語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【内田百閒】上質のユーモア ~阿房列車~

2016年08月13日 | エッセイ
  
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。
 百鬼園内田栄造は明治22年生、昭和46年没。百閒は、郷里岡山の百間川にちなむ俳号である。
 阿房はアホーではない。由緒正しい秦の始皇帝の阿房宮に典拠をもつ。しかし、なんにも用事がないのに汽車に乗り、揺られ揺られて列島をめぐり、宿に泊まってはしたたか飲んで飲みつぶれて、名所見物もしないで帰ってくる。そんな話ばかりが延々と続くから、やっぱりアホー列車か。
 要するに、本書は見事になかみがない。徹頭徹尾語り口で、というか百鬼園先生の畸人ぶりで読ませる。偏屈を故意に前面に押し出して笑いを誘う点で、百閒の師、漱石の『吾輩は猫である』のユーモア文学の系譜をひく。ただし、『猫』は明治の知識人(または高等遊民)のあり余る無用の知識の放電に面白みがあるが、『阿房列車』の場合、その面白みは知より情、百閒の偏屈ぶりによるところが大きい。漱石が知識人を実用の観点から相対化したのに対して、百閒は知識人を偏屈によって相対化した。
 偏屈な人は醒めた人である。

 <これから途中泊まりを重ねて鹿児島まで行き、八日か九日しなければ東京へ帰つて来ない。この景色とも一寸お別れだと考へて見ようとしたが、すぐに、さう云ふ感慨は成立しない事に気がついた。なぜと云ふに私は滅多にこんな所へ出て来た事がない。銀座のネオンサインを見るのは、一年に一二度あるかないかと云ふ始末である。暫しの別れも何もあつたものではないだろう>

 醒めた人は、酔えば酔いにまかせて酔狂に至る。

 <「そら、こんこん云つてゐる」
 酔つた機(はづ)みで口から出まかせを云つたら、途端にどこかで、こんこんと云つた。
 「おや、何の音だらう」
 「音ぢやありませんよ。狐が鳴いたのです」
 山系が意地の悪い、狐の様な顔をした>

 ヒマラヤ山系こと平山三郎は国鉄本社職員(当時)で、百鬼園先生の気まぐれに毎回辛抱強くつきあった有徳の士。寡黙で動かざること山の如く、百閒記す阿房列車の中ではちっとも活動しないのだが、ドン・キホーテにはサンチョ・パンサ、百鬼園先生には山系君という関係は衆目の見るところ、十手の指すところ。「山系は行きたいのか、いやなのか、例に依つてその意向はわからない」茫洋たる人物だが、彼が記録した『実録阿房列車先生』ほかが有能なサンチョ・パンサであったことを示している。

□内田百閒『阿房列車』(旺文社文庫、1979、重版1984)
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 【参考】
【言葉】いやだからいやだ

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【本】ソローと漱石の森 ~環境文学のまなざし~

2016年08月13日 | 批評・思想
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。以下、刊行当時の所見。

 (1)著者・稲本正は、工芸家、作家。飛騨の「工芸村オークヴィレッジ」代表、毎日出版文化賞奨励賞受賞作品『森の形 森の仕事』(世界文化社)ほか、著書多数。
 本書は、一つのジャンルに閉じこめるのが難しい。
 ヘンリー・D・ソローと夏目漱石の伝記をたどり、それぞれの縁の地を訪れる。と書けば、比較文学に、ひとしきり流行った文学散歩を加味した印象を受ける。けれども、量は多くないが、稲本の体験(学生運動との関わりと訣別、東京脱出)が織りこまれていて、しかもこれが本書全体の中で小さくはない重みをもつ。

 (2)飛騨の山里生活25年間でも季語「風薫る」を体験したのは5回しかない、と稲本はいう。木の芽時や花の季節の曖昧な香りではなくて、「カラッとさわやか」だと微妙な違いを指摘する。科学的根拠も示される。5月、湿度が下がると、炭酸同化作用が活発になる。酸素を豊富に含んだ新鮮な風にのって、樹木が生産しはじめた精油成分が私たちに運ばれてくる。この精油成分が「薫る」原因なのだ。
 こうした観察が随所に活かされている。コンコード(ソロー『森の生活』の舞台)で、飛騨の山奥でかいだミズメザクラと同じ匂い、サリチル酸メチルの匂いを見つけるくだりは、稲本の面目躍如というところ。

 (3)ソロー・漱石・著者の関係は、
  (a)時間の軸でみると、
   19世紀なかば
   19世紀後半から20世紀初頭
   20世紀後半
  (b)空間の軸でみると、
   合衆国
   日本
・・・・と、時と場所もてんでバラバラだ。だが、てんでバラバラが、一貫した主題の下に捩りまとめあげられている。その主題は環境文学だ。

