(今日も敬称略です)
おいらは、大学紛争で暴れていたと自認する人にあったことはない。 もっとも、これまですれ違った人の何人かが暴徒だったかもしれない。 もしいたとしたら、それらの人は口をつぐんでいたのだ。
さて、先日来言及している、渡辺利夫の自伝『私のなかのアジア』には、大学紛争時の全共闘との闘いが書かれている。大学教官としてとの具体的な闘いを書いている本はこれまで見なかった。おいらが、気づかないだけか?たとえば、かの丸山真男は彼の研究室が全共闘に破壊されたと伝えられている。そして、「ファシストもやらなかったことを、やるのか」と発言した(wiki)、あるいは、「ナチスもやらなかった蛮行」と激怒する(wiki)、とされる。ただし、この話は広く流布しているが、出典がわからない。さらに、詳細もわからない。そもそも、丸山が何と言ったのか?上記のように錯綜している。
そして、著名人でも、内田樹など全共闘だった とされている[1] 人たちは、何ら恥じるところなく、恬としている。おいらのこれまでの世間の印象では、全共闘運動はそう忌み嫌われいないように受け取ってきた。それは、連合赤軍やのちのオウム真理教とは違う世間の待遇である。
でも、本当は、全共闘運動って「ひどいことをした」らしい。被害にあった大学教官も多くがだんまりをきめこんでいるらしい。その機構(メカニズム)が渡辺利夫の自伝『私のなかのアジア』に垣間見える。
まずは、全共闘との闘い;
(渡辺利夫は1967年[昭和42年]関東学院大学の助手となる。助手として教授会で議事録係りをしているときの話)
教授会の最中、タオルで覆面した赤ヘルメットの十数人の学生が会議室に喚きながら乱れ入り、私が記録するノートを持ち去ろうとしたことがあった。唯一の仕事を奪われてなるものかと近づいた学生に頭突きを食らわせたところ、彼はあっけないほどに脆くどすんと尻餅をついた。これに気がついた学生が私を取り囲んで罵声を浴びせた。
会議室の一墨で私が学生の輪に取り囲まれているのを二十名ほどの教授たちは黙ってみているだけ、誰も助けにこなかった。(後略)
久しく味わったことのない屈辱であった。私のいた学部の教授たちは腹を立てるということを知らない人物ばかりのようだった。やられたらやり返すと兄から教えられて幼少期を育った私などには、全共闘と本気でやりあっても多勢に無勢だが、さりとてやられっぱなしという気には到底なれなかった。
研究室の本棚に消火器の液を吹き付けて本を台無しにするという「反権威」が当時、全国の全共闘ではやっていた。私の研究室にも消火器を抱えた一人の学生が押し入ってきた。なけなしの金を叩いて買い集めた本を駄目にされてはならじと、この学生を頭突きで倒し逃げ帰らせたことがあった。全共闘が仕返しに押しかけてくれば観念するしかなかったのだが、幸いそんなこともなかった。 (渡辺利夫、『私のなかのアジア』)
ゲバ学生から自分の研究室を守ったという話が文章になっているのを初めてみた。丸山真男のような嘆き節とは違うのだ。
自衛権行使 … 包丁で撃退してやる
▼ 西部邁は全共闘学生と何もなかったのか?
前回も書いたように、西部邁と渡辺利夫は共に1939年生まれである。同い年である。西部は1970年頃に横浜国立大学の助教授となっている。ただし、自伝や著書の経歴、そして、wikiでも何年何月に横浜国立大学に勤めたか書いてない。自伝からは、60年安保での逮捕と引き続く8年にわたる裁判、そして執行猶予判決が出て2年して、大学に勤めたと読める。だから、1970年頃。1970年としたら、全共闘運動は最盛期を過ぎていた頃だろう。でも、渡辺利夫は関東学院大学の紛争は1973年[昭和48年]まで続いたと書いている。したがって、西部は横浜国立大学で学生、あるいは新左翼過激学生と接していたはずだとしか思われない。そして、西部は自伝で、1972年の浅間山荘事件について、「恥ずかしいことに、銃を手にして国家に反逆する青年たちにたいする共感が、というより自分のかつての反逆をどこかで肯定したいという甘えた気分が、自分のうちに少々残っていた」(西部邁、『寓喩としての人生』)と書いている。
1970年頃の横浜国立大学の助教授の講義といえば、新左翼学生に占拠され、討論会でもやろう!という状況もあったに違いない。そういうとき西部はどうしていたのだろう? 「国家に反逆する青年たちにたいする共感が、というより自分のかつての反逆をどこかで肯定したいという甘えた気分」を持って。
▼まとめ
他人の自伝を読むときの注意。 何が書かれていないのか?を邪推すること。
[1] 内田は、1970年春の東大入学である。黒田さんの「はじめに」にも、全共闘は、組織的に69年にほぼ解体したとある。当然、内田のときには東大全共闘はない。