いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の風景、京都、柿傳

2021年10月15日 04時11分06秒 | 国内出張・旅行

先月、京都に行った。今年2回目。前回は、3月に行った。「車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』に今宮通り、小山花ノ木町が出てくるので、見物することにした」とある。今回は、柿傳をみにいった。

そこから歩いて西洞院丸太町上ル夷川町の、昔、下働きとしておいてもらっていた柿傳へ寄って見ようかと考えた。柿傳ではよくしてもらった。にも拘わらず、私はだし抜けに柿傳を上がった。上がった、というのは板場言葉で、辞めた、ということであるが、私はこれと言ういわれもなしに上がった。それを思うならば、私にはやはり顔出しのしにくいところだった。この「これと言ういわれもなしに。」という曖昧さが、私を決定する凶器のように、いつも私の中にぶらさがっていた。私はもうええ加減に自分を見放したいような気持で、また鴨川の方へ歩いていった。そして雨に降り込められた北山を見た。それから祇園町で「壱銭洋食。」を喰うてアマへ帰った。(車谷長吉、『赤目滝四十八瀧心中』)

車谷長吉は、『文士の魂・文士の生魑魅 [いきすだま]』で、『赤目滝四十八瀧心中未遂』について説明している;

この小説は私が経験したことの顛末を綴ったものではなく、九割九部が作り話であるが、併しそれでも私の心に膿のごとく溜まっている罪悪感が書かせたものだった。 (車谷長吉、『文士の魂・文士の生魑魅 』、「文学における悪」)

一方、

 昭和五十一年の秋、当時、京都柿傳の料理場で下働きをしていた私は、寂聴瀬戸内晴美さんに仲秋の名月の宴に招かれ、嵯峨野の寂庵へお邪魔したことがある。(車谷長吉、『文士の魂・文士の生魑魅 』、「伝記小説」)

とあるので、京都の柿傳で働いていたことは、九割九部でない残りの一部の事実であるらしい。

なお、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の設定は、昭和53年、1978年である。

一方、『赤目滝四十八瀧心中未遂』の後の作品である『贋世捨人』には京都、柿傳について詳しく書いてある;

 三月十四日、私は風呂敷荷物一つで、京都へ出て行って、上京区西洞院丸太町上ル夷川町の柿傳に勤めた。柿傳は江戸時代は御所の天皇家の料理を作っていたが、明治維新で天皇が東京へ去ってからは、茶道の表千家不審庵の茶料理を務め、親ッさんの木村淳郎氏は九代目だった。店には客の座る席はなく、すべて出張り料理だった。客は、たとえば祇園のお茶屋なり寺なりに席を借りて、そこへ柿傳の料理人を呼んで、茶懐石料理を作らせ、また別に呼んである男の配膳さんに、厨から座敷まで料理を運ばせるのだった。配膳さんとは、京都独特の職能の人で、紋付き・袴に扇子を差して、客一人一人の食べ具合を測っていて、よい潮時に、料理を運んでいくのだった。無論、月々の不審庵での茶会にも、出張する。 (車谷長吉、『贋世捨人』)

柿傳(上京区西洞院丸太町上ル夷川町)と御所の位置関係を下の地図に示す;

柿傳は地図の左上、日本赤十字社京都第二病院の西(向かって左)にある。御所は地図右上

『贋世捨人』には、主人公、生島与一が東京での生活が破綻し実家に帰るも、居心地が悪く、料理屋などの「下働き」をする過程が描かれている。勤め先を転々とする。ただし、勤め先を変わる時は前の勤め先の人の口利き、指図で勤め先が決められると説明される。ただし、京都、柿傳へなぜ務めたのかは書いていない。

今週、『贋世捨人』を買ったのだが、自歴譜があった。初めてみた。下記、あった;

 昭和五十二年(三十二歳)三月、みかしほ調理学校を卒業。四月、京都上京区西洞院丸太町上ル夷川町の「柿傳」で料理場下働き。十月、神戸元町の「石翁」で料理場の下働き。(以下、略)

とある。柿傳に勤めていたのは事実なのだ。 

そして、この自譜をみて驚いたのが、車谷は調理師学校に通っていたのだ。この、学校に行ってなんとかしようとする発想を車谷はもっていたのだ。そして、そのことは小説には書かない。大学で文学を学び、作家として成功できなかった主人公を描いているが、調理師学校出て、料理場下働きの方が「不本位」度は高いはずだが。

『贋世捨人』で車谷は料理場で働く多数の登場人物を中卒だ、高卒だと示している。でも、職人なんだから学歴は関係ないだろうと思うのだが、車谷は書く。これは、職人に対しても学歴にこだわる主人公の偏見を描いているつもりということなのか。そもそも、「下働き」という認識がすごい。まずは、職に上下をつけて、「下」なのでやりましょうという発想が、その仕事をなめてる。だから、「贋世捨人」ということで、よく書けているというべきなのか。事実、『贋世捨人』には偉い人、有名人がたくさん出てくる。そういう偉い人、有名人との縁を書くことも俗物でいとおかしということか。

『赤目滝四十八瀧心中未遂』から四半世紀。車谷は調理師学校に通っていたと初めて知った。京都、柿傳へなぜ務めたのかは書いていないのは、柿傳は卒業した調理学校の伝手で紹介されたからではないか。 厭世者が学校に行って勤めましたでは話にならないからではないだろうか?



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