 (4)環境文学とは何か。
 一読したかぎりでは明快な定義は提示されていないが、環境の見方に関わる。稲本によれば、
   デカルト、ニュートンの近代合理主義、機械的自然観
が一方にあり、
   「多くの神々や人間を包摂している」自然(じねん)、万物、宇宙/天地という自然観
が他方にある。環境文学は後者に関わるらしい。少なくとも、著者はソローと漱石の生涯と文学をさぐることで、環境文学の概念を整理しつつあるかのように見える。

 (5)7章で、21世紀の環境問題の解決と人間の主体性確立のための5項目の提案がなされている。
 〈例〉体験を通した自然(じねん=ネイチャー)への関わり及び自然の回復運動。具体t計には、
   ①「自然学校」の全国的展開
   ②自然回復運動
だ。①は、オークヴィレッジで年間開校しており、②も稲本は植樹を実践している。
 本書は、環境問題に関心をもつ人、人間らしい生活を考えたい人に向けた本だ。

□稲本正『ソローと漱石の森 ~環境文学のまなざし~』(日本放送出版協会、1999)
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【宮脇俊三】『時刻表2万キロ』

2016年08月13日 | ノンフィクション
  
 8月10日、古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。
 ひたすら時刻表を読み解き、列車で通ったことのない線区の列車にただ乗るだけ、名所見物もグルメもない馬鹿みたいな旅だが、ショーペンハウアーも言うように、愚行も徹底すれば偉大に至るのである。
 多忙な仕事のあいまを縫って旅するのだが、しなくても害はないけれどやりたいからやる。忙しいのか、余裕しゃくしゃくなのか、よくわからないが、目的だけは明快で、それを達成する意思は堅固。とにかく、読んでいるだけで自分も作者になり代わって鉄道旅行をしているような気分にさせられる。
 今後ぜんぶを再読することは多分ないが、処分する気になれない。

□宮脇俊三『時刻表2万キロ』(河出書房新社、1978/河出文庫、1980)
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【本】紀元前400年の調査報道 ~トゥキュディデス『戦史』~

2016年08月13日 | 歴史
 <戦争の諸事態については、私は偶然の情報や、私自身の先入観に基づいて書くことはしなかった。私は私がこの目で見たこと、ないしは他の人々から聞き得たこと以外は何も書かなかった。この場合も、私はこの人々にきわめて慎重に詳細に訊き合わせたのであった。この仕事はとても骨が折れた。というのは、同じ事件を目撃した人々が自分の記憶をたどりながら違ったことをいい、あるいはそれぞれ異なる面の行動に関心をもっていたからである。したがって、私の話し方は、厳密に歴史的な性格のゆえに、耳には快く聞こえないかも知れない。しかし、もし実際に起こった事件の真の姿を見たいと思う人々が私の書いたものが有益であるといってくれるならば、私は満足である>

□トゥキュディデス『ペロポネソス戦争』第1巻、紀元前400年/コーネリアス・ライアン(木村忠雄・訳)『ヒトラー最後の戦闘(上)』(ハヤカワ文庫、1982)のエピグラフを孫引

 ★写真
 トゥキュディデス(久保正彰・訳)『戦史』 (中公クラシックス、2013)
 トゥキュディデス(小西晴雄・訳)『歴史(下)』 (ちくま学芸文庫、2013)
 トゥキュディデス(松平千秋・訳)『歴史(上)』 (岩波文庫、1971)

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【西木正明】オホーツク諜報船

2016年08月13日 | ノンフィクション
 
 8月10日、古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。
 いわゆるレポ船、北の海で情報活動を行う船とその乗り組み員を描いた快作。
 マスコミには「調査報道」があるが、本書はいわば「調査小説」。膨大な資料と丹念な取材のたまものであることは頁を繰るごとに実感される。本書が成るまでに10年の歳月を要したという。
 北方領土とインテリジェンス活動の見地からも、公刊から年経ていよいよ評価が高い本。

□西木正明『オホーツク諜報船』(角川文庫、1980)
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【米原万里】未発表「ネクラソフ評伝」、ほか佐藤優編の選集

