限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第197回目)『自己主張と調整能力の民族マップ』

2016-12-04 23:00:43 | 日記
今から40年も前の話になるが、学生の頃ドイツに留学した時、大学が始まるまでの期間、暫くドイツ人の家庭にホームステイしたことがあった。その時に一番おどろいたのが、当時幼稚園の娘が両親に対して ― 日本流に言うと ― 何かにつけ、生意気に口答えをしていたことであった。それだけでも驚くべきことだが、一層驚いたのは、それに対して親が頭ごなしに叱っていないことだった。それどころか、親が子供の論理的矛盾や説明不足を追及して、結果的にはさらに口答えさせるように仕向けていたことだった。子供も、論理は幼稚ではあるものの、物の言い方はすでに大人の風格がにじんでいた。

もっとも、子供でも自立的なものの言い方をするのは、ドイツ人だけでない。当時(1977年、78年)ヨーロッパを旅行中、各地でこのような光景をたびたび見かけた。たとえば、ある時、アテネの公園でベンチに腰をかけると、すぐ近くで、子供が泣いているのにかまわず親が諄々と子供の悪い点を指摘している光景を目にした。子供は親の指摘に対して、泣きながらも律儀に「Yes や NO」と返事をしていた(多分イギリス人であっただろう)。さらに、同じような行動はその後、5年ほどしてアメリカ留学した時にも、ホームステイ先で見かけた。つまり、欧米の社会における子供の教育は自分の意見をしっかりと持つことを柱とする、との考えがあるということを知った次第だ。

ドイツ人の話に戻ると、学生のころドイツ語の留学試験の為に、テレビ講座やラジオ講座を真剣に聞いたり、ドイツ人の教師のドイツ語会話の授業などをかなり受講していた。それで、私としてはドイツ人をかなり知っているつもりになっていたのだが、その理解がいかに表面的であるかというのをドイツに行って強く思い知らされた。喩えて言えば、私が日本で知っていたドイツ人というのは  ― 失礼を承知の上で言うが ― 「動物園のライオン」だとすれば、本場ドイツで出会ったドイツ人は「アフリカのサバンナに棲息する野生のライオン」そのものであった。

日本にいるドイツ人は、一面では日本や日本人に批判的であっても、根底の部分では日本の価値観・社会性を評価してくれている人が多い。また、日本人の振る舞いに対して配慮してくれている。ところが、本場ドイツのドイツ人は ― 当然のことながら ― 自分達の伝統的な仕方で振る舞っているので、日本人には無礼・不作法に思えるようなことも平気でする。ドイツ人はヨーロッパ人の中でもとりわけ頑固だと言われるが、その原因を私は彼らの強い自己主張にあると睨んだ。

ただ、このように強い自己主張の個人が集まっていて、どうして国がうまくまとまっているのかという点は当時から、非常に不思議に思っていた。日本人的に考えれば、自己主張の強い個人が集まればすぐにでも喧嘩別れして、バラバラになりそうなものである。しかし、実際はそうはなっていない。原子というのは、プラスイオンの陽子同士は強く反発しているが、それを上回る核力でしっかりと押さえつけているので、原子核が一つのグループとしてまとまっている。原子のようにドイツ人は個人個人の自己主張は強いものの、それを上回る強い調停能力があるために民族・国家として崩壊せずにいるのではないか、とこのごろようやく思い至った。

一方、中東などの諸国もドイツなどと同じ位、自己主張の強い個人が集まっているが、国家としてなかなかまとまらない。その差は、ひとえに調停能力が弱いためではないかと考える。

このような関係をグラフにしたのが下図である。


自己主張の弱い民族としては、日本と東南アジアが思い当たる。

日本人は、ドイツ人と比べてみると理念や骨太の主張で人を惹き付けるという点において、どうも見劣りがする。それは日本に世界に通じる一級の哲学者がいなかったことからも分かる。私は、これは日本民族にとっては非常に良かったことではないかと思っている。つまり、理念をガンガンとまくし立て、とことん論争しないと人々がまとまらないというのは、正直、疲れる。私の実感では、日本人はそのような論争に対して精神的にドイツ人ほどタフではないように思う。従って、多少の不都合はあるものの、強い調停能力のおかげで日本の社会がうまくまとまっていたのだといえる。(一番良い例が、徳川時代の250年間続いた平和社会だ。)

一方、東南アジアをみると、自己主張の強さでは日本人と同じ程度に弱いと言えよう。しかし、国家・民族としての調停能力も弱いためにしばしば政情不安が起こっている。(例外として最近のフィリピン大統領のロドリゴ・ドゥテルテを挙げられる。)

このように世界の民族を(自己主張x調停能力)のマップで区分してみると、民主主義がうまく機能するには、調停能力が強くなければならないということが分かる。逆にいうと、調停能力の弱い民族・国家にとっては必ずしも民主主義がベストではなく、別の政治形態が相応しい可能性がある。 Afterthought(後知恵)を承知で言えば、 1990年の湾岸戦争以降、ブッシュが民主主義を広めるため、という錦の御旗を掲げてイラクのフセイン大統領を徹底的に排除したのが結果的に現在のIS(イスラミックステート)の跋扈につながったと言っていいだろう。
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想溢筆翔:(第284回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その127)』

