いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958);道庁から9km;敷地は牧場をつぶしたのだ。

2020年03月18日 19時07分27秒 | 札幌


愚記事・札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)より再掲。 この図の大きな建屋(Z)が学校なのだという[1]。この学校は小中高に対応する学校であったとある[2]。「アメリカン・スクール」だ!

小島信夫の小説、『アメリカン・スクール』は、「占領時代、アメリカ人の学校を参観した日本の中学校教員の、貧しく、滑稽な姿を描き、深味のあるユーモアと重厚な風刺で混乱した日本を象徴的に描いた芥川賞受賞作」と裏表紙に説明書きがある。そして、本文の象徴的な文章は;

 彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅地の中央に、南にガラス窓を大きくはって立っていた。敷地は畠をつぶしたのだ。アメリカ人にとっては贅沢なものとはいえないが、疎[まば]らに立ちならんだ住宅には、スタンドのついた寝室のありかまで手にとるようで、日本人のメイドが幼児の世話をしていた。参観者たちにはその日本人の小娘まで、まるで天国の住人のように思われる。(小島信夫、『アメリカン・スクール』、)

天国のように思えたということだ。 (関連愚記事;小島信夫の『アメリカン・スクール』を初めて読んだ。

 今、この札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードの米軍住宅区域を見ると、①アメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅地の中央に立っていたこと;②疎[まば]らに立ちならんだ住宅という条件が合致する。もちろん、小島信夫、『アメリカン・スクール』のモデルは札幌ではない。なぜなら、『アメリカン・スクール』の舞台は田舎の県庁から6kmの場所とされているからだ。日本のどこかの県なのだ。ただし、『アメリカン・スクール』の舞台を特定することはそんなに意味があるとも思えない。注目すべきは、見学に行く英語教師たち県庁に集合し、米軍基地まで6km歩くという小説上の設定である。師の行軍 ! 。この英語教師たちの行軍(本文中にこの語が使われている)が悲喜劇の一端の契機となる。

■ 札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958)は、道庁から9km

ところで、札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールと道庁の歩行距離をGoogleで調べてみた;

9km、徒歩2時間だった。

■ 成増、グラント・ハイツ

この自作について小島信夫は云っている;「「アメリカン,スクール」は、先年成増のアメリカンスクールを見学に行ったことがあり、その時に、箸を女教員に貸したことがあった。誰かハイヒールで転んだ人のあったことは、教育庁の人に聞いた。もちろん、この道路上の出来事も、その他、事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった。山田は架空の人物だ。僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。」(『アメリカン・スクール』あとがき)

ここで「成増のアメリカンスクール」とある。成増とは東京都板橋区。終戦後グラント・ハイツという米軍住宅地区があった。そこでの「アメリカン,スクール」見学体験を元に小説を書いた。しかし、舞台は東京ではなく「田舎」とした。舞台の条件は「田舎」であることの他に「敷地は畠をつぶしたのだ」がある。この畠をつぶしてアメリカン・スクールを建てたという小説上の設定に注目したのが江藤淳。江藤淳は『成熟と喪失』で上の彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールはで始まる『アメリカン,スクール』の一章を引用し、次のように書いている;

 ここでは敗戦の屈辱感が農耕社会の「貧し」さを恥じる気持ちと重ね合わされていることは注目にあたいする。近代産業社会の産物であるアメリカン・スクールは「畠をつぶした」ところに建てられているのである。(江藤淳、『成熟と喪失』)

小説上は畠をつぶしてアメリカン・スクールを建てたと読める。ところで、成増=グラント・ハイツの場合、敷地は軍の飛行場であったところを接収したのだ。ただし、日本軍は畠を接収して飛行場をつくったのだ。つまり、「畠をつぶし」て飛行場をつくり、そこに、敗戦後、アメリカン・スクールを含む米軍人用住宅が建てられたのだ。

■ 札幌 キャンプ・クロフォード


https://makomanailandss.tumblr.com/page/2 様より。米軍基地となる以前の風景。

札幌のキャンプ・クロフォードは、官営の牧場をつぶして、建設された。

この官営牧場は明治時代のお雇い外人エドウイン・ダンにより建設される。江藤淳が好きな明治国家の一端だ。上の絵は、都内の農業試験場で、明治天皇に農耕具の運用を実演するエドウイン・ダン。(絵は自衛隊web siteより)。なお、この絵の部分ではあるが直撮りは愚記事にある。

つまりは、札幌のキャンプ・クロフォードは、江藤の成熟と喪失モデルの近代産業社会の産物が「畠(=農耕社会の象徴)をつぶした」ということにはならない。米国人に教わった近代農耕という産物が、戦勝国米軍に潰され、基地&米軍人・家族のコロニーとなったのだ。

[1] この大きな建屋が学校であることは、谷代久恵、『真駒内物語』の情報に基づく。

[2] 朝鮮戦争の後だがキャンプ・クロフォードにあの第一騎兵師団が移駐してきた。現在、第一騎兵師団のweb siteにキャンプ・クロフォードに関する情報がある。アメリカン・スクールについての情報

