いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第408週

2022年09月10日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第408週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の止血

採血のあとで

■ 今週の自己組織化

自由民主党(LDP)の茂木幹事長は、旧統一教会との関係について党としての組織的つながりはないと主張し、党は組織として無垢であると強調する。しかしながら、個人としては自由民主党の国会議員の約半分が旧統一教会と関係があるとの自己「アンケート」結果。つまり、党の組織としての指示がないのに、半分の国会議員が自ら旧統一教会と関係をもち、結果的に多大な関係が、意図せずに、組織化されているのだ。意図もしないのに。自己組織化現象だ。

自己組織化:自己組織化とは、あるランダムな状態にある構成要素が、構成要素間に働く相互作用により自発的に特定の秩序構造を形成する現象です。

■ 今週のドレイクたち

  
Francis Drake    Royce Allison Drake 

▼今週借りた本

『1571年 銀の大流通と国家統合』。デニス・フリン、『グローバル化と銀』山川出版の世界史リブレット13、岸本美緒、『東アジアの「近世」』に続く、16世紀のグローバル化の話。銀の話だけではなく、この時代の全世界の歴史を次の項目で描く;⓪銀の大流通と国家統合、①スペインのマニラ建設、②北虜問題と明帝国、③ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代、④東地中海のオスマン帝国とヴェネツィア人、⑤宗教戦争と国家統合、⓪' ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容。

Drake

この⓪'というのは「補論」。「補論:ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容」読んで知った。フランシス・ドレイク (wikipedia)。高校の世界史の参考書にも載っていた。知らなかった。アルマダ海戦は知っていたが、その功労海軍軍人としてのドレイクは知らなかった。おいらが知っているのは、ロイス・アリソン・ドレイク大佐だ。朝霞にあった進駐軍の基地・キャンプ・ドレイクの名の由来[11]の米軍人だ。なお、Francis Drakeのカタカナは、wikipediaや高校の世界史の参考書では「ドレーク」。

[11] ドレイクとは、1945年(昭和20年)マニラの戦いにて戦死した同騎兵師団大佐であったロイス・A・ドレイクの名前に因む (wiki)

▼カカフエゴ事件、アルマダ海戦

『1571年 銀の大流通と国家統合』の薩摩真介による補論「ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容」は、この時代の前後の海賊行為の統制化・合法化による私掠(privateer)への変遷について書かれている。この補論は次の4項から成る;
 1.「カカフエゴ」号の拿捕が意味するもの
 2.掠奪行為のグローバル化
 3.掠奪行為の管理化
 4.「神話」の出発点としてのドレイクの世界周航

カカフエゴ事件とは1579年3月1日にスペインの銀輸送船(サン・ファン・デ・アントン号;カカフエゴ号)が、イングランド人のフランシス・ドレイクが率いる集団に襲われ、銀を略奪された事件。この事件はフランシス・ドレイク船団が1578-1580年にイギリスのプリマスから出発して、南米、北米、太平洋、インド洋、喜望峰を回って、帰って来る世界一周をした途中での事件。スペインを餌食に世界一周をしたのだ。この世界周航(1578-1580年)と掠奪行為がイングランド王の「お墨付き」があったとの歴史的資料は確認されていないとのこと。でも、イングランド王、エリザベス1世は出資者であった;

女王エリザベス1世を含む出資者達に4700%とも言われる配当金を支払った[3]。イングランド王室の取り分は30万ポンドを越え、これは当時の歳入(20万ポンド程度)よりも多く、この臨時収入により王室は溜まっていた債務を全て清算できたうえに、国策会社のレヴァント会社に増資することができ、これは後の東インド会社設立の基礎となった。wikipedia

