いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

デニス・フリン、『グローバル化と銀』;1571年生まれのグローバル化と支倉常長、あるいは、慶長遣欧使節の時代背景

2022年08月02日 21時09分56秒 | 

グローバル化はいつから、どのように始まったのだろうか。16世紀を「銀の世紀」と呼び、アメリカ・アジア・ヨーロッパを結ぶ銀の流通から世界史を論じるフリン先生の歴史学講義(表紙の文言)

■ 現在の高校の世界史に「日本銀」(世界史の窓)という用語がある。40年ほど前はなかった。16世紀には南アメリカと日本が銀の生産地で、銀は最終的にはチャイナに流入した。理由は、チャイナに銀の需要があったからである。需要があった理由は納税手段が銀と定められ(一条鞭法)たので、支払い手段として銀が必要となり需要が高まったからである。

■ 銀のチャイナへの流入はグローバル化で可能となった。「コロンブスの航海」(大西洋)と「マゼランの航海」(太平洋)を経て諸大陸が交易、疾病、自然環境、文化において永続的に結びついたことがグローバル化の始まり。特に、1571年のスペイン帝国によるマニラ建設は太平洋航路を定常化し銀がアメリカからチャイナに流入することを可能にした。交易の逆方向として絹などをメキシコ経由でヨーロッパに流入させた。

■ なお、デニス・フリンがグローバル化の誕生の年とした1571年は、支倉常長の誕生の年である。その支倉常長は伊達政宗の外交官としてスペインを訪問する。つまりは、グローバル化での端的な政治的現象なのだ。その奥州伊達家使節団の欧州訪問の時代状況としての世界経済として、この時代の世界商品でありグローバル化推進の駆動力となったのは銀とのこと。その銀に関係深かったのが日本で、スペイン領アメリアに次ぐ銀の産出があった。その銀の多くがチャイナに流入した。日本とスペインはチャイナに対する銀供給国として競合関係にあったともいえる。

■ デニス・フリン、『グローバル化と銀』(秋田茂、西村雄志 編)、2010年、山川出版社は、デニス・フリンの3つの論文と冒頭の秋田茂、西村雄志による解説から構成される。図書館から借りた本なので、デニス・フリンの3つの論文について、忘備をとった;

・グローバル化は1571年に始まった; 新大陸銀とマニラ・ガレオン

「ダイナミズムをもったヨーロッパ」論への批判。チャイナの銀需要。

産業革命前の2度の銀ブーム;①1540-1640年、②1700-1750年。

太平洋航路:アカプルコーマニラ、ガレオン船は、1600年代に毎年50トンの銀をチャイナに輸送。

16-17世紀の銀産出:日本はスペイン領アメリカ(現ボリビアのポトシ銀山)の半分を産出。日本・スペインが銀の2大産出国であり、チャイナへ輸出。チャイナからの輸出物産は、金、生糸/絹。

日本の銀をチャイナに運んだのはポルトガル人。ポルトガル人は商人&輸送業者であり、日本からの銀、チャイナからの生糸/絹で利益を上げる。

1630年代:日本のポルトガル人追放。オランダへの貿易相手変更。

18世紀中葉のアジアでの貿易変化:イギリス台頭、蘭仏衰退。18世紀はチャイナとインドで世界のGDPの2/3。

「アジアの優れた経済力を言い立てる近頃流行の言辞をまたやっているのかと読者に思われても困るので」

ポメランツ ヨーロッパと中国の生活水準を系統的に比較し、ヨーロッパのもっとも発達した地域は、産業革命の時期までに中国の発達した地域と大体同じ生活水準に達した。スミス的成長()と環境・資源の制限による発展飽和。

「コロンブスの航海」(大西洋)と「マゼランの航海」(太平洋)を経て諸大陸が交易、疾病、自然環境、文化において永続的に結びつけた。 

徳川幕府とスペイン・ハプスブルグ帝国; グローバルな舞台での二つの銀帝国

・17世紀にヨーロッパからインド、チャイナに渡った銀は(少なくとも)16,000トン。さらに、13,000トンの銀がマニラ経由(太平洋航路でアメリカから)でチャイナへ流入。

・山村耕造と神木哲男の推計:1560-1640年に日本からチャイナに9,450トンの銀が輸出された。田代和男の推計:17世紀初頭の最盛期には年200トンの銀を輸出。これらから、16世紀末ー17世紀初頭の総計は10,000トンの銀が日本からチャイナへ輸出と推定される。この量は、ヨーロッパから東(インド、チャイナ)に流れた銀の2/3。

・ドハーティ=フリン・モデル:銀の需要ー供給曲線。100年かかって銀の市場価格が生産コストとなった(利益がでなくなり、鉱山稼業停止)。価格革命の停止。

・輸送コスト。金銀は世界規模の市場(世界市場)をもつ。世界各地で異なる金銀価格比の相違が銀移動の駆動力。チャイナでは銀に対する金が安いので、銀が集まり、金が出ていく。