In early 1946, when the 77th Division was demobilized, the 511th Parachute Infantry Regiment, 11th Airborne Division assumed responsibility for the entire island, establishing its headquarters on the site of a Japanese experimental dairy farm at Sapporo. The garrison, named Camp Crawford for a major who had won the Distinguished Service Cross, gradually grew to become a permanent installation with brick barracks and stucco administration buildings, family housing, an all-grade school, clubs, and support facilities. In 1948 the 31st Infantry Regiment, 7th Infantry Division moved from Korea to Camp Crawford, absorbing most of the personnel of the 511th Parachute Infantry Regiment. (出典

1946年初頭、第77師団が動員解除されたとき、第511パラシュート歩兵連隊、第11空挺師団が北海道全体の責任を引き受け、札幌の日本の実験酪農場の敷地に本部を設置しました。 殊勲十字章を受けた少佐を顕彰してキャンプクロフォードと名付けられた駐屯地は、レンガ造りの兵舎とスタッコの管理棟、家族の住居、すべてのグレードの学校、クラブ、支援施設を備えた恒久的な施設に徐々に成長しました。 1948年、第7歩兵師団第31歩兵連隊が韓国からキャンプクロフォードに移動し、第511歩兵連隊の要員の大部分を吸収した。(和訳;おいら少し修正)

一方、キャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールは1958年に閉校。その後継学校がHokkaido International Schoolであり、学校史がweb siteにある。

このweb siteの情報からキャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールは、Camp Crawford U. S. Army Dependents Schoolというのだとわかった。

 


札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)

2020年03月15日 12時53分53秒 | 札幌


左:秋尾沙戸子『ワシントンハイツ:GHQが東京に刻んだ戦後 (新潮文庫)』表紙(Amazon
右:札幌郊外(現在、南区真駒内)のCamp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) [ 出典:『定山渓鉄道』(Amazon)]

■1940年に東京と札幌でオリンピックが開催されるはずであったことは有名だ。幻の夏冬オリンピックは戦後、それぞれ、現実のものとして開催された。東京(1964年)、札幌(1972年)。両オリンピックの選手村は代々木と真駒内であった。両者ともに米占領軍の住宅地であった。東京では選手村として占領軍用住宅(dependents house: DH)をそのまま使い、札幌では、旧占領軍建屋を解体、撤去し、その地に新たに選手村を建設した。東京のワシントンハイツについては画像など資料・史料がネットにたくさんある [1]。一方、札幌の占領軍用住宅(dependents house: DH)の画像はあまり見ないので、集めてみて、些かのの註を付けてみた。

[1] 例えば、flickr、Washington Heights, Tokyo, Japan

■ 曲線道路で特徴づけられる占領軍住宅地


航空写真:東京・代々木・ワシントンハイツ(左)、札幌・真駒内・キャンプ・クロフォード(右)[A:交叉点、B:三叉路、X:現在の真駒内団地交番、Y:現在の地下鉄真駒内駅、Z:大きな建屋、a-a':用水路]

両住宅地とも曲線道路で特徴づけられる。道をつくって、住宅を配置。

■ 札幌、Camp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) 


Camp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) の1958年(昭和33年)の画像 (ブリューゲルの絵画のようだ) (画像:『真駒内物語』より [Amazon])

この画像は、1958年(昭和33年)撮影。占領時代(1945-1952年)ではない。この画像が撮られた当時、旧米軍官舎は北海道警察の警察学校として使用されていた。


1961年(昭和36年)の画像。 団地建設が始まっている。X:現在の真駒内団地交番、黄色矢印は、用水路(a-a')通り沿いのポプラ並木。 (画像:『真駒内物語』より [Amazon])


Google map

札幌オリンピックの選手村を経て、Camp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing は何もないといっていいと思う。占領時代と現在の間で残るのは、戦前の牧場時代の用水路くらいか?というか、この用水路を手がかりに占領時代と現在の位置関係を明らかにした。占領時代を特徴づける曲線道路はコンクリート舗装の道であったが、オリンピック選手村造成時に消えた。

■ dependent house、ディペンデント・ハウス、2階建ては残っていない


1964年、東京オリンピックの時、選手村となったワシントンハイツ。五輪後、撤去され現在の代々木公園となる。

注目すべきは、住宅が2階建てであること。現在の日本で知られていて、一部で憧憬され継承されている平屋のいわゆる「米軍ハウス」とよばれる様式ではない。 ただし、現在まで残っている1戸は平屋タイプだが;


代々木公園に一戸だけ残る旧米軍住宅(愚記事;東京散歩;表参道 → 代々木公園 → 新宿

さて、札幌のディペンデント・ハウス


札幌郊外(現在、南区真駒内)のCamp Crawford [キャンプ・クロフォード] Dependents housing area (米軍官舎地区) [ 出典:『定山渓鉄道』(Amazon)]

札幌も米軍住宅は2階建てであった。これらの住宅は、太平洋陸軍總司令部技術本部設計課により設計されたものに違いない(関連愚記事;「白物家電」(家事関連電気製品)は、なぜ白い?)。

ディペンデント・ハウス、米軍ハウスについての建築学的研究がある[3]。でも、平屋のものしか見つからない。2階建ての占領下米軍住宅の研究成果を探してゆく。

[3] 例えば、立川米軍ハ ウスの居 住者 の構築に見る現代居住の要望

■ 貴重なキャンプ・クロフォード画像 (これは、すごい!)