2016年08月13日 | ●佐藤優
 
 (1)米原万里が逝って10年。もう彼女の新作を読めない、と嘆く人に朗報だ。ネクラソフの評伝が今回初めて活字になった。

 <ネクラソフの「私」は人類一般でも神でも民族でもなく、また自分と同じ気分の人々でもなく、ただただネクラソフ一人を、有名な詩人ではあるが、神でも英雄でもない等身大の一個人を代表しているにすぎない。
 その気楽さが、同時代の他の詩にあった記憶から詩の言葉を解き放った。そして彼の作品におけるテーマの選択の幅と発言の自由度を画期的に押し広げたのである。主観的に語り、偏向した発言をする自由を得るのである。個人のものになった言葉は、切実で激烈にもなり得る。
 (中略)偉くない「私」、一個人に過ぎない「私」お言葉が一番自由なのだ。そんなことを、たとえばNHKのキャスターの、あるいは大新聞の論説の、退屈で生気の無い言葉を耳や目にする度に思ってしまうこの頃である>

 (2)ネクラソフ評伝(卒業論文)を含む米原万里のアンソロジー集が『偉くない「私」が一番自由』。編者は佐藤優。彼女のエッセイのパンチ力は、例えば「グルジアの居酒屋」ではこうだ。

 <まず、店に入ると、正面の壁に掲示板があり、グルジア語、ロシア語、英語で店の主人からのお願いを記した紙が貼ってあった。
「ようこそ。当店におきましては、お客様は神様です。お客様のごい希望は法律であります。それを遂行するためにこそ、当店スタッフ一同は日夜励むものであります。たとえば、よく杯のタバコの灰や吸い殻をお入れになるお客様がいらっしゃいますが、そういう方には、さらにご要望にそいたく、灰皿にワインをお入れしてお持ちします」
 この掲示板は日替わりで、毎日内容が変わるので、それを読むのが楽しみで通ってくる客も多いという>

 この挿話には後日譚があって、この地域の非常に複雑な歴史と民族紛争を見事に要約した掲示板を米原は目にするのだが、本書を手にとる人の楽しみのために、ここでは割愛しよう。

□佐藤優・編/米原万里『偉くない「私」が一番自由』(文春文庫 720円)
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【日本への遺言】長野の全国植樹祭に大漁旗 ~山と海を結ぶ~

2016年08月13日 | 批評・思想
 <6月5日、天皇皇后両陛下をお迎えして全国植樹祭が長野市で開催された。なんと開会式会場の国旗掲揚台の下に大漁旗が4枚飾られていた。大漁旗は漁師の印である。海なし県での植樹祭に、なぜ大漁旗が。
 昨年、全国植樹祭のプレイベントが長野市で開かれ、哲学者の内山節氏とカキ漁師の私が招かれ公開で対談することになった。全国植樹祭をどのようなコンセプトで行うか、その参考にしたいと考えていたようである。
 そこで、日本海と太平洋の分水嶺に位置する長野であるから、海を視野に入れた植樹祭にしたらどうかと提案してみた。
 内山氏は、江戸時代、信濃川と千曲川を通してサケが5万尾上がっていたことを、私は天竜川を通してシラスウナギが遡上し諏訪湖はウナギで有名であったことを話した。本来、長野は海の恵みを享受できる地なのである。
 ところが森と海をつなぐ水系は、ダムによって寸断されてしまっている。近年の研究で、森林から供給される養分によって海の生物生産の基となる植物プランクトンが繁殖することが判明している。ダム湖には森の養分が蓄積されているのだ。
 そこで公共事業のあり方を提言したい。新幹線、高速道路など国の南北をつなぐ人間中心の交通網整備をしばらく控え目にして、川を行き来する生物の道の整備に重点を切り換えてはどうか。さらにダム湖に蓄まっている森の養分を海まで運ぶ技術を土木技術者は早急に開発すべきである。
 日本は、約3万5千本の川が日本海と太平洋に注いでいる。森を豊かにし、この水の路が自然に近い形に整えば、沿岸域の魚介類、海藻の生産が飛躍的に増えることは間違いない。そして海産物はすべてご飯のおかずとなり、米の消費も格段に増える。酒もどんどん売れる。川がきれいになり、寿司が安くなれば外国人観光客も喜ぶ。
 全国植樹祭の会場に大漁旗が飾られたことの意味はじつに大きい。これぞこの国の将来像を描くうえで記念すべき国家行事となったのである。
 長野でサケ料理とウナギを肴に日本酒で乾杯する日を夢みようではないか>

□畠山重篤(牡蠣養殖家・エッセイスト/1943年生)「カキじいさんの遺言 ~戦前生まれ115人から日本への遺言~」(「文藝春秋」2016年9月号)
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 【参考】
【日本への遺言】官僚が生んだ「3Y社会」 ~欲なし、夢なし、やる気なし~
【日本への遺言】日本人はステレオタイプの意見だけ ~先入観と固定観念~
【日本への遺言】大豆で日本は復活する ~大豆100粒運動~


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