語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【統計】でウソをつく法

2016年08月12日 | 批評・思想
 
 (1)英国の宰相ディスレリいわく、
 「嘘には三種類がある。すなわち普通の嘘、ひどい嘘、統計である」
 米国では、歯みがきの広告から大統領候補の選挙演説まで統計数字を引用することが多い。そこで、統計数字の意味を理解していないと、容易に絶えずだまされることになる。

 (2)『統計でウソをつく法』【注1】には、市民が日常生活で接することの多い統計とそれにもとづく議論の具体例が、よく集められていて、どこにどういうウソやゴマカシがあり、どういう落とし穴がしかけられているかが、面白おかしく説明されている。
 その説明の理解には、予備知識を必要としない。本の内容のすべては、つまるところ統計に関わる極めて初歩的な、したがってまた基本的な、原理に帰着するのだ。何も新しいことはない。
 しかし、簡単で根本的な理屈を理解してさえいれば、みずから統計を操ってウソをつくことができるし、また逆に、世間に行われている大部分のウソを見破ることができる・・・・ということを鮮やかに示している点で、まことに見事だ。
 〈例〉「カゼなどは、適切な手当をすれば7日のうちにも治るだろうが、そのままにしておいてもたかだが1週間ぐずつくくらいのものである」
 1週間=7日間という等式(根本的な理屈)を理解してさえいれば、無意味なことをもっともらしく言っていると、すぐわかる。

 (3)日本では幸いにして、統計を信仰する市民が、まだ米国ほど多くはないようだ。この国の政治家や広告業者は、統計数字を挙げるよりも、主として情緒に訴える。
 しかし、今日の米国の具体的な例のいくつかは、日本の事情とも係わりがなくもない。
 〈例1〉「雑誌の編集者が記事の読まれる率を金科玉条とするのは、主として、その数字の意味を理解していないからだ」という文句は、「雑誌の編集者」を「テレビ局」とし、「記事の読まれる率」を「視聴率」とするとき、そのままわれわれにとっても日常的風景の一つだろう。
 〈例2〉IQ98の男の子とIQ101の女の子があるとして、男の子の知力を平均以下、女の子の知力を平均以上、と考えるのは、数値の評価に誤差範囲を考慮しない誤りだ。【注2】
 〈例3〉大学卒業生の平均収入は、高校卒業生の平均収入よりも高い、として、大学を卒業したから収入が多いと考えるのは、統計の評価に「その後に・だから・その故に」の誤りを冒すものである。a(大学卒業)の後にb(高い収入)が起こったということは、aがbの原因だというための十分な条件ではない。
 
 (4)GDP世界第3位(2015年)・・・は、むろん国民の生活程度の第3位ではなかった。「一人当たり国民所得」は世界第26位(2015年)にすぎない。しかもそれも、それだけでは必ずしも大多数の国民の所得の高さを示さないし、また必ずしも大多数の国民の「生活程度」の高さを示すものではない。

 (5)統計を用いてウソをつく習慣が米国から日本に及んだとき、数字にだまされぬために必要なことは、「日本の心」でも「もののあわれ」でも「神ながらの道」でも「怨念」でもない。実に簡単なことの明瞭な理解にすぎず、ただそれだけだ。

 【注1】Darrell Huff, How to Lie with Statistics, New York, 1954/ダレル・ハフ(高木秀玄・訳)『統計でウソをつく法 ~数式を使わない統計学入門~』(講談社ブルーバックス、1979)
 【注2】実は問題はまだある。測定尺度によって出てくる数値に違いがあり、田中ビネーⅤはWISC-ⅢよりIQ基準で10余り高い数値が出てくる。また、同じシリーズ(例えばWISC-RとWISC-Ⅲ)でも違う数値が出てくる。

□加藤周一「数字の魔力または『統計で嘘をつく法』の事」(『言葉と人間』、朝日新聞社、1977)
□ダレル・ハフ(高木秀玄・訳)『統計でウソをつく法 ~数式を使わない統計学入門~』(講談社ブルーバックス、1979)
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【日本への遺言】官僚が生んだ「3Y社会」 ~欲なし、夢なし、やる気なし~

2016年08月12日 | 批評・思想
 <いまの世の中で「危ない!」と思うのは、2020年の東京五輪の後に、何の見通しもないことです。
 有力な「次の総理候補」もいないし、政権交代の可能性のある有力政党もない。五輪の次の大イベント計画もなければ、「自分が日々使いたい」と思える新技術・新事業もない。こんなことは、戦後の日本ではなかったでしょう。
 その一番の原因は日本が「低欲社会」になったことです。「欲なし、夢なし、やる気なし」の“3Yなし”状態に陥っています。
 では、どうしてこんな世の中になったのか。私は、戦後日本を創ってきた「官僚主導」が築いた「人生の規格化」の結果だと思います。
 今の日本は、官僚の示した通りの人生を従順に歩めば、福祉でも税制でも一番有利に扱われる社会です。
 日本人は生まれるとすぐ託児所や保育園に入り、小中高大と果断なく進むべし。浪人はマイナス。卒業後は直ちに就業、間を置くとニート、つまり“不良”にされてしまう。
 就業すると、まず蓄財。お金を貯めてから結婚。その後に出産。子供が生まれたらローンを組んで住宅を買え。このためには小住宅を土地の安い郊外に建てろ。子供に一部屋ずつ与えられる多部屋にしろ。
 住宅ローンの返済が終わる頃にはもう中高年。あとは年金を積んで老後に備えよ。年金は必ず官僚に支払って運営してもらえ。老後は子供に頼らず官僚の世話になれ、という。
 こんな人生では夢を感じないし、創造力も湧きません。それでいて官僚自身も一年か二年でポストの変わる無責任な小市民。小市民が小市民を導く世の中では「安全・安心・清潔・正確」な「小天国」はできても「大きな夢」も「楽しい冒険」も生まれない。日本の少子化も「夢不足・楽しみ不足」のせいでしょう。
 いま巷に溢れるのは「夢や欲」ではなく、官僚への嘆願ばかり。日本全体が「夢不足・欲不足・ワル不足」の大危機です。日本人みんながこの惨状に気付いて、官僚主導の小天国を少しずつ揺るがしましょう>