カラー画像:Americans Who Loved Japan: 日本を愛したアメリカ人

カラーで生なましい。Camp Crowford 1, 2, 5が住宅画像。 Camp Crowford 3が、「札幌郊外の米軍ペンタゴン」のカラー画像。初めて見た。


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続、札幌大通2丁目の巨大赤煉瓦建物;陸軍被服支廠

2020年02月05日 18時32分24秒 | 札幌


北海道版webマガジン エコチル様より)札幌テレビ塔から大通り公園を西に向かってみた風景。
画像下左の中庭をもつ□の建物が「陸軍被服支廠」(のはず)。

札幌の中心にある大通り公園。今夜は雪祭りの雪像が立っているのだろう。

以前、札幌の現在の大通公園にあった巨大赤煉瓦建物;陸軍被服支廠について書いた(昭和の成仏のために;札幌大通2丁目の巨大赤煉瓦建物)。白黒ながら、より鮮明な写真をネットで見つけた。

下の昭和30年頃と称する写真には古い拓銀本店の建物が写っている。上画像では建て替わっている(その後、現在の北洋銀行本店に建て替え)。この巨大赤煉瓦建物のあった大通り2丁目の南側はバスの発着場として使われている。旧陸軍被服支廠の巨大赤煉瓦建物が戦後は何に使われたのか、おいらは、まだ知らない。とまれ、大通り2丁目はまだ公園化していなかった。


西部邁 "インティファーダ"(民衆蜂起)の場所、あるいは、国道の石をぶつけたり、ぶつけられたり

2020年01月26日 14時34分42秒 | 札幌

西部自伝への些細な註(1回目)の第2回目。西部邁は自分の生い立ちについて、1979年の『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験』から晩年の自伝、『ファシスタたらんとした者』まで、彼の複数の著書で何度も書いている。1979年の著書(これは西部にとって最初の非学術書)の副題が"遅ればせのアメリカ体験"である。これは1977年に渡米(のち英国へ移動)した記録である。でも、この副題は奇妙である。なぜなら、西部邁のアメリカ体験は6歳の時の米進駐軍との体験であるからだ。当時、米軍が進駐してきたその基地は、西部の家からわずか200メートルであると、今、わかった(後述)。そもそも1979年の本に、西部の家の台所に米兵が酒を乞いに立ち現れたと書いてある。これは、大江健三郎や江藤淳でさえ得られなかった体験ではないだろうか?

2021.5.5 訂正:「西部の家の台所に米兵が酒を乞いに立ち現れた」ことが書いてあるのは晩年の自伝、『ファシスタたらんとした者』。つまり、晩年に至るまで、米兵が不法に自宅に侵入してきたことは黙っていたのだ(⇒愚記事:反米「保守」の原点:石原慎太郎と西部邁の共通体験;占領軍米兵が家に入り込んできた)。

本記事では、【1】西部が進駐軍車両への投石(これをインティファーダ(民衆蜂起)と西部は云っている)を行った場所の確認、【2】1979年、西部が40歳の時以来自分を語ってきたが、いつからこのインティファーダを語り始めたか、【3】投げた「石」について、【4】西部の自伝とは関係ないが、現在の千歳線は昔は別ルートであったことについて書く。

【1】 インティファーダの場所

 データ元
赤矢印:1945年、西部邁兄弟が米軍車両に石礫を投げた場所=西部の家。黄矢印:信濃小学校。
西部の家と進駐米軍基地は200メートルしか離れていない。
航空写真は1960年代のもの。(千歳線がないことに注目)

西部邁が回顧する「インティファーダ」。下記、少年とは西部のこと;

