よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

アカデミアでの活動予定 2009年度

2009年03月27日 | 技術経営MOT
来週から新年度。

他になにか加わると思うのだが、今のところ、2009年度のアカデミアでのおおまかな活動は:

        ***

★東京農工大学大学院技術経営研究科(MOT)
人的資源管理論(前期/松下博宣)
ベンチャービジネス戦略論(後期/松下博宣)

★日本工業大学大学院技術経営研究科(MOT)
・アントレプレナーシップとベンチャー企業経営論(夏学期集中/松下博宣)

★札幌市立大学看護学部
・保健医療福祉サービスのマーケティング論(9月集中/松下博宣)

        ***

会社を経営していたときは、キッタハッタの泥臭い経営マターで身の回りが一杯だったが、ここ1-2年は大学関係の仕事が増えてきている。

どうして地を這うような泥臭い実務家がアカデミアから呼ばれるのかというと、ビジネススクールやMOT専門職大学院の顧客である学生は、マネジメントという臨床経験から抽出される経験則、理論、モデル、プラクティスに価値を置くからだ。

客観的にデータを集めて分析し、理論やモデルを仮説し検証してゆくというアカデミックな研究スタイルが本来の実証的な学問の姿だろう。このスタイルを踏襲する行き方を、経営学とよぶのなら、実は、経営学は再現性のない現象を分析の対象とするので、試験もできなければ、実証もできないフェイクな学問になってしまう危うさがある。

逆に、コンサルタントや経営者という実務家人種は、再現性がない経営という現象を相手にするので、どうしても、特殊な状況での判断やデリバラブル(成果物)に重きを置く。つまりフレームワーク、ツール、モデルを駆使した具体的かつ操作主義的なアプローチとなりやすい。

いわゆる経営学者とマネジメント実務家の中の悪さは、このような違いから生じている。ようは、両者のアプローチを補完しあって、なおアウフヘーベンすることが大事じゃないか。このあたりが僕の役割だ。


謝恩会、卒業

2009年03月24日 | 技術経営MOT
先週は恵比寿で盛大な謝恩会。
気がつけば3次会までの付き合いとなってしまった。

「MOTで世を切り開く」の亀山研究科長にオープニング・スピーチに始り、
古川前研究科長のグリーティング・スピーチ。
「これからが本番!」と力強く言いはなった卒業生代表の加藤さんの挨拶。
「修羅場をくぐりぬけよう!」と力説した中村先生。

修了生、客員や非常勤の先生方、事務OBの方々などとも談笑、談笑。
卒業してもこっそり授業に出たいといううれしい要望も。
レクチャーを聞きたいのか、酒を飲みたいのか、は「?」なのだが・・。

好きな言葉。贈る言葉。
イギリスの作家ジョージ・エリオットの「なりたかった自分になるのに、遅すぎることはない」

働きながら大学院で勉強するというのは、本当に大変なことだと思う。
そして20代から60代までの老若男女が修了する。

何歳になっても自分のやりたいことにビジョンを描き歩み続けることが、人生を豊かにすることにつながるんじゃないのか。

それだけに達成感もひとしおだろう。

日経キャリア4月号記事

2009年03月17日 | No Book, No Life


雑談が記事になってしまった。日経キャリア4月号(p32)。この雑誌は20-30代のキャリア開発に特化した内容。MOTやMBA大学院の紹介もしている。さて、この雑誌を見てびっくり。カリスマ講師となっている。いやはや。

イノベーションは、科学技術的な見地からも十分差別化できるほどの知を凝縮できる人と組織によって創発される。だから、コトを起こそうという人はそのような人が集まる場所に首を突っ込むといい。

会社や研究所の組織の中でリスクを取って勝負すればイントレプレナー、独立して本気で勝負するのがアントレプレナーだ。いずれもリスクの「先読み」と「先取り」のセンスと技法が問われる。ただし、リスクは完全に予測もできなければ、予見もできない。だから最終的にはリスクを取ることに本能的に魂の奥底でワクワク感覚を感じるか否かが分かれ道。

面白そうなビジネスのネタ話を聞いてケツの穴の周りがムズムズしてくる感覚。この感覚が分るか、分からないか、だ。この感覚を出発点にして、先読みと先取りの技法を駆使してスタートアップが始まる。