2016-12-01 20:50:48 | 日記
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【226.風塵 】P.3831、AD431年

『風塵』とは物理的な「かぜ、ちり」の意味ももちろんあるが、辞源(2015年版)には「流言蜚語(飛語)」の意味もあるという。現代風にいうと『風塵』とは風で飛ばされる程度の「軽いデマ」ということになろうか。



二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、上の表のように初出は漢書であることが分かるが、実質的には後漢書から使われていると考えていいだろう。さらにこの表をみると、晋書が突出して多い(27回)。そして、唐以降はあまり使われていないことも分かる。つまり、六朝人に好まれた熟語であったということだ。


【出典】ziggysart2 ID: 201503261400

デマの意味で「風塵」が用いられている例を紹介しよう。時は、南北朝時代で北には北魏(太武帝)、南には宋(文帝・劉義隆)があり、対立していた。北魏に善政を敷いた地方官・王慧龍という人物がいたが、宋にとっては目の上のたんこぶであった。どうにか亡き者にしたいと宋の文帝が策略をかけたが。。。

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魏の太武帝は王慧龍を滎陽の太守に任命した。王慧龍は地方官として十年間、善政を敷き、農業も軍備もどちらも非常によく整った。安定した生活が営めるとの噂が広まり、一万戸もの人(約10万人か?)が集まってきた。それを聞いた宋の文帝は何とかして敵方の勢力をくじこうとスパイを魏に送り次のような噂を広めさせた。「王慧龍は大きな功績があるにも拘らず、位が低いままなのに不満をもっている。秘かに宋の軍隊を引き入れて、上官の司馬楚之を縛り上げ、反乱を起こそうとしている。」

魏の太武帝はこの噂を聞いて王慧龍にじきじき次のような内容の手紙を送った。「宋の文帝(劉義隆)は貴卿を虎のように恐れていて、何とか同士討ちさせようとあがいていること位、ワシにはお見通しだ。風塵の噂など気にかける必要などないぞ。」

宋の文帝は、噂作戦が失敗したので、今度は呂玄伯という刺客を送って王慧龍を暗殺させようとして「王慧龍の首を取ってきたなら、二百戸の領地と、絹千匹を褒美として与える」と約束した。呂玄伯は逃亡者を装って魏に行き、王慧龍に面談し、極秘の情報をお伝えしたいので、人払いを願った。王慧龍は怪しいヤツだと思い、呂玄伯の身体検査をさせたところ、懐から小刀が見つかった。呂玄伯は潔く「殺してくれ」と言ったが、王慧龍は「人は主人のために尽すものだ。」といって放免しようとした。王慧龍の部下たちはそれに反対して「宋の文帝はこれからも暗殺を企むことでしょう。呂玄伯を殺さなかったら、これからも続々と暗殺者がやってくることでしょう。」と諌めたが、王慧龍は気にせず「死生は天命によるものだ。暗殺者なんぞがワシを殺せるものか!仁義を防護服とすれば、何も恐れる必要はない。」と言って、予定通り呂玄伯を釈放した。

以王慧龍為滎陽太守。慧龍在郡十年、農戦並脩、大著声績、帰附者万余家。帝縦反間於魏、云「慧龍自以功高位下、欲引宋人入寇、因執司馬楚之以叛。」

魏主聞之、賜慧龍璽書曰:「劉義隆畏将軍如虎、欲相中害;朕自知之。風塵之言、想不足介意。」

帝復遣刺客呂玄伯刺之、曰:「得慧龍首、封二百戸男、賞絹千匹。」玄伯詐為降人、求屏人有所論;慧龍疑之、使人探其懐、得尺刀。玄伯叩頭請死、慧龍曰:「各為其主耳。」釈之。左右諌曰:「宋人為謀未已、不殺玄伯、無以制将来。」慧龍曰:「死生有命、彼亦安能害我!我以仁義為扞蔽、又何憂乎!」遂捨之。
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資治通鑑ではこの節は「遂捨之」で終わっているが、原文の『魏書』ではさらに「時人服其寛恕」(時人、その寛恕に服す)という文が続く。王慧龍の寛大さに皆が敬服したというのだ。世知辛い南北朝の時代に、王慧龍のような大度な人を見ると一掬の清涼感を感じる。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第68回目)『暗いトーンの資治通鑑にも、一掬の清涼感』

続く。。。
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【麻生川語録・43】『知的関心係数』

2016-11-27 22:01:48 | 日記
良く知られているように、エンゲル係数というのは全生活費に占める食費の割合という単純な比で、家計の豊かさ/貧しさを表わすことができる。確かにこの指数は生活の状況の細部まで知ることはできないものの、家庭の状況をざっくりと知ることはできる。

この手法を流用して、人が知的に活き活きしているかどうかを示す指標を考え、「知的関心係数」と名付けた。
 知的関心係数 = (知識欲 / 蓄積された知識)



誰でも蓄積された知識は持っているので、分母がゼロになることはない。また、誰でも多かれ少なかれ何かを知りたいという欲望はあるので、この係数はゼロ以上の正の数値となる。もっとも、この係数は分母と分子の尺度(単位)が異なるので数学的に考えるとおかしいので、知識欲をたとえば過去1年間に蓄積された知識量と読み換えてもよい。(後の議論をし易しくするために、分子に適当な係数をかけて正規化しておくことにしよう。)

