いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

儒教 体制教学 元田永孚

2005年08月13日 21時23分44秒 | 日本事情
森有礼 薩摩おばか劣伝を書いたときに、森有礼の文部大臣就任を、天皇侍講である元田永孚が反対したと知る。反対した理由は、森が「儒教主義的徳育」を排除しようとしたから。森は「儒教主義的徳育」によって国民は奴隷卑屈の気を生じさせられていると認識し、排除するのが近代教育の使命と考えていた。

さて、元田永孚は明治4年から、明治天皇・むつひとさんに儒教経典の講義をはじめている。目的は天皇に徳を身に付けてもらうためである。実は、天皇と徳とは直結しない。なぜなら、支那の皇帝は徳があるから皇帝なのであり、徳がなくなれば、命が革まる。つまり革命が生ずる、とみなされてきたのである。『論語』に言う;

子曰く、政を為すに徳を以ってすれば、たとえば、北辰の其の所に居て、衆星の之をめぐるが如し。
孔子さんはいいますた。徳で政治をすれば、北極星が動かず、周りの大衆がその周りを秩序だってまわるように安定するでしょう。

一方、日本の定義は易姓革命が生じない万世一系の皇室がつねに皇(スメロギ){=北極星=動かないもの}なのである。万世一系の血統が天皇の根拠であった、徳は必ずしも問われない。

元田の思想上のライバルは2つである。第一が天皇は必ずしも徳がなくてもよいとする国学派。もうひとつは森有礼や西周のような自立型・欲求充足志向の近代人思想である。福澤諭吉もこれだ。この近代思想は市場社会、資本主義社会の典型的なイデオローグであり、「近代男子の本懐は銭金」である、というあれである。


 田原坂参りのあと、熊本の街をほっつき歩いていて、ばったり見つけた元田生誕の碑。

古田博司は『東アジア・イデオロギーを超えて』において、商業蔑視は儒教の特徴としている。つまり、儒教体制下では資本主義は発達しずらいということだ。一方、古田は;

明治政府は儒学を体制教学として採用し、国民国家ナショナリズムの形成に利用した。1879年、明治天皇は教学聖旨を下し、孔子の教えを徳目として児童を養育すること指示、1882年には学制規制に基づき勅諭し、儒学教育を支持、同年に「軍人勅諭」、90年には「教育勅語」が公布された。つねに背後にいたのは、熊本出身の儒者元田永孚である。
と解説している。

一方、同じく古田は『東アジアの思想風景』の「儒礼なき江戸社会」において、”徳川時代に、儒教(朱子学)が体制教学として幕府に採用された事実などなかったということ、例えば林大学頭といわれた林羅山も将軍の御伽衆の一人に過ぎなかったこと;を指摘している。

つまり、日本が儒教文明化したのは明治維新をもって、ということになる。それでは、森有礼や福澤諭吉が格闘したものは何であったのだろうか?

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