語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【政治】選挙に勝利するためのテクニック ~『政治家やめます。』~

2016年02月26日 | ノンフィクション


(1)写真(pp.59-60)
 2年以内に行われる総選挙に向かって、早くも準備が始まった【注1】。まず、背広での写真撮影である。ポスター用はもちろんだが、名刺向けの写真だった。
 吊り下げで売っている背広を三着ほど買い込み、名古屋市の写真スタジオで撮影することになった。撮影に臨むにあたり、忠治がメガネに関してアドバイスしていた。
「いいか、ポスターを撮影するときは、レンズの入っていないフレームのものも用意するんだ。日頃使うメガネと同じフレームのものを、だ。レンズの入ったままのメガネで撮影するとな、顔の輪郭がレンズによって不自然に切れてしまう。わかるだろ? 記念撮影ならば、それも仕方ないが、多くの人に顔を覚えてもらう選挙ポスターでは、顔がアップになるだけに、その点も配慮しなければならない。メガネを掛けている政治家にとって、これは常識だぞ」

 【注1】1988年。

(2)名刺(pp.69-70、p.76)
 名刺を配るのも仕事、人に頭を下げるのも仕事、と度胸をつけるために動く統一郎の姿に、忠治はもちろん忠治の秘書、ブレーンらもあれこれ指示を出す。最初の2万枚はあっという間にはけ、そんなことを繰り返しているうちに、
「この名刺、もう3枚もらったよ。5枚ためたら、何かもらえる?」
「午前中に、半田市でもらったよ。また、くれるの?」
 と質問されることもあった。
 新たに写真入りの名刺を4種類、新調した。「今こそ道を」「日本の開発はまず道路から」「決断 今こそ道路を」「物の豊かさよりも心の豊かさを」と写真もそれぞれ変え、衆議院の解散までに10万枚配ることを目標にした。1日平均で300枚、約1年間名刺を配り続けることになる。

 11月3日【注2】にはこの日だけで2,405枚を配った。1日における最高記録だった。

 【注2】1988年。

(3)自民党の「虎の巻」(pp.65-66)
 2年以内には行われる総選挙の準備を自民党が進めてゆく中、統一郎の元に「虎の巻」が届けられた【注3】。正確には忠治の事務所に届けられたものだが、「自由民主党選挙対策委員会」が編纂する、文庫本より一回り大きいソフトカバーで250ページほどの「衆議院選挙実戦の手引」だった。参議院版も年ごとに発刊されている。
 現役の代議士に10冊送られてくるもので、第1章には「立候補決意から選挙まで」、第2章には「選挙のための実務準備」から第9章に「投票当日の注意」、第11章は「選挙運動における主な禁止事項」とあり、すべて「です・ます」調で解説していた。選挙違反事項の法律解説、電話の掛け方の事例、職業によって掛ける時間帯を考慮することなど、まさしく当代随一の選挙指南本といえた。
「これを候補者だけでなく、選挙に携わるアルバイトなどにも読ませるように」
 という党本部の意向であり、10冊以上必要な場合は1冊500円で頒布していた。 

 【注3】1988年。

(4)私家版「虎の巻」(pp.67-68)
 忠治が残した選挙の虎の巻がある。住宅地図だ。改訂版が出るたびに購入する選挙区の住宅地図に、「忠政会」に入会している者の家には赤鉛筆で○がしてある。南知多町に所用があれば南知多町の住宅地図を、武豊町に行くのならば武豊町の住宅地図を持参して、支持者の自宅に参上して、挨拶し、ポスターを手渡して「なにとぞ、よろしくお願いします」と依頼するのは常識だった。

(5)個別訪問(p.45)
 14回の当選を果たしているものの【注4】、終戦後、2回の出馬は涙を飲んだ。3回目となった選挙で初当選を飾ってから13回連続で当選を果たしたが、連続14回はならず、落選も経験した。革新の社会党に食われたのだ。75歳を超え、誰もが「引退か」と思いもしたが、忠治は歩行に困難をきたしている右足でも軽自動車を自ら運転し、右足を引きずって、知多半島を一軒一軒訪ねる地道な努力で、14回目の当選を果たした。

 【注4】主語は久野忠治。

(6)ネクタイ(pp.73-74)
 統一郎を神輿に乗せ、神輿を担ぐ陣営としては、リクルート事件も竹下も関係はないが、一般有権者にとってイメージ的に竹下派はよくない。総理総裁【注5】という援軍を得た丹羽陣営に対して、久野陣営は選挙区で名刺を配って顔を覚えてもらい、ミニ集会を活発に開く地道な作戦で勝負することにした。
 統一郎の意識には海部に対する対抗心めいたものもあった。その意識がネクタイに現れていた。海部は水玉模様のネクタイをトレードマークにしている。統一郎は、水玉模様のネクタイは一切使わず、斜めのストライプのものしか身につけなくなっていた。道路公団勤務のときは、ネクタイを締めるにしても地味めだったが、立候補を決意してからは派手めとなった。