さて、新しいものごと(あるいは新しい恋人)に対して、始めのうちは強い関心をもつものの、知識が溜まってくるとその内に感心が薄れてくるのは人情だ。漢語では、このように徐々に減少することを「逓減」という。新しい物事だけでなく、歳をとってくると、分母の「蓄積された知識」は増えてくるので、以前と同じ知識欲であれば、この知的関心係数は相対的に小さくなる。この係数について、観念的に分母と分子の比を考えてみると、関心の度合いによって次の2つのケースが考えられる。
  知的関心係数 > 1.0  -- 歳とともにますます知識が増える
  知的関心係数 < 1.0  -- やがて物事・知識に対して不感症になる 


(上で述べたように、この係数は数学的には正しくないことを承知の上でいうと)関心係数が  1.0より小さい場合は、始めのうちは気付かないが、年とともに次第に物事に対して不感症になっていき、ついには自分の日常的な範囲以外のことに対して興味を持たなくなってくる。

それが最もよく分かるのは、何十年ぶりかで同窓会に出た時だ。学生時代には溌剌と活発な議論をしていた人でも、中年を過ぎて会ってみると、健康や年金など、老後の心配事や学生時代の昔話など、極めて陳腐な話題に終始する人がいる。上の図式でいうと本人が気付かないうちに、知的関心係数がいつの間にか 1.0 を下回っていたのだ。そういった生活を長らく続けていると、新たに知識が蓄積するどころか若い頃に蓄積した知識ですら徐々にぽろぽろと剥落して、中年になると知的には全く面白みのない、無惨な姿となってしまう。

後漢の武将・馬援の言葉に「老当益壮」(老いてはまさにますます壮(さか)んなるべし)と言うのがある。この言葉になぞらえて言えば、― 自分自身の励ましも込めて言うのであるが ―「老当益啓」(歳とともに知識が蓄積されればされるほど、より一層旺盛な知識欲を持つべし)。

本ブログのタイトルでもある「限りなき知の探訪」が看板倒れにならないように、体の健康だけに留意するのなく、知的にもいつまでも若々しく生きたいと願う。
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想溢筆翔:(第283回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その126)』

2016-11-24 22:45:53 | 日記
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【225.顛覆 】P.2308、AD235年

『顛覆』(てんぷく)は現在では、「転覆」と書くが、意味はおなじく「倒れる・くつがえる」である。紀元前の詩経、楚辞などにも見えるので、非常に古い単語であることがわかる。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると不思議なことに史記には見えない。さらに、近代になるとあまり使われなくなっていることも分かる。どうやら『顛覆』は、宋の頃には賞味期限が切れた単語となっていたようだ。



さて、資治通鑑で使われている場面であるが、魏の曹操の孫、明帝(曹叡)が高い塔を建てようと計画したが、臣下の楊阜が費用のかかる無用の長物を作るのは亡国のもとだと過去の聖人と暴君の例を引きつつ戒めた。

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楊阜が、また上疏した。「古代の聖人、尭はわらぶきの家に住んだので、世の人々は安心した生活が営めました。同じく聖人の禹の宮殿も粗末だったので天下の人は自分の仕事に励むことができました。殷や周の時代には、堂の土台の高さは1メートルで、広さは蓆(むしろ)が九枚しか敷けないほどの狭さ(10畳ぐらいか?)でした。

一方、暴君の桀は美玉の部屋と象牙の廊下、同じく暴君の紂は豪華な宮殿や塔、を作ったので滅亡しました。楚の霊王は大規模な宮殿建築をしたので、民の反乱で国を追い出されて死ぬ羽目になりました。秦の始皇帝は阿房宮を作ったので、二世にして滅びました。民の耐える限度を弁えず、自分の欲望のままにして滅びなかった者はいません。

陛下は尭、舜、禹、湯、文、武の聖人を手本とし、夏の桀王、殷の紂王、楚の霊王、秦の始皇帝を戒めとなさって下さい。安楽を恣にして、宮殿を飾り立てれば必ず国家転覆の危機に陥ります。君主は頭、臣下は足です。君臣は生きるも死ぬも、損得も一緒の運命共同体です。私は愚鈍ではありますが、諫言はせずにはおられません!…」

阜復上疏曰:「尭尚茅茨而万国安其居、禹卑宮室而天下楽其業;及至殷、周、或堂崇三尺、度以九筵耳。

桀作璇室象廊、紂為傾宮鹿台、以喪其社稷、楚霊以築章華而身受禍、秦始皇作阿房、二世而滅。夫不度万民之力以従耳目之欲、未有不亡者也。

陛下当以尭、舜、禹、湯、文、武為法則、夏桀、殷紂、楚霊、秦皇為深誡、而乃自暇自逸、惟宮台是飾、必有顛覆危亡之禍矣。君作元首、臣為股肱、存亡一体、得失同之。臣雖駑怯、敢忘争臣之義!…」
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楊阜のこのような強い諌言に、明帝は感銘を受け、自ら返事を書いた(帝感其忠言、手筆詔答)。



