限りなき知の探訪

三十年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第71回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その6)』

2012-05-31 18:52:35 | 日記
 『1.06  敵に囲まれた危急事態でも部下と労苦を共にする。』

ドイツへの旅行者の多くは、ロマンティック街道にあるローテンブルクを訪問するだろう。そして、分厚い城壁をくぐり街中に入り、落ち着いた中世の佇まいにうっとりとすることであろう。しかし、先ほどくぐった城壁は何も情緒を醸すための飾り道具などではなく、市民の命と全財産が懸っていた最後の防御壁であったことを思い起こすと感じ方も異なるはずだ。

ローテンブルクに限らずヨーロッパの都市はたいてい城壁に囲まれている。城壁はヨーロッパのみならず、中東、インド、中国、朝鮮など、かつての文明国の都市には必ず見ることができる。文明国でありながら、都市に城壁が無かった国は日本ぐらいなものだ。

日本では、都市全体を城壁で守るという発想は昔から無かった。遣唐使で数多くの日本人が中国や朝鮮の地で城壁を目にして帰ってきたはずなのに、日本では城壁のある都市が作られたことはなかった。

中世になって、城という戦士の館だけが、濠や石垣で守られるようになった。城壁は大阪城や熊本城のように壮大さを誇示するために特別に念入りに作られたのを除いては恒久的な耐久性は乏しかったように思える。例えば、太平記の一つの見せ場である、千早城の攻防では城壁の堅固さで防衛したというより、楠正成の奇想天外の策略によって鎌倉軍が攻めあぐねたにすぎない。

一方、ヨーロッパや中国の城壁が堅固で聳え立つばかり高さを誇っているのは、城内の何千人、否、何万人もの生命や財産を守るためである。戦争ともなれば、都市が丸ごと攻撃されるので、戦闘員であろうと、一般民のような非戦闘員であろうと関係なく生命の危機にさらされるのだ。その為に、城壁はどのような攻撃にも耐えるように強固に作られている。それで攻める方も攻城道具の準備にも時間がかかる上に戦死者も極めて多い。孫子の兵法にあるように城を直接攻めるは最後の策なのだ。

つまり城攻めと言えば、その周りを取り囲み、外部からの食糧、情報を遮断し、兵糧攻めにするのが一般的だ。ローマの例を挙げれば紀元前52年にカエサルのガリア遠征に行った折、アレシアの山上に立てこもったウェルキンゲトリクス(Vercingetorix)の軍を全長21キロメートルもの濠で取り囲こんだ。数か月にわたる攻防のすえ、ようやく相手を降伏させることができた。



中国でも、BC284年、燕の将軍・楽毅が斉に侵攻した時に、斉の70余城は早々と陥落したが、ただりょと即墨だけが残った。即墨を守っていた斉の将軍・田単は防御に徹した。数か月の包囲に燕軍の気が緩んだすきをついて、夜中に牛の角に松明を燃やして城壁から放つと、燕の軍は大混乱に陥った。その混乱に乗じて城内から斉の壮士5000人が敵陣に切り込み、ようやくのことで勝利を収めることができた。

籠城では、包囲が数か月や、長い時には数年にわたるため、やがて食糧や水がなくなってしまう。この際の困窮を表現する慣用句が『易子而食、析骨而炊』(子をかえて食し、骨を折りて炊ぐ)である。つまり、食べ物がなくなって、仕方なく、自分の子供と他人の子供を取り換えて、殺してその肉を食べ、また煮炊きするための薪がないので、死人の骨を燃やす、という意味である。目も向けられないような地獄絵がかつては本当にあったのだ。

食べものだけでなく、飲み水もなくなるが、どうするのだろうか?雨水をためて飲むというのが一般的だが、究極のケースでは馬の糞汁を絞って飲むということもあったようだ。

参照ブログ
 通鑑聚銘:(第23回目)『馬糞汁を飲み、籠城に耐える』
 通鑑聚銘:(第24回目)『半年の籠城に耐えた26人、漢土を踏んだのは13人』

いずれにせよ、籠城のような時には、リーダーは指導者としての力量が問われるだけでなく、部下と同レベルの労苦を分かち合えるか、という不屈の忍耐力も問われる。
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【麻生川語録・32】『ブーメラン論法』

2012-05-27 21:05:13 | 日記
大倉喜八郎大倉財閥を一代で築いた明治の巨商の大倉喜八郎は自著の『致富の鍵』で、『楽しんでしまった渣滓(かす)が富である』との名言を残している。この論法を、読書に適用すると『読書とは、楽しんでしまった渣滓(かす)が知識や教養となる。』と言えるのではないだろうか。
【参照ブログ】  
 百論簇出:(第32回目)『財界人の伝記』

ところで、私の読書の流儀は、どちらかというと濫読である。時々の気分に応じて本を選ぶため、常に数冊の本を並読している。つまり、何冊もの本が読みかけのまま、新たな本を手にするのである。このやり方は喩えてみれば諸国漫遊のようなもの。この反対の読書としては、たとえば締切のある論文を書かないといけない学生や学者の読書であろう。観光に喩えると、厳密な旅行の計画を立て、飛行機や新幹線で最短距離で現地へ行くようなものであろう。現地に着いて観光するにも、タクシーをすっ飛ばして目的地へ一直線に向かい、途中の風景などは目もくれないようなもの。

私の読書の仕方は、生まれつきの性向に由来していると思われるが、一面、私が好んで読んだプラトンやモンテーニュの考え方、書き方に感化されたとも思える。彼らの本を読むと、中心テーマが何であるか、なかなか分からない。読み進むと、かならずいくつかの脇道があったり、分かれ道に出くわす。そしていつの間にか、また本道に戻ってきている。

私はこのような論述の仕方を『ブーメラン論法』と呼んでいる。あたかもブーメランが初めはとんでもない方角へ向かって飛んでいくように、話があちこちに飛んで予想がつかないが、ブーメランは最後には必ず目的の獲物に当たるように、話も狙いをつけた結論にぴたりと着地するのである。世の中には、このような『ブーメラン論法』を分かりにくい、とけなす傾向が見受けられる。枝道をばっさりと切り落として、本筋だけを分かりやすく書くことが推奨され、そのような本がベストセラーとなる。