□堺屋太一「官僚が生んだ「3Y社会」 ~戦前生まれ115人から日本への遺言~」(「文藝春秋」2016年9月号)
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 【参考】
【日本への遺言】日本人はステレオタイプの意見だけ ~先入観と固定観念~
【日本への遺言】大豆で日本は復活する ~大豆100粒運動~

【大岡昇平】ミンドロ島ふたたび

2016年08月12日 | ●大岡昇平
 <昭和33年1月20日、遺骨収集船「銀河丸」が芝浦桟橋を出た。(中略)戦後、厚生省引揚援護局がはじめて出す船だった。一ヵ月ばかり前に発表された予定地にミンドロ島は入っていなかった。ところが一週間前の新聞に不意にその名が出た。私は衝撃を受け、いまから申込んで便乗出来ないか、どこかの新聞社に頼んで特派員の列に加えて貰えないものか、なんとか打つ手はないか、と考えた。
 ミンドロ島サンホセは、私が昭和19年8月から12月まで駐屯した町である。(中略)
 ミンドロ島の名が出たのは夕刊で、私は食事をはじめていた。二本のビールに酔った頭で、翌日方々へ電話をかけて、なんとか段取りをつけることを空想した。しかし興奮が鎮まってみると、結局仕事のやりくりもつきそうもないし、一週間では出国手続が間に合わないことは、あまりにも明らかであった。
 20日夜、銀河丸出帆の光景がテレビのニュースに出た。埠頭で遺族が泣いていた。
 私も涙を流し、部屋に帰って、詩のようなものを書きつけた。
    おーい、みんな、
    伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤、
    そのほか名前を忘れてしまったが、サンホセで死んだ仲間達、
    西矢中隊長殿、井上小隊長殿、小笠原軍曹殿、野辺軍曹殿、
    練習船「銀河丸」が、みんなの骨を集めに、今日東京を出たことを報告します。
    あれから13年経った今日でも、桟橋で泣いていた女達がいたことを報告します。
    とっくの昔に骨になってしまったみんなのことを、まだ思っている人間がいるんだぞ。
    あの山の中、土の下、薮の中の、みんなの骨まで、行くことは出来そうもないが、
    とにかくサンホセではお祭りが行われる。
    坊さんがお経を読み、サンホセの石を拾って帰って、
    みんなのお父さんやお母さん、兄さんや妹さん、子供に渡すということだ。
    坊さんのお経の長いことを祈り、
    石が員数でないことを祈る。
    僕も自分で行きたかったんだが、
    誰も誘ってくれる人はなく、
    なまじ生きて帰ったばっかりに仕事があり、
    仕事のせいで行けないんだ。
    ここでこうやって言葉を綴り、うさ晴らしするだけとは情けないが、
    なさけないことは、ほかにもたくさんあるんです。
    誰も僕の気持ちを察してくれない。
    なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。
    わかって貰えるのは、みんなだけなんだと、こん日この時わかったんだ。
    しかしみんなは今は土の中、薮の中で、バラバラの、
    骨にすぎない。骨に耳はないから
    聞こえはしないし、よし聞こえたって、
    口がないから、「わかったよ」と
    いってもらうわけにも行かない。
    しかしとにかく今夜この場で、机の前に坐り、
    大粒の涙をぽたぽたこぼし、
    みんなに聞いてもらいたい、
    ・・・・・・・・
 以下、103行、私としても生まれて初めて書く詩みたいなものだった。
 その頃私は一応自分の戦争経験を書き終わり、一週間に三度ゴルフをやったり酒を飲んだり、昭和30年代の大衆社会状況に絶望しながら、結構呑気な生活を送っていたのだが、一つのテレビ放送によって、痙攣的な反応が起きたのは、自分でも意外だった。
 また10年経った。昭和42年から私は「中央公論」に『レイテ戦記』を書きはじめた。レイテ島は同じフィリピンでもミンドロ島のような呑気な戦場ではなく、昭和19年10月以来、太平洋戦争で最も大規模な、空陸海の決戦が行われたところである。
 私は(中略)そこ【引用者注:タクロバンの俘虜収容所】で陸海軍の俘虜に会い(それは主にスリガオ海峡から突入した西村艦隊と、東海岸の水際で戦った第16師団の兵士だった)、レイテ島の戦闘の話を聞き、感銘を受けた。
 それをもとにして小説を書いたこともあるが、最近漸く各種資料が出版され、レイテ島の戦闘の全貌がわかって来たのである。同時に、私は自分の戦ったミンドロ島の戦闘についても、一兵士にはわからなかったこと、帰国してから回想を書いた時にも、知ることが出来なかった多くのことを知った>

□大岡昇平「ミンドロ島ふたたび」(『ミンドロ島ふたたび』、中央公論社、1969)から引用
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