ところで、上の文でも見えるように、中国では、聖人と言えば、必ず尭舜禹湯文武(ぎょうしゅんうとうぶんぶ)の6人が挙がる。一方、暴君といえば「桀紂幽厲」(けっちゅうゆうれい)が相場であるが、ここでは秦・始皇帝が入れられている。このような聖人と暴君の固定化に関して、私は疑念を抱いている。この点については私の本『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』では次のように述べた。

易姓革命の論理では、王朝が代わるのは前の王朝の寿命が尽きたからで、新たな王朝を築けと天から命を受けた人が現れる。そのためには前王朝の最後の帝王はいずれも暗愚でなければ辻褄が合わない。

全くハリウッド映画そのもので、正義の味方(good guy)が颯爽と登場するためには必ずその前に悪役(bad guy)がさんざん暴れていなければいけないとしたものだ。中国の歴史を読むと王朝や政権交代の変わり目にはこのワンパターンのドタバタ劇が繰り返し上演される。後世の歴史家は、いわば欠席裁判でこれら暴君を断罪するが、その悪行の幾分かは真実を反映しているものの、全面的に信用することは差し控えなければいけないと私は考える。それはあまりにも類似のパターンが多く、文章にも何かしら作為的な臭いを感じるからである。

これだけでなく、中国の古典に見られる定型表現の中には必ずしも歴史的事実に基づかない事柄もあると、認識しておくべきだと私は考える。もっとも、こういった傾向は何も古代に限るわけでなく、現代でも見られる。中国政府のいろいろな発表を見ても、都合の悪い事は事実を歪曲して報道するのに、いささかの恥じらいも感じるどころか、却って事実の報道の方が間違っている感を抱かせる。さすがに「虚」文の国だけある。

続く。。。
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百論簇出:(第196回目)『文化のイラストマップ』

2016-11-20 22:51:36 | 日記
不正確なものと正確なものとがあったとしよう。例えば、物差しでも、秤(はかり)でも、あるいはニュースや教科書でも何でもよい、このどちらを選ぶと言われたら、誰でも躊躇なく「正確なもの」を選ぶだろう。しかし、いつもいつも正確なものがよい、あるいは物事の本質を表わすとは限らない。

たとえば、絵画の一つの形態にカリカチュアというものがある。人の特徴を捕えて、多少誇張気味に描くことで、写実的に描くものより一層、その人をよく写すことができる。実際に、下記の絵を見ると私のいう意味がお分かり頂けるだろう。


【出典】カリカチュア・ジャパン株式会社(Kageさんの作品)

絵だけでなく、地図にも正確なものと不正確なものとがある。例えばイラストマップでは、距離や方角は正しくはないが、初めての土地を観光する際には観光スポットなどをすぐに見つけることができ、正確な地図よりずっと役立つ。しかし、イラストマップで土地の売買をする人はいないだろう。つまり、正確な地図とイラストマップはそもそも目的が異なるのだ。ざっくりと全体を見渡すには、おおざっぱで多少不正確でも、イラストマップの方が、正確な地図よりずっと良いという事だ。

ところで、私はリベラルアーツに関する講演や企業研修を引き受けることが多いが、その時に歴史的なことも含め、いろいろなテーマについて話すが、この時に心がけていることがある。それは聴講者が『文化のイラストマップ』を頭の中に描くことができるように話すことである。

例えば、高校の歴史の授業を思い出して欲しい。歴史といえば、必ず年号や人名、戦争や条約などについて、実に多くのことを記憶したことだろう。それもあやふやなな記憶ではだめで、正確にきちっと記憶することが求められた。その結果、詳細なことがらは記憶したものの、全体的な意義(例えば、ルネッサンス、宗教改革、モンゴル帝国)などはまるっきり分らず仕舞い、あるいは考えたこともないまま終わっていたのではないだろうか。部分部分は完璧でも、それを組み立てることができない出来そこないのレゴのようだ。

高校の歴史教育のこの不自然さは、記憶するのはすべて大学受験のためという歪曲された目的意識によるものだが、高校を卒業したあとでも、「歴史とはこのような年号、人名などの詳細の正確さにこだわることだ」との考えから脱却できていない人がいる。残念ながら、この点においては、日本人の几帳面さが逆に裏目に出ている。

学生のころ、おぼろげながら上記に述べた高校教育の欠陥に気づいていたものの、方法論的にはどうすればよいか、確たる考えがもてなかった。しかし、今、確実に言えるようになった。それは、リベラルアーツの観点から世界各地の文化を包括的に俯瞰した場合、細部の正確さに拘らず、多少不正確やデフォルメでもいいから『文化のイラストマップ』というビッグピクチャー(big picture)を自分なりに描くことが重要だということだ。

その為には、本を読むときには年号や人名などを覚えようとせず、物事の歴史的意義を考えるという方向に意識を向けることだ。そして多元的に見ることだ。歴史的事実とは、単に政治経済、戦争だけでなく、生活そのものである。従って、その時代感覚(『手触りのある歴史観』 『手ざわりのある歴史観』)を得るために、生活誌的観点の本(例:『生活の世界歴史』 河出書房新社)を読むことを勧めたい。

