限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第189回目)『熟成を必要とするリベラルアーツ』

2016-05-22 20:24:31 | 日記
私は大学では機械工学を学んだ。当時、機械工学と電子工学の融合のメカトロニクスが盛んにいわれだしたころであり、ロボットなどがその典型であった。私は子供ころから工作が大好きなメカ少年で、中学校ごろまでの机の引き出しは、文具や参考書など全くなく、ネジや銅線、モーター、ねじ回し、サンドペーパー、などがはち切れるばかりにつまった工具箱そのものであった。それで、大学の専門の授業の中には興味深い科目が数多くあった。ただ、ちまちました物性関係の科目は、材料学や化学など、すべて大の苦手であった。現在はどうか知らないが、幸いなことに、私が在籍していた昭和50年前後の京都大学の機械工学科では、学生紛争の余慶(?)で、必修科目が全廃されていた。それで、機械工学者には必須の知識であるはずの材料学の講義などは、わずか5分間だけ授業を聞いて、「こりゃ、ついていけん!」(なぜか、ここだけ広島弁)と内心、悲鳴をあげて、さっさと退室した。

それでも、いくつかの授業で今でも、記憶に残っているのは、流体力学の授業である。飛行機の翼の形はだれでも知っているが、あの形は、私は(そして、多分、読者の皆様も)適当に作ったのであろうと、考えていた。ところが、流体力学の授業で、流体の基本的性質である「流体は物の表面を沿って流れる」という単純な話から徐々に進展して、ついに「ジュコーフスキーの翼理論」で翼の形が、写像変換の結果として理論的に導き出された時には(大げさに聞こえるかも知れないが)この世の隠された秘密が目の前に広げられた気がした。そもそも、流体の運動はナビアーとストークスが夙に19世紀に基本方程式(Navier-Stokes)を導出しているので「今さら流体力学?」という雰囲気はなきにしもあらずだが、それでも私にとっては、まさに目が醒める話であった。

【参照ブログ】
 二次元翼理論(等角写像とジューコフスキーの仮定)

翼理論だけでなく、目を開かされたのは(多分)機構学の授業で、西部劇のカーボーイたちが馬を繋ぐ時に、手綱を横杭に2,3回巻くだけでいいのかという理由も教わった時であった。綱を杭にまきつけると、全周の摩擦力がかかるため、簡単に巻いただけの手綱も、実に 200Kgから300Kgの力をかけないと、抜けないのだ。まったく、びっくりポンの話だ!



また、風が吹くとどうして、電線から「ピューピュー」という音が出るのか?これは、電線の周りに互い違いの渦、カルマン渦(Karman's vortex)が発生し、そのため渦音(Lighthill の渦音方程式)がピューという音を出すのだ。このような自然現象の理論的な説明は私にとっては非常に興味深かった。それ故、後日、私の博士論文では流体力学をベースにして、人間の声が渦音であることを方程式とコンピュータシミュレーションで明らかにした。

もっとも、これらの授業で得た知識は、リベラルアーツ研究家の現在の活動では、残念ながら活用する機会はあまりない。ただ、その中でも今でも役に立っていることがある。機構学(それとも材料力学?)で習ったことで、本棚を置く時に、壁に少しでももたれかけると ― 具体的数値は忘れたが ― 地震などの振動に対して何倍も強いということであった。実際、私の東京のマンションにはかなり多くの本棚が置いてあるが、全て、すこ〜しばかり傾けて置いてある。それで、この前の2011・3・11日の大地震では、多少の本は落ちたものの、本棚自体は全く被害がなかった。

さて、このような昔話をしていても退屈するだろうから、そろそろ本論に入ることにしよう。

熱力学では潜熱(latent heat)という概念がある。簡単にいえば、薄いアルミ鍋をコンロにかけるとすぐ沸くが、分厚いスキヤキ鍋では、水はなかなか沸かないということだ。鍋に加えている熱量は始めのうちは、水を沸かすことに使われるのではなく、鍋を温めるのに費やされるからだ。コンロの熱が目に見える形の熱にならないところから、「隠された熱」と命名された(latent = hidden)。