しかし、私はこういった現代の風潮には、味気ないものを感じる。

速読や効率的な読書は、あたかも道を歩く時に、常に金目のものが落ちていないかだけを期待して、周りの景色を全くみないで、ひたすら下を見ながら歩いているようなものである。読書とは、何かを知るという直接的な目的以上に、筆者自身も考えなかったような事柄を読者に考えさせる刺激を与えてくれるものだと私は思っている。そのためには、夾雑物や引用が多く、話の筋がしばしば脱線する本を読むことが必要だ。この意味で、今読んでいる Gibbon(ギボン)の "The History of the Decline and Fall of the Roman Empire"(ローマ帝国衰亡史)は流石に名作と呼ばれるにふさわしく、イギリス人特有の皮肉まじりの警句や、正統な歴史書には載せないようなエピソードも多く含み、話題が曲折に富む。
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【座右之銘・70】『Scribendi recte sapere est et principium et fons』

2012-05-24 21:43:24 | 日記
以前のブログで、『Habent sua fata libelli』(本はそれ自身の運命を持つ)という言葉を紹介した時、最後の節で、私が西田幾多郎の文章を理解できないのは、私の方の責任かもしれない、との疑念を述べた。

しかし、また別の格言に邂逅して、やはり私の元の考えが間違いではなかったことを確認した。この点について述べよう。

何回か、このブログでも述べたように私は学生時代からドイツの哲学者・ショーペンハウアーに惹かれている。彼の哲学に心酔している訳ではなく、そのメリハリの効いた文体に魅了されている。彼の文体は確かに多少ごつごつしている感じはするが、論旨が明確な上、巧みな比喩や警句で読む人を惹き込んむ魔力に富む。一言でいえば、華やかさを感じさせる。

彼のエッセーの『読書について』(Ueber Schriftstellerei und Stil)では、例のごとく、目の敵にしていた哲学者たち(ヘーゲル、フィヒテ、シェリング)は凡庸な上に『唐人の寝言』のような文章を書きなぐるとけなしている。そして、多分自分の文章を念頭に置いているのであろう、次のように言う。
『読者の誰もが理解できないように書くほど容易なことはない。それに引きかえ、高尚な思想を誰もが理解できるように書くほど難しいことはない。。。ちょうど、ホラティウスが言い表しているように。。。』
Und doch ist nichts leichter, als so zu schreiben, daß kein Mensch es versteht; wie hingegen nichts schwerer, als bedeutende Gedanken so auszudrücken, daß Jeder sie verstehn muß. ... und bestätigt allezeit den Ausspruch des Horaz:



このように言ってから、ホラティウスの次の句を引用してこの節を締めくくっている。
Scribendi recte sapere est et principium et fons. [De arte poetica, 309]
 考え抜くことが、優れた文を書く基本であり、源泉でもある。
 英訳:Knowledge is the prime source of good writing.
 独訳:Die Weisheit ist Grundlage und Ursprung des guten Schreibens.

私の考えるところ、ショーペンハウアーがホラティウスのこの句を引用して言いたかったのは、次の点にある。
『文章が分かりにくいのは、まだ考えが練り足りないからだ。徹底的に考えると、必ず分かりやすい表現に行きつくはずだ』

いやしくも物を書いて自分の考えを世の中に知らしめようとするなら、透徹した考えを、読者の誰でもが理解できるように表現する義務があるというのだ。徹底的な思索と平易な表現、このどちらも欠かすことができないというのがショーペンハウアーの主張であった、と私には彼がこう言っているように聞こえる。こう考えると、日本で初めて本格的な西洋哲学の授業を行ったケーベル博士は、ショーペンハウアーの愛好者でもあったことから、西田幾多郎に対するネガティブな評価も、故なしとしない。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第42回目)『モナリザの沈黙と恥じらい』
 沂風詠録:(第84回目)『私の語学学習(その18)』
 百論簇出:(第93回目)『ケーベル博士曰く、ソクラテスは最大の教育者、の意味』
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想溢筆翔:(第70回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その5)』

2012-05-20 15:01:03 | 日記
 『1.05  盗人が盗品を返すまで悠然と待ち構える。』

『大人の風(ふう)あり』とは、中国の人物評にしばしば現れる言葉である。(このコンテキストでは大人は『おとな』ではなく、『たいじん』と読む。)しかし、この言葉は、日本ではあまり聞かない。何故だろうか?

この理由のひとつは以前のブログ
 百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』
でも述べた、次の点にあると私は考える。
。。。このように見てくると、陽明学の特徴が、『真誠、猛進』にあることが分かるが、これは実は中国では、『青い』とけなされている性情なのだ。中国人は所謂、老獪を評価する心情を持っている。それを表すのが、『唾面自乾』と『韜晦無露圭角』という言葉だ。いずれも耐えてチャンスを伺えという趣旨である。このような国民性の中国人には陽明学の性急な行動力は逆に胡散臭く写ったといえよう。しかし、あるいはそうだからこそ、この性急な行動力が日本人の心情にフィットして、陽明学がもてはやされるのではないか、と私は思っている。。。

中国人は老獪をポジティブに評価するのに対して、日本人は『真誠』を評価する。大人というのは、この老獪をよい意味で漂わせている人である。次の語句も大人が持つ風格を表現している。
 『水至清則無魚、人至察則無徒』(水、至って清ければ則ち魚なく、人、至って察ならば則ち徒なし)

つまり、『清らかすぎる水辺にはプランクトンや水草が生えないので魚が棲めない、それと同様、人もあまりにも厳格すぎると人が集まらないのでリーダーとしては失格だ』ということである。

この言葉は一見すると、無為自然を標榜し、人為を否定的に見た老荘の言葉であるように思われるかもしれないが、実は、儒教の書である『孔子家語』に由来する。両派とも、中国人としての共通認識として大人の風格を称揚するのだ。



大人の風格の実例を唐の宰相、裴度に見てみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻243・唐紀59(P.7848)

裴度が役所(中書)の長官であった時、部下が官印が無くなっていると慌てて知らせにきた。それを聞いた周りの者は真っ青になったが、裴度は落ち着いて酒を飲んでいた。暫くして、また部下が『官印は見つかりました。』と言ったが裴度は返事をしなかった。ある人がその理由を問うと、裴度がいうには、『官印は小役人が勝手に証書に官印を押すために黙ってもちだしたに違いない。いそいで探せば盗みがばれるのを恐れて川に投じるか、燃やしてしまうだろう。じっと待っておれば、用事がすめば元の所に返すものだ。』それを聞いた人は裴度の『識量』に感服した。

裴度在中書,左右忽白失印,聞者失色。度飲酒自如;頃之,左右白復於故處得印,度不應。或問其故,度曰:「此必吏人盜之以印書券耳,急之則投諸水火,緩之則復還故處。」人服其識量。

