よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

遊びについて

2005年03月30日 | 自転車/アウトドア
このところ昼飯を食べながら、変わった話題になることが多い。子供のころどんな悪い遊びをしたか、ということで盛り上がった。

僕が生まれ育った浜松には市街地にたくさんのお寺がある。お寺の裏手の小高い山や丘には防空壕がほられていた。戦争が終わっても開きっぱなしになっている防空壕を探検するくらいは、初歩的な遊戯みたいなもの。

そんな遊びに飽きたころ、悪いガキどもと語り合って、寺の裏の墓場に入って、墓あばきをしようということになった。墓石をずらして中から骨壷を取り出す。それを足で蹴散らして骨を撒き散らすのである。通過儀式として、それができれば一人前のワルガキの正式な仲間となる。ひるんで二の足を踏んだり、怖いと言って逃げ帰れば、意気地なしという烙印を押し、押されるのだ。

今の時代ではとうてい考えられないような遊びだ。どんな時代でも遊びにおける重要なひとつのファクターは、タブーや社会規範からぎりぎりのところで、人知れず、意図的に離反し、逸脱することだろう。人に知られれば相当にまずいことになる。とんでもないことになる。だからこそ、ワルガキどもは目を輝かせて、とんでもない作業をいそいそとつづけたのである。

そんな遊びも、困り果てた住職が警察に通報して、警察官が夕暮れ時の墓地に立った日からなくなってしまった。その日の夕刻、仲間同士で「これでやめられる」と言いあい、ほっと安心したのが不思議といえば不思議だった。

そんなワルサに身を染めた子供だったせいか、長じても世間的な遊び(俗に言う、ノム・ウツ・カウ的なこと)は平板で無味乾燥なものでしかない。子供時代に「遊び」すぎると、あとの人生がつまらなくなるのか。

オープンソースとカルチャー

2005年03月29日 | オープンソース物語
日本語や英語のような自然言語は、どこかの企業が囲い込んで開発、更新、配布し、その言語の優良な使い手を認定するというような構造にはなっていない。自然言語は本質的にOpen Sourceだ。オープンソースな言語では、意識しようとしまいと、言語の習い手はコストを支払い、自分のリスクで言語を活用してゆく。

さて、コンピュータやインターネットで使われる言語もいずれ、マシン系の進化とともに、自然言語のようにオープンソースになってゆくのが流れだろう。その流れにしたがって、オープンソース言語獲得のためのコストとリスク負担は受益者である言語ユーザの手にゆだねられることになる。

忘れてはいけないことは、自然言語が使われる同時代の認知空間にcultureが存在するのと同様、オープンソース言語にもそれを涵養し、育み、抑制したり、促進したり、進化させてゆく行動規範のパターン=文化といったものが織り込まれ、インプリケートされなければいけないということだ。

それはたやすいことではないだろう。だからマイクロソフト社に代表される企業が「言語」を開発し、普及させ、そのリターンを手中に収めてきた過程で、ある種の偏向したカルチャーを培養してきたわけだ。そのバイアスト・カルチャーの大変重要な一端については、数ヶ月前にマイクロソフト社の本社にまで行って学ばせてもらったわけだが。

オープンソースという言葉はMS社内ではタブーであると先日、MS社内の関係者から聞いた。なるほどと思う。敵対する陣営としてオープンソースをとらえればたしかにタブーかもしれない。ただし、オープンソースといかに折り合いをつけてゆくのかも、重要な戦略展開の一環だろうに。言語のユーザとしては、気になるところである。






10年ぶりに教え子と再会

2005年03月26日 | 講演放浪記
今日は会社がある幕張新都心のワールドビジネスガーデンで目標マネジメントのレクチャー。

10年くらい前に日本看護協会の看護研修学校で医療、看護マネジメントの講師をしていたときの教え子、九島悦子がレクチャーを聞きに浜松からはるばる来てくれた。なので彼女とは10年ぶりの再会。

彼女は浜松市内のすずかけ病院でなんと看護課長として活躍している。さらに看護管理の仕事を続けながら、大学院で看護学の修士を取得した。がんばりやさんですね。僕もとってもうれしいです。仕事に勉学に一生懸命な姿はとてもキレイですね。

継続教育や生涯教育に関わっていて、ほのぼのとうれしいのはかつての生徒やセミナーの参加者がそれぞれ職業生活や学問のキャリアで着実に成果をあげて活躍しているのを知ったときだ。