起業家としては、もちろんアントレプレナーのキャリアを勧めたい。不況局面はだれしもがしり込みしているので、逆にチャンスが多い。大企業の採用も先細るので優秀な人材も採用しやすい。そういうリスクテーカーを応援したい。

営利を目的にバリバリ稼ごうというのがビジネス・アントレプレナー。こういう伝統的な起業家とは別カテゴリーとなるが、利益の獲得を最優先とせずに、社会的な問題を解決することを第一義の目的とするのが、社会的企業家=ソーシャル・アントレプレナーだ。新しい時代の起業家だ。

志の高い社会起業家を応援したい。


MOT教育のエッセンスを探るシンポジウム

2009年03月15日 | 技術経営MOT


田町のキャンパス・イノベーション・センターで開かれた「MOT(技術経営)教育のエッセンスを探る」というシンポジウムに出た。

そもそも、10大学院が集まってコア・カリキュラムを策定するという目的はなんなのか?

(1)大学院が寄り添って(横並び)リスクをヘッジするためのコア・カリキュラムづくりなのか。

(2)黎明期のMOTにあって、独自性のある真のコア・コンテンツを策定するためなのか。

大学院とて教育の競争的市場に存在する。つまり、各大学院が徹底的に差別化を図り、学生の支持を取り付けたMOTは生き残る。逆に学生が集まらないMOTは倒産=廃業するのが、市場のポジティブな側面を活かすということではないのか?

(1)であるのならばうなずけなくもない。競争的な自由市場ではなく、規制された公私併存の教育サービスとして専門職大学院を集団的にプロモートしてゆくという戦略を前面に持ってきたと解すればよい。この場合、最大公約数を抽出してあたりさわりのないコア・カリキュラムを作ってゆくこととなる。

もし(2)を狙ったのだとしたら、MOT協議会は興味深い方向に向き始めている。コア・カリキュラム案の「知識項目の整理例」は、いわゆるビジネススクールのコア科目と近似してきているからだ。

プロフェッショナルとしての高度な到達レベルは、静的な形式知獲得型のカリキュラムだけでは実現できない。これは卓越した欧米のビジネススクールでは広く受け入れられている定説である。専門知と実践力は循環しながら高まってゆくという性質を持つ。この性質を動的なラーニング・デザインに取り込むと、ケース・アナリシス、インターンシッップ、フィールドスタディ、ケーススタディ、ビジネスプラン作成などの実践志向のプログラムとなる。

残念ながら、到達度を議論する際に、カリキュラム中心のティーチング・デザインに終始してしまい、教育サービスの顧客である学生を中心にしたラーニング・デザインの視点が欠落しているように思われる。ラーニング・デザインという技術を取り込んでマネジメントして学生に価値を提供できなければ、いったいなんのためのMOTか?!MOTは官の予算配分からはじまったサプライサイドの動きで終わってしまうのではないか。


倉敷中央病院のサービス・イノベーション

2009年03月13日 | 健康医療サービスイノベーション


昨日新幹線と在来線を乗り継いで倉敷にやってきた。倉敷中央病院で、2日間缶詰でコンサルティングと研修(実践的研究会のようなもの)を行う。副看護部長の安部小夜子さんに撮っていただいた写真を掲載させていただく。ありがとうございました!

倉敷中央病院に対してコンサルティングを始めてはや10年位。その間、幸いなことに倉敷中央病院は幾多のサービス・イノベーションを推し進め、日本を代表する急性期病院へと着実に発展してきたことはうれしい限り。

日本でも屈指の医療サービスを提供している医療機関に対して、さらにサービスを進化させるためのコンサルティング・サービスを提供するのは、本当にエキサイティング!な経験である。

サービス・イノベーションのコンサルティングは多岐にわたってきた。サービス・イノベーションのコンサルティング自体も、もちろんサービスである。コンサルタントとして提供するソリューションは、相手に受けいれられて初めて生きてくるということを、コクリエーション(service co-creation)なんて言ったりするが、ケアリングは、service co-creationの究極の姿だとつくづく思う。

service co-creationに関するコンサルティングも、service co-creation。service co-creation on service co-creationっていうこととなる。ややこしい話だが。