裴度、中書にあり。左右、たちまち印を失えりともうす。聞く者、色を失う。度、酒を飲むこと自如たり。しばらくして、左右、復た故処に印を得たりともうす。度、応えず。或るひとその故を問う。度、曰く:「これ必らず、吏人のこれを盗み、もって書券に印するのみ。急げば、則ち、これを水火に投ぜん。緩くすれば、則ち、復た故処に還えさん。」人、その識量に服す。
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裴度は人間(というより中国人)の心理をよく読んでいる。つまり、官印を盗んだのは何らかの後ろめたい理由でこっそりと官印を押す必要があったからだと即座に理解した。これは、日本の現行の刑法では『公文書偽造』という罪に当たろう。しかし、裴度は敢えて犯人を捜さず、軽犯罪はむしろ見過ごす方が、よいとが判断したのであった。

私が指摘したいのは、裴度のこの態度を当時の人たちが『識量あり』とポジティブに評価した、という事実である。現在の日本であれば、法律上あるいは道義上、上司としての監督責任が問われるような姿勢が唐代の中国では逆に尊敬を集めたのである。

私は、この相反する評価を、単に時代や国柄が異なるだけだ、と切り捨てるべきではないと考える。というのは現在の日本の政治形態(民主主義や法治主義)が必ずしも最善ではない以上、人としての正しい生き方を考えた場合、現在の法秩序から見て過去の行為がたとえ違法だとしても、それは必ずしもその行為自体が悪い訳ではないことを理解すべきだ。このような事例に出会った場合、一旦は現在の価値観や法体系から離れて、過去の人々が下した価値判断に耳を傾け、本来的に人はどう行動すべきかを考える必要があると私は思っている。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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想溢筆翔:(第69回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その4)』

2012-05-17 22:01:30 | 日記
 『1.04  目の前に矢が飛んできても顔色を変えず。』

リーダーの資質のひとつとして、しばしば『沈着冷静』が挙げられる。これに異論を唱える人はいないであろう。しかし、沈着冷静でなければいけないと観念的には分かっていても、いざ実際の場面でどういう行動をとればよいのか、具体的なイメージがわかないであろう。

論語や孟子のような経書からは残念ながら、具体的な例を引き出すことは難しい。しかし資治通鑑のような史書では具体例が数多く載せられている。

資治通鑑から『沈着冷静』の例を3つ紹介しよう。

光武帝をたすけて後漢の建国に貢献した王覇は蘇茂や周建の大軍と対峙していた。数では押されていた。しかし、壮士数十人が決死の覚悟で敵の後背を衝いたため、敵は慌てふためき退却し、双方とも兵を引き上げた。しかし。。。

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資治通鑑(中華書局):巻41・漢紀33(P.1323)

蘇茂と周建はまた兵を集めて挑戦してきた。王覇は陣地を固めて守りに徹し、兵士をあつめて宴会を開いた。蘇茂は矢を雨のごとく放った。一本の矢が王覇の目の前の酒樽に命中したが、王覇は全く動ずる様子を見せなかった。将校たちが『蘇茂は昨日負けているので、今撃ってでれば易々と勝てる』と口をそろえて言った。王覇は『そうではない。蘇茂の援軍は遠くからきて食べ物がない。それで何度も挑発し、すこしでも勝機を見出したいと考えている。今は、陣地を固めて兵を休めるのがベストだ。これが『戦わずして敵の兵をやっつける』ということだ。』

茂、建復聚兵挑戰,覇堅臥不出,方饗士作倡樂;茂雨射營中,中霸前酒樽,覇安坐不動。軍吏皆曰:「茂前日已破,今易撃也。」覇曰:「不然。蘇茂客兵遠來,糧食不足,故數挑戰,以徼一時之勝。今閉營休士,所謂『不戰而屈人兵』者也。」

茂、建、復た兵をあつめて挑戦す。覇、堅く臥して出ず。まさに士を饗して倡楽をなす。茂、営中に雨のごとく射る。霸の前の酒樽にあたる。覇、安坐して動かず。軍吏、皆な曰く:「茂、前日すでに破る。今、撃ちやすきなり。」覇、曰く:「然らず。蘇茂の客兵、遠来し,糧食、不足す,故にたびたび挑戦し,以って一時の勝を徼えんとす。今、営を閉じ士を休むべし。所謂『戦わずして人の兵を屈する』ものなり。」
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三国志の呉の武将、呂蒙は、若いころは全くの勉強嫌いであったが、後年は見違えるほどに学問に精通した。その成長ぶりに感嘆した魯粛に対し、『士別三日、即更刮目相待』(士、別れて三日なれば、即ち、刮目して相い待つべし)と言い放った。さて、赤壁での戦いや、豪傑の関羽を討ち取るなどの功績を挙げた呂蒙だったが、43歳の若さで死の床につくことになった。孫権に後継者を聞かれた呂蒙は朱然を推薦した。孫権は朱然に江陵を守備を命じたが、そこに魏の曹眞が攻めてきた。

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資治通鑑(中華書局):巻70・魏紀2(P.2211)

曹真らが江陵を囲み、孫盛を撃ち破った。呉王・孫権は諸葛瑾を出動させ、囲みを解こうとしたが却って夏侯尚に負かされ退却した。それで、江陵城の中外の連絡が途絶えてしまった。城中の多くの兵士は皮膚病に罹ってしまい、戦える兵はわずか五千人にすぎなかった。曹真は城壁の周りに土山を築いたり、地下道を掘り、土山には塔を建て、そこから雨のごとく矢を射った。城内の兵士は真っ青になったが、朱然は落ち着きはらって平気な顔をしていた。兵士を励ましながら、チャンスを見計らい、出陣して敵の二団を打ち破った。

及曹眞等圍江陵,破孫盛,呉王遣諸葛瑾等將兵往解圍,夏侯尚撃卻之。江陵中外斷絶,城中兵多腫病,堪戰者裁五千人。眞等起土山,鑿地道,立樓櫓臨城,弓矢雨注,將士皆失色;然晏如無恐意,方厖士,伺間隙,攻破魏兩屯。

曹真等の江陵を囲み,孫盛を破るにおよび、呉王、諸葛瑾等の将兵を遣わし往いて囲みを解かしめんとす。夏侯尚、撃ちてこれを卻く。江陵の中外、断絶す。城中の兵に腫病、多し。戦いに堪える者わずか五千人。真ら土山を起こし,地道を鑿り,楼櫓を立て城に臨む。弓矢、雨のごとく注ぐ。将士、皆な色を失う。朱然、晏如し恐意なし。方に吏士を劼泙掘ご峽笋鮖任ぁす兇瓩汝欧領焼屬鯒砲襦
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南北朝と言えば、日本では14世紀、室町初期の60年弱の時代を言うが、中国では、5世紀中ごろから6世紀末にかけての約150年間、華北一帯と揚子江一帯の地域で、北は鮮卑族が支配し、南は漢人が支配して対立した時代を指す。

