いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

京都散歩、嵯峨野 :天龍寺、常寂光寺、落柿舎、化野念仏寺

2021年09月26日 14時49分20秒 | 国内出張・旅行

1;嵐電・嵐山駅、2;天龍寺、3;竹林、トロッコ嵐山駅、4;常寂光寺、5;落柿舎、6;化野念仏寺、7;嵯峨釈迦堂前バス停、8;渡月橋

α;天龍寺庭園、β;常寂光寺、γ;化野念仏寺、δ;嵯峨釈迦堂前バス停

9月23日、京都の嵯峨野に行った。嵯峨野の奥の化野に行くことに決め、途中の天龍寺、常寂光寺、落柿舎に寄った。今、このブログ記事のため経路を確認すると、嵯峨野と小倉山の境界の斜面に敷地をもった寺院とわかった。落柿舎は別。

■ 1;嵐電・嵐山駅 ⇒ 2;天龍寺 

9:50

10:20

10:30

2;天龍寺の北口を出る。



a; 天龍寺庭園、b;天龍寺北側出口、c;常寂光寺展望台、d;落柿舎

■ 3;竹林 ⇒ 4;常寂光寺

この竹林は天龍寺敷地内らしい

■ 常寂光寺

10:45

11:15

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は、京都市右京区嵯峨小倉山小倉町にある日蓮宗の寺院。山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)。百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており[1]、秋は全山紅葉に包まれる。wiki

■ 落柿舎

11:30

落柿舎(らくししゃ)元禄(げんろく)俳人向井去来(はいじんむかいきょらい)遺跡(いせき)である。去来は芭蕉(ばしょう)の門人にて師翁(しおう)の言葉に、「洛陽(らくよう)に去来ありて、鎮西(ちんぜい)俳諧奉行(はいかいぶぎょう)なり」と(たた) えられた。去来が落柿舎を営んだのは、 貞享(じょうきょう) 四年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄二年(1689)、 (あわ)せて三度来庵す。元禄四年には四月十八日から五月四日迄滞留(までたいりゅう)し、その間に『嵯峨日記(さがにっき)』を(しる)した。落柿舎: 落柿舎について

受付の人が、詳しく説明してくれました。特に、落柿舎のイメージとなっている蓑とかさと閉まった戸は、東山魁夷の絵から広まったとのこと。 戸は自由に開閉していいですよと言われる。 芭蕉の『嵯峨日記』も知らなかった。 ⇒ 芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1) 

■ ⇒ 化野念仏寺

12:00

化野(あだしの、仇野、徒野とも)は、京都の嵯峨の奥にある小倉山の麓の野。京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にその地名が残っているが、古くは山城国葛野(かどの)郡嵯峨といい,かつては風葬の地,近世は鳥辺山とともに火葬場として知られた。wiki

■ ⇒ 嵯峨釈迦堂前バス停

12:30

嵯峨釈迦堂前バス停からバスにのり、市内へ。

■ バスからみた渡月橋など

12:45

▼ 最近と1960年代の航空写真。範囲は本記事上から2つめの地図、凹凸地形図と同じ。

 



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