この論の各項のメモ

◆掠奪行為/耶蘇の内ゲバのグローバル化

イングランドの掠奪者が世界一周をした理由は、すでに世界一周をして太平洋、大西洋を跨いで銀を輸送していたスペイン・ポルトガルを餌食にするためである。この時代の背景は、耶蘇における旧教と新教の内ゲバ。つまり、カトリックとプロテスタントの抗争。この抗争を背景にして、スペイン(旧教の政治的守護者)の船舶をイギリス、オランダのプロテスタント諸国から出撃する海賊が襲撃、掠奪を行う。さらには、オランダ地方をめぐるスペインとイギリスの対立が生じていた。エリザベス期のイギリスは敵であるスペインを餌食にする海賊、私掠は、英国王室・国家の収入が得られて望ましかった [1]。掠奪は、植民、貿易先立つイギリスの重要な対外政策、グローバル化政策であった(掠奪活動のグローバル化の始まり)。

[2]イギリス(イングランド)の私掠船の始まりは、1243年にヘンリー3世がゲオフレイ船長に与えた報復を目的とした許可が初めてとされているが、国家が積極的に奨励したのはエリザベス1世治下の英西戦争の時のことである。海軍力に劣るイングランドは、スペイン海軍と正面から戦うことを極力避け、代わりに私掠船を一種の準軍事組織として用い、表向き非正規の行動としてスペイン船を襲わせた。中でもフランシス・ドレークの私掠船による世界周航やカディス襲撃は偉業と讃えられた。アルマダの海戦に参加した200隻以上のイギリス艦船のうち、150-160隻は商船だったと言われる。特に西インド諸島海域に遊弋するイギリス私掠船の活動は激しく、当時のイギリス船そのものが「海賊船」と評価されることになった。 (wikipedia 私掠船)

その他、グローバル化するイングランド系掠奪者;
*インド洋、紅海、アラビア海に進出したヘンリ・エヴリ(ヘンリー・エイヴリー wikipedia
*バルバリア私掠者(wikipedia)に加わったイングランド系掠奪者;地中海で活躍

 こうして近世以降の銀の循環や交易活動のグローバル化を反映して、それに寄生するイングランド人をはじめとするヨーロッパ人の掠奪活動の範囲も地球規模で拡大していった。それは貿易や植民を通じたイングランド(のちにはイギリス)の対外進出とも連動しつつ、十八世紀までには、大西洋のみならず太平洋やインド洋にまでおよぶようになったのである。『1571年 銀の大流通と国家統合』の薩摩真介による補論「ドレイクの世界周航と掠奪行為の変容」

 掠奪行為の管理化

「犯罪行為である海賊行為」と「政府など公的権力の認可を受けた私人による掠奪行為」は区別される。イングランドでは1536年に海賊行為は違法とされた。「しばしば「海賊女王」と形容されるエリザベスも、一五七七年には海賊取り締まりの新たな試みとして、各地域の有力者を取り締まり委員に任命し、海賊行為や密貿易の監視にあたらせている」。しかし、必ずしも徹底されなかった。1640年代にイギリス諸島近海での海賊活動は政府の実効力のためみられなくなる。

「政府など公的権力の認可を受けた私人による掠奪行為」は、私掠(privateering)と呼ばれた。「私掠は、戦時に私人の船が政府の認可のもとで、敵船、あるいは敵国と貿易をする中立船の一部を拿捕して、その積荷等を売却してりえきを得る」。なお、wikiには下記ある;

[1] 私掠免許をはじめて発行したのはイングランドであり、起源は海賊を捕える私兵のための拿捕許可状といわれる[4]。私掠免許は戦争に際して何度か発行された。代表的なものとしてはイングランドの女王であるエリザベス1世(1533 - 1603)キャプテン・ドレークに発行した免許が挙げられる。(wikipedia 私掠免許)

しかし、薩摩真介の補論ではドレイクは女王の公的な認可を得ていたと主張しているが、決定的な証拠は見つかっていないとのこと。したがって、ドレイクの掠奪は海賊行為であった可能性が高いとしている。しかし、女王や政府高官は対スペイン弱体化のためドレイクを黙認していたと解釈している。