本来的に歴史というのは、過去の人たちの生活を記したものだという観点に立てば、全ての事柄は当時の人々の生活と密接な関連をもっているというのは、口にするのもバカらしいほど当たり前のことである。私は常々、「リベラルアーツとは文化のコアをつかむことだ。そこから、自分なりの世界観と人生観を作りあげることだ」と述べているが、文化のコアをつかむためには当時の人々の生活を基軸としてさまざまな社会現象 ― 政治、経済、貿易、科学、技術、芸術、工芸、風俗、など ― を総合的・多面的にとらえることだ。こういった観点で、歴史を学び直すことは社会人にとって非常に意義のあることであろう。そのためには、まずは大学入試に出てくるような歴史的な枝葉末節に拘泥する「几帳面な日本人」を一度止めてみてはどうだろうか?
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想溢筆翔:(第282回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その125)』

2016-11-17 22:48:46 | 日記
前回

【224.徐行 】P.214、BC238年

『徐行』の「徐」は辞源(1987年版)には「緩慢」とある。従って『徐行』とは文字通り「徐(おもむろ)に行く」となる。『春秋公羊伝』(僖公27年、BC 632)にも見えるので、非常に古い単語であることが分かる。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下記のように、古代ではかなり使われているが、近代になるとあまり使われなくなったことが分かる。現代中国語では「爬行」や「慢行」と言うようだ。



さて、資治通鑑で『徐行』が使われている初出の場面は秦の始皇帝が登場する。(当時、始皇帝はまだ秦王であったが、本論では始皇帝に統一する)

始皇帝の母親(太后)は、呂不韋(文信公)の愛人で、噂では妊娠してから始皇帝の父・荘襄王に献上されたので始皇帝は呂不韋の息子だという説もある。太后は荘襄王の妃となってからも呂不韋と密会を重ねていた。いつかこれがばれることを恐れた呂不韋が身代わりに嫪毐を太后に差し出した。太后は妊娠して嫪毐の子供を2人まで生むようになった。それで驕慢になった嫪毐は自分こそが秦の王になるべきだと考え、始皇帝を排除しようと挙兵したが、あっけなく敗れた。始皇帝は、嫪毐だけでなく2人の子供を含め、嫪毐の一族を皆殺しにした。一連の騒乱で、殺されたり僻地へ追いやられた家族は 4000軒にも上るという。極めて過酷な処罰が数万人に下された。始皇帝の実母の太后も幽閉された。

実母にそのような過酷な処置は不当だと、始皇帝を非難する上書を奉った儒者たち、27人が処刑された。それにも拘らず茅焦は始皇帝を諌めようと宮殿に赴いた。

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斉人の茅焦が始皇帝に面会して諌言したい言った。始皇帝は使いを送り、茅焦に「お前は闕下に積み上げられた死者を見なかったのか?」と問わせると、茅焦は答えて言うには「天には二十八宿がありますが、現在までのところ死者は27人で一人足りません。私は最後の28人目になりたいと存じます。死を恐れるものではありません!」使者が走り帰って始皇帝に告げた。茅焦の横で聞いていた同郷や同宿の者たちは、真っ青になって自分の持ち物をもって一目散に逃げ散った。始皇帝は怒り狂って「こいつめ、わざとワシを怒らせにきたのだな。さっそく召し取って釜ゆでにしてくれん。闕下に積むまでもない!」始皇帝は剣に手をかけて憤怒の形相で椅子に座って、口から泡をぶくぶくと出しながら待っていた。使者が茅焦を召し入れたが、茅焦は徐行して進み、拝礼をしてから起き上がって言った。。。

斉客茅焦上謁請諌。王使謂之曰:「若不見夫積闕下者邪?」対曰:「臣聞天有二十八宿、今死者二十七人、臣之来固欲満其数耳。臣非畏死者也!」使者走入白之。茅焦邑子同食者、尽負其衣物而逃王。王大怒曰:「是人也、故来犯吾、趣召鑊烹之、是安得積闕下哉!」王按剣怒而坐、口正沫出。使者召之入、茅焦徐行至前、再拝謁起、称曰。。。
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まるで、劇の一コマのような迫真の描写ではないか! ただし、実際にこのような場面があったかどうかは、保証の限りではない。というのは、史記には太后が幽閉されたが、茅焦の説得によってまた宮殿に迎えたとの説明が2行程度あるだけだ(『史記』巻6・秦始皇本紀)

資治通鑑は史実の厳密な考証で有名であるが、ところどころにこのような所謂「稗史」(はいし・民間の噂話)から取ってきた眉唾ものの文章も混じっている。私は、学識深い司馬光ならこの部分の文章は必ずしも史実ではないことぐらいは百も承知であったと想像する。しかし、史書というのは必ずしも fact だけを淡々と伝えるのではなく人間としての生き方、統治者としてのありかたを示すべき書だと考えていた司馬光は、このような文章を挿入することで自分の意図をはっきりと伝えようとしたのではないか、と考える。



ちなみにこの部分は、劉向の『説苑』に基づいていると思われる。『説苑』では一層あざやかに、ドラマチックに描かれている。断片的ではあるが、まるでシェークスピアの劇を見ているようだ。

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 『説苑』(巻9・正諫)

