いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

この街の図書館事情;あるいは、こちらも「高学歴で裕福な家庭出身」@文革礼賛者たち

2016年07月05日 20時45分13秒 | 東京・横浜

「つくば」からこの街に来て1年半が過ぎた。やっと慣れてきた感じがする。以前の生活と大きな違いは自家用車を手放したこと。「つくば」時代はどこに行くのも車だった。例えば、図書館にも車で行っていた。10分もかからない。一方、今の住居から一番近い市立図書館の分館は、まずバスで一番近い鉄道駅に行き、そこから鉄道で数駅先である。行くだけで小一時間かかるだろう。なので、この街に引っ越してきた時は、もう図書館へはいけないだろうなと思った。事情は違った。今の住居から約1キロメートル先に公民館的なものがある。そこで市立図書館(本館分館あわせて18館あるらしい)の蔵書400万冊が貸り出し可能なのだ。ネットで検索できて、サイトで申請すれば、その近所の公民館に届くのだ。もちろん、自分の家のパソコンから手続きできる。その分館に頼んだ本が届くと、ご丁寧にメールで知らせてくれるので、取りに行く。こういう制度を享受できるのだ。これはすごいと感動している。

その制度で借りた本;

ピンボケでごめんよ。 津村喬、『われらが内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』、三一新書、1970年

今、Amazonで三万円だ;


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浜っ子でよかった!丘陵地に住んでるけど。 タダで借りられ、読めるのだ。 ありがとう、Mayor はやしふみこ さま。

● 最近の課題; 津村喬の問題!

 
愚記事:  川本三郎は、津村喬にくびを賭けず、赤衛軍・Kにくびを賭けた

呉智英さんから全共闘の恥部と呼ばれていた津村喬。そして、「津村は、血筋のせいか、少将といった見当でした」といわれていた津村喬。

その「血筋」の意味とその利を用いた赤色貴族の事情を、おいらは、やっと、最近、すこし認識した。

そして、絓秀実さんにより1970年7月7日の「華青闘告発」が全共闘運動・新左翼運動の転機となったことが強調・指摘されるが、その「華青闘告発」の主張が書いてるのが、津村喬、『われらが内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』、三一新書、1970年。そして、津村喬は1970年に3冊も出版。上の『われらが内なる差別』、そして、『戦略とスタイル』と『魂にふれる革命』。この年、津村喬、22歳。

赤色貴族の事情とは、津村喬の父親は高野実。終戦直後の総評の指導者;

総評はもともと、反共的労働組合のナショナルセンターを作ろうとしたGHQの意向に沿う形で発足したが、翌1951年高野が初代事務局長に当選すると、(1) 全面講和 (2) 中立堅持 (3) 軍事基地反対 (4) 再軍備反対の「平和4原則」を採択し、「ニワトリがアヒルになった」と驚かれるほど左旋回させていった。高野は総評を対米従属下にある「民族の苦悩の担い手」と位置づけ、政治面では左派社会党(以下「左社」と略す)の躍進を助けながら、破壊活動防止法反対闘争(1952年)や内灘基地反対闘争(1952~1953年)など (wikipedia 高野実

津村喬は高校生の頃から中共に行っている。数カ月滞在。訪中理由は父・高野実の療養。実質は日本国内中共派の勢力拡大の"陰謀"の立案(???)や工作資金の受領。1964年、1967年の2度の訪中。 1967年は文革真最中。

この頃高野実は総評や労働運動内でとっくに失脚。まともに働いてないんじゃないか。それでも、中国旅行。これは赤色貴族の特権である。

津村喬はこの赤色貴族の特権を使って、その当時そんな経験ができる日本の学生がほぼいなかったのに、中共文革を見聞できたのだ。

そして、この『われらが内なる差別  日本文化大革命の戦略問題』の裏表紙に推薦文を書いている新島淳良[wiki]も裕福な家庭の出身だ。

親が、あの「山と渓谷」社のオーナーらしいのだ (⇒ Google [山と渓谷 新島章男 新島淳良])。

なお、津村喬は早大中退、新島淳良は一高中退。でも、「高学歴で裕福な家庭出身」の主旨を支持する事実だろう。

そして、横浜市長の林文子さんは、高卒である [google]。