札幌散歩。豊平川を渡る。札幌は豊平川という大きな川で二分される。条理制の中心街は西側にある。豊平川の東岸は、豊平や白石(しろしい)。白石は宮城県の白石からの由来。仙台伊達家の片倉小十郎家の家臣が移住したところ。
現在、豊平橋がある地点は、江戸時代末期に渡しがあった。そこに居た和人が最初の札幌人とされる。
おいらは自覚的に豊平橋を歩いて渡ったことがなかったので、散歩した。出発地点を「白石」がつくように白石警察署とした。
①⇒④ 白石警察署⇒創成川
今回①⇒④ 白石警察署⇒創成川
前回A⇒B: 札幌散歩;中島公園→石山通→大通公園、坂と橋の無い街を行く
■ 白石警察署
菊水3条5丁目 菊水という名は菊亭という貴族の「菊」と豊平川の「水」に由来する。
菊亭脩季が、札幌育種場より当時の上白石村の桑園5町歩を3年間の条件で無償貸与され、ホップ園を開いた。(wiki)
国道36線。
国道36線は月寒通ともいう。一方、弾丸道路ともよばれたことがある。
北海道札幌市と室蘭市を結ぶ国道36号線の、札幌~千歳間の呼び名。北海道で一番早く舗装された道路で、その名称の由来については「米軍の弾丸を運搬する為の道路」と言う説や「弾丸のような突貫工事で舗装が行われた」など諸説がある。(wiki)
朝鮮戦争の時、整備されたのだ。札幌の司令部、駐屯軍と千歳基地の流通を促進するためだ。
その頃はこんな建物がこの街道の脇には並んでいたのだ;
36号線を北上。
豊平川岸に着く。川下の
札幌開祖 志村鐵一碑。
志村 鐵一(しむら てついち)は、札幌に初めて居住した和人で、札幌開祖と呼ばれている。(wiki)
志村鐵一の名は小学校3年生の時から知っていたが、彼が佐幕派で維新後は役を追われたと初めて知った;
だが1869年(明治2年)、幕府に代わって明治政府が札幌に開拓使を置き島義勇が判官としてやってくると、志村は仕事を奪われ、代わりに吉田がその任につくことになった。理由は不明だが、幕府との関係が深かったのを恨まれてとも言われている。 1871年(明治4年)4月に豊平橋ができると橋守を務めたが、それも1874年(明治7年)10月に解任された[2]。 職を失った志村は絶望し、定山渓で温泉を開いていた美泉定山という僧に会いに旅立つが、定山渓に姿を現すことなくそのまま行方不明となる。(wiki)
ところで、この札幌「開祖」、このまま安泰なのだろうか? 「アイヌ新法」というものができて文革が始まって、血祭りに上がったりしないのだろうか?
なぜここが幕末から渡しであったのか、初めてわかった(つもり)。すなわち、地図で見るとここが豊平川の川幅が一番狭い。
西岸にはもうひとりの札幌開祖 吉田茂八の碑。
吉田は、1857年(安政4年)に箱館奉行によって銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開削されると、幕命により豊平川渡守となる。(wiki)
大成したらしい。
1871年(明治4年)、戸籍を福山町から東創成町5番地(後の札幌市中央区南1条東1丁目2番地)に移す。建設請負業はいたって好調であり、1873年(明治6年)1月から6月15日までの経済動向を収録した『総高取調』の請負渡世部門9万円のうち、吉田1人で1割を占めていた。約1300平方メートルの広い宅地には、家族3人に加えて奉公人12人を抱えていたという。 (wiki)
豊平橋を札幌市街側から豊平方面を望む。
戦前の札幌の典型的建物と、おいらは、思う。
創成川にたどり着く。
まとめ; 戦前からと思われる建物をいくつか見ることができた。
おしまい。