始皇帝は剣に手をかけ、座っていたが、怒りで口からは泡をぶくぶく出していた。使者が茅焦を召し入れた。茅焦はあえて小走りに走らず、足をゆっくりとあげながら進んだ。使者が茅焦にもう少し早く歩くように諭すと、茅焦は「私が一歩進めばそれだけ死に近づくことになります。私の残りすくない人生を認めてもらえまいか?」これを聞いて、使者は悲しみに耐えきれなくなった。茅焦は始皇帝の前まで進むと、拝礼をしてから起き上がって言った。

皇帝按剣而坐、口正沫出。使者召之入。茅焦不肯疾行、足趣相過耳。使者趣之。茅焦曰:「臣至前則死矣、君独不能忍吾須臾乎?」使者極哀之。茅焦至前再拝謁起、
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一般的に漢文というと「難しい」「教訓的」「かび臭い」と思われがちだが、先秦時代(特に戦国時代)の文章にはこのように、写実性豊かな文章が多い。世評はいざ知らず、私は『説苑』の漢文は名文だと思っている。中国人の自由な思想と発想が盛りだくさんの『説苑』は私の愛読書の一つである。

続く。。。
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【座右之銘・98】『ανασκευη τησ επιθυμιασ』

2016-11-13 19:47:04 | 日記
以前のブログ
 沂風詠録:(第39回目)『ストイック=禁欲主義、の誤解』
で「解脱」という思想は、仏教の専売特許でないことについて次のように述べた。

欲望からの脱却というのは所謂『禁欲』とは異なる。禁欲とは、学生が大学受験が終わると、遊び呆けるように、あるいは、健康診断が終わるまで、断酒するが、検査が終わると、がぶ飲みするように、したいことを我慢している状態を指す。このような禁欲は単に一時的に抑圧しているだけで、欲望そのものが無くなっている訳ではない。それに対して、ストア派もエピクロス派、そして仏教も掲げている『欲望からの脱却』(解脱)というのは欲望そのものが消滅する状態をさす。端的には、『吾唯知足』の四字で表現される境地がそれだ。


この点について、セネカやマルクス・アウレリウスと並んでストア派の巨匠であるエピクテトスの本 "Discourses" (Loeb, 日本語訳タイトル:『人生談義』)の中では次のように説明されている。

【原文】 Διατριβαί/Βιβλίον 4 (Book4, 175)


【私訳】欲望を満たすことでは(モノから)自由になれない。欲望を滅却することで始めて自由になれるのだ。
【英訳】for freedom is not acquired by satisfying yourself with what you desire, but by destorying your desire.



ところで、『欲望の滅却』は原語(古典ギリシャ語)では「ανασκευη τησ επιθυμιασ」と書かれている。英語に直訳すると「 destruction of desire」となる。ここに見える初めの単語、ανασκευη(anaskeue)は分析的に考えるとチョットひっかかる単語だ。というのは、anaskeue= ana + skeue となるが、ana は英語でいうと[on, upon] など、「上の方向に」という意味を持つ。 skeue は[equipment, attire, dress] など、身に着けるもの、という意味がある。従って anaskeue は理論的には「着物の上に羽織るモノ」となるはずだが、辞書でひくと、逆に「捨て去る」という意味である。

anaskeue をギリシャ語の語源辞書、"Dictionnaire étymologique de la langue greque" (Pierre Chantraine) で調べても載っていないので、言語学的にはどういう風に説明しているかは分らないが、私が勝手に想像するに、anaskeue とは、「着ているものを上へ放り投げる」というようなニュアンスではないかと感じる。この想像が正しいとすると、欲望とは、ごしごしと削って落すものではなく、一度にぱあーっと放り投げて綺麗さっぱりとなくすものだ、ということをエピクテトスは言おうとしていたのではないだろうか。
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想溢筆翔:(第281回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その124)』

2016-11-10 19:32:55 | 日記
前回

【223.震駭 】P.1268、AD24年

『震駭』とは文字通りに訳すと「ふるえ、恐れる」ことになるが、論理的に考えると、生理学的には逆の順序、つまり恐れが震えを引き起こす、はずだ。しかし、なぜこのように順序が逆の表現になったのか?学術的にはどう説明されているかはさておき、私なりに考えるに、単なる口調 ― 発音だけでなく、四声のリズム感覚も含めて ― の問題に過ぎないのではないか。

逆の順序でも意味内容が全く変わらないとすれば、当然のことながら口調が良い方を多く用いられることになる。実際、この2つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のように、圧倒的に(20倍!)『震駭』の方が多く使われている。



ついでに言うと、以前から私は『士農工商』の内、士(士大夫)は先頭に来ることは必然として、つぎの3つの職業の順序もたぶんに口調によって決まってきたのではないかと考えている。とりわけ「工商」はどちらが先でも良かったのだが、口調の関係でこのようになったのだと推測する。

さて、資治通鑑で『震駭』が使われている場面であるが、後漢の建国者、劉秀が呉漢に命じて流賊を撃たせるところである。

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蕭王(劉秀)は流賊を撃とうと思い、呉漢と耿弇を二人とも大将軍に任じ、正式の使者の証を持たせて(持節)、北方の幽州十郡の突騎を徴発した。苗曾はそれを聞くと、秘かに諸郡に徴発に応じないよう命令を下した。呉漢はわずか二十騎ばかりの兵を率いてまず、無終に到着した。苗曾が呉漢を出迎えると、呉漢は有無を言わせず縛って斬った。一方、耿弇は上谷に到着すると、同じく韋順、蔡充を捕えて斬った。北の州の人たちは、震駭した。このようにお膳立てが済んで、呉漢と耿弇は住民に総動員をかけた。