その南朝の宋から梁にかけて活躍した軍人に楊公則がいる。まだ子供(弱冠)のころ父親と出陣したが、父親が戦死した。それで父の死骸を棺桶に入れ、背負って故郷まで歩いて帰ったという逸話がある。(南史、巻55:楊公則斂畢、徒歩負喪歸郷里、由此著名。)

楊公則が斉の東昏侯(本名:蕭宝巻)と対戦している時のことである。

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資治通鑑(中華書局):巻144・ 齊紀10(P.4501)

楊公則が領軍府の砦の北楼を占拠して南掖門にある敵と対峙した。或るとき見張り台の上って戦いを望見していた。城中の兵が、楊公則の上の大きな日傘を見て、大きな弩で矢を射かけてきた。矢が楊公則の腰掛を貫いた。周りの者は青ざめたが、楊公則は『すんでのとこで、わしの足に当たるところだったわい!』と笑い飛ばした。

楊公則屯領軍府壘北樓,與南掖門相對,嘗登樓望戰。城中遥見麾蓋,以神鋒弩射之,矢貫胡牀,左右失色。公則曰:「幾中吾脚!」談笑如初。

楊公則、領軍府の塁の北楼に屯し、南掖門と相対す。嘗て、楼に登りて戦いを望す。城中、遥かに麾蓋を見,神鋒弩をもってこれを射る。矢、胡牀を貫く。左右、色を失う。公則、曰く:「ほとんど吾が脚にあたらんと!」談笑、初めのごとし。
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日本の例を挙げると、よく知られているいるように、日露戦争のクライマックス、日本海の海戦では、東郷平八郎元帥は、戦艦三笠に乗り、敵の砲弾を受けるのも恐れず、終始、露天艦橋に立ち指揮を執ったと言われている。

リーダーシップが問われる、切羽詰まった状況において勇猛果敢な行動を起こさせるのは、理屈ではなく胆力である。そしてとっさの判断には、このような先人の行動の例を思い出すことがおおいに役立つであろうと私は思っている。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第10回目)『雨射營中、安坐不動』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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想溢筆翔:(第68回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その3)』

2012-05-13 18:54:07 | 日記
 『1.03  部下の寝返りをとやかく言うな。』

日本人の長所でもあり短所でもあるのが『潔癖性』だと私は考えている。日本以外の歴史、とりわけ私が好んで読む、古代のギリシャ・ローマや中国の歴史、と比べてみるとその違いが歴然とする。これは、何も過去がそうであったと言うだけでなく、現在も(そして多分今後数千年の未来にわたっても)そうであるように思う。

世界的な文化人類学者である梅棹忠夫氏の言によると、日本人は『おぼこい』民族であるとのことだ。『おぼこい』とは、英語で『naive(ナイーブ)』という単語に該当しよう。これは日本では良い意味に解釈されているが、日本以外の世界では、『手の施しようがないほどの間抜け』とかなり否定的に解釈される単語である。つまり日本人は確かに善良であるかもしれないが、国際社会に出てみると、皆からカモにされる民族であるということだ。

参照:『文明の生態史観はいま』梅棹忠夫・編、中公叢書、P.220
『アジアの大陸的古典国家は、人間のあらゆる悪 -- 悪ということばは悪いですが -- どろどろした人間の業がいっぱい詰まっているところなのです。日本人のようなおぼこい民族が手をだしてうまくいくものと違うのです。わたしはアジアをずいぶん歩いていますので、そのことを痛感しています。』



その日本人の潔癖性を示すひとつの試金石として、『寝返り』の評価がある。日本では、かの関ヶ原の小早川秀秋を代表的な例として、寝返りを非常に否定的に見る傾向が強い。(否定的というより激しい嫌悪感を示す。)善悪はともかくとして、結果的にみれば小早川の裏切りのおかげで関ヶ原に勝利を収めた徳川家康によって、江戸時代の二百数十年にわたり平和を保たれたことは日本人にとっては、慶嘉すべきことである。しかし、その恩恵を度外視して、日本人は、一般的に小早川の裏切りを許せないものと考える傾向にあると私には思える。

しかし、目を広く世界に向けると、小早川の寝返りなど些細なことだ、と大らかに構える人々が多いことに気付かされる。

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資治通鑑(中華書局):巻174・陳紀8(P.5421)

孝寛の長史の李詢がひそかに丞相の楊堅に忠告した。「梁士彦、宇文忻、崔弘度、これらはそろって尉遅迥の賄賂を受け取ったので、陣営の人々が大いに動揺した。楊堅は、深刻なじたいだと考えた内史上大夫の鄭訳と相談して、三人を更迭しようとした。李徳林が忠告した。「貴公と諸将は皆な国家の貴臣である。もし、相手が服従しなかったら、帝の命令に従わせればよいではないか。前に任命した者を疑えば、誰が腹心になろうか!また、賄賂を受け取ったと言っても、証明し難い。今、この人たちを更迭すれば、罪に問われることを恐れて逃亡するだろう。いっそのこと逮捕するのがよい。そうすれば、鄖公より下の者は、縮みあがるであろう。敵が近づいているのに、将軍を更迭するのは、昔の燕、趙のように敗北する原因となる。愚考するところ、貴公の信頼する者を彼らのもとに派遣して、監督させればよいではないか。そうすると、たとえ反乱の志があったとしても、敢えて反乱には踏み切らないに違いない。もし反乱すれば、すぐに抑え込むことができるはずだ。楊堅は、それを聞いて、『誠に言うとおりだ。貴兄の忠告がなければ、危ないところであった。』

孝寛長史李詢密啓丞相堅云:「梁士彦、宇文忻、崔弘度並受尉遲迥餉金,軍中慅慅,人情大異。」堅深以爲憂,與内史上大夫鄭譯謀代此三人者,李徳林曰:「公與諸將,皆國家貴臣,未相服從,今正以挾令之威控御之耳。前所遣者,疑其乖異,後所遣者,又安知其能盡腹心邪!又,取金之事,虚實難用,今一旦代之,或懼罪逃逸;若加縻縶,則自鄖公以下,莫不驚疑。且臨敵易將,此燕、趙之所以敗也。如愚所見,但遣公一腹心,明於智略,素爲諸將所信服者,速至軍所,使觀其情僞。縱有異意,必不敢動,動亦能制之矣。」堅大悟,曰:「公不發此言,幾敗大事。」