心臓外科バイパス術、カテーテル術など、頚椎・腰部整形外科、循環器外科など倉敷中央病院は、日本屈指の治療におけるラディカル・イノベーションを先導してきた。台湾の李登輝前総統(コーネル大学OB)がお忍びで入院するほどの、隔絶した高い技術レベルを誇る。

これらを攻めのイノベーションと言えば、いわば看護は守りのイノベーションを担当する。入院から退院、そして退院後の生活までをシームレスに地域と連携しつつインクリメンタル(漸次改善的)なイノベーションに余念がない。そして、攻守を織り交ぜた集中治療部門の強化、臓器別センター化構想などの200億円投資案件も着々と進捗している。

診療部門のラディカル・イノベーションを支えるのが看護部門やコメディカル部門のインクリメンタルなイノベーションだ。診療部門のラディカル・イノベーションは医学各科の科学知識が基盤となる。これらの医学、看護学、関連する諸学の知と実践の知が、現場で還流し、サービス価値をダイナミックに生んでいる。そして現場の実践知は、各学会やコミュニティ(日本を代表する先進的11病院など)の知識の場にも還流し、共有されている。

日本は医療を支える素材産業、半導体産業、電子産業など技術力の高い産業を擁し、日本が得意とする改良改善・すりあわせなどが適合する面も少なくない。

しかしながら、
(1)承認や健康保険への適用が遅れている。
(2)病院の利益水準が低いため先進的な機器をタイミングよく導入できない。
(3)新技術導入による便益とリスクを科学的・合理的に評価・決定できない。

・・・など皮肉にも「制度」がイノベーションを阻害しているのも事実。

このような「制度」の失敗をも勘案しながら、倉敷中央病院はヘルスサービスとヘルスサービス知が複合するイノベーションのエコシステムを形成している。医療サービスのイノベーションのエコシステムとして俯瞰する視点は、従来の医療管理学や、既存の個別のディシプリン(医学、看護学など)が見落としてきた側面でもある。

サービスサイエンスはやっと、サービスの分析の賭場口に立ったばかりだが、医療機関の現場には、制度と折り合いをつけながら、ありとあらゆるサービスが出現しているのだ。

心臓カテーテル術ならば、先進的なカテーテル・メーカーと医師がコラボレーションして、最新の治療方式を可能とする新製品開発、ソリューション開発を進めている。サービス・コクリエーションはもちろん、診療・看護と患者との間に創発されるわけだが、各種医療関連企業と倉敷中央病院との間にも創発されている。

非営利原則で運営される医療機関は医療サービスの提供エージェントであると同時に、卓越した医療機関は、医療サービスにかかわる医療産学連携の「サービスイノベーションの場」なのである。


ESRI国際フォーラム2009

2009年03月10日 | 技術経営MOT


今日は昼すぎから、内閣府経済社会総合研究所(ESRI)の社会イノベーションワーキンググループの委員を仰せつかっている関係で、ESRI国際フォーラム2009に参加。

今年のフォーラムは一皮むけた感じだ。開催趣旨に曰く、「これまでの我が国のイノベーション戦略は、2007年6月に閣議決定された「イノベーション25」に見られるように、技術シーズを発展させ、生産性を向上させることで描かれる将来像が中心」となってきた。

しかしながら、イノベーション政策とはイノベーションのサプライ・サイドの科学技術政策に限定されるものではなく、社会ニーズのディマンド・サイドから構想してゆこう、というのが趣旨。今後のイノベーション政策は、社会的な課題やニーズを踏まえた形で議論を展開し、社会の中でビジョンを共有し、それを実現するためのシステムを考え、実行することが重要である、と。

           ***

開会挨拶:平澤 泠
ESRI 国際フォーラム2009 実行委員会委員長
東京大学名誉教授

基調講演者:
Cita M. Furlani
米国 国立標準技術研究所情報技術ラボラトリー
ディレクター

Ralph Dum
欧州委員会未来発展技術 科学担当

諏訪 良武
ワクコンサルティング株式会社常務執行役員
エグゼクティブ・コンサルタント

Barend J.R. van der Meulen
オランダ トエンテ大学経営管理学院科学技術政策学部准教授

パネリスト:
原山 優子
東北大学大学院工学研究科教授

川原田 信市
内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官

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平澤泠先生とは、たしか3年くらい前の第一回MOT協議会のとき以来の再会で、夜のパーティーで歓談となる。以前経営していた会社が、MOT協議会の企画、マーケティングをフルターンキーで請け負っていたのが縁となった。

