後藤田正晴は老いてなお頭脳明晰にして決断力があり、責任をとることを恐れない人だった。戦前、応召し、同期の3分の1は還らなかった。この国がふたたび戦さを起こす羽目に陥らないようにすることを自分の使命としていたらしい【注】。
ひとは「カミソリ後藤田」と恐れたが、身近にあって鍛えられた者には別の側面も見せていた。従僕に英雄なし。
後藤田正晴は、頭がよい人だったが、しばしばど忘れした。
ある日、佐々敦行が出かけている出先に、
「すぐ電話せよ」
という後藤田指示が伝わってきた。折り返し返電すると、
「あれ、何ていった? あの長ァーいことやっていた奴よ」
「はあ?」
「君、アメリカに行って会っただろう。なんとかいう奴だ、名前が思い出せない」
「もしかしてFBIのフーバー長官のことですか?」
「おお、それよ、それ。ありゃフーバー大統領の親戚か?」
「ちがうと思います。ところで用件は?」
「もうすんだ。そうだ、フーバーだよ」
警察庁長官時代、退室する刑事局捜査第一課長とすれ違いに長官室に入るや、いきなり佐々淳行に訊いた。
「いまの、オイ、君、誰じゃった?」
「いまの、って、捜査一課長じゃないですか。刑事局の筆頭課長なのに“誰じゃった?”はないでしょう」
「そんなことはわかっとる。名前をきいとるんじゃ、名前を。ど忘れしてしもうた」
ど忘れは瞬間的にうつる。佐々も「宮地直邦」という姓名がすぐ出てこない。
佐々は慌ててドアの外にいる女性秘書に訊いた。
「いま、出ていたの、誰だっけ?」
「捜査一課長さんですよ」
「それはわかっている。名前は?」
ど忘れは伝染する。
「えーと、お名前は・・・・あら、ど忘れだわ」
【注】
「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(1) ~行政改革~」
「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(2) ~震災復興と危機管理~」
「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(3) ~政治家の質疑応答能力~」
□佐々淳行『わが上司 後藤田正晴 ~決断するペシミスト~』(文春文庫、2002)
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