孝寛の長史、李詢、ひそかに丞相の楊堅にいう:「梁士彦、宇文忻、崔弘度、は並びに尉遅迥の餉金を受く。軍中慅慅、人情、大いに異なれり。」楊堅、深く以って憂いとなす。内史上大夫の鄭訳と謀りてこの三人をかえんと謀る。李徳林、曰く:「公と諸将は皆な、国家の貴臣なり。いまだ相う服従せず。今、まさに挟令の威をもってこれを控御せんのみ。前に遣すところの者、その乖異を疑い、後に遣すところの者、又た、いずくんぞよくそのことごとく腹心たるを知らんや!また、金を取るの事、虚実、もちい難し。今、一旦、これを代うれば、あるいは罪を懼れて逃逸せん。縻縶を加えるにしかざれば、則ち、鄖公より以下、驚疑ぜざるはなし。且つ、敵に臨みて将をかうるは、これ燕、趙の敗るゆえんなり。愚の見る所のごときは、但だ、公の一腹心、智略に明るく、もともと諸将の信服せる者を遣わし、速やかに軍所にいたり、その情偽を観さしむれば、たとい異意あるといえども、必ず敢えて動かじ。動ずれば、またよくこれを制すのみ。」堅、大いに悟りて曰く:「公のこの言を発するなかりせば、ほとんど大事を敗れり。」
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つまり、梁士彦、宇文忻、崔弘度の三人は敵方の尉遲迥の賄賂を受けていたが、それを知りつつも楊堅は、この三人の裏切り行為を黙認した。それだけにとどまらず、彼ら三人を今まで通り、将軍として遇した、というのだ。これが、過去もそうだし、現在の世界におけるグローバルスタンダードなのだ。ただし、ここで注意したいのは、裏ぎり者は必ずしも全面的に信頼していない。この表裏のある二面性は『潔癖性の』日本人にはどうも理解しがたいように私には思われる。

『日本の常識は世界の非常識』と言う言葉もあるように、我々日本人にとっては、当たり前の事は、必ずしも世界の一般常識でない。上で述べたように、相手を信頼しているように見せかけて、本心は相手を疑い、慎重に用心を怠らないのが、どうやら人間界の implicit rule(暗黙の了解)であるらしい。

現在のグローバル社会に生きる、我々日本人もこの掟(用心しつつも寝返り者を受け入れる)を理解し、受け入れざるを得ないようだ。
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【座右之銘・69】『Habent sua fata libelli』

2012-05-10 22:47:07 | 日記
人口に膾炙するアイルランド(Gaelic)のことわざに、 "A man is known by the company he keeps."がある。つまり、本人のことを知るには、付き合っている人を見ればよいということだ。(同様のことわざはラテン語にもあるというが、未見。)

儒教の亜聖である孟子は瞳をみればその人柄が分かるという。(『存乎人者、莫良於眸子、人におけるや,眸子より良きはなし。)孟子の言葉を電子技術者として解釈するなら、ウソ発見機は手のひらの汗を測定するのではなく、瞳の変化の画像解析の方がよいと言うことになるが。。。

一方、フランスの博物学者のビュフォン伯(Georges-Louis Leclerc de Buffon)は、人の性格とその人の書く文章の関係について『文は人なり』と述べる。(The style is the man himself. Le style c'est l'homme même.)つまり、文章をみれば、その書くひとの人柄が分かるというのだが、どういう文体であればどういう性格かという対応表が示されていないのが残念ではあるが。。。



人と文章の関係では、次のようなラテン語のことわざがある。
 "Habent sua fata libelli"(Books have their destinies. )

直訳すると『本はそれ自身の運命を持つ』となるが、これだけでは意味が分かりにくいだろう。これは本来は次のことわざの一部である。
 Pro captu lectoris habent sua fata libelli
 (According to the capabilities of the reader, books have their destiny.)

『本の運命というのは、読者の読解力次第だ』ということだ。同じ本でも読者の理解力が低ければつまらない内容の思えるが、理解力が高まるにつれてなんと素晴らしい本だ!と思えてくる、ということになる。結局、人が逆に本によって値踏みされているのだ。

このことわざの意味を考えていると、以前、このブログで西田幾多郎の『日本文化の問題』や『善の研究』を読んで、私には皆目理解できなかったと書いたことを思い出した。(百論簇出:(第92回目)『稀代の幻学者、西田幾多郎(その4)』)その時は、西田幾多郎を『幻学者』であるとけなしたのだが、このことわざの意味からすると、けなされるのは西田幾多郎ではなく、逆に、私自身の粗雑な理解力のことになるのだが。。。
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想溢筆翔:(第67回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その2)』

2012-05-06 18:33:48 | 日記
 『1.02  劉秀・曹操・王溥 ― 敵方と通じていた者の通信書を見つけても焼いてしまう。』

我々は、得てして過去の人々の行動を今の法律や政治体制の観点から評価しがちである。これは暗黙のうちに、政治も科学技術同様、年代とともに進歩する、と考え、過去の政治体制より、現在の方が優れていると錯覚しているからである。しかし、政治というのは、別に過去に遡らずとも、現在の世界においても各民族や地域ごとに適した形態があり、必ずしも先進諸国が採用しているデモクラシーが最適だとは私は考えない。

同じことが法の適用に関してもいえる。

現在の日本の刑法では、証拠隠滅罪(104条)という刑がある。

条文:『他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。』つまり、犯罪者に関係する書類を官憲に無断で隠滅してはいけないというのだ。

この条文に違反する行為が過去においては、人としての正しい行い(義)とされたことがあった。



劉秀は、後漢の建国者であるが、いつもいつも連勝だった訳ではなかった。王郎の軍に追いかけられて惨めな逃走をしたが、ついに、逆に王郎を本拠地、邯鄲城に追い詰め、取り囲んだ。王郎は闇夜の中、城から逃亡しようと企てたが、王霸に追いつかれ斬られてしまった。

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資治通鑑(中華書局):巻39・漢紀31(P.1267)

劉秀は邯鄲に入城し、残された文書の中に、王郎と心を通じていた自軍の将軍達の手紙があるのを見つけた。しかし、劉秀は、それを一切読まず、将軍達を集め、その目のまえで全ての文書を焼いて言った、『反側した者たちよ、安心せよ!』

劉秀收王郎文書,得吏民與王郎交關謗毀者數千章。秀不省,會諸將軍燒之,曰:「令反側子自安!」

劉秀、王郎の文書を収め,吏民の王郎と交関し、謗毀するもの数千章を得る。秀、省みず。諸将軍と会し、これを焼いて曰く:「反側子をして自ら安ぜしむ!」と。
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この劉秀の行いは現行刑法では、『証拠隠滅罪』に該当しよう。しかし、客観的に判断して、彼の行いは刑罰に当たるより、むしろリーダーとしての器量の大きさ、それにもまして、中国人が考える義(正しい行い)であろう、と私は考える。