スキヤキを分厚いスキヤキ鍋で炊くとき、誰でも鍋が温まるまで時間がかかることを知っているので、じっと辛抱している。リベラルアーツも熟成までにが時間がかかる。それは、鍋の潜熱と同じだ。スキヤキ鍋であれば、温まらないからといってすぐに火を止めないが、リベラルアーツとなると、その辛抱ができないようだ。リベラルアーツを、総体として理解するには、大量の情報が必要だ。まず、大量の情報を溜めるのに時間がかかる。さらに、それが熟成するにも時間がかかる。それは、数日、数ヶ月というスケールではなく、十年単位で数えるべきものだ。

ちっとも温まらないスキヤキ鍋に我慢しきれなくなって、火を止めると永久に美味しいスキヤキが食べられないのと同様、リベラルアーツも「まるで進展しないではないか!」と短気をおこして途中で放り投げると、いつまで経っても熟成しないとしたものだ。と、遅ればせながら、ようやくこのごろ得心できるようになった。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第12回目)『熟成を必要とする教養』
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想溢筆翔:(第256回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その99)』

2016-05-19 23:18:34 | 日記
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【198.零落 】P.3756、AD423年

『零落』とは「さびれること」という意味が一般的であるが、本来は「草木の葉が枯れて落ちる」ことをいう。辞海(1978年版)には王逸が屈原の《離騒》につけた注の説明文として『零落』を次のように説明する。
 『零落、皆おつるなり。草を零といい、木を落という』(零落、皆堕也。草曰零、木曰落)

ただ、この説明文のすぐ後に、「また、木も零とも言うし、草も落とも言う」と付けたす。要は、草も木も葉が落ちることは、「零」「落」のどちらでもよいということだ。これに限らず、中国の古典籍に付けられている注にはデタラメとまでは言わないが、個人の思いつきで書いたようなものもたまには見かける。根拠が多少あやふやでもとにかく「言った者勝ち」の雰囲気が感じられる。それ故、いつもいつも注釈に頼って読むことが最善だと考えるのは、いかがなものかと私は秘かに思っている。(と開き直った態度をとると、漢文の専門家からは大目玉くらうこと間違いなしだが。。。)



さて、この『零落』を二十四史(+清史稿+資治通鑑+続資治通鑑)で検索してみると、上表のように、初出が『漢書』であることがわかる。ただ、この漢書は巻22の《礼楽志》なので、紀元後の後漢時代に書かれた部分だと分かる。さらに、近代になるにしたがって使用頻度が落ちていることも分かる。ざっと見、ピークが隋唐以前である。つまり、西暦0年ごろから 600年ごろまでに使われている単語であるのだ。日本には、中国の古い時代の建物や着物などが、かなり変化せずに保存されているが、単語においても言える。

さて、資治通鑑で『零落』が登場するのは、南北朝時代、南宋の武帝(劉裕)が薨去したのをチャンスとみた、北魏の明元皇帝(拓跋嗣)が攻め込んできた場面だ。

 +++++++++++++++++++++++++++
魏主の拓跋嗣が盟津に到着した。于栗磾は舟で浮橋を冶阪津につくった。魏主は兵を率いて河を渡って北上してから、西に方向を変えて河内に向かった。将軍の娥清、周幾、閭大肥たちが各地を制圧しつつ、湖陸に着いた。高平の民が集まってきて、矢を射かけた。娥清たちは高平地方の県は全て撃破し、数千家の人々を皆殺しにした上に、一万人以上を捕虜とした。 兗州長官(刺史)の鄭順之は湖陸に駐屯していたが、僅かの兵士しかいなかったので、出陣せず、敵のなすままに任せた。魏主はまた、遣并州長官(刺史)の伊楼抜に奚斤を助けて虎牢を攻撃するよう命令した。虎牢を守っていた毛徳祖は臨機応変に防御したので、北魏の兵が多く死んだ。それで、北魏の将軍や兵士たちはいささか意気消沈(零落)した。