 少年が米軍に小さくない敵意を燃やしたのは、彼の家と(垣根の)オンコの木々が厚く土埃で覆われる始末になったから、というだけではなかった。「敵が偉そうに目の前を通っていく」、「その偉そうな様子が嫌だ」という認識は六歳の児童にだって可能なのだ。彼は今でもはっきりと記憶している、兄が「やるか」と問いかけてきたのにたいして、「うん、やろう」と自分が答えたのを。つまり、この兄弟は米軍の行進にたいして抗議の投石をやろうと決意したのである。
 投擲用の石は道路上に無際限に敷き詰められていた。「敵と戦ってみたいし、戦わなければならぬ」というのは、その兄弟にとって、とりわけ「待つ」という振る舞いが苦手の弟のほうには、自明の理だったのである。三か月に及んで計十回ばかりというのが投石の実績であったろうが、とにもかくにも、勇を鼓して彼は戦った。一度、戦車がとまり、銃台がぐるりと回って少年に銃砲の標的があてられたときには、さすが隣の寺の裏に広がる雑木林へと逃げ込んだ。しかし、少年に臆する気持ちが芽生え、細心の注意を払いはじめたのは確かとはいえ、自分の臆病風を抑える努力も一方ではなく、投石を止めようとはしなかった。
 後追いでいうと、それは少年の「たった一人のインティファーダ」であった。インティファーダというアラビア語は「蜂起」の謂である。ぶんぶんと群れなせばこその蜂でであり、群れであればこそ蜂起に力が籠もる。「たった一匹の蜂」の蜂起など米軍にとって痛くも痒くもないと少年とてわかっていた。少年は、不確かな思いとはいえ、蜂起しようとはまったくしない近所の同胞に不快を感じていたようなのである。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p22)

つまりは、家の前がインティファーダ実行の場所ということだ。西部の家は、現在の札幌市厚別区厚別、「札幌郡白石村字厚別」(『サンチョ・キホーテの旅』、西部邁)である。家の位置は『ファシスタたらんとした者』ではわからない。でも、『六〇年安保』(西部邁、1985年)に書いてある;

住所は札幌近郊の白石村字厚別にある智徳寺という遠戚の寺の隣である。

智徳寺の隣で、かつ国道に面しているという条件で上地図の赤矢印の位置をわかる。一方、進駐してきた米軍が屯したのは旧日帝陸軍厚別弾薬庫(上航空写真での"米軍基地")なので、西部の家から直線距離で200メートルしか離れていないとわかる。

【2】 1979年、西部が40歳の時以来自分を語ってきたが、いつからこのインティファーダを語り始めたか?

1979年の『蜃気楼の中へ』から2018年の『ファシスタたらんとした者』まで、西部の6歳の時の米軍との邂逅は書いてある。両方にパンパンの話がでてくることは前回書いた。一方、インティファーダの話が出てくるのは、1998年の『寓喩としての人生』(帯の惹句は「自伝による思想の物語」)、2008年、『妻と僕 寓話と化す我らの死』、2013年の『実存と保守 危機が炙り出す「人と世」の真実』、そして、『ファシスタたらんとした者』。1979年の『蜃気楼の中へ』にはパンパンの話は詳しく書いているが、米軍に投石した話は出てこない。

当初、西部がインティファーダ物語を語るのは9・11テロ(2001年)、イラク戦争後の西部の「反米化」が契機かと推定したが、違った。1998年の『寓喩としての人生』で既に米軍に投石した話が出ていた。さらに、1995年の新聞への投稿記事に投石の話を書いていた(現在、『破壊主義者の群れ』 1996年)。

ただし、1979年の『蜃気楼の中へ』では米軍に投石した話は出てこないし、パンパンへのある種の共感が書かれている。端的に云って「米国に阿っている」ようにおいらには邪推できる。

1979年の『蜃気楼の中へ』で認められた「米国への気遣い」は、1998年の『寓喩としての人生』以降認められない。事実、イラク戦争後直截に反米化する。これは学者稼業をやめ、娑婆に出たので、いい子ぶる必要がなくなったからではないかとおいらは邪推している。

【3】投げた「石」について

西部が米軍車両への投石に使った石は、国道12号線を敷き詰めていた砂利の石だとわかった。一方、西部の複数回語る体験が父親から投石される話である。初出は1976年。

あえて忘れ難いことを拾えば、私事で恐縮だが、父に私にほどこした道徳的制裁のことが思い出される。たとえば、小学校四年の頃、私が近所の孤児に石を投げつけているのを父がみつけて、私を松の木に縛りつけ、まことに険しい形相で次から次と石をぶつけるのである。胸や腹に当たる分はまだよいのだが、顔に向かって飛んでくるやつは、たぶん記憶の中で増幅されてのことであろうが、びゅうんと唸りを生じており、懸命に顔をそむけるのが精いっぱいというところであった。 (西部邁、"「松の木」での教育"、[初出 1976年]、のち『大衆への反逆』1983年)

この「石」は、西部が米軍への投石で使った石と同じものであるとわかった。

 そのひねくれぶりに我慢できず、あろうことか意地が悪いので有名なもう一人の少年と一緒になって、一つ、二つ、石礫を彼にぶつけているのを父親にみつかってしまった。父親は私を松の木に縄でしっかりとくくりつけ、「お前のやっていたことはこういうことなんだぞ」と言い放ちつつ、私に石ころを思い切り投げつけはじめた。石ころは国道の上に無数にあるわけで、十発か二十発か憶えていないが、ともかく矢継ぎ早に石ころが飛んでくる。私もそうだが、父親の投球はコントロールがよく利いている。私は正確に射当てられ、顔面に向かってくるのを避けるのが精一杯であった。(西部邁、『寓話としての人生』1998年、第1章 吹雪と吃音)