 【注5】海部俊樹。引用した一節は、1989年8~9月日頃のことと推定される。

(8)記念撮影(p.74)
 自民党本部の幹事長室を統一郎は訪ね、幹事長の小沢【注6】に面会し、握手で記念撮影をした。この記念撮影は選挙区の支持者へのピーアールでもあり、「当選後はよろしくご指導をお願い致します」という儀礼的な意味もあった【注7】。

 【注6】小沢一郎。
 【注7】1989年9月14日より少し前のことと推定される。

(9)ミニ集会(p.75)
 巨人が日本シリーズで近鉄相手に3連敗から4連勝した10月【注8】には、田中角栄、福田赳夫、鈴木善幸といった首相経験者が引退を表明し、ひとつの時代に区切りが訪れた。これで「三角大福中」は中曽根が残ったが、その中曽根はリクルート事件で落選を恐れ、首相経験者ながらも群馬3区の選挙区を地道に歩き回り、戸別訪問、ミニ集会を開催し「三人寄れば中曽根が来る」とまで揶揄された。

 【注8】1989年。

(10)ポスター(p.80)
 当落に関係することではないといっても、公示当日の午前中に選挙区内のすべての掲示板に貼れるかどうか、は組織力を把握する目安として、マスコミはもちろん、他陣営も注目している。貼れなければ泡沫候補扱いにされかねないのである【注9】。

 【注9】第39回総選挙は、1990年2月3日届け出、2月5日公示。選挙運動は15日間である。

(11)選挙カー(p.86)
「おい、見ただろ! 61歳になる草川昭三先生が、雨の中を、窓から身を乗り出して手を振っておるんだぞ!」
「52歳になるお前が恥ずかしがっていてどうするんだ! 士気に影響する!」
『自民党公認 くの統一郎』と似顔絵の看板が屋根に付けられ、車体にはルビ入りで「久野統括一郎」と入った選挙カーに乗って初の「お願い」から戻るや、ブレーンたちに食ってかかられた。統一郎と同年齢ぐらいの者らが主だが、みな忠治の応援を手伝ってきて、選挙運動はベテランの域に達している。いくら統一郎が初出馬といっても、物足りなさを遠慮なく口にした。

(12)電柱(p.94)
 そんな中、統一郎は犬や猫と動くもの、さらには電柱が視界に入ると「人だっ!」と反射的に頭を下げるようになった。正確に言えば、この現象は選挙カーの助手席から身を乗り出して応援をしているときに感じるものではない。自民党の愛知県連が所有する、後部座席が屋根のないオープン式となっている演説用の特別仕様車に乗ったときに起こる現象であった。助手席に座れば視界が180度以内だが、このオープンカーに立つと、視界は左右の背後、地表も含めて180度以上に広く感じる。車はゆっくり動いていても、オープンカーは高さもあるだけに、統一郎は動くものが視界に入ると、「人がいるっ!」と咄嗟に頭を下げるが、「なんだ、犬か」「猫じゃないか」と何度も思い知らされた。人の姿も途切れ、一休みだな、と思う間もなく、視界に人が入ったと思い、慌てて頭を下げると、それは電柱だったということも多分にあった。

(13)演説会(pp.90-91)
 演説会でも容赦なく、ブレーンは注意する。
「どうして、会場の真ん中の花道を通らないんだ! 笑顔で歩きながら、両脇の人に握手しながら、演壇に向かうためなんだぞ!」
「どうして、両脇に行ってしまうんだ! 真ん中だぞ! 真ん中を歩け!」
 統一郎はハイ、と頭を垂れて、会場の真ん中を歩くが、ぎごちなさはどうしても抜けない。

(14)挨拶(p.89)
 挨拶文をバッチリ記憶したと思ったとき、バス旅行に行く遺族会の出発前に、バスの中で見送りの挨拶をすることになった。いざ、バスの中に入るや、気温の差で統一郎のメガネが曇った。メガネの曇りで人が見えなくとも、暗記した通り言うことができると思った途端、統一郎はすっかり挨拶文を忘れていた。それからというものは、場の雰囲気をつかみながら、あまりカッコイイことを言おうとするのはやめた。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)の「「第1章 初出馬」
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