「報復的拿捕」:私掠とは違う掠奪の概念。「報復的拿捕」は私掠より古い時代13世紀から確認できる掠奪。私掠と同様に公的権力の許可を得て行う掠奪の一形態。報復的拿捕は、海上で他国から掠奪を受けた被害者が自力で報復する。これには法的手続きが必要、報復は加害国の船であればよい。さらに、これは平時に行われるという属性をもつ。私掠は戦時の掠奪。

16世紀半ばにはイングランド王権は「報復的拿捕」を利用して、国家伸張に務めた。その後、17世紀半ばには、報復的拿捕から私掠へ移行していった。すなわち、掠奪は戦時にのみ行われる私掠だけとなっていった。平時には掠奪が少なくなり、海上は以前より平和になった(らしい)。これは掠奪行為の管理化の結果である。ドレイクの掠奪・世界周航はこの掠奪の管理化が始まることの出来事。

「神話」の出発点としてのドレイクの世界周航

「海賊行為」から始まり、イングランド海軍の将軍になったドレイクはアルマダの海戦で周スペインを破り、のちに世界を制覇することになる大英帝国の礎を築いたこととなった。そして、「シーパワーについてのイングランドの国民的神話」といわれる政治的言説の基礎となった。この言説によりドレイクの掠奪・世界周航は、18世紀の重商主義的抗争、つまりは拿捕合戦での「伝説のお手本」となった。16世紀のドレイクの業績は、世界を支配する大英帝国の「拡張を理念的に下支えする神話形成の出発点にもなった」。

● 他の本にみる海賊と私掠

手許にあった英国史、とくにエリザベス期の「海賊」についての記述をみてみた。

1)海賊や「冒険商人」が先兵となって、イギリスは一六世紀から十七世紀に海外進出を行い、海洋の自由を謳歌した。スペインやポルトガルの帆船を襲撃して財宝を略奪し、国王や女王に上納して国庫を潤した。イギリスは海賊を活用して、スペインやポルトガルの海洋覇権を切り崩した。(竹田いさみ、『海の地政学』)

 大航海時代末期の一五八八年に、エリザベス一世の指令を受けて、ドレイクが率いるイングランドの艦隊がスペイン無敵艦隊(アルマダ)を撃破したことは、ヨーロッパ世界におけるイングランドの台頭のきっかけにはなったが、本格的な海外への進出と勢力拡張にはまだ程遠い状況にあった。海軍と海賊(私掠船)との区別も曖昧なままに、冒険的商人層が大西洋におけるスペインの支配権に個別に挑戦を試みていた、というのが実態であった。(秋田茂、『イギリス帝国の歴史』)

竹田いさみ、『海の地政学』には「私掠」の語がみあたらず、秋田茂、『イギリス帝国の歴史』では 海軍と海賊(私掠船)との区別も曖昧とあるが、海賊と私掠の区別がない。

🔻 以上、長くなってしまったが、最近の「日本銀」から16世紀のグローバル化の歴史を調べていて、この象徴的な年が1571年(1571年生まれのグローバル化と支倉常長、あるいは、慶長遣欧使節の時代背景)。主役はポルトガル、スペイン。日本への衝撃も大きかった。耶蘇教伝来。日本人奴隷の海外への輸出。この16世紀のグローバル化にポルトガル、スペインに寄生して大きくなったのが英国(当時、イングランド)。ブリカスの誕生。そのブリカスの最初の象徴人がフランシス・ドレイクと知る。そして、このブリカスの誕生したのがエリザベス(1世)[wikipedia]の御代だ。

■ 今週の2世 

エリザベス女王死去 (google

今日まで、なぜ彼女がエリザベス2世なのか知らなかった。400年も間があるのに。織田信長2世とかいないしな、とか考えていた。ググると、歴代英国王でエリザベスという名が二人目だからだという。


1971年、日本史上初めての天皇外国訪問 (日本史上初の皇太子外国訪問はこちら



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