【4】 千歳線

上の航空写真(1960年代)に千歳線がないことに気付いた。西部の家があったはずの位置のすぐ横には現在JR千歳線が走っている。でも、上航空写真にはない。下の現在の地図には、もちろん、ある。 調べた。

現在の千歳線は1970年代に新たにできたとのこと。それ以前は札幌線という路線で札幌から千歳へ向かっていた。
→ wikipedia [千歳線] 昔は、東札幌駅、月寒駅、大谷地駅などという国鉄駅があったと知る。

東札幌は定山渓鉄道が通っていたと知る。

旧札幌線は今、サイクリングロードになっている。


https://sapporock-bicycle.tan-web.com/cycling/20150930-shiroishikokoroad-el-fin-load

 


昭和の成仏のために;札幌大通2丁目の巨大赤煉瓦建物

2019年10月17日 18時55分29秒 | 札幌

先日の記事で敗戦直後の札幌大通の話をした。その時、大通2丁目の大きな建物に気付いた。上図黄色矢印。知らない建物があるばかりでなく、この当時の大通の道が違う。すなわち、現在大通公園となっている帯状地域の北側は道路が一貫して走っている。でも、この敗戦直後の大通2丁目は北側の道路がなく、建物の敷地となっている。なんだろう?と思った。

まず、航空写真を見た;

黄色矢印が知らない建物。そして、上から見るとやはり現在では大通公園の北側の道となっている場所を跨いで建物がある。ちなみに、㋐が拓銀本店(当時)[米軍司令部として接収]、㋑が今の大通公園3丁目にできた米軍用の教会。

すなわち、現在の大通2丁目には何か巨大な建物がある。何だ?これは。


1961-1969年の間の航空写真。ある。左の3丁目は公園が造成されている。

ネット探していると、建物の色がわかった。

赤レンガの建物だった。それにしても巨大。

戦前から大通2丁目にはこんな巨大な赤レンガの建物があったのだ。聞いたこともなかった。

調べた。わかった。この巨大な赤レンガの建物は、陸軍被服支廠として建てられたもの(らしい)。ネットに真正面から解説したものは見つからなかった。でも、「陸軍被服支廠、陸軍被服工廠」でググと廣島など各地に赤レンガのこの建物に似たものが建てられたとわかる。Google[陸軍被服支廠 広島]。広島のものが現存するが、札幌のは1960年代に取り壊されたのだ。

本籍地から1kmも離れていない場所のことなのに、初めて知った。


変わらない札幌;大通駅のポールタウン入口付近のたい焼き屋

2019年10月15日 18時19分10秒 | 札幌

訂正;2020/3/8.  「変わらない札幌;大通駅のオーロラタウン入口付近のたい焼き屋」と題していた。

まちがい。ポールタウンだ。大通り駅とすすきの駅の間の地下街。今、気付いた。


札幌の地下鉄の大通駅の南側は オーロラタウン ポールタウン [1]という名の地下街への入り口となっている。ここにたい焼き屋がある。今回行ってみて確認したら、たい焼き屋はまだあった。ここには、新しくとも、1976年からあった。なぜわかるかというと、1976年に「およげ!たいやきくん」という曲が流行した(曲の発売は1975年末)。今wikiでみると、レコードは500万枚以上売れたとのこと。このとき、レコードばかりでなく、実際のたい焼きが売れた。この頃、この大通駅からオーロラタウン ポールタウンの入口へ抜けるこの場所は、たい焼き屋に並ぶ人でブロックされ大変な混雑となっていた。小学生ながらに覚えている。

その時のたい焼き屋が今ある「福や」であるのかは断定できない。でもこの地にはたい焼き屋がまだあるのだ。

たい焼きブームが去った後もこの地にたい焼き屋はあった。中高生になったおいらはすっかり客がつかなくなったこのたい焼きを見て、あのブームの儲けでやっていけてるのだろうと勝手に判断していた。そして、43年後の今、この地にはたい焼き屋がまだあるのだ。

[1] 札幌地下鉄大通駅につながる地下街の名は「オーロラタウン」と「ポールタウン」。当時の札幌の「極地」志向がわかる。オーロラも極地も札幌に関係ないことはいうまでもない。今21世紀の札幌、北海道は稲作があたりまえの地となったそうだ。

■ なくなった店

大通駅の南側の オーロラタウン ポールタウンに抜ける通路を東に向かうと三越。

この大通駅から三越に入ったすぐの地下の売り場に、昔、1970年代、天津甘栗屋があった。いつも甘栗を炒っていて、香りがしていた。

小学生の頃、創成東地区に住む祖母のところへ遊びにいったとき、「三越に行って天津甘栗を買ってきてくれ」とおつかいを頼まれたことがある。


札幌散歩;白石警察署 ⇒豊平橋 ⇒ 創成川(南4西1)