劉秀だけでなく、三国志の英雄、魏の曹操にも同様の行いがあった。

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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2036)

曹操が袁紹を破ったあと、その陣地で自軍の将軍たちの手紙を見つけたが、読まずに全て焼いて言った『俺だって、袁紹の強さには生きた心地がしなかった。貴公たちの気持ちは十分理解できる』、と。

曹操收袁紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之,曰:「當紹之強,孤猶不能自保,況衆人乎!」

操、紹の書中を収む。許下および軍中の人の書を得る。皆、これを焚きて、曰く:「紹の強にあたりては、孤すら猶ほ自ら保つ能ず。況んや衆人においておや!」
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劉秀(後漢の光武帝)も曹操もどちらも甲乙つけ難い一世の英雄であり、その行ないも軌を一にする。しかし、中国の歴史には、同じような行いをした英雄が数百年後にもう一人現れた。

郭威は後に、後周の初代皇帝となるが、始めは劉知遠の下で後漢の建国に貢献した。同じく劉知遠の配下に李守貞という将軍がいたが、部下が自分から離れて郭威に鞍替えしたのをみて顔色を変えて怒った。そして、とうとう二人は対立し、李守貞が籠城し、郭威が兵糧攻めでじりじりと締め上げた。一年ちかくの籠城の後、兵糧が尽きた李守貞は妻子もろとも火の中に飛び込み自殺して果てた。

李守貞の城を捜索した郭威は数多くの書簡を見つけた。そこには、上の二人と同様、大臣や高官が二股をかけて、秘かに李守貞に送った書簡が数多く含まれていた。

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資治通鑑(中華書局):巻288・後漢紀3(P.9411)

郭威が押収した書簡を見ると、数多くの朝廷の大臣や地方長官が李守貞と手紙を交わしていた。内容は、反逆的なものが多かったので、帝に上奏しようと思った。しかし、秘書の王溥がそれを制止してこういった。『魑魅魍魎のような化け物は夜には我がもの顔に振る舞うが、日の出とともに消えてしまう。それと同様に、反逆者というのもその張本人が亡くなると消散してしまうものだ。どうか、一切の書簡を燃やして、反逆者たちを安堵させるように。』郭威はその忠告に従った。

郭威閲李守貞文書,得朝廷權臣及藩鎭與守貞交通書,詞意悖逆,欲奏之。秘書郎楡次王溥諌曰;「魑魅乘夜爭出,見日自消。願一切焚之,以安反側。」威從之。

郭威、李守貞の文書を閲し、朝廷の権臣、及び藩鎮の守貞と交通せる書を得る。詞意、悖逆たり,これを奏せんと欲す。秘書郎、楡次の王溥、諌めて曰く;『魑魅の夜に乗じて争いて出ずるも,日を見ては自ら消ゆ。願くは一切、これを焚し、もって反側を安ぜんことを』と。威、これに従う。
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私がここで言いたいのは、これらの史実を単に、過去にはこういう行いをした人がいた、と突き放して見るのではなく、自分自身の行いの指針として、人としての正(義)しい行動のありかたを学ぶべきではないか、ということである。

さて、劉秀や曹操と同様の行いをした郭威の人となりは、それ相応のものがあった。資治通鑑(P.9397)には次のように記述されている。

『郭威は兵卒をいたわり、苦楽を共にした。たとえささやかな功績でも賞をあたえ、わずかでも傷ついた者も見舞った。意見を言うものはランクや内容に拘らず、常ににこやかな態度で聞いた。腹が立つようなことがあっても怒らず、少しぐらいの失敗は許した。それで、兵士や将校は誰もかれも郭威に心から従うようになった。』

(郭威撫養士卒,與同苦樂,小有功輒賞之,微有傷常親視之;士無賢不肖,有所陳啓,皆温辭色而受之;違忤不怒,小過不責。由是將卒咸歸心於威。)

私は、歴史的事実として郭威がこのような人物であったかどうかは問わない。ただ、このような人物像に照らしてみて自分の言行を省りみたいと思う。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第6回目)『内通した将の手紙を読まずに焼く』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』

続く。。。
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想溢筆翔:(第66回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その1)』

2012-05-03 12:14:21 | 日記
 『(1.01)人の能力を十分発揮できるものがリーダーだ』

漢の劉邦と楚の項羽は秦末の混乱期に中原に鹿を逐った(中原逐鹿、天下の覇権を争った)英雄である。項羽は武将として才覚もあり、優れた計略家でもあった。そしてしばしば劉邦を追い詰めたが、今一歩のところで、いつも逃がしてしまっていた。そしてとうとう、垓下で、劉邦の軍勢に囲まれ(四面楚歌)、最後を遂げた。

この間の経緯と見ると、個人の能力としては、客観的にみて項羽の方が数段まさっていたと私には思える。しかし、楚軍と漢軍という総合的な観点から比較すると、劉邦の漢軍は、負けても負けても、常に不死鳥のように蘇る不死身の粘りがあった。

この漢軍の強さはどこから来るのか?そしてなぜ、皆は、負組の劉邦を裏切らなかったのだろうか?

この疑問は、最終的に劉邦が天下を取ったあとでの宴会の席で明らかにされる。

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資治通鑑(中華書局):巻11・漢紀3(P.357)

劉邦(漢の高祖)が洛陽の南宮で諸将を呼んで宴会を催して言った。『諸君、私に隠さずに意見を述べて欲しい。どうして私が天下を取ることが出来て、項羽が出来なかったか?』高起と王陵が答えて言った。『陛下は部下に城を攻めさせ、領土を広げたがその成果を部下と共有なされた。ところが項羽はそうではなかった。功ある者を排除し、知恵者は疑いの目で見た。これが天下を取れなかった理由だ。』劉邦はこれに答えて言った。『その理解では、まだまだ足りない。戦略を練ることにかけては、わしは張良にはかなわない。攻略した土地の人民を撫綏し、兵站を途切れなくすることにかけては、わしは蕭何にかなわない。百万もの軍を率いて連戦連勝することにかけては、わしは韓信にかなわない。ところが、わしはこの優れた部下たちを縦横に使いこなせたのが天下を取れた大きな原因だ。項羽は知略に優れた范増一人をも使いこなせなかったのが、敗因だ。』部下たちはこの言葉に納得した。