まあそれはいいとして、平澤流モデレーションは、広範な潤滑油のような知識をパネラーのギア(専門知)に注入して異なる意見を持つ専門家の言説を見事にまとめる。賛成・否定の二元ではなく、あくまで弁証的に高い次元に議論を遷移させるワザはさすがだ。

諏訪良武氏のサービス・サイエンスが面白かったが、なるほど、シンポジウムという知識創造・創発の場づくりのサービスとは、「事前期待」をベースにいかにパネリストとフロアーを巻き込んで、新しい知見を生み出してシェアするにかかっている。

また、平澤先生、諏訪良武氏とアルコールを飲みながら雑談していて面白かったのは、サービスのデザインというのは、専門バカではできないのだ!ということ。細切れの専門知や分野を横断的にヨコグシでまとめてゆくようなウーピー的感覚(キワモノ、異界の越境、学際、異質のまとめあげ)がぜひとも必要だ。このあたりは、サービス教養というか、Tやπの「ー」に当たる見識ということだろう。

さて、パネラーのほぼ一致した見解としても、科学・技術シードを契機とするイノベーションの創発は先験的に予見、計画することは困難だろう。たしかに破壊的なイノベーションという代物は事後的に認知できるものであって、予見は難しいだろう。

さて、事前期待(ニーズ、あるいはservice preposition)とシーズの協創によって成立するサービスが駆動力となるサービス・イノベーションに注目するべきだろう。ここで現象面でのいくつかの根拠をあげておくと:

・その1:日本のGDPの70%はサービスから生まれている。

・その2:先進国の消費は脱物質化している。つまりモノの所有からモノの使用へシフトしてきている。(車を買う→リース・レンタルで済ます。ソフトを買う→SaaSで済ます。家を所有する→賃貸で済ます、iPodよりもi-Tunesなどなど)

・その3:利潤原理で運営される株式会社、非営利のNPO/NGO、大学、ビジネス起業家、社会起業家が造る付加価値は、おおむね70-80%がサービスに由来する。

近い現場では、

・その4:MOT大学院生(農工大など)が作ってくるビジネスプランの85%はサービス・ビジネスの計画である。

サービス化の流れは経済そのものの知識化・経験産業化の流れと表裏一体をなす。ものづくり(伝統的モノ系MOT)のみではなく、それとは別に、あるいは相互に補完するものとして、コトづくり(サービス作り系MOT)の流れがあるのだ。当然MBAの関心もサービスに収斂してくれば、MOTやMBAといった線引きは有名無実化するのは必然だろう。

そもそも社会とはJim Spohrerが言うように「サービス・システムのエコロジー」と同義だ。サービス・イノベーションを多様な主体が共に作り上げて分かち合う「場」がずばり社会。・・・という見方をすれば、スンナリゆく。

ひとつ、ここは、垣根をとぱらって法人や制度のビークルの種類に拘泥することなく、さまざまなエージェント(意志決定と行為の主体者)によってなされるサービス・イノベーションのあり方を議論したいものだ。もちろん行政というエージェントも含めて。十中八九、そのような方向に向かうだろう。面白い。

実践と専門知の優雅で過酷な関係

2009年03月08日 | 技術経営MOT
世をシノぐ知恵はどうやったらうまく身につけることができるのか?

世をシノぎイノベーションを生めるほどのキワドイ知恵を持つ人材を養成してゆくことを目的とするビジネススクールや専門職大学院にとっても切実なテーマだ。

今の世のなかは、書物、ネット、セミナー、講義など知識を得るための機会は格段に広がっている。英語がちょっとできればMITの授業資料だってタダで閲覧可能だ。

知識をアタマにいっぱい溜め込めばよいのか。いや、ちがう。知識は、大工のノコギリのようなもので、使ってナンボだ。知識は現場で酷使して、はじめてアタマから染み出して価値にもなるし身体に転移される。身につくのだ。

したがって、得た知識は現場で使い込むことが大事だ。だから現場をもっている人は勉強が進むのが早い。自分で動かしている会社、プロジェクト、研究、仕事などだ。知識を知恵に変える変換装置が「現場」なのだ。