・100年にわたるチャイナの銀需要により、スペイン(領アメリカ)と日本銀の生産で利益を上げ続けることができた。原因はチャイナの銀需要。その原因はチャイナの幣制の混乱。混乱とは紙幣が信用を失い、流通しなくなり、銀が支払い手段として必要になった。世界第一の経済大国のチャイナの銀需要は甚大。1600年前後の日本とスペインの中央政府の財政はチャイナの銀需要の賜物。

・このチャイナの銀特需の特徴は100年も続いたこと。スペイン帝国と日本・徳川幕府の強国化に貢献。

・スペイン、ひいてはヨーロッパへの銀流入が資本主義の発展の原因となった説(ケインズからウヲーラーステインまで)にフリンは反対。スペインは銀を資本主義確立に有効利用できなかった。スペインは宗教主導の軍事的冒険主義を実践し、英蘭など北方諸国と戦争。結果、アルマダの海戦で敗れ、オランダは独立。銀からの収入が減り、スペイン帝国は衰退(ただし、今にいたるまで、亡びていない)。

・銀の流入が経済発展の原因であるという説を否定。スペインは銀の流入で得た利益を北方戦争(対蘭、対英戦争)で蕩尽した。

・日本が銀で得た利益をどうしたか? この富でチャイナの朝貢体制から独立した日本圏の形成に成功(「鎖国」ともいえる)。

・もし「日本銀」がなかったら?(思考実験)。スペイン帝国はもう少し長く栄えた。そうなれば、英蘭はどうなっていたか?たらればの話となるが…

・銀貿易で利益を得ていた日本、スペインが第一銀特需(1560-1640年)の後、スペインだけが衰退したのか?フリンは3つの原因を挙げる;

1)日本は銀鉱山閉鎖の後、銅の輸出が可能となった。世界での銅需要があった。
2)スペインは、対外戦争をして、国内のインフラ整備に投資しなかった。そもそもスペインは大部分が農耕地に向かない(乾いた大地 La Mancha)。
3)国内の交通事情。スペインは卓上地で大きな河川もなく、都市が内陸にあり、海岸線を使っての交通が発達しなかった。日本は沿岸航路と海岸線の長さと港の数、そして、沖積平野の河川など交通網が発達。17世紀に農耕地激増。

貨幣と発展なき成長; 明朝中国の場合

・長期にわたるチャイナへの銀の流入は、チャイナの長期的な経済発展に貢献したのか、有害であったのか?の検討。でも下記2点も否定しない;

*チャイナの経済成長は外国からの銀の流入に対応するため起きた、
*銀輸入はチャイナ内部の再編を市場主義で促進させた

フリンの主張:経済成長はしたが、経済発展には失敗した。

・銀輸入を実現させたのは絹。絹・生糸の生産が発達した。雇用も生まれた。17世紀はチャイナは2,500トンの絹を生産し800トンを輸出。

・重農主義的批判(明朝交換  徐光啓)。銀を貯めても豊かになれない。反重商主義(アダム・スミス的)。

・チャイナは、銀を得るために、絹産業を発展させた=経済成長した。銀は通貨部門でのみ利用されるので、消費、投資など非通貨部門での利用ができず、経済発展には寄与しなかった。

・流通貨幣としての銀の獲得のため絹の生産を行った。資源を費やした。もし紙幣が流通していれば銀は不要であり、銀の獲得のために絹生産に費やした資源も節約できた。社会発展に貢献しなかった。成長理論と貨幣。商品貨幣を紙幣に代替した国家において生活水準があがるのは、資源製薬海将のメカニズムが機能するから。チャイナではこれが起きなかった。

・「私的部門」の役割。明は紙幣流通に失敗し、銀が実際の貨幣となった。中央政府ではなく民間の自主流通=自由経済状況による銀本位制の維持。何世紀も続いた。社会的コストであった。このコスト負担は、私的部門により、銀流通と銀調達は「自由貿易」と「自由市場」により行われた。

・ウォーラーステイン(1980年)批判。ヨーロッパの初期資本主義はスペイン領アメリカからの金銀の蓄積があったから生じた説の誤りを、フリンは、指摘。なぜなら、銀が蓄積されたのはチャイナだから。ウォーラーステイン(1980年)はアメリカ銀がヨーロッパ(世界経済の「中核」)に蓄積されたと考えていたことを、事実誤認だし、世界経済モデル(ヨーロッパ=世界経済の「中核」)も批判。

もっとも、ウォーラーステイン(1980年)の世界経済モデルの「中核」をチャイナとすればよいのであった、その点ウォーラーステイン(1980年)は「先見性」があったと云っている。


 



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