いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

伊予吉田伊達家陣屋跡地参り、あるいは、猫と殿様

2016年09月27日 19時31分20秒 | 仙台・竹雀・政宗

竹雀マニアによる伊達家陣屋めぐり。仙台伊達家の常陸領一万石の龍ヶ崎陣屋跡地(関連愚記事)と比べ、ここ伊予吉田三万石は大違い。龍ヶ崎陣屋跡地は今は何もない。それとは対称的に伊予吉田伊達家三万石の陣屋跡地は上記の画像のごとし。これは町の図書館。おそらく公式には陣屋の復元とも云ってないと思われる。なぜなら、藩政時代に伊予吉田伊達家三万石の陣屋がこんな立派であったという証拠はないのであろうとおいらは邪推している。

戦後、日本で多くの城が復元、再建された。それは残った資料に基づく復元。

吉田の陣屋は実際どういうものであったか?そして、この町の図書館と似ているのか?わからない。

なお、谷田部細川一万六千石  の陣屋(門と玄関が残存)はこんな感じ⇒愚記事。 参考まで。

塀の瓦には三つ引き紋が使われていた。

覗いてみた限りでは、伊予吉田伊達家三万石についての展示的なものは見当たらなかった。

● そして、伊予吉田の人たちは、伊予吉田伊達家三万石が好きらしい。

 

伊予吉田伊達家三万石の家紋はこんなんだ;

 

■ 猫と殿様

 伊予吉田伊達家三万石の最初の藩主は、伊達宗純(むねずみ)[1636-1708]。政宗の孫。宗純のおばあさんは、今では「猫御前」と称される飯坂の局[1569-1634]。政宗にとって最初の男の子である兵五郎、のちの伊達秀宗が宗純の父親。伊達秀宗は宇和島十万石の初代藩主。宗純は五男。宇和島伊達家は秀宗の三男が継ぐ(長男、次男は早死)。でも、秀宗は十万石のうち三万石を分地して五男宗純に譲ると遺言。ここから、宇和島伊達家と吉田伊達家の紛争が始まる。本家―分家の親戚争い。もっとも、宇和島伊達家は宇和島伊達家で仙台伊達家と親戚争いを起こしている。お家騒動は伊達家のお家病だっちゃ。この背景には、政宗が独裁すぎて、制度による支配機構の発達が遅れたのが原因かと思われる。

 その伊達宗純の生母は側室だが、嫡母は井伊直政の娘。三万石の「独立」を幕府に認めてもらうため本家の宇和島伊達家と紛争を起こしていたとき、事態の収拾を行ったのが井伊直孝とされる。もちろん、井伊直孝は井伊直政の息子。伊達宗純にとっては、「嫡おじ」となる。三万石の「独立」は、母の実家・井伊家のお陰だ。井伊直孝はもちろんあのひこにゃん(関連愚記事;ひこにゃんから賀状)の井伊直孝だ。

どうして、豪徳寺が猫寺(招き猫寺)であるかは;

江戸で直孝が鷹狩に出た帰りに小さな貧しい寺(弘徳庵)の前を通りかかると、中に入るよう手招きする猫がいたため、その寺に入った。すると辺りは突然雷雨 となった。雨宿りをしながら寺の和尚と話をしているうちに、直孝は和尚と親しくなった。この寺は後に寄進を受け、立派に改築されて井伊家の菩提寺とされ、 直孝の法名にちなんで豪徳寺と号した。それからその寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、招猫堂を立てて祀った。この話が招き猫、ひこにゃんの由来である。(wiki)


愚記事より

とまれ、伊達宗純の伊予吉田伊達家三万石の誕生はねこのおかげである。

▼ 蛇足; 竹雀マニアにとって、こういう猫はいけません;


雀を獲った愚猫 (愚記事より)

■ 吉田違い

宿泊先の松山のスーパーでみかんを買った。青いみかんだ。

吉田産と書いてある。 極早生だそうだ。  「青切りみかん」、とも称していた。

  

見かけの青さの印象とは違い、酸っぱさを残しながらも濃い甘さも発揮していた。

でも、違った。 南宇和郡愛南町の吉田なのだ。 ⇒ 地図

 

 



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