。
工学院大学孔子学院 より