いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

康熙帝と毛沢東とチベット

2008年05月11日 15時33分13秒 | 中国出張/遊興/中国事情


うめちゃんと康熙帝(こうきてい)

■チベット進駐における康熙帝の場合と毛沢東の場合の違いについてのメモ。

清朝の康熙帝と中華人民共和国(中共)の毛沢東はともにチベットに進駐したが、その違いがわかったのでメモする。

はじめに、現在の「中国」人の歴史認識は'でたらめ'であって、元も清もすべて「中国」である。つまりは、それら帝国のかつての版図は現在の「中国」の'もの’であるという発想;

人民網:歴史資料「チベットは古来中国領土の一部」

こういう認識は昨今の報道での、チベット問題に関する「中国」人のコメントでさんざん認められる。

われらが天佑を有するぬっぽん右翼の誉れである歴史学者・網野センセのおっしゃる「弥生時代の日本とか、縄文時代の日本とかいうロジックはそもそもおかしい」という網野サンメッソドを習得したわれわれネットウヨは、その網野メソッドを適用して、現在の中共の歴史認識、つまりは中華の過去への無定見な外挿と拡大につっこみをいれなくてはいけない。ここで「中華」とはたかだか前世紀に発祥した中国人共和国、あるいは中華民国のことである。

結論のひとつを先にいうと、このブログでは『チベットは「中国」に属しない』ということを主張するのではなく、清人にせよ漢人にせよ、はたまた回人(ジュンガル)にせよ、「みんな」がなぜチベットに「攻め込んだ」のかに関するメモ。

康熙帝の場合
 うめちゃんの右が康熙帝(1654-1722)。 『ウィキペディア(Wikipedia)』 康熙帝 この時支那(*2)史上で最大版図。今問題になっているチベット、新彊ウイグルあるいはロシアにもぎ取られた満州北部・東部が清朝版図。

清朝版図 (*1より)

- - チベットは「弱者」か? 否。かつて、元や清の皇帝のための宗教的権威- -

今、チベット問題で中共に人権問題を根拠に抗議している人は、無意識のうちに、チベットを被害者→かわいそうな人たち→弱い人たち→助けなきゃ、という印象があるのかな? それは悪くはないのだが、なぜこんなにも中共がチベットに「憎悪」をもってチベットを征服しようとするのか?その動機がわかりにくい。

その中共の動機を推定するための比較、参照として、清朝の康熙帝時代のチベット進駐を考える。清朝・康熙帝がチベットに進駐した理由は「檀家」としての「菩提寺・総本山」の「管理」。チベット仏教の当時の有力檀家は清朝皇帝だけでなく、モンゴルの後継を自称するジュンガルもそうであった。そして、世俗ではジュンガルは清朝北方の「夷族」として討伐の対象であった。

康熙帝はジュンガルとの戦いに勝ったが、ジュンガル残党はチベットを「征服」しようと襲撃した。これを看過できない清朝・康熙帝は、チベットに進駐し、ジュンガルを追い払った。その結果1728年の駐蔵大臣の派遣となる。清の駐蔵大臣はチベットの責任者と共同で統治した。この統治はのちの中共のチベット支配とは根本的に異なる。なぜなら、清朝皇帝はチベット仏教の檀家なのであって、チベット仏教を庇護したからである。清朝とチベットは支配・服従の関係とは単純にはいえない。


中共・毛沢東の場合


- - 前段階としての辛亥革命と五族協和 - -

 現在の中共政府は漢民族としては史上最大の版図を持つ。これは清朝の版図を引き継いだからである。中国共産党が漢民族中心主義という建前は取っていないのであるが、やっていることといえばそうみえる。 ただし、清朝を倒した孫文の辛亥革命では、漢民族中心ではなく、漢民族、満州族、モンゴル族、ウイグル族そしてチベット族が共和しようという理念であった。

『ウィキペディア(Wikipedia)』:五族共和 (のちの満州の「五族協和」とは別

しかしながら、チベットは自主路線。中華民国も欧米日列強に蝕まれ、チベット問題どころではなくなり、放置せざるをえなかったのであろう。

対日戦争と対国民党戦争に勝った毛沢東率いる中国共産党にも、チベット問題解決の条件が整ったのが1950年代。 その時の「理屈」が、辛亥革命の時のような五族共和ではなく、西欧流の単純な進歩理論。つまりは、農奴解放!である。

先日、田原総一郎が司会する日中の担当者と議論するというテレビ番組で、チベット問題をつっこまれた中国側は、それまでしていた微笑対話の演出をかなぐり捨て、チベット族なんてのは前近代的農奴なのであって、それを中国共産党・人民解放軍が解放したのだ!と正当化していた。

つまり、清朝の仏教庇護を伴う進駐とは異なり、中共のチベット進駐は中共イデオロギーの実践であり、チベット文明は革まるべきもの、つまりは破壊されるべきものであったということだ。