ニューウェーブ株主総会

2005年03月25日 | ニューパラダイム人間学
今日はわが社、ケアブレインズの株主総会。かねてから形式にとらわれず、ワイワイガヤガヤ議論する株主総会を目指してきた。

上場企業の株主総会は株主総会じゃない。たんなる儀式と言ったほうがいい。わが社はベンチャーだから、形式にとらわれない実質的な、事由闊達な議論ができる総会でありたい。それやこれやで、わが社に出資いただいているウエルインベストメントりそなキャピタルちばぎんキャピタルのベンチャーキャピタル各社に率直な経営に対するご批判、アドバイス、サジェスチョンを頂いている。

株主総会こそが、多様な意見、批判、経営チェックがフュージョンした場であるべきだと思う。ネットワークの外部性は株主総会でこそ織り込まれるべきじゃないだろうか。

今日の株主総会は去年に比べややおとなしかったが、それでもクリエイティブないくつかのアイディアが出てきた。こういう唐突なアイディアだからこそ、値千金の価値もあろうもの。

経営に対する健全なチェック、アドバイス、商機の拡大、いろいろなハンズ・オンをもっと、もっと期待したい。株主総会はセレモニーであってはいけないのだ。


国民医療費高騰に苦しむアメリカ

2005年03月24日 | 健康医療サービスイノベーション
2005年度の米国国民医療費の推計値が米国の当局から発表された。円換算では約200兆円となり、米国GDPの15.6%相当だ。この数値がいかに突出したものかは、他の先進諸国と比較してみれば一目瞭然。

2位のスイスが11.2%で、アメリカは4.4パーセントポイントも高く突出している。ひるがえって日本は世界では18位で7.8%である。

このような医療統計を米国が発表するときまって出てくる日本の国民医療費擁護論がある。いわく、「平均余命、乳幼児死亡率など主要なインディケータをとっても日本の健康アウトカムは世界のトップレベルにある。しかも国民医療費は対GDP比率でアメリカの半分しかない。ゆえに日本の医療政策はうまく機能している」

アメリカを基準にしてものを考えるからこのような楽観論が生まれてくる。医療政策ではアメリカはまったくの問題児であり、アメリカの医療を基軸にして判断すると大きな過ちをおかしてしまう。アメリカの医療の特異性、異常性をじっくり考えてみる必要がある。

まずアメリカには国民すべてが加入できる国民皆保険制度がない。また薬価などの公定価格制度もないので政府当局が医療サービスのサプライ・サイドに規制をかけにくい。またディマンド・サイドでは、金持ちは世界の最先端の高度医療を享受できるものの、なんらの医療保険にも入っていない米国(居住者を含む)は3000万人以上いる。

米国では株式会社が病院を経営している。患者、病院、保険者の中に介在する営利のHMO(ヘルスメンテナンス・オーガニゼーション)などが多数存在している。新薬や新規医療技術の開発、市場への導入はスピーディーだ。一言でいえば、市場経済の競争原理が影響を及ぼす範囲が他の国々にくらべ断然広い。よって、日本の医療制度を議論するときに、アメリカと安直に比較するのはムリがあると言わざるをえない。

ケアリング志向の庭文化

2005年03月22日 | よもやま話、雑談
箱庭療法は、ユングに端を発しその後、イギリスのD.カルフによってつくられた治療法の一つ。カルフは箱の中に砂をいれ、その中にいろいろな人形をおいて一つのまとまった世界を構成してゆく方法を提唱した。

箱庭を作り上げてゆくプロセスと結果を箱庭カウンセラーは制作者であるクライエントとともに味わう。さらに、カウンセラーは作り上げられた箱庭の分析を行うことで、制作者の意識の底に隠蔽された様々なメッセージを読み取る。また、制作者は内面に織り込まれた葛藤や意識を表現することによって、抑圧された感情をカタルシス(浄化)することができるとされている。

カルフが提唱した箱庭療法は過激なまでに療法としてアーティフィシャルだ。反面、日本には盆栽や、独自の箱庭や坪庭が病んだ人々の療法ではなく、ごく普通の健常な人々の嗜みとして日常生活の一画に文化として存在してきた。

日本の盆栽、箱庭、坪庭の生活文化は自然共存型で、かつ癒しのメカニズムを無理なく内包しているという点で深い部分でケアリング志向なのかもしれない。英国風のガーデニングがブームではあるが、その背後には長らく自然共存によるケアリングを志向してきた日本ならではの盆栽、箱庭、坪庭の庭園文化への回帰への息遣いが垣間見れる。