マイケル・ポランニーではなく通俗的に野中郁次郎風に言ってしまえば、こうやって溜めこまれる現場の暗黙知のようなものだ。この暗黙知にモデルや理論を与えて現場から漉しだして、つまり形式知化してゆくと、他の人が使ったり参照したりする余地が広まってくる。

このように、専門知識と実践は弁証法的に昂進してゆく。あるいは、動学的に循環しながら発達してゆくと言ってもよいだろう。だからといって無秩序に行ったり来たりのランダムな動きではあってはならない。このあたり、ぐるぐる回る循環の根っこに一本の線を引くと考えればわかりやすい。

   Y = aX + b

   Y:実践力
   a:その人の「実践志向」係数
   X:形式知で得ることができる知識
   b:現在保有している実践力

単純明快、これ中学1年で習う一次方程式。

(b)現在保有している実践力は、学部から直で上がってくる連中よりも、まっとうな仕事経験がある社会人のほうが持ち点としてため込んでいる。

だいじなのは、(a)実践志向係数だ。この実践志向係数にはさらに2つのパラメータがある。

★パラメータ(1):シノぎ係数

大学院で得たものをどれほど身すぎ、世すぎでシノごうとしたいのか。大学院での経験をテコにして世をシノぎ世に立ってゆきたいのか。大学院で学んだものをどれだけ将来のキャッシュフローつまり得るかべしゲンナマ(キャッシュ)に変えたいのか。こういう切実な渡世感覚をシノぎ係数という。

だから、授業料は身銭を切るほうがいい。スネをかじっている奴らはどうしても甘くなる。身銭をきれば人間、切実になる。大学院で得たモノを元手にして起業して当てれば授業料などすぐ回収できる。せこくサラリーマン稼業をするにせよ、転職しても最低1.5倍の年収を目指そう。

★パラメータ(2):教養度係数

形式知を実践の場に活用する知恵を教養という。たとえば、ギリシャ・ローマに淵源する欧州の知的伝統の根幹をなす自由文芸七科目(septem artes liberales)。つまり文法・修辞学・弁証法・算術・幾何・天文・音楽だ。あるいは、日本では、徳川幕藩体制が強固な時代くらいまでは四書五経など漢籍がおおむね、教養の役割を果たしてきたが、明治維新後の近代化は、伝統的漢籍に対する洋学的教養の比較優位ポジション獲得の過程でもあった。

サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』に訳した中村正直や『学問のすすめ』を書いた福沢諭吉は新しい洋学の教養をもたらしたが、その根っこは、じつのところ、功利主義(Utilitarianism)という、いわばシノぎの思想が息づいている。その後、大正教養主義や、旧制高校のデカンショ的教養主義など、いろいろあった。刈部直が『移りゆく教養』で指摘しているように、現下日本の大学で歴然と見られる教養の衰微は、これらの教養のトラディションさえも風化させつつあるのだが。

新しい時代には、それなりの新しい教養が必要となる。そこには、現代のリベラル・アーツはいかにあるべきか?といった大きなテーマが横たわる。日本、東北アジア方面の過去の教養の来歴を踏まえるたゆたゆしい歴史感覚と、文明世界共通の英語による普遍学問の活用力の組み合わせになるのではないか?

     ***

ようは、実践志向とは、「シノぎ」に身を捧げる過酷さと「教養」を実践の場に接続する優雅さの掛算なのだ。このようなアンビバレンツなエレメントをいかに統合・再構成するのかが問われのだ。

(a)実践志向係数が高ければ、直線の角度は上がり、この直線の周りに創発する専門的知識と実践の循環の「場力」はぐんと高まってゆく。この場力の馬力がイノベーションを生み出す源泉だ。この界隈では、いかに組織や制度のありかたを活かしてイノベーションに結びつけてゆくのか、という面白いテーマが出てくる。いずれにせよ、この実践志向係数が低ければ、個人でも組織でも場の力は停滞してイノベーションは起こらない。

大きく言えば、専門職大学院の在り方だろうか。小さく言えば、ケーススタディ、プロジェクト研究、ビジネスプランニング、ベンチャービジネス戦略、アントレプレナーシップなどの実践的プログラムの在り方だろう。以上、すべからく実践という文脈に沿って再構成されなければならないだろう。