魏主至盟津。于栗磾造浮橋於冶阪津。乙丑、魏主引兵北済、西如河内。娥清、周幾、閭大肥徇地至湖陸、高平民屯聚而射之。清等尽攻破高平諸県、滅数千家、虜掠万余口;兗州刺史鄭順之戍湖陸、以兵少不敢出。魏主又遣并州刺史伊楼抜助奚斤攻虎牢;毛徳祖随方抗拒、頗殺魏兵、而将士稍零落。
 +++++++++++++++++++++++++++

北魏の兵は連戦に次ぐ連戦で、意気が上がっていたが、宋の毛徳祖の頑強な抵抗にあってかなり多くの死傷者がでたので、いささかげんなりしたということだ。

ここで、『随方』という語句が見えるが、諸橋の大漢和辞典には説明がない。しかし、資治通鑑の巻162に胡三省が「諸軍乃随方各散」(諸軍、すなわち随方、各散す)につけた注では次のように説明する。「諸軍がめいめい好き勝手な所からやってきて、またそれぞれ散っていく」(諸軍各随所来之方散去也) つまり、機動部隊・遊撃隊を盛んに活用したということと解釈できる。冒頭で述べたのと逆にこのような時には、流石に注は役にたつ。

続く。。。
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沂風詠録:(第271回目)『英語力アップは英英辞典から』

2016-05-15 22:30:28 | 日記
英語力、とりわけ語彙力をアップさせるには、英英辞典を使うことが良いと私は実感している。この事については、すでに数多くの識者も指摘しているので、とりたてていうことはないが、私のささやかな感想を述べてみたい。

以前のブログ『私の語学学習(その36)』で述べたように高校に入って最初の英語の授業で、開拓社の『Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED)』という英英辞典(縮刷版)を先生から紹介された。早速、購入して使いだしたが、当時(高校一年)の私の英語力ではまだまだ難しかった。それでも、辞書が小ぶりで片手で持てるのと、至るところに、かわいいいイラストが入っているため、瞬く間にすっかりとこの辞書に魅入られた。



当時の使い方といえば、知らない単語を調べると、説明のなかで何個か、また知らない単語が出てくる。仕方がないので、今度はそれを調べるという具合に、一つの単語の意味を理解するのに10分や20分程度はかかったのではないかと思う。ただ、高校生のことなので、時間はたっぷりはあり、実に根気よく使った。その内に語彙力が伸びてくるに従って、単語を引くに要する時間は少しずつ短くなったが、それでも高校卒業の最後まで英和辞典よりは時間がかかっていた。

この私のやり方を効率の点から考えると、非常に非効率であるように考えられるかもしれない。確かに、単発的に一文の意味を理解することだけで競えば、英和辞典の方が圧倒的に効率がよい。しかし、当時からすでに感じていたのだが、英語の単語を日本語で理解するのは、あたかも三角のおにぎりを四角い弁当箱に詰めるようなぎこちなさが付きまとう。どうも、翻訳された日本語のどこかにニュアンスの欠落や歪を感じていた。

英英辞典を使うと、英単語の意味は完全には分らないものの、その単語のニュアンスがまとわりつくような感じを受けた。つまり、英英辞典で知らない英語の単語を別のいくつかの英単語で説明されるというのは、説明している単語群が作り出す観念のいわば重なりあった部分(集合論でいう積集合)ということになる。つまり、英英辞典を使うというのは、単語の一つ一つの意味を正確に知る、というよりも、重なりあった雲のようなもやっとした単語群をボリューム的に獲得するというような感じなのだ。

つまり、一つの単語を引くのにかかった一見「余計な時間・非効率な時間」はこの単語群の雲(つまり、thesaurus)を構築するのに使っていた時間と解釈できるのである。それで、一個、一個の単語の意味を獲得するには時間はかかるものの、何百個もの単語をトータルで獲得する点から考えると、実は非常に効率がいいのである。私も初めはこのことには全く気付かなかったのであるが、英英辞典を使っているうちに、この「単語群の雲」の理解のおかげで、ある時から急に英単語のニュアンスが肌感覚として分かるようになってきたことにびっくりした。

