いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

京都散歩;修学院離宮⇒鷲森神社⇒詩仙堂⇒一乗寺樋ノ口/白川通

2021年04月07日 19時13分19秒 | 国内出張・旅行

1;修学院離宮入口、2;鷺森神社、3;詩仙堂、4;一乗寺樋ノ口

■ 1;修学院離宮入口 ⇒ 2;鷺森神社

Google[離宮2(京都市左京区修学院水川原町)の建物情報]

▼ 鷺森神社参道

貞観年間(859年 - 877年)の間に創建されたとされる[2]。最初は比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていたが応仁の乱の兵火で罹災し、今の修学院離宮の山林中に移されたが、離宮造営の為、霊元天皇の思召しにより現在の鷺の社に社地を賜り、元禄2年6月御遷座になり修学院、山端の氏神社として今日に至っている。wiki

 

■ 鷺森神社 ⇒ 詩仙堂

このお寺、非業の死を得た二人(村山たか、 サイド・オマール)のお墓がある、と知る;

村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。 

生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で部屋住み生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後2人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。wiki

サイド・オマール・ビン・モハメッド・アルサゴフ(マレー語: Syed Omar bin Mohamad Alsagoff[1]、1926年7月28日[2] - 1945年9月4日[注 1])は、イギリス領マラヤの王族。広島市への原子爆弾投下で被爆死した南方特別留学生サイド・オマールとして知られている。wiki

このあたりは「徳川ゆかり地域」だと、このブログ記事を書いていて気付いた。そのわけは下記;

■ 詩仙堂

詩仙堂。 きらびやかで豪華な桃山建築的門ではない、純和風の様相。良い。でも、純ジャパに見えて、ここは支那文字山荘なのだ。庭園と書いたが、起源はある人(石川丈山[1583- 1672])の隠居場(山荘)として建てられた。現在は、曹洞宗の寺となっている。ただし、この後の画像からわかるように、抹香臭いわけでもなかった。

詩仙堂は、正しくは「凹凸窠(穴冠に果)」(おうとつか)と呼びます。凹凸窠(穴冠に果)とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。

凹凸窠の中心には、江戸時代の絵師、狩野探幽(1602年~1674年)が描いた中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画があり、各詩人の肖像画の頭上には、石川丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。
四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としていることから、現在は「詩仙堂」と呼ばれています。

詩仙堂の web site

純ジャパに見えて、ここは支那文字山荘という理由は、敷地内を分節化する言葉、文字である。「洞」、「軒」、「関」、「堂」、「巣」、「泉」、「楼」、「瀑」、「(おう)」がある。全体名は「窠(か)」。つまり、支那風に仕立ててあるのだ。

支那文字/支那文化; 本来は「凹凸窠」(おうとつか)と称した山荘が、その後ー今にいたるまで詩仙堂と呼ばれるようになったのは、三十六詩仙 [1] という石川丈山が支那文明史に中から36人の詩人を選定して、狩野探幽に肖像を描かせて漢詩を付けて部屋に掲げて顕彰した。これは、日本の三十六歌仙に倣ったもの。すなわち、支那文化愛好者であったらしい。

[1] 三十六詩仙 の詩人一覧 wikipedia[石川丈山]より

▼ 石川丈山って誰だ? 石川丈山像というのが残っていて、上記の狩野探幽が描いたもの。

 
狩野探幽の石川丈山像(左)と徳川家康像 [共に部分:wikiより、]

つまり、家康を描くような偉い絵師に像を描かせるような人物だということだ。石川丈山は若い頃、つまり彼が16歳から33歳まで家康の寵臣だった。親衛隊員みたいものか。しかし、33歳の大阪の陣で無許可の先陣突入をして、家康に認められず、家臣を辞めた。隠居した。そして、いろいろあって、60歳すぎてこの地に隠居しはじめた。90歳までここで過ごした。Wikipedia [石川丈山]

▼ 凹凸窠の地形的根拠



左から詩仙堂の地図、航空写真、地形図。 赤矢印が窪み;凹。は、詩仙堂。

凹凸窠(おうとつか)の根拠は地形。地形図から見るにここは小さな谷である。山側来る川が刻んだ小さな谷だ。今でも、すぐ南側に川が流れている。

■ 詩仙堂 ⇒ 一乗寺樋ノ口 (中華料理店、秋華)⇒ 白川通

秋華の店舗写真を撮り忘れていた。Googleからもらった。



愚基地: 京都中華料理屋での昼ご飯3軒;MACHIYA 兪、秋華、芙蓉園

白川通



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