福沢諭吉のアンチテーゼ:学問=実学=サイヤンス

2009年03月06日 | 技術経営MOT
慶応とは田町駅をはさんで反対がわでイノベーション研究の田辺孝二先生と昼食をとりながら雑談。その後、上野に立ち寄って「未来を開く福沢諭吉展」へ。

たったの2500円で展示会と同じ名称の一冊が手に入るのだ。それも極めつけの一冊が。この大著は、慶応義塾大学150周年記念とあって、カラー上製印刷、431ページ、主要参考文献リスト、展示物一覧、関連年表つきだ。福沢諭吉、明治という時代を俯瞰するには格安のプラットホームのような本だ。

いやー、慶応、力が入っています。早稲田も、募金ばかりじゃなくてちゃんとした本を出版して世の中に還元してね笑)



さて福沢諭吉は外国でよく写真に納まるのが好きなスタイリッシュな好漢だった。
「学問のススメ」の十七編でも、快適な弁論・弁舌とともに表情・容貌の大切さを熱心に説いている。

諭吉は、弁論、表情、容貌にかかわる力を「人間交際」という言葉で語る。それは広い意味での「人間交際」=社会との関わりをプラクティカルに進める実学上の要請から来るものである、とするところが諭吉らしい。John Stuart Millの熱心な読者であった諭吉である。そしてもちろんミルは、Seven Liberal Arts(自由文芸七科)の系譜に立ちつつ、Jeremy Benthamの功利主義を養護し拡張した。

神仏基にまったく傾倒だに見せないカラッとした性格の諭吉はそれまでの神儒仏の系譜で語られてきた和風教養主義を退け、功利主義に立ったリベラル・アーツを説きまくった。なので、キリスト者であり、武士道を説いた新渡戸稲造は諭吉を「西洋かぶれ」と論難し、伝統的な勢力からは暗殺されかかったりもした。

自由文芸七科なんていいう用語は諭吉は使っていないが、実際のところ、諭吉は、明治の時代に新しい教養主義を実学普及の立場から説いたのだ。和漢籍を押さえている諭吉は、節々に四書五経を引用するが、徳川幕藩体制を正当化し福沢家を圧迫してきた儒教ドクトリンについては語気荒く批判した。

「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とまで書いている。

ちなみに、諭吉の原稿には学問=実学=Scienceとし、「サイヤンス」とルビを振っているのを発見。う~ん、サイヤンス。なるほど、「エ」というより「ヤ」のほうが英語の発音に近い。

Scienceをたんに「科学」と言ってしまうと、このあたりのニュアンスが消えてしまう。マックス・ヴェーバーのWissenschaft als Beruf:Science As Professionも「職業としての学問」と訳されているではないか。

いずれにせよ、諭吉の学問はそれまで、日本でデファクトだった神儒仏による和風リベラルアーツに代わって、洋学(ウェスタン・サイヤンス)の先端的思想だった功利主義を明治知識階層と勃興すべきミドルクラスに接続した。特に諭吉が重視したのは「私立の人」。私立の学校に通う人ではなく、自主独立の起業家という意味だ。いい言葉だ。




ガラス越しとはいえ、至近距離から「文明論之概略」写本を見入る。文章構成、統語法をまとった主張もスタイリッシュだ。極めつけはこの一文。

「試に見よ,古来文明の進歩,その初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし」
Consider if you will how, since ancient times, progressive steps in civilization were always UNORTHODOX at the time they were first proposed.

このメッセージは、この展示会のThesis statementとしても採用されている。慶応関係者の意気込みが伝わってくる。

異端妄説、UNORTHODOX、つまり、伝統、正統、権力と拮抗する「叛」の側から文明、そしてイノベーションは始まるのだ!はからずも昼食時のテーマと重なった。



エージェントベース社会システム論がアツい

2009年03月04日 | 技術経営MOT


もう、ずいぶん前に今田高俊「自己組織性~社会理論の復活~」を神保町の東京堂書店で買い求めて読んだ。人的資源管理のヒントにでも、と読み始めた一冊だったが、のめり込むほどの面白さだった。入門書ではなく、社会学の手ほどきを受けたことのある人のための一冊だ。