2019年10月13日 17時58分45秒 | 札幌

札幌散歩。豊平川を渡る。札幌は豊平川という大きな川で二分される。条理制の中心街は西側にある。豊平川の東岸は、豊平や白石(しろしい)。白石は宮城県の白石からの由来。仙台伊達家の片倉小十郎家の家臣が移住したところ。
 現在、豊平橋がある地点は、江戸時代末期に渡しがあった。そこに居た和人が最初の札幌人とされる。
 おいらは自覚的に豊平橋を歩いて渡ったことがなかったので、散歩した。出発地点を「白石」がつくように白石警察署とした。


①⇒④ 白石警察署⇒創成川


今回①⇒④ 白石警察署⇒創成川
前回A⇒B: 札幌散歩;中島公園→石山通→大通公園、坂と橋の無い街を行く

■ 白石警察署


菊水3条5丁目 菊水という名は菊亭という貴族の「菊」と豊平川の「水」に由来する。

菊亭脩季が、札幌育種場より当時の上白石村の桑園5町歩を3年間の条件で無償貸与され、ホップ園を開いた。wiki


国道36線。

国道36線は月寒通ともいう。一方、弾丸道路ともよばれたことがある。

北海道札幌市と室蘭市を結ぶ国道36号線の、札幌~千歳間の呼び名。北海道で一番早く舗装された道路で、その名称の由来については「米軍の弾丸を運搬する為の道路」と言う説や「弾丸のような突貫工事で舗装が行われた」など諸説がある。wiki

朝鮮戦争の時、整備されたのだ。札幌の司令部、駐屯軍と千歳基地の流通を促進するためだ。

その頃はこんな建物がこの街道の脇には並んでいたのだ;


36号線を北上。


豊平川岸に着く。川下の


札幌開祖 志村鐵一碑。

志村 鐵一(しむら てついち)は、札幌に初めて居住した和人で、札幌開祖と呼ばれている。wiki

志村鐵一の名は小学校3年生の時から知っていたが、彼が佐幕派で維新後は役を追われたと初めて知った;

だが1869年(明治2年)、幕府に代わって明治政府が札幌に開拓使を置き島義勇が判官としてやってくると、志村は仕事を奪われ、代わりに吉田がその任につくことになった。理由は不明だが、幕府との関係が深かったのを恨まれてとも言われている。  1871年(明治4年)4月に豊平橋ができると橋守を務めたが、それも1874年(明治7年)10月に解任された[2]。  職を失った志村は絶望し、定山渓で温泉を開いていた美泉定山という僧に会いに旅立つが、定山渓に姿を現すことなくそのまま行方不明となる。wiki

ところで、この札幌「開祖」、このまま安泰なのだろうか? 「アイヌ新法」というものができて文革が始まって、血祭りに上がったりしないのだろうか?

なぜここが幕末から渡しであったのか、初めてわかった(つもり)。すなわち、地図で見るとここが豊平川の川幅が一番狭い。


西岸にはもうひとりの札幌開祖 吉田茂八の碑。

吉田は、1857年(安政4年)に箱館奉行によって銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開削されると、幕命により豊平川渡守となる。wiki

大成したらしい。 

1871年(明治4年)、戸籍を福山町から東創成町5番地(後の札幌市中央区南1条東1丁目2番地)に移す。建設請負業はいたって好調であり、1873年(明治6年)1月から6月15日までの経済動向を収録した『総高取調』の請負渡世部門9万円のうち、吉田1人で1割を占めていた。約1300平方メートルの広い宅地には、家族3人に加えて奉公人12人を抱えていたという。 (wiki


豊平橋を札幌市街側から豊平方面を望む。


戦前の札幌の典型的建物と、おいらは、思う。


創成川にたどり着く。

まとめ; 戦前からと思われる建物をいくつか見ることができた。

おしまい。

 


変わらない札幌;地下鉄ホームのベンチ

2019年10月10日 18時21分56秒 | 札幌

札幌に行って気付いたこと。地下鉄のホームのベンチがそのまま。開業(1971年)時もこのデザインだったと記憶している。そうすると、ベンチ自体はずっとそのままなのだろうか?それとも同じデザインで更新されておりのだろうか?

備品票が貼ってあったので、見た。平成24年とある。でもこの古さは6年前のものとも思えず、開業以来ずっとそのままなのだろうと思っている。


敗戦直後の札幌市街の画像;米占領軍接収事情、あるいは、この写真はどうやって撮ったのか?

2019年10月08日 18時50分17秒 | 札幌

ネットで敗戦直後の札幌市街の画像を見つけた。

https://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/kankobutsu/documents/ronkou3-2.pdf より 
1945年10月6日、米軍撮影より 作成。福林徹氏提供 米国立公文 書館所蔵
①札幌逓信局ビル(北1条西6丁目 現・アーバンネット札幌ビル) ②北海道拓殖銀行本店ビル(大通西3丁 目)③札幌グランドホテル(北1条西4丁目)④札幌市役所(北1条西4丁目)⑤北海道庁(北3条西6丁目 赤レンガ)⑥北海道新聞社(大通西3丁目)

敗戦直後残って札幌の様子を映した写真をネットで見つけた。敗戦後、大通りの北海道拓殖銀行本店ビルが占領軍司令部があったから。このことは子供の頃は全く聞いたことがなかった。知ったのはネットの時代になってからだ。