もやっとした意味しか分からない単語同士が、ある時を境にして互いの関連がはっきりと、付き出すのだ。それはあたかもドミノ倒しのように、一つの単語の輪郭がくっきりと浮かびだすと、それと関連した他の単語の意味もやはりくっきりと浮かびだすのである。そうなると、日本語では当たり前であった、単語の陰影(英語ではこれを positive connotation, negative connotation という)がすうっと浮かび上がってくるのが分かる。

さて、この肌感覚を獲得できた一番大きな成果といえば、「英文と日本文の間に翻訳がいらない」という点であった。よく、「まず日本語で考えてから、英語に翻訳する」という話を聞くが、英英辞典を使っていると、日本語という邪魔者(あるいはクッションとも言えるかも?)が存在しないので、英文や英単語が直接、脳にささるのである。その結果、その単語のニュアンスが単語と直結した形で、ぼやっとではあるが、確かに記憶される。逆に英文を作る場合「このような感じの単語」というので頭の中をサーチすると、いくつかの単語群が湧いてくる。それらの単語群ではそれぞれの単語が互いに何らかの結びつきを持っている。それを頼りに、芋づる式に、他の類似の単語を探すことができる。

もっとも、いつもいつもこのように上手く行くわけではなく、和英辞典の厄介になることも多いが。。。

昨年出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』には、語学に関してもかなりのページ数を割いて、結果的に英語上達につながるヒントをいろいろと書いた。その内の一つに「TOEIC 730 点を目指して」と題するコラム(P.367)では、とにかく5000ページを読むという多読と、その時に英英辞典を使うことを勧めているので、是非その部分だけでも読んで頂きたい。

さて、『荘子』の《庚桑楚篇》に『吾日計之而不足、歳計之而有余』(吾れ、日に計ればすなわち足らざるも、歳に計れば、すなわち余りあり)ということばがある。つまり、一日毎に集計すれば、収入より出費が多いが、一年をトータルで見れば逆に、収入の方が多かったという意味だ。本ブログでも述べているように、目先のささいな時間節約に囚われず、辛抱してでも英英辞典を日常的に使うと、時間が経つにつれて英語力は確実に上る。どうも世の中の人は英語に関しては実に天邪鬼で、荘子が皮肉ったように長期的に見ると得する方向には、行かないようだ。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第102回目)『私の語学学習(その36)』
 【2011年度授業】『ベンチャー魂の系譜 7.言語に魅せられた辞書作り』
 【2011年度授業】『ベンチャー魂の系譜 12.アメリカ活力の源泉、ベンチャー魂』
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想溢筆翔:(第255回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その98)』

2016-05-12 23:11:31 | 日記
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【197.疲労 】P.1333、AD29年

『疲労』とは辞源(1987年版)によると『労苦困窮』と説明する。現在の意味は、『労苦困窮』した結果、疲れた、というようにわずかながら意味に差があるように思える。



さて、『疲労』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索するとその出現は上表のように、かなり偏っていることが分かる。後漢書が初出であるのはいいとして、唐書以降はほとんど使われていない。日本流にいえば平安時代以降、中国では疲れたことを、もはや『疲労』とは呼ばなくなった、ということだ。逆に、現代中国語で『疲労』というのは日本語からの輸入単語ということになる。

疲労が使われている場面を見てみよう。

後漢の光武帝には勇猛な武将が数多くいたが、耿弇(こうえん)もその内の一人だ。あるとき、敵陣に突撃した際に股を射抜かれたものの、刀で矢を切り捨てた。夕暮れまでそのまま戦線で奮闘したが、誰もそのことに気づく者がなかった。それだけでなく、翌日もまた戦場に飛び出していった。(飛矢中弇股、以佩刀截之、左右無知者。至暮、罷;弇明旦復勒兵出)。

しかし、耿弇は計略にも優れ、戦争において不覚をとることが無かったという。『資治通鑑』(P.1335)によると生涯の内で、勝ち取った郡は46、攻め落とした城は300以上あったという(弇為将、凡所平郡四十六、屠城三百、未嘗挫折焉)。