帝置酒洛陽南宮,上曰:「徹侯、諸將毋敢隱朕,皆言其情。吾所以有天下者何?項氏之所以失天下者何?」高起、王陵對曰:「陛下使人攻城略地,因以與之,與天下同其利;項羽不然,有功者害之,賢者疑之,此其所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;填國家,撫百姓,給餉饋,不絶糧道,吾不如蕭何;連百萬之衆,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。三者皆人傑,吾能用之,此吾所以取天下者也。項羽有一范増不能用,此所以爲我禽也。」群臣説服。

帝、酒を洛陽の南宮に置く。上、曰く:「徹侯、諸将、敢えて朕に隠すなかれ。皆、其情を言え。吾の天下を有するゆえんは何ぞ?項氏の天下を失うゆえんは何ぞ?」高起、王陵、対えて曰く:「陛下、人をして城を攻め地を略せしめ,因って以ってこれに与う。天下とその利を同じくす。項羽は然らず。功ある者は害し、賢者は疑う。これ、その天下を失うゆえんなり。」上、曰く:「公はその一を知るも,いまだその二を知らず。それ、籌を帷幄の中にめぐらし,勝を千里の外に決するは,吾、子房にしかず。国家を填し、百姓を撫し、餉饋を給し、糧道を絶えざるは、吾、蕭何にしかず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信にしかず。三者は皆、人傑なり。吾は能くこれを用う。これ、吾が天下を取りし所以なり。項羽は一范増も用うるあたわず。これ、我に禽になりし所以なり。」群臣、説服す。
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劉邦の分析によると、劉邦は自分自身の能力で勝てたのではなく、能力のある部下達をうまく使いこなすことができた、ということだ。劉邦の部下達もその点を十分に認識していた。それは、韓信の有名な言葉に象徴されている。『陛下不能將兵、而善將將』(陛下、兵に将たるあたわず、しかるに将に将たるによろし。)劉邦は、兵卒を率いる能力に欠けてはいるが、将を率いる能力には長けている、と言うのだ。つまり、大きな戦略を立てる才覚と度量はあるが、局地的な戦術には疎いし、兵卒と苦労を共にする忍耐力に欠けるので、兵卒を率いてはいけない。ところが、劉邦は、将を信頼し、その能力を十分に発揮させる度量があるので、将軍は皆、劉邦のために死力を尽くして頑張ることができた。つまり、劉邦は人の上に立つにふさわしい大きな度量があった。

同様のことは、アメリカの鉄鋼王・アンドリュー・カーネギーの墓碑銘にも見ることができる。
Here lies a man who was able to surround himself with men far cleverer than himself.
(私訳:自らよりもはるかに優れたる人たちを周りに集めることができた一人の男がここに眠る)
(別文:Here lies a man who knew how to enlist the service of better men than himself.)



ところで、資治通鑑は、基本的には史記や漢書などの正史の文章を極力そのまま引用しているが、ところどころ改変を加えている。この文章において、引用元の史記では、王陵は返答の冒頭に次の言葉を述べている。『陛下慢而侮人、項羽仁而愛人』(陛下は慢にして人を侮る。項羽は仁にして人を愛す。)この文だけを切出してよめば、項羽の方が劉邦より、将としてふさわしいように思える。ところが、項羽は将の素質として最も重要なある一点において決定的に劣っていた。それは、部下の功績を素直に認めない、点であった。

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資治通鑑(中華書局):巻9・漢紀1(P.311)

項羽は、人に面会するときも、丁寧で慈愛に満ちた表情をし、言葉遣いも丁寧であった。部下が病気になると、心が痛み泣き出て、自分の食事を運ばせたりした。ところが、人を使った際に功績があっても爵位の印鑑が擦り切れるまで出し惜しみ、任命を逡巡した。

項王見人,恭敬慈愛,言語嘔嘔。人有疾病,涕泣分食飲;至使人,有功當封爵者,印刓敝,忍不能豫。

項王の人を見るや、恭敬にして慈愛あり。言語は嘔嘔。人に疾病あるや、涕泣し、食飲を分かつ。人を使うに至っては、功ありてまさに爵を封ぜんとするに、印、刓敝するも、忍びて与うるあたわず。
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項羽は、人情溢れて、優しい態度を示しているようだが、それはうわべだけであった。戦場で部下が一生懸命戦って成果をあげても、褒美を与えるのを極端に渋ったのが難点だった。人を動かす基本は仕事ぶりに応じて俸禄と地位を十分に与えることというのは、古今東西問わず常に真理である、と私は思う。

項羽に関して一言言っておきたいことがある。

私は、史記やその文章を引いた資治通鑑の項羽の評価には同意しない。というのは、今我々が読む歴史と言うのは、かなりの部分、勝者の立場から書かれていることを思い出す必要がある。もし、項羽が本当に部下の成果を認めず、褒美を与えることを出し渋る性格であったとするなら、楚軍はもっと早くに崩壊していたはずだ。また、『季布の一諾』(黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず)の諺でも知られる、豪傑の季布が最後の最後まで項羽から離れなかったことから項羽にはやはり一代の英雄にふさわしい貫禄と度量があったと私は考えている。

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』

続く。。。
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想溢筆翔:(第65回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』

2012-04-29 12:39:14 | 日記
私は、中国の本当の姿を知るには資治通鑑を読むことは必須だと感じている。その理由は、通鑑聚銘と題した連載の第1回目に次のように書いた通りである。
 通鑑聚銘:(第1回目)『連載を始めるに当たって』

(前略)

。。。 資治通鑑は、中国の古い時代の歴史書である。カバーしている範囲は、ざっくり言って、紀元前500年から紀元後1000年の1500年間なので、一番新しい記事でも今から1000年も前の話である。また、資治通鑑が書かれた後の1000年には、モンゴル・元や満州・清などの異民族が漢土全体の支配するという漢民族にとっては屈辱の歴史もある。経済的にも、国際関係も近年に大幅に変化した。こういった変化した中国近代の歴史は資治通鑑には記述されていない。

しかし、現在の中国のいろいろな問題、共産党幹部の賄賂・汚職、環境問題、チベットやウイグルの民族問題、都市と農村の格差問題、これらの問題の類似の事例が資治通鑑には必ず見つかるのだ。ビジネススクールでは、ケースと呼ばれている、過去の実例をベースに思考訓練する科目がある。まさにこの意味で資治通鑑は『中国に関するケースの缶詰』である。

結論を言おう。私は、資治通鑑を読んだあとに確信したのは、『資治通鑑を読まずして、中国は語れない、そして、中国人を理解することも不可能である』ということであった。
 。。。