なぜ、中共があれほどまでにチベットを憎悪して破壊したかは、チベット関連族のモンゴル族(チベット仏教徒が多い)はソ連の支援を受け独立。おなじく清朝残党・満州族は日帝と結んで満州国建国と中華を分裂させる絶対にゆるせない存在であった。さらに、総本山のチベットも大英帝国と気脈を通じ、中華からもぎとられるのではないかという危惧が中共にはあったと、おいらは、推定する。この推定は、現在中共がダイライラマらを分裂主義者と口を極めて非難することと調和的である。


*1 http://blog.goo.ne.jp/chiyakazuha/e/5117dc2d97babd714ae86b7671f0db04


『「文化の虐殺」粛々と進行中』 筑波山 1872

2008年05月10日 15時03分24秒 | 筑波山麓


- - 廃仏毀釈を目撃した、筑波東山の住人、塚本勇吉の1872年8月27日の日記より。 - -

【櫻井よしこ 福田首相に申す】「文化の虐殺」粛々と進行中
現在リンク切れ。要旨はチベットでの支那人による文化破壊への批難。
特にチベット仏教弾圧への批難。

■このブログの一貫した ぐち のひとつが、明治維新。

特に、「保守」的な人間が「明治維新」を礼賛するというのは、大ワライである。  ちぃーとは歴史力を磨けや~ (竹原慎二風に)。

ただし、小泉熱狂に身を任せ、倭国・平成・文革派として、いきいきとすごした御仁たちが、「明治維新」を回顧し、熱狂を禁じえないというのは、とても、すじが通っていると思う。

●そんで、中共のチベット支配にお怒りのみなさま。 そのお怒りを、いささかでもこの筑波山@1872にも、注いでやってください。 ■1868年の「チベット」、筑波山。

仏を焼く、罰当たりな、明治新政府サポーターのおにいちゃんです。本場支那のチベット動乱や本場文革の80-100年も前の、ファナティックお兄ちゃんです。明治維新直後、革命の実践の真っ最中です。


つくば市 国土地理院、企画展 「筑波山とつくば道」

明日(5/11)まで。



▼「明治の神仏分離で、筑波山中禅寺は廃され(破壊され)、筑波山神社がでっち上げられる。」といういきさつの詳細が書いてあります。
→  web site; 常陸筑波山中禅寺三重塔


それでも、おいらは、毎週梅の木の写真を撮っていきます。16

2008年05月10日 08時13分33秒 | 筑波山麓


それでも、おいらは、毎週梅の木の写真を撮っていきます。16


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91匹と9匹の羊

2008年05月09日 18時51分20秒 | 札幌

- - 「しかしもちろん、私は君に日本近代の空虚性について語ろうとしているわけじゃない。私の言いたいのは、幕末以前には日本には羊は一頭も存在しなかったということと、それ以後輸入された羊は政府によって一頭一頭厳重にチェックされていたという二点にある。このふたつが意味するものは何だ?」

奇妙な男性秘書の「僕」への質問。

村上春樹、『羊をめぐる冒険』- -


■ 大日本帝国・開拓使が買った羊;



今日の日経に、エドウイン・ダン(明治新政府が雇った米国人で畜産専門人、この拙記事の2番目の画像のむつひとさん、西郷ドンらの視線の先にいる)が、日帝政府の資金で買ってきた羊の頭数が報道されていた。田辺安一さんの調査の結果、91匹。羊91匹を米国で買い付けたというのも不自然。たぶん、100匹買って、9匹は死んだり、逃亡して、日本への途上、海の藻屑になったと思われる。

この9匹のための「獣魂慰霊」をいたしませう。

参考、拙記事:かわいそうな羊たち



▼蛇足

米朝こける。


「楕円の広場に降りることはない」

2008年05月06日 13時55分16秒 | 筑波山麓

- - つくば市(筑波研究学園都市)の中心に、世界的な建築家である磯崎新が設計した「つくばセンタービルが」あり、そこに「広場」がある。一九八三年に完成してちょうど二十年余、筆者は一度としてこの「広場」に人が憩う光景を見たことがない。時間がとまり音が消えた白昼の墓場が蜃気楼のごとくゆらめくのを誰しも無意識に幻視するだろうか。その虚ろな不気味さが、確かに人を遠ざけている。 - -

            中川八洋、『福田和也と《魔の思想》』



    降りちゃった

- - そればかりか磯崎は建物の完成と同時に、「つくばセンタービル」が崩壊して、”廃墟”となった図(水彩画、一○一cm X 一七八cm)を描き、ためらうこともなく一九八五年に発表した。その題は「未来都市つくば・・・・」であった。つまり、磯崎建築学のモチーフは、一九六二年の「孵化過程」以来、一貫して「未来は廃墟、廃墟こそ未来」である。

 その前年の一九八四年には、「自註」というエッセー で、人々が「楕円の広場に降りることはない」と、つくばセンタービルの「広場」に、誰も降りて歩かないよう設計したことを告白していた。私は、「広場」に誰も降りていかない光景を二十年余りも目撃した証人であるが、それは磯崎の「設計」の意図の通りであった。 - -

   同上より。


それでも、おいらは、毎週梅の木の写真を撮っていきます。15

2008年05月03日 09時33分21秒 | 筑波山麓


それでも、おいらは、毎週梅の木の写真を撮っていきます。15


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