①~③のビルが米軍に接収された。②北海道拓殖銀行本店ビル⇒第77師団司令部。


現在の札幌。②が司令部のあった拓銀本店があった場所。拓銀は御存知破綻して北洋銀行になったので今では北洋銀行本店。

なお、この司令部のあった拓銀本店での記録に残る出来事は、例えば、
1947年の春に4名(北海道アイヌ協会の有力者・椎久堅市、小川佐助、森久吉、文字常太郎)はGHQ第九軍団司令部に呼び出され、ジョセフ・スウィング少将と会い、アイヌ民族に日本から独立する意志があるかを打診されたという。椎久たちは独立する意志はなく「日本国民として祖国の再建に尽くす」旨を答え、少将は独立運動など起こさず日本人と対立しないよう釘をさした。wiki) がある。 

敗戦直後の進駐軍が司令部とした当時の拓銀本店の画像は下記;


上の1945年鳥瞰画像に映る建物と一致する。

■ 上の1945年鳥瞰画像はどこから撮影したのか?

上の1945年鳥瞰画像は1945年10月6日に撮影された。撮影したのは米軍77師団の写真撮影担当の通信隊。札幌に米占領軍が進駐してきたのは1945年10月5日。ミズーリでの降伏文書調印から1か月も経っている。このことは以前書いた


昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。
 翌五日、小樽は薄曇り、札幌は曇りのち晴れ、高くやがて晴れあがった秋日和。
 (中略)
 小樽から札幌へは海岸ずたいに三十七キロ、午前七時すぎには早くも先発のトラック四台が札幌へのりこみ、日本側の先導で、中島公園内の元北部軍司令部あとの建物に入った。つづく車両の進駐軍は手に手に自動小銃をにぎりしめ、鉄カブトをにぶく光らせながら、その前日市役所が労務者を動員して掃き清めた北一条のアスファルトの道路を通過してゆく。

なので、上の1945年鳥瞰画像は札幌進駐の翌日だ。さて、この写真はどうやって撮ったのか?鳥瞰である。映っている大通り公園の向こうの拓銀本店ビルなどが4-5階だとわかる。そのビルをかなり上から視線で撮影している。4-5階建てのビルをこのような角度で見下ろす建物は相当高い建物ではないといけない。航空写真か?最初はそうなのかと思った。でも飛行機にしては高度が低い。この高度ではあぶないだろう。調べた。撮影位置は大通り西一丁目。今井百貨店(札幌っ子は丸井さんと呼ぶ)の位置だ。ネット調べると今井百貨店ビルは大正年間にできた。でも4-5階以上の高さではない。

調べたらわかった。こんなこと全く知らなかった。生まれる前とはいえ本籍地から1kmも離れてないのに。


大通りの西1丁目には望楼があったのだという。
札幌のシンボルタワーだった消防署の望楼 昭和二年十月に大通り西一丁目に建てられた望楼は、高さ43.33メートルの巨大なもので、当時は東洋一といわれました。出典

知らなかった。昭和40年まであったそうだ。札幌で全く聞いたことがなかった。

米軍77師団の写真撮影担当の通信隊は1945年10月6日にこの望楼から撮影したのだ。

下記画像はこの望楼から撮った昭和30年頃の札幌。


■ 後記; このブログ記事の後、敗戦直後の札幌の映像が見つかった。下記記事で映像リンク先に行けて、見られる。

敗戦直後の札幌市街の映像;市街地、拓銀本店・77師団司令部、月寒駅、米軍駐屯地


札幌散歩;中島公園→石山通→大通公園、坂と橋の無い街を行く

2019年10月06日 09時49分37秒 | 札幌

札幌の市街を散歩した。東京の台地ー沖積平野での散歩で「坂」や「橋」は歴史を超えた地理上の特異的な特徴物となる。今回の札幌散歩は「坂」はなく、「橋」も最初のひとつだけ。

札幌散歩紹介の前に横浜と比較して札幌の特徴を示す。札幌も横浜も幕末まで街ではなかった。でも、流民の街となり今では多くの人が住んでいる。3代続けば江戸っ子で、3日住めばなれるのがハマっ子らしい[google]。札幌についてはわからない。でも、和人はみんな流民には違いない。


左、札幌、右、横浜。札幌地図の赤線は今回の散歩経路。右横浜の地図では過去の横浜散歩地域;①横浜散歩;基本編、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区、②横浜散歩;JR石川町駅⇒港の見える公園⇒元町公園⇒石川町駅、③本牧台地散歩

札幌は広くて、平坦。戦災や天災を免れていることも横浜と違う。

札幌の一番古い市街地は豊平川の西につくられた。平坦地。創成川は人工の堀。札幌の一番古い市街地は「坂」や「橋」がない。

札幌という地名の語源はアイヌ語で乾いた広い土地という意味らしいので、まさに「坂」や「橋」がないのだ。乾いた広い土地は扇状地の特徴。扇状地は水はけがいい、だから、豊平川のような大きなもの以外、川がないのだろうと思っていた。でも、ちょっと違うようで、そのことは最後に書く。