蕭王欲撃之、乃拝呉漢、耿弇倶為大将軍、持節北発幽州十郡突騎;苗曾聞之、陰敕諸郡不得応調。呉漢将二十騎先馳至無終、曾出迎於路、漢即収曾、斬之。耿弇到上谷、亦収韋順、蔡充、斬之。北州震駭、於是悉発其兵。
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日本の戦国時代の感覚では大将が斬られたからと言って、すぐさま兵隊たちが、文句も言わずに別の将軍の指揮下にはいるというのはあり得ないように思えるかもしれない。しかし、中国の兵卒の大部分は庶民の寄せ集めであるので、誰が将軍となってもあまり気にしなかったようだ。こういった背景が分かると、中国ではすぐに何十万人もの兵を集めることができ、また大人数の割にはあっけなく総崩れになる、ということが納得できる。

さて、わずか20人で苗曾の軍隊をそっくりと取り込んだ豪胆な呉漢であるが、後漢書の巻18に伝がある。それに拠ると呉漢は若い頃から「奇士也、可与計事」(奇士なり、ともに事をはかるべし)との評を受けていたことが分かる。

さらに、劉秀の名参謀の鄧禹からも次のように絶賛されている。「度々、呉漢と話をしましたが、度胸もあり、知恵もあります。彼のような将軍はほとんどいません」(閒数与呉漢言、其人勇鷙有智謀、諸将鮮能及者)

このように誉められている呉漢であるが、言葉数は至ってすくなかった(漢為人質厚少文、造次不能以辞自達)。呉漢に古武士の面影を感じる。

続く。。。
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惑鴻醸危:(第57回目)『禁じ手の日本経済復活策』

2016-11-06 22:03:01 | 日記
論語と言えば、一般的には孔子の言行録といわれ、いつもいつも孔子が主人公であるように考えるかもしれないが、部分的には、孔子が脇役、更に言うと、引き立て役に回っているケースも間々見られる。例えば『論語』(微子篇)には狂接輿という人物が登場する。

楚の狂接輿、歌いて孔子を過ぎて曰わく:「鳳よ! 鳳よ! 何ぞ徳の衰えたる? 往く者は諌むべからず、来たる者は猶お追うべし。已みなん、已みなん!今の政に従う者は殆し」孔子下りてこれと言わんと欲す。趨りてこれを辟く、これとともに言うを得ず。

 (楚狂接輿歌而過孔子曰:「鳳兮!鳳兮!何徳之衰?往者不可諌、来者猶可追。已而、已而!今之従政者殆而!」孔子下、欲与之言。趨而辟之、不得与之言)

【要約】狂接輿は孔子の傍を、通り過ぎざま「お前は、周の礼楽を復興しようと努力しているが、結局は、徒労に終わるだけだ」と揶揄し、足早に去った。

狂接輿は賢者でありながら狂人のふりをして、ちくりと本質を指摘したのだ。こような人物を日本で探せば、さしづめ曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)であろうか。秀吉が四国攻めの日程をしばしば変更するのを 「太閤が四石の米を買いかねて、きょうも五斗買い(御渡海)あすも五斗買い(御渡海)」とからかった。

バカか狂人の振りをして、辛辣な指摘をする人はシェークスピア劇では、しばしば clown として登場する。そもそも私がシェークスピア劇(Shakespeare)を始めてみたのは、アメリカ留学時にユタ州でホームステイしていた時だったことは以前のブログ
 沂風詠録:(第120回目)『子供も大いに楽しめるシェークスピア劇』
に書いた。日本では英文学科の学生がしかめつらして、一文一文を丹念に、あたかも暗号解読のように読むものだ、との先入観はこの時の経験で跡形もなく吹き飛んだ。カーネギーメロン留学時に夏の授業では、シェークスピアの授業を取ったがこの時、授業準備とテスト準備のためにほとんどの作品は読み、更に主な作品は2、3回通読した。

私の好みは、シリアス物(悲劇)ではなく、喜劇である。私の素人的判断では、シェークスピア本人は自身の喜劇作品によく登場する、クラウン(clown, 道化師)的な滑稽味があり、諧謔を好む人だと感じる。というのも、所謂、四大悲劇といわれる『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』や史劇の『ヘンリー四世』などにも、道化役が登場して、場を和らげてくれる。日本のドタバタ劇と比べてウィットに効いたセリフがシェークスピアの持ち味と言っていいだろう。例えば、As You Like it (お気に召すまま)で第5幕第1場ではTouchstone が:
 
The fool doth think he is wise, but the wise man knows himself to be a fool.
 (愚者は己を賢者と考え、賢者は己の愚かさを弁える)

さりげなく言い添え、直後にナンセンスギャグを放つ。

The heathen philosopher, when he had a desire to eat a grape,would open his lips when he put it into his mouth, meaning thereby that grapes were made to eat and lips to open.
 【要約】ギリシャの哲人が葡萄を所望する時、口を開け葡萄を口に放り込む。よって、葡萄は食べらるべく、口は開けらるべし。



