いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日の筑波山 2013/10/27

2013年10月27日 19時21分10秒 | 筑波山麓

仕事が炎上した。昨日今日(午前)は休日でも出勤。 実験。 

11月の3連休はふっとぶであろう[未来形]ことが決まった。

ディフェンス前の院生のようで、楽しい。

炎上したのが、北京への物見遊山の後で、よかった。

もし、2週間前に炎上していたなら、北京に行けなかったであろう。

ありがとう、おいらの運命!

で、本日午後は、つくばのショッピングモールである イーアス に行った (1円も使わなかった。くまざわ書店@アカデミアで立ち読みしただけ、 ごめんね、イーアス)。

このイーアスの住所は、茨城県つくば市研究学園C50街区、である。

研究学園C50街区! 何か、中国の新開地みたいで、素敵。 事実、東夷の新開地にほかならない。 

さて、そのイーアスから少し道に迷った。なぜなら、新しい道ができたりしたからだ。コストコなどという新参者が商売を始めたりしていた。

その「新しい」道の脇の並木が立派。 この画像は車中から撮ったので、ちゃちいが、実物は立派。

この辺↓

■ 今日知ったこと、今日、改めて思ったこと;

同時代の人、いや2世代あとの人も、その時代の歴史は知らないのである。

文化大革命を知ることで知ったこと。

現在、2013年の視点で見ると、中国で毛沢東が発動した文化大革命の重要なエピソードのひとつが、劉少奇の吊し上げと事実上の殺害。そして、それに先立つ、劉少奇夫人・王光美の吊し上げが挙げられる。 今では有名なこの画像だ↓

 

1967年に劉少奇夫人・王光美は紅衛兵によって、北京の精華大学で、吊し上げられた。

理由は、インドネシア訪問で「ブルジョア風」(下記画像左)の=共産党員にあるまじき格好をしたからである。 

もっとも、"ブルジョア"風というより、清朝風なのであるが。

今日、おいらが知ったことは、この1967年の王光美の紅衛兵による北京の精華大学での吊し上げられたときの画像は、(少なくとも)1989年には公開されていなかかったのだ。 なぜわかったかというと、草森伸一の『中国文化大革命の大宣伝』に、文書では伝えられていたこの1967年の王光美の紅衛兵による北京の精華大学での吊し上げについて、写真がないの! (写真がないの!@豊田順子 風)と草森は1989年に叫んでいたからである。

果たして、写真はあったのだ。

何年に公表されるようになったが不明であるが、1989年=64天安門事件が起こった年には、普通の中国人と世界の人は見たこともなかったのだ。

言いたいことはこうである。

文化大革命は1966-1976年に起きた。でも、その事実=経過=「歴史」を一般人=含む歴史研究者が、大概に知ることができるようになったのは、1990年代以降なのである。

同時代の人、いや2世代あとの人も、その時代の歴史は知らないのである。

なお、王光美は2006年まで生きた。 北京で2006年10月13日に北京で死んだ、とされる[wiki]。

なんだ、(北京に着いた2005/10/10)おいらは、王光美と同じ空気を吸ったのか。 ただし、その時のPM2.5の濃度はわからない。

 



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