いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日もつくばで; さらば! 筑波山麓 ② 吉沼 ;仙台足軽22人のふるさと

2014年10月15日 19時56分10秒 | 筑波山麓


         ↑ 小貝川
常陸下総両国知行所拾八ヶ村絵図 (宮城県図書館蔵)の部分図
   筑波郡四村(大園、吉沼、大砂、西高野)

つくば市北西部、小貝川沿いにある吉沼。江戸時代に仙台伊達家領であったところ。

延宝5年(1677年)、筑波郡吉沼に22人が名主などの推挙で仙台伊達家足軽に選出。身分は武士。このとき、江戸藩邸から九曜紋の付いた紋付が運ばれ足軽に給付。職責は、領内の治安維持、年貢・諸役金の催促、市横目・夜廻りなどの在地勤務。それとは別途、江戸や津方(潮来 も含む、房州内浦・館山、下総、銚子)での勤務。江戸(の仙台伊達家藩邸)には「定詰足軽衆三十四人」が配置されていた。その補助的役割を吉沼足軽は担っていたらしい。

関連愚記事; 江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽

足軽は現地の農民から大庄屋や村役人の推挙によって任用されたものであり、給与も低く御用の時以外は保有地や預かり地を手作りして生計をたてていた。

(以上、史実の出典は、内山純子氏の研究結果。例えば、『大穂町史』、『宮城の研究3、仙台藩の飛地』など)

もちろん、足軽時代の面影は神社くらいしかないが、街全体が何時代かわからない、高度成長期の昭和より古い時代の面影を残している。

■ 青い目のお人形が来た吉沼; 関連愚記事: 黒い目のお人形

青い目のお人形は、日本に、11970体来たらしい。そして、茨城県には243体来たのだ。


『大穂町史』からコピペ

1927年頃だ。このがきんちょたちは、この時平均8歳とすると、日米開戦の1941年には、22歳となるのであった。

↑ この人形は現存するらしい!


wiki 青い目の人形

● 青い目の人形が来た1927年から約10年後、吉沼郊外には大日本帝国陸軍航空士官学校西筑波分教場、西筑波飛行場が建設される。

 パレンバン 「空の神兵」の稽古場 に他ならない。 YouTube; 空の神兵