我が家の庭は日本風、ヨーロッパ風が習合した雑種系だが、せっそうのない雑種系ということ自体も現代日本的な要素か。そんなことをつらつら思い巡らしながら庭をいじるのも楽しいものだ。




葉牡丹

2005年03月20日 | よもやま話、雑談
随分まえにサントリーの白州工場で、ウイスキー醸造用の木樽を半分に割って創った園芸用のプランターを求めた。

それを庭先において毎年いろいろな花を植えている。葉牡丹は寒いうちからきれいだが、このところの陽気にあたってか、淡い色の輪郭がはっきり増してきている。

ヘルマンヘッセは「庭仕事」のなかで、庭には宇宙があると言っている。なるほど、宇宙の中の庭、庭の中の宇宙。庭のなかの小宇宙をいじくるというのは、ある種ヒーリング効果があり、箱庭療法として心身の健全さを保つ、回復するはたらきもあるという。


マネジメントスクール

2005年03月19日 | 講演放浪記
今日は幕張新都心のケアブレインズ・マネジメント・スクールで人材開発とクリニカルラダーのテーマで講義。熱心な受講者を前に、レクチャーをするほうも熱が入る。もっとも遠方からは九州宮崎県からご参加いただいた受講者もいた。

そもそもクリニカルラダーがブームのようになってきたのには制度的な理由がある。日本医療機能評価機構が行う医療機能評価の対象として体系的なクリニカルラダーの整備、運用が位置づけられいるからだ。

医療機能評価にパスするためにクリニカルラダーを導入するという病院はとかくカタチから入ってしまい、運用が形骸化しやすいので要注意だ。

医療機関の最大の資源は人材である。もちろん看護部門にとっても最も重要な資源は人材につきる。資源ベース論(RBV)(RBV、Resource-Based View )によれば、希少価値が高く、模倣困難、代替不可能な人的資源の保有が競争優位をもたす。クリニカルラダーは競争優位を実現するための人材開発、人材評価のためのインフラストラクチャーである。




木更津にて

2005年03月19日 | 講演放浪記
木更津東邦病院にて中長期事業計画策定に関するコンサルティング。短期間ながらも大いに進捗し、よかった。一連の仕事がおわってから小島病院長、診療部長、薬局長、事務長と木更津市議会議員の先生と市内の富士屋ホテルにみんなで繰り出して宴の席。

なぜか、仕事関係の話題はまったくなし。ひたすら、昨今の中国、韓国事情(反日運動の歴史、民族的深層心理分析)、はたまた、フィリピンのヒーリング、心霊療法の話、かすみ網をつかった非合法的鳥類の捕獲方法、天皇制と古神道、出口王仁三郎の出自、木更津の芸者、ハマグリの話題などでおおいに盛り上がる。脈絡を連結させる糸口を探すことを拒否するような異質なテーマほどオモシロイのだ。

楽しいと感じるのは、その場、その人としかできないような濃度の濃い、きわめてエッジの効いた特異なテーマであることが多い。

楽しい話題というのは、たしかに心の栄養だ。そして、さすが木更津、海の幸がとてもおいしかった。みなさま、ありがとうございました。


宇都宮のぎょうざ

2005年03月17日 | よもやま話、雑談
昨日、会社でいろいろな会議が終わってから宇都宮へ日帰り。東京から一時間足らずで行けるので泊るほどの距離ではない。

国立病院機構宇都宮病院で地域のいろいろな病院の方々を含めて勉強会でスピーカーをするためだ。

独立行政法人や国立病院機構は、おしなべて独立採算、自主独立経営へ大きく舵を切り直している。従来の「親方日の丸」方式では財源の確保ができなく、また「非営利」の美名のもとで非効率の巣窟と化してきた国公立の医療機関を、国や自治体としてももう面倒ができませんよ、というのがこれらの動きの背後にある。

宇都宮は10年ちょっと前に、「ぎょうざの町」に急変した。たしかに市内にぎょうざ店が200店以上あるので、競争が激しい。はげしい競争が味、サービス、価格においてさらに競争をもたらしている。消費者にとってはよいことである。

香蘭という店はなんと、ぎょうざと水しか出さない。ビールもごはんさえもない。ひたすらギョウザだけの世界。全国からその味を求めてやってくる人はひきもきらない。ダントツの味=強烈な差別化が得意なポジションに繋がっている。医療機関にもダントツの医療サービス=強烈な差別化が必要なのはいうまでもない。