先日翻訳をしていた際に 相手先に
問い合わせるのを忘れてしまったフレーズがあり
うーん これってどう訳したらいいのかなあ?と
思い立ってフランスの友人に電話してみることにした。
その言葉というのは 'Art de vivre'というもので
昔自由が丘にまさにその名前のお店が存在していて
そこはとっても異色を放った素敵なお店だったから
だいたいのもつ意味は 理解しているつもりでいたけど
友人に つまりそれってどういうこと?と尋ねてみると
「うーん これは説明するのが難かしい!」とのことだった。
「洗練された暮らし方というか、、いろんなものが
よくセレクトされてて その空間に調和していて、、、」
何分か会話した後 私はだいぶ理解ができて
それからこう言いたくなった。
「それってさ、日本には存在してないよねえ?」
「いやいやそんなことないよ!日本だって
洗練された暮らしがあると思うよ
だからフランス人は日本に興味を持つんだよ」
「えーそうかなあ 例えば、、、?」
「例えば、、京都とか?」
細かい話の内容までは しっかり覚えてないけれど
そうかな 本当に日本にも art de vivreはあるのだろうか
それが私の中で何週間かひっかかってた。
art de vivre(アールドヴィーヴル)というものは
私が理解したところでは センスの良い暮らしというか
あー そこにそんなのがあったらまさにいいよね!素敵だねという
そういうことを 自分が自分で生み出していける
そんな力の気がしてて ちなみに私の電子辞書 で
art de vivreを引いてみる と「処世術」と書いてある。
確かにこうも訳せるけどさ それは多分 違うでしょう、、、
(意外と電子辞書にも間違いがあるらしいですよ!)
もっとこう ブドウの木の下でアペリティフを楽しむだとか
自分たちでテーブルを外に出して朝ご飯を外で食べるとか
夕飯の時にろうそくをセッティングするとか
そこで音楽はどうしようとか そういうものじゃないのかな。
私はフランスに行く度に
ほとんどの人のおうちで そんな素敵な体験をして
(そしてママンの手作りタルトが出てきたり!)
なんて素晴らしい!! と夢見心地になってしまった。
そんなの日本で存在するのか?
普通の人の家に行った時「わーなんて素敵!!」と
思ったことより かなり雑然としてるなこのお家、、とか
シンプルだけど当たり障りがなさすぎだよな、、とか
つい思ってしまうことの方が圧倒的に多かったから
私はつい、「日本にはそれはないのでは?」と思ってしまった。
だけど「あるよ!」と言われてしまうと
そうかなあという気もしはじめて
お医者さんで『家庭画報』や『婦人画報』をめくってみると
あー確かに 存在するかも!!美しい、、 でも 誰この人は、、、?
一体どんな階級の方なのかしら どこに住んでらっしゃるの?
銀座のカフェですれ違ってた エレガントな人たちのように
今までの人生においてはすれ違うことさえなかった
そんな人たちは こういう世界に生きてるのかもと
ちょっと思った。
さて その他は?どこかにあるのか?art de vivre、、
と思っていたら 意外にあった!それはなんと
カフェなんですね、、、
日本のカフェってなんで対話が生まれないんだろう?
なんでこんなに違うんだろう?でもそれはそれで
独特の1つの文化領域に達してて
世界に誇れる文化かも?と思ったりもすることがあり
時にセンスのいいカフェに行っては その空間造りに
驚くことが多々あった。
あー これか!と 奈良のカフェ でピンときた。
これが日本の文化なんだわ。
茶道のあとをひく文化。
そう カフェの主人は 茶道の亭主のようなもの で
粋をこらした自らのセンスを問うてる空間に
人を招きはするけれど そこで偉いのは主人であって
招かれた客はというと 私が望んでいるような種類の
自由はあまりない。そこでは客は小声で話し
静かに本を読んでもいいけど その程度しか許されていない。
私が京都の「ソワレ」で感じた違和感や
(それまで一緒にいた友人と店に入ったとたんに
話したかったことすら話せなくなってしまった)
先日訪れた京都のカフェで感じた違和感
(皆ものすごい小声でしゃべる)
好き勝手になんて振る舞えないけど
客たちはそれをよしとしていて
「何か」をそこで受け入れている。
「何か」をそこで尊重している。
それは主人がそこで示している空間のセンスや
提供されてる空気感。
ああ 私には真似できないけど
なんて素敵なんだろう。
私も少し とりいれられたら
こんな空間が私の部屋になったなら。
ああそうか この花の使い方は真似できるかも、、、
そんな感じで おそらくカフェ空間とは
だいぶギャップのある自分の生活空間を
もう少しだけよくできるよう 夢をみさせてくれるような
そうまるで『天然生活』みたいに
自分はあまりに忙しくって 料理する暇もないけど
みているだけで心地いいから いつの日か、を
ちょっと夢見て買っておこうとする 癒し系の雑誌のように
日本のカフェという空間は 「どう?こんなに
なったら素敵でしょう?」という店主独自の世界観を
空間と食べ物と飲み物を用い 五感をつかって
感じられるように つくりあげている空間で。
それってまさに茶道じゃないか。
やっぱり現代の茶道がきっとカフェなんだ。
絵巻物が漫画になっていったように
日本のカフェは1つの文化領域になっている。
それはとっても素敵だけれど
そうそこで 人々は日常生活にちょっと足りない
art de vivreを感じてみたりするわけだけど
(ちなみに茶道を習っている人はよく
茶道の空間を「非日常」と表現しますが
日曜日にいく素敵なカフェも同じように
「非日常」を味わいにいく空間なのかもしれません)
私はそのカフェで痛感しちゃった。
ここでは議論はおこらんわ、、、
だって主従関係があるんだもん。
カフェの店主こそが偉い。
どう?こんなこともできるんですよ?と
圧倒的な力を示されるほど 客達は
受動的にならざるを得ない。
それほど空間の力は強い。
だから誰もその店主を 越えることなんてできないだろう
だから私は言いたいのだけど
日本のカフェはサロン化している。
そうじゃない 自由な雰囲気のカフェも
少しはあるけれど 方向性は全く違う
だけどカフェに自由がなければ
いったいどこに この日本で
好き勝手なことを話せて
好き勝手に振る舞っていい
自分が思うように何かをしても
誰にも非難されることのない
そんな場があるというのだろう?
(それはもしかしたら「対話」の場や
OSTなどのワークショップかもしれませんが
あまりに高い料金を払えない人はそんな機会さえもない)
カフェこそ人を救うのに
カフェこそ潜在力があるというのに
日本のカフェは あまりに店主の格が高くて
あんまり自由が存在しない。
だからこそ
私にちょっと使命というのがあるのなら
私は私で伝えるべきだ。
カフェの他の姿というのを。
「茶道的カフェ」だけじゃない
もっと客が自由に振る舞い
その個人こそが 何かを生み出していけるような
場としてのカフェを
そんなカフェ が 可能なことを。
やっぱり2冊目の本にむけて
私は力を注いでみよう。