ひょんなことから、2週間ほど前に今田高俊先生にお目にかかった。感銘を受けた著者に逢うというのは読書人にとって最大級の秘めた愉しみなのだ。

仮説-演繹-反証、観察-帰納-検証、意味-解釈-了解、という整理方法から説き起こす社会科学一般の認識論あたりから、どっと深い議論となる。たしかに難解な内容ではあるが、著者の展開する論理には唐突な飛躍はなく、ロジカルに論を進めている。

T・パースンズの構造機能主義批判をきちんと押さえ、1980年代下火になっていた社会システム理論に新しい基盤を与えた意義は強烈だ。5年間の思索をかけて書き上げた1冊であると伺ったことがあるが、圧巻の「第7章は、なんと一週間たらずで書いたんですよ」とはいささか驚いた。たしかに、この章のリズムは前の章とは異なっていたので、なるほど!と思った次第。

「自己組織性」は、のちに「支援」、「ケアリング」、「互恵」、「オートポイエシス」といった概念を駆使手してポストモダンの人的資源論にまで発展させることになった著者の会心の一冊だと思われる。自己組織化という概念をベースに以下が展開される。

…散逸構造論(「ゆらぎ」を通じた秩序形成)…
…シナジェティクス(協同現象論)…
…オートポイエシス(自己創成)…

形式論理上はパラドキシカルな「自己言及」や「自省作用」を組みこみつつ、システムと環境との相互作用と未来に向かって開かれたダイナミズムを「自己組織性」を核とする新しい機能主義的社会理論を展開している。

今田先生がメンバーを務めている東工大の21世紀COE「エージェントベース社会システム科学の創出」センポジウムも圧巻だった。そこでは実験社会学とでもよぶべき、Agent Based Modeling, Agent Based Simulationが披露された。

社会科学には、実験という作法の検証、反証ができないのが限界だった。社会学のシーンでは1970年代のActorからAgentへ、そしてActionからAgencyへと概念の進歩があるのだが、実験的方法論でシミュレーションに挑むというのは、いやはや、社会学のみならず、社会科学全般の限界を打破する試みだ。このような方法論は近接する経営学やMOTにぜひとも接続しておかねばなるまい。未来を正しく予測して初めてその説の正当性が立証される。

***

ただしその接続方法には、ちょっとばかり、遊び心と歴史へのまなざしがいるように思える。

(1)江戸時代中期以降のソフトづくり=俳諧、狂歌、落とし咄、浮世絵、博物学、団扇や手拭いなどの「遊び」コミュニティと、(2)アニメ、漫画、フィギュア界隈の同人組織、マニアの世界には、同型ななにかと、そこはかとない連続性があるのだ。

★これらのコミュニティーはサービスの特化したサブカル的・草の根的なオープン・イノベーションの場である。

自己組織的
協同現象的
自己創成的

→センターによるコントロールが曖昧
→自己言及
→管理ではなく支援
→互恵(Co-happiness)?
→相互ケアリング
→サービス・イノベーション
→価値を参画的に創造( Co-creation)?
→ベンダー、ユーザ、パトロンによる循環的高度化(Co-elevation)?

***


村主章枝選手との接近遭遇

2009年03月02日 | ニューパラダイム人間学
村主章枝 インタビュー


ちょっと前に、東京駅から京葉線に乗って幕張新都心に行くときになんと村主章枝さんが僕の横に座ったことがある。

迂闊にも当初、本を読んでいて気がつかなかったのだが乗客がチラチラこちらを見ているので不思議に思った。

「オレの顔にヘンなものがついているのか?」

そう思って後ろの窓に映っている自分の顔を見ようとして顔を横にむけたら、そこに村主章枝さんがいたのだ。当時、彼女は京葉線の沿線にあるリンクを主たる練習場としていたのだ。

ギョッ!!!驚いた。なぜならば僕は村主章枝の大ファンだからだ。

彼女の自己表現は繊細、かつ情感溢れる。たしかに、浅田真央や安藤美姫にはジャンプ力などフィジカルな強さは及ばないだろう。しかし、村主選手のフィギュアに対する静かな情念の奥底にたゆたゆしく息づく自己表現欲求の率直さこそが彼女の魅力である。

彼女は、リンクの上での自己表現もさることながら英語を介しての自己表現も素敵だ。

それやこれやで、30センチメートルの距離で彼女と会話できたことは僥倖に尽きる。