さて、このような clown がもし、最近の日本経済の停滞ぶりを見るなら、想像するに次のようにいうだろう。

「消費者がモノを買わないので、日本経済が立ち直らないというなら、年金の不正受給、バクチ、横領、窃盗、などをどしどし奨励すればいい。なぜなら、不正受給やバクチは暴力団の資金へと流れる。横領や窃盗で得た金は手堅い貯金などには回らず、必ずや遊興に化ける。いずれにせよ、こういった金を『不当に・不正に』手にした連中は、きっと本来の保持者より、手切れよく、派手に使うはずだ。つまり、それだけ日本全体の消費・購買が増えることになり、結果的に日本経済は活性化するのであーる。」


確かに、日本の人口の高齢化が進み、また個人資産の大部分が老人によって保有されている現在、消費購買欲を活性化するには、clown の言うように、あとさきを考えずにぱあーっと使いきってしまう輩の手を借りないといけないだろう。  Touchstone がギリシャの賢人の言葉として挙げた言葉を借りるなら禁じ手かもしれないが日本経済復活策は次のようになろう:
 「国家経済の活性を所望する時は、金を浮華なる人に回り巡らし、浪費させる。よって金は盗まるべく、浪費は奨励さるべし」

黒田氏も、今となっては「2%物価上昇論」が実効のともなわない虚説だと判明したのだから、打つ手がないのなら、禁じ手を使うのも一案と考えてみてはいかがかと愚考する次第であるが。。。
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想溢筆翔:(第280回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その123)』

2016-11-03 20:53:14 | 日記
前回

【222.当然 】P.1666、AD133年

『当然』を英語に訳すと、「certainly, without doubt」となるが、訓読すると「当(まさ)に然るべし」となるので、「as it should be」の訳が最適であろう。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると後漢書が初出であるので案外と新しい単語であると分かる。資治通鑑では9回見られるが、その初出の部分を見てみよう。

時は、後漢の順帝の時代、順帝の乳母の宋娥(以下、文中では宋阿母、あるいは単に阿母)が侯に封じられた。これに対して、儒者たちが反発した。その理由は、前漢の劉邦が定めた「非劉氏不王、非有功不侯」(劉氏以外の姓は王にしてはならない、功績がない者は侯にしてはならない)という掟に反するという理由であった。

しかし、論理だけでは動かないのが中国の帝王だが、好都合(?)なことに、地震のせいであろうか、地面に 200メートル(85丈)にもわたって大きな亀裂ができた。天人合一思想を信じていた古代の中国人にとっては、これは政治に対する天からのイエローカードであると受けとった。順帝はイエローカードにびびって、臣下や儒者たちから意見を求めた。この時、李固が次のように述べて、順帝の誤りを指摘した。

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…宋阿母の陛下にたいする功績は大きく、まめに仕えていると言っても、それだけならボーナスをはずむことで、その苦労に報いればいいはずです。しかし、一国を分け与え、封侯するなどとは、実に我が漢の伝統に反することです。仄聞するところによると、阿母自身はまことに謙虚な方で、必ずや今回の封侯は辞退されるに違いありません。陛下、どうかその辞退を受け入れ、宋阿母が安心できるようになさって下さい。今までの歴史を見ますと、后妃の家で、長く続いている家は至って少ないのは、もともとそういうもの(当然)なのでしょうか?そうではなく、爵位を受け、高貴な身分になると、つい傲慢になり権力を独り占めしようとし、悪事の限りを尽くすのですが、それが我が身にふりかかるとは知らず、結局は破滅してしまうのです。

…今宋阿母雖有大功、勤謹之徳、但加賞賜、足以酬其労苦;至於裂土開国、実乖旧典。聞阿母体性謙虚、必有遜譲、陛下宜許其辞国之高、使成万安之福。夫妃、后之家所以少完全者、豈天性当然?但以爵位尊顕、顓総権柄、天道悪盈、不知自損、故致顛仆。
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李固はじめ、多くの儒者が宋阿母の封侯に反対の意見を述べたので、順帝も任命を撤回した。


 【出典】《泰山松雲》

このように、中国では天災がある都度、朝廷や王宮の中に何らかの不祥事がないかを検討することが頻繁に行われる。つらつら考えるに、天災などはしょっちゅう発生しているのだから、官僚や儒者たちはこの時に、普段から言いたかったことを思い切って述べることができた訳だ。好都合なことに、中国の朝廷や王宮では不祥事の絶えることがなかった。

理論的には、まったく箸にも棒にもかからない、きわめつきの、がらくた理論である「天人合一思想」(天人相関説)は、図らずしも「言路を開く」(言論の自由)という用途には ― 全く、怪我の功名と言うしか他ないが ― 非常に威力を発揮したということになる。

さて、現在(2016年11月)、韓国では、朴大統領の友人(あるいは、グル?)の崔順実(チェ・スンシル)が逮捕されて大騒ぎとなっているが、上の文を読んでいると、「何とまあ、2000年も前から、崔順実の運命がぴったりと予言されていたことよ!」と感嘆せざるをえない。李朝の宮廷ドラマの現代実写版とも言える、韓国のソープオペラは、これからもまだまだ続くことだろう。 Stay tuned!

続く。。。
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