いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958);道庁から9km;敷地は牧場をつぶしたのだ。

2020年03月18日 19時07分27秒 | 札幌


愚記事・札幌郊外の"ワシントンハイツ";幻と現(うつつ)の五輪を挟む敗戦・占領・DH(ディペンデント・ハウス)より再掲。 この図の大きな建屋(Z)が学校なのだという[1]。この学校は小中高に対応する学校であったとある[2]。「アメリカン・スクール」だ!

小島信夫の小説、『アメリカン・スクール』は、「占領時代、アメリカ人の学校を参観した日本の中学校教員の、貧しく、滑稽な姿を描き、深味のあるユーモアと重厚な風刺で混乱した日本を象徴的に描いた芥川賞受賞作」と裏表紙に説明書きがある。そして、本文の象徴的な文章は;

 彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅地の中央に、南にガラス窓を大きくはって立っていた。敷地は畠をつぶしたのだ。アメリカ人にとっては贅沢なものとはいえないが、疎[まば]らに立ちならんだ住宅には、スタンドのついた寝室のありかまで手にとるようで、日本人のメイドが幼児の世話をしていた。参観者たちにはその日本人の小娘まで、まるで天国の住人のように思われる。(小島信夫、『アメリカン・スクール』、)

天国のように思えたということだ。 (関連愚記事;小島信夫の『アメリカン・スクール』を初めて読んだ。

 今、この札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードの米軍住宅区域を見ると、①アメリカン・スクールは広大な敷地を持つ住宅地の中央に立っていたこと;②疎[まば]らに立ちならんだ住宅という条件が合致する。もちろん、小島信夫、『アメリカン・スクール』のモデルは札幌ではない。なぜなら、『アメリカン・スクール』の舞台は田舎の県庁から6kmの場所とされているからだ。日本のどこかの県なのだ。ただし、『アメリカン・スクール』の舞台を特定することはそんなに意味があるとも思えない。注目すべきは、見学に行く英語教師たち県庁に集合し、米軍基地まで6km歩くという小説上の設定である。師の行軍 ! 。この英語教師たちの行軍(本文中にこの語が使われている)が悲喜劇の一端の契機となる。

■ 札幌郊外の「アメリカン・スクール」(1946-1958)は、道庁から9km

ところで、札幌郊外の米軍基地、キャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールと道庁の歩行距離をGoogleで調べてみた;

9km、徒歩2時間だった。

■ 成増、グラント・ハイツ

この自作について小島信夫は云っている;「「アメリカン,スクール」は、先年成増のアメリカンスクールを見学に行ったことがあり、その時に、箸を女教員に貸したことがあった。誰かハイヒールで転んだ人のあったことは、教育庁の人に聞いた。もちろん、この道路上の出来事も、その他、事件らしい事件は、その時には一つも起らなかった。山田は架空の人物だ。僕はこの見学を終戦後二年間ぐらいの所に置いてみて、貧しさ、惨めさをえがきたいと思った。」(『アメリカン・スクール』あとがき)

ここで「成増のアメリカンスクール」とある。成増とは東京都板橋区。終戦後グラント・ハイツという米軍住宅地区があった。そこでの「アメリカン,スクール」見学体験を元に小説を書いた。しかし、舞台は東京ではなく「田舎」とした。舞台の条件は「田舎」であることの他に「敷地は畠をつぶしたのだ」がある。この畠をつぶしてアメリカン・スクールを建てたという小説上の設定に注目したのが江藤淳。江藤淳は『成熟と喪失』で上の彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクールはで始まる『アメリカン,スクール』の一章を引用し、次のように書いている;

 ここでは敗戦の屈辱感が農耕社会の「貧し」さを恥じる気持ちと重ね合わされていることは注目にあたいする。近代産業社会の産物であるアメリカン・スクールは「畠をつぶした」ところに建てられているのである。(江藤淳、『成熟と喪失』)

小説上は畠をつぶしてアメリカン・スクールを建てたと読める。ところで、成増=グラント・ハイツの場合、敷地は軍の飛行場であったところを接収したのだ。ただし、日本軍は畠を接収して飛行場をつくったのだ。つまり、「畠をつぶし」て飛行場をつくり、そこに、敗戦後、アメリカン・スクールを含む米軍人用住宅が建てられたのだ。

■ 札幌 キャンプ・クロフォード


https://makomanailandss.tumblr.com/page/2 様より。米軍基地となる以前の風景。

札幌のキャンプ・クロフォードは、官営の牧場をつぶして、建設された。

この官営牧場は明治時代のお雇い外人エドウイン・ダンにより建設される。江藤淳が好きな明治国家の一端だ。上の絵は、都内の農業試験場で、明治天皇に農耕具の運用を実演するエドウイン・ダン。(絵は自衛隊web siteより)。なお、この絵の部分ではあるが直撮りは愚記事にある。

つまりは、札幌のキャンプ・クロフォードは、江藤の成熟と喪失モデルの近代産業社会の産物が「畠(=農耕社会の象徴)をつぶした」ということにはならない。米国人に教わった近代農耕という産物が、戦勝国米軍に潰され、基地&米軍人・家族のコロニーとなったのだ。

[1] この大きな建屋が学校であることは、谷代久恵、『真駒内物語』の情報に基づく。

[2] 朝鮮戦争の後だがキャンプ・クロフォードにあの第一騎兵師団が移駐してきた。現在、第一騎兵師団のweb siteにキャンプ・クロフォードに関する情報がある。アメリカン・スクールについての情報

In early 1946, when the 77th Division was demobilized, the 511th Parachute Infantry Regiment, 11th Airborne Division assumed responsibility for the entire island, establishing its headquarters on the site of a Japanese experimental dairy farm at Sapporo. The garrison, named Camp Crawford for a major who had won the Distinguished Service Cross, gradually grew to become a permanent installation with brick barracks and stucco administration buildings, family housing, an all-grade school, clubs, and support facilities. In 1948 the 31st Infantry Regiment, 7th Infantry Division moved from Korea to Camp Crawford, absorbing most of the personnel of the 511th Parachute Infantry Regiment. (出典

1946年初頭、第77師団が動員解除されたとき、第511パラシュート歩兵連隊、第11空挺師団が北海道全体の責任を引き受け、札幌の日本の実験酪農場の敷地に本部を設置しました。 殊勲十字章を受けた少佐を顕彰してキャンプクロフォードと名付けられた駐屯地は、レンガ造りの兵舎とスタッコの管理棟、家族の住居、すべてのグレードの学校、クラブ、支援施設を備えた恒久的な施設に徐々に成長しました。 1948年、第7歩兵師団第31歩兵連隊が韓国からキャンプクロフォードに移動し、第511歩兵連隊の要員の大部分を吸収した。(和訳;おいら少し修正)

一方、キャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールは1958年に閉校。その後継学校がHokkaido International Schoolであり、学校史がweb siteにある。

このweb siteの情報からキャンプ・クロフォードのアメリカン・スクールは、Camp Crawford U. S. Army Dependents Schoolというのだとわかった。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。