(後略)

つまり、資治通鑑によって私がそこまで持っていた安直な中国観がこっぱ微塵に砕かれたのだ。私が受けた、この大きな衝撃をできるだけ多くの人に知ってもらいたいと思って『通鑑聚銘』の連載を、後漢から始めたが、現在の所、三国志のあたりで停滞している。今後も連載を続けるつもりではあるが、完了するのがいつになることやら。。。

ところで、資治通鑑は大部の書で、かつ『中国に関するケースの缶詰』あるから、読みようによっては、いろいろな教訓が得られる。歴史書であると同時に、リーダーシップの教科書としても、豊富な実例を引き出すことができる。



それで、暫く、『資治通鑑に学ぶリーダーシップ』と題して記事を連載をしたいと考えている。尚、これは、以前のブログ記事、
 百論簇出:(第125回目)『Private Sabbatical を迎えるに当たって(その3)』
で説明した、『2. 古代ギリシャ・ローマと中国・日本のリーダー像の差』における、中国のリーダー像に該当する。

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章立て(予定)
 第1章「リーダーの要件」(リーダーシップ全般)
 第2章「人を育てる」(育成についての話)
 第3章「うまくいく組織、失敗する組織」(チームマネジメント全般)
 第4章「勝つための戦略」(勝つための戦略作り)
 第5章「人間力を鍛える」(より豊かな人間形成の話)
 第6章「正しい人生観」(人としての正しい生き方の話)

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各章の目次(予定)

第1章「リーダーの要件」(リーダーシップ全般)
 1.01  人の能力を十分発揮できるものがリーダーだ
 1.02  劉秀・曹操・王溥 ― 敵方と通じていた者の通信書を見つけても焼いてしまう。
 1.03  部下の寝返りをとやかく言うな。
 1.04  目の前に矢が飛んできても顔色を変えず。
 1.05  盗人が盗難物を返すのまで悠然を待ち構える。
 1.06  敵に囲まれた危急事態でも部下と労苦を共にする。
 1.07  極限状態でも、一人の裏切り者も出さない。
 1.08  器が大きい(大度)とはどういう行為をいうのか。
 1.09  リーダーの不正を糾弾したので、逆に重んじられる。
 1.10  管寧 ― 死去したときに天下、知らざる者もその死を嘆く
 1.11  敵将から送られた薬を疑わずに服用する。
 1.12  小恵はリーダーのすべきことにあらず。
 1.13  細かい点をうるさくいわないのがリーダーの器量。
 1.14  勇者は矢が刺さるもひるまず。
 1.15  リーダーには強運も必要
 1.16  分からないことは、虚心になって部下にきけ。
 1.17  能力があっても人望のないリーダーの哀れな結末
 1.18  リーダーの責務とは何か − 信念と世間評価の乖離を恐れるな。

第2章「人を育てる」(育成についての話)
 2.01  部下の失敗をとがめず、待遇を変えずに使う。
 2.02  浮華より篤実な部下を評価せよ
 2.03  迎合する部下を見抜け
 2.04  帝位について、子孫に微賤の形見を残す。
 2.05  小忠は却って害になることをおしえる。
 2.06  人はその長所を利用することを考えよ。
 2.07  賄賂をとった者に反省を促すためにさらに絹を与えて辱めて諭す。

第3章「うまくいく組織、失敗する組織」(チームマネジメント全般)
 3.01  言論抑圧は、一層大きな害をもたらす。
 3.02  組織運営は人選がすべてだ
 3.03  人材の選択基準長所を見抜くことだ、短所はみるな。
 3.04  組織運営で、細部まできっちりするのはよくない。
 3.05  組織がうまくいくのは、財政的な豊かさより人の結集力だ。
 3.06  上司に理由も無く叱られたからと言って部下が沈黙する組織はダメ。
 3.07  賞は憎い部下にも与えよ、罰は可愛い部下にも与えよ。
 3.08  組織の力は、現場の頑張り力よりも智略に依存する
 3.09  役職につけるのは、業績よりもその人の器で評価せよ。
 3.10  ちょっとした業績を挙げただけで、大抜擢はするな。
 3.11  弁が立つ人を選び、篤実の士を選ばないのは人選ミス

第4章「勝つための戦略」(勝つための戦略作り)
 4.01  勝つために人を採用するなら、人格より能力を問え。
 4.02  敵を負かすには、情報作戦で勝て。
 4.03  可愛がっている部下も厳しく罰せよ、しかしその能力は活用せよ。
 4.04  人の採用には、怨を捨てて才をとれ。
 4.05  人を思い通りに動かそうとするなら、人の名前を覚えろ。
 4.06  敗軍の将を丁重に扱い、奮起させて利用せよ。
 4.07  守るべき法を定め、厳格に守ってしかも怨みを買わない。
 4.08  直訴する方法を周知させる。
 4.09  能力ではなく肩書きで選んだため、組織力が落ちる。
 4.10  敵将も降ってくれば、採用し、信頼して使え。
 4.11  敵を衝くなら、その一番強いところを狙え。
 4.12  勢力を分散して敗れてしまう。

第5章「人間力を鍛える」(より豊かな人間形成の話)
 5.01  人が知らないと思って後ろめたいことをしていないか?
 5.02  人物鑑定法、観相のこつ ― 八観六験と九徴
 5.03  リーダーを選出するときには、顔立も判断のひとつ
 5.04  才能と識量 - 才能とは何か、識量とはなにか。
 5.05  知識は必ずしも人の器をつくらない
 5.06  文盲でも正しい判断できるのが、見識のある人
 5.07  活躍の場がないといって腐らずに自分を磨け。
 5.08  人の器量は危機の時に初めて明らかになる
 5.09  人との交際には、至誠を尽くせ。
 5.10  人を諌めるには直言ではなく、婉曲に言う方法もわきまえよ。
 5.11  忍を学ぶのが全てだ。
 5.12  業績評価に一喜一憂せず、泰然と構えよ。
 5.13  異民族との交渉には、胆力をもって事に当たれ

第6章「正しい人生観」(人としての正しい生き方の話)
 6.01  義 - 中国人の考える義とは何か?
 6.02  仁 - 中国人の考える仁とは何か
 6.03  死刑判決を聞いても、悠々を碁を打ち終えてから毒杯を飲む。
 6.04  皆が利益に狂奔するなかで、一人清廉に生きる
 6.05  中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。
 6.06  かつての中国では、囚人も義を守り、獄に期日どおりに戻る。
 6.07  刺客も義の人を殺せずに帰る。
 6.08  一旦禄を食めば義として主君に忠を尽くす。

続く。。。
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