一定の間隔、程よい距離、着かず離れずなど、互いに一定の距離を持つことを意味する表現がたくさんある。
近づき過ぎても良くないし、離れ過ぎても良くない。
不思議なことに、どんな植物も動物も、必ずといっていいほど一定の距離を保ちながら存在している。
心地よい距離である。
でも最近、この距離を測れない人々が増えてきた。
入ってはいけない聖域を互いに侵し始めたからだ。
嫉妬、勘違い、あら探し、好奇心、余計なお世話などなど、大接近のオンパレードだ。
寂しさが極限にきているからかもしれない。
人間は完全ではない。
そのときの気分で悪口も言うし、良いことも言う。
いつも善人でいることは不可能だ。
だから、程よい距離を保とうとする。
接近し過ぎると互いに殺しあい、双方とも自滅するからだ。
恋人、親子、兄弟など、愛する人に対しては特にそうだ。
愛を永く保ち続けたければ、互いの距離を考えなければいけない。
程よい距離は心地よい。
ファイアーサイドとは暖炉や囲炉裏を囲んで語らいをすることである。
つい一昔まで、日本でも普通に行われていた光景である。
お爺ちゃん、お婆ちゃん、お父さん、お母さん、そして時には隣近所のおじちゃん、おばちゃんと、みんな一緒に囲炉裏を囲んでお話をすることが、家族にとっては大きな喜びだった。
絆を培う場であった。
コンピュータや辞書からは学べない、生きる力を学ぶ場所であった。
最近は、ファイアーサイドは天然記念物だ。
ファイアーサイドをもてないほどに、みんな忙しい。
忙しく働かないと、生きてはいけない。
死ぬまで元気に働くべきだと主張する。
働き蜂だ。働き蟻だ。ロボットだ。自分のために働くのだと教えられるが、とてもそうは思えない。
操り人形だ。
騙されてはいけない。
人生とは、人と人の愛の繋がりで形成される。
みんな笑顔で、ファイアーサイドを楽しめるそんな社会を一日でも早く取り戻さないと、日本の未来はない。
もし、ファイアーサイドの舞台を作るのが困難であれば、学校でも職場でもいい。
心から、みんな一緒に語り合える場を意識してつくる必要がある。
母は、今泉の武家であり、家老職の血を引くとの話を聞いていたので、篤姫のことは子供の頃から知っていた。
でも、ただボンヤリと素晴らしい姫さまであったというだけのことである。
時は流れて、父方母方の系図に興味を持ち始めたり、教育界で近代史論争が巻き起こったり、今年のNHK大河ドラマでクローズアップされるようになると、人事ではなくなった。
学院でも、「薩摩は英語ができる」をメインテーマに掲げることにした。
鹿児島の錦江湾を望むドルフィンポートの一角に篤姫館もオープンした。
鹿児島が起爆剤になって歴史が動いたことを証明する史実である。
鹿児島のアピールにとっては、千載一遇のチャンスである。
今日は、小雨の中、課外授業として篤姫館を見学することにした。
でも、何かが足りない?見切り発車的な感が否めない。
思いっきりがない。大胆さがない。
公の力と民の力が一つになっていない。
一過性の香りがする。
そんな悲観的な思いが頭をよぎった。
でも、まだまだ間に合う。
もっともっと大胆に、斬新に、命を吹き込むように、様々な豊かな知恵を加えて、鹿児島という町の町興しの一躍を全身全霊で担って欲しい。
僕自身も何かをしなければ・・・・
後ろ髪をひかれる思いで、冷たい冬の雨に打たれながら、篤姫館を後にした。
人には持つべきプライドと、捨てるべきプライドがある。
僕らは時々大きな勘違いをする。
捨てるべきプライドと、持つべきプライドとの履き違いだ。
だから、頑固になる。意固地になる。逆切れする。
できる人間とできない人間の差は、プライドの識別力で判断できる。
人間は不完全だから、過ちと失敗を何回も繰り返す。
その過ちと失敗を繰り返す過程の中で、天の声のように、代弁者の誰かが説教してくれることが多々ある。自分の鏡になってくれることがある。
その説教にどうしても素直になれないときに、もう一度自分を見直して欲しい。
自分は、今、捨てるべきプライドに固執しているかもと。