いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

土浦城

2014年10月05日 17時18分38秒 | 筑波山麓

ちくしょう、転勤だ!ということになり、筑波山麓にいる時間も限られてきた。 筑波山麓に来て17年あまりになるが、土浦城と隣接している市立博物館には 行ったことがなかった。つくばに来て、この地が谷田部細川家・一万六千石でもあったことを知り、興奮し、陣屋跡やその陣屋の門(愚記事; 谷田部細川一万六千石)を見物したりした。谷田部細川家の史跡の調べかたは、谷田部町史をみることだった。当時は既につくば市が発足していて、元の谷田部町立図書館はつくば市立図書館の一分館となっていた。なお、上記リンクの愚記事で谷田部細川家の陣屋跡は有名で谷田部公民館にある。一方、当時はその門であったものは現在移築されていてある民家の門となっている。それを探し出して撮った画像が上記愚記事の向かって右の画像である。

その後、もっと興奮する史実に出会った。仙台伊達家が龍ヶ崎に領地を持って、陣屋を置いて、江戸時代中支配していたといことだ。知った経緯は、ある人から聞いたことである。その人は、おいらが、竹雀!政宗!仙台!と騒ぐので伊達マニアと知っていたので、教えてくれたのだ。その人がなぜ龍ヶ崎が仙台伊達領であったと知ったのは、地元ミニコミ誌の記事に載っていたのをみたのだ。それをみて、これをおいらに知らせあげれば、喜ぶと思ったのだろう。

直ぐに、龍ヶ崎市立資料館(愚記事; 伊達政宗、来ました。)と図書館に行って調べた。調べると、仙台領は龍ヶ崎にとどまらず、なんと! このつくば市の一部にもあったと知る。吉沼である。さらに、にこにこできたのは、その大大名である仙台伊達家がこの地で足軽を臨時?採用したことである。ポスドク真最中であったおいらは、すっかりうれしくなってしまった(愚記事;江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽 [なお、この記事はポスドクを止めて相当たってから書いたものである])。

こういう人のあまり知らないことをつついては喜んでいたおいらは、つくばに一番近い江戸時代の大きなお城は土浦城であり(江戸時代と限定しないと、つくばには小田城というのがある)、つくば近辺で一番有名なお武家さまが譜代であり老中を輩出する土屋家と知っていた。でも、あまりにも周知なので、特に行く気にはなれなかった。というか、いつでも行けるだろうと思っていたのだ。そして、昨日、そのうちつくばを離れなければいけなくなったので、行った。

■ 土浦の街

城下町土浦の中心街は今の時代に順応するのに苦労している。すなわち、典型的な江戸時代の城下町であり、その街並み、道の走り方が、現代の自動車社会には不適当である。つくばは車がないと生きていけない。そして、車で楽に生きていける。すなわち、街の道順が単純。行く先には大型駐車場がある。これに対し、土浦の中心部は車で入り込むと、戦国時代に城下町に不用意に乗り込んだ先遣隊のように、道に迷い、なにが何だかわからなくなる。そもそも、目的地にたどり着けない。土浦の中心街で車を駐し、車から降りて街で何かしようとする気力を奪う。

(事実、この10/4に土浦城に行ったとき、なんと、おいらは土浦城に車でたどり着けず、駅の交番で道順を聞いたのだ ← 事実)

さらには、土浦は、幸か不幸か、B29の洗礼も免れているので、道路拡張の城下町再開発を受けていないのだ。つまりは、金沢の街みたいなもんだ。

もっとも、残念なのは、金沢ほど江戸情緒も残ってないので、半端なのだ。

なお、現在、土浦市とつくば市の合併の話もあるときいて驚いている (伊達+細川+土屋= 200万石弱、で新しい「幕府」がつくれそうではないか!?!?!?)。

以下、土浦城、通称、亀城;


(この企画展は終わっています)

土浦の藩主は譜代の土屋家とは何となく知っていたが、特に詳しくは知らなかった。そもそも、井伊、土井、酒井、堀田くらいしか譜代大名を知らない。

土浦城に隣接する市立博物館の展示の第一は江戸時代に土浦の藩主であった土屋家の文物である。

土屋政直が一番有名らしい。なぜなら、老中を30年間もやったからだ。この老中30年というみて、江戸時代のいつの30年だろう?と思った。展示を見ると5代将軍綱吉から八代将軍の吉宗までの30年間だという。その時、おいらの乏しい江戸幕府に関する知識を総動員すると、その時代って「側用人の時代」じゃないか!つまり、老中の役割と権力が衰えた時代ではないのか!? そして、思い出した。「側用人」を排して将軍と老中による幕府運営という家康の幕府運営の本義に戻ろうとした吉宗に「辞めさせられたのだなぁ~」と。その根拠は昔テレビで見た場面。NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」。幕府の政治やそもそも江戸城のつくり(櫓の数など)を吉宗が老中に質問する場面。ふがない老中たちはまともに答えられない。

家に帰って、ネットで調べた。そうしたら、おいらが昔みたはずのNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」でのこの場面にも、土屋政直がいたらしい。土屋政直を演じていたのが、名古屋章とのこと(wiki NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗)。

土屋政直はふがない老中ではなかったのだ;

綱吉~吉宗時代初期の老中。紀州藩と昵懇で、吉宗の将軍就任をサポートする。(wiki NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗

元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。 (wiki: 土屋政直)

■ 武田遺臣系

土屋家は、元々、武田家の家臣であったと知る。家康は武田の遺臣を味方に抱えたことは有名。のちの幕府でも武田遺臣系という人たちが多く活躍。

▼この日(10/4: 10月の第一土曜日)は、土浦の花火大会。午前中の土浦城訪問とは別途、夜に遠くから眺めた。



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