1;地下鉄中島公園駅、5;西11丁目駅、6;大通駅

 ■ 1.中島公園

JR札幌駅から北に延びる駅前通りが札幌の一番に繁華した通り。その北のどん突きが中島公園。


中島公園は通勤者が多いと以前から気付いていた。


奥に見えるのがパークホテル。中川一郎が自殺したホテル。


最初で最後の橋を渡る。鴨鴨川を跨ぐ。鴨鴨川は豊平川から中島公園へ水を引く川。その鴨鴨川は創成川へと流れる。

■ 2.中島公園を出る。


中島公園を出て、通りへ。


南9条西7丁目。


電車通り。東本願寺前停留所付近。

■ 3.東本願寺


明治三年の文字が見える。


東本願寺の門から北を見る。明治4年からずっとこの道幅。


門から北上して振り返る。道庁から北への道のどん突きが東本願寺とわかる。


赤丸が東本願寺の門。北からの道がどん突きになっていることがわかる。「Z」が明治4年の札幌条理制市街の南西端。


明治4年の札幌条理制市街。「Z」は上図の「Z」の位置。「本願寺」の字が見える。

■ Z から西へ

東本願寺より西は明治5年に条理の外。


このあたりは昔何であったのか?

この条理の外が何であったか今回調べてわかった。


明治30年の地図(現今札幌市街之圖 [部分]、『札幌沿革史全』)

東本願寺の西は屯田兵村だったのだ。初めて知った。そして、その屯田兵村は「山鼻村」。つまり札幌の外。
札幌市街の条理と山鼻屯田兵村の条理が少し低角度でずれている。dislocation lattice!


<<北海道巡行屯田兵御覧>> 高村真夫 画、北海道庁献納、通し番号42 (聖徳記念絵画館)

藻岩山が見えている。札幌市街の方から屯田兵村を見ている。

■ 4.石山通


石山通に出る。


石山通を北上。大通り方面へ。


中央区役所とプリンスホテル。


パチンコ屋。


開店前に並ぶ「札幌っ子」。


南3条西11丁目 Google(うの理容所)

■ 5.大通り西11丁目


大通り西11丁目


大通り公園


黒田清隆像。 ★大砲をぶっ放して民間人殺傷;★酒に酔って妻を惨殺 ⇒https://nihonshi.hatenablog.com/entry/kuroda-kiyotaka


山之内製薬の後継。このビルの広告は昔は山之内の看板が出てた。雪まつりの絵葉書に映っていたものだ。


丸井今井、残ってますね。おいらががきんちょの頃、札幌パルコ開店の数年後、バブル景気の前(?)、「大通りヘップバーンなのね。」という(当時としては)ぶっとんだ広告を打って、つぶれかけた。新たに就任した今井一族の新社長の展開だった。その社長は、つぶれかけたので、交代した。


ネットでのパクリもの


大通り4丁目付近。北洋銀行本店。1997年に拓銀が破綻するまで、拓銀本店はここにあった。
その後、拓銀本店の建物(2代目)は21世紀に入っても残っていたが、2006年頃、建て替えとなったらしい。


2代拓銀本店;1960年/昭和35年建設 (ネットでの拾い画像)


初代拓銀本店;1909年/明治42年建設 画像ソース

この初代拓銀本店の建物は敗戦時もあった。敗戦時における "札幌の「第一生命ビル"=占領軍の司令部(米第10軍第77師団の司令部 [ブルース少将])であった。ブルース少将の wikipediaを見ると、Bruce served as the military governor of Hokkaidō (軍政北海道知事)とある。今調べると、初代北海道(民選)知事田中敏文(1947~1959)。

おいらは、札幌で生まれ育ち小学校3年か4年でクロダキヨタカなどを授業で知った。でも拓銀本店が進駐軍司令部であったとは親族などから全く聞いたことがなかった。30過ぎて、初めて知った。


駅前通りを札幌駅を望む。

▼ 消えた札幌の川

この散歩を終えてこのブログ記事を書くまで全く知らんかったこと。あるいは、思い込んでいたこと。

今の札幌市街地、しかも大通りより南の扇状地の地域には結構川が流れていたと。その川は札幌市街建設で消えたのだ。


明治四、五年の地図(明治四年及五年札幌市街之圖 [部分]、『札幌沿革史全』)

東本願寺のあたり、北へ向かって川が流れている。この川は明治30年(上に既出の地図)には消えている。つまり、開拓使による札幌市街造成時には結構な数の川が札幌を流れていたのだ。

おいらは、このブログ記事を書くまで、すなわちネットで調べるまで、知らなかった。札幌中心街は扇状地だから水はけがよく、川が発達しないと思い込んでいた。なにより、サッポロ=乾いた広い土地なのだから、川はないと思い込んでいた。違った。

今はないその川は、チェプンペッ川(google)なのだと。

おしまい。