耿弇は敵から臨菑を奪ったが、敵将の張歩が20万と号する大軍を率いて臨菑を奪還しにきた。「危し、耿弇!」と誰もが恐れおののいたことだが、当の耿弇は至って涼しい顔で敵の到着を待ち構えていた。

 +++++++++++++++++++++++++++
耿弇が光武帝に書を送ってこういった「私は臨菑の塹壕を深くし、城壁を高くしました。張歩の軍は劇県から攻めてきますが、かれらは疲労の上、腹もへり、喉も渇いてへとへとのはずです。攻めてくるなら、わざと隙を見せて突っ込むところを攻めますし、退却するなら、ぴったりとくっついて行って攻撃をします。こっちは、陣地で待ち構えていて攻撃するだけなので、英気は十分です。これこそ『以逸待労』(こちらはのんびりと、相手はへとへと)、『以実撃虚』(隙をみせて、叩く)の戦術です。まあ、見ていてください。10日位すれば、張歩の首を取ってみせますから!」

弇上書曰:「臣拠臨菑、深塹高塁;張歩従劇県来攻、疲労飢渇。欲進、誘而攻之;欲去、随而撃之。臣依営而戦、精鋭百倍、以逸待労、以実撃虚、旬日之間、歩首可獲。」
 +++++++++++++++++++++++++++

この時の結末は、結局、張歩の軍が散々に敗れ、荷車(輜重)を2000台も置き去りにして、敗走し、とうとう張歩は行く場がなくなった。部下の蘇茂が反対したので、斬り捨てて、耿弇に投降した。光武帝は、張歩だけでなく収監してた張歩の3兄弟を皆釈放した。それだけでなく、爵位も与えた。いかにも仁の人、劉秀らしい処置だ。

続く。。。
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【麻生川語録・41】『人の引き返した所から進む』

2016-05-08 21:38:12 | 日記
最近の情報量の伸びは凄まじく、西暦2000年までに人類が30万年かかって蓄積した情報がその後、2001年から2003年までの間に軽く超えられてしまったという。また2007年時点では、その10年前と比べて情報量が410倍にもなっているという。しかし、2007年以降にSNSが普及したことを考えると2016年現在では情報量の増え方はそれ以上だと考えられる。
(http://spaceboy.jp/internet/information_10years_compare/)

しかし、人間の頭脳というハードウェアがここ数十万年の間にそれほど変化していないことから考えると、処理できる情報量はデータの増加から完全に取り残されているということが分かる。その結果、自分で生データを処理するのではなく、他人がまとめたものをそのままなぞる、極めて上滑り的な理解の仕方がもてはやされる。私自身は iPhone を使わないので分らないが、街中でみかける iPhone の使い方を見てもそのようだ。知識を得ることがあたかも、西部のガンマンのように速さを競うゲームに堕している。

そのような世相に抗して(というより、世相などには我関せず焉)私は自らの血となり肉となる方法で読書していることは以前のブログで述べた。
 【麻生川語録・13】『名のみ高くして読まれざる書を読む』
 【麻生川語録・33】『鯨を一匹まるごと食べる式の読書法』

この路線でもう一つ、付け加えたいのが『人の引き返した所から進む』読書法だ。

一昨年、中国史の専門家でもないのに、資治通鑑のダイジェスト本の『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』を出版した。そもそも、私がなぜ資治通鑑を読むようになったのかについては同書を読んで頂くとして、このような大著を何冊か読んで自分が納得する読書スタイルが分かったきた。

歴史に関して言うと、他人がまとめた年表的なものでなく、歴史の現場からの生のレポルタージュを読むような、あるいは生々しい現場シーンを撮影したドキュメンタリー映画を観るような感覚のものを、自分で読み、そこから当時の様子を自分で判断するというものだ。つまり、ほとんどの人が「これから先は難しいから、止めた」と言って引き返した所から先に進むことだ。全く手がかりがないならやりようがないが、現在のインターネット時代、探せばいろいろと情報がすでにWeb上にあがっている場合が多い。つまり、資治通鑑を読めるか読めないかは、ひとえにやる気にかかっているということだ。



『人が引き返した所から進む』と、全ての光景は非常に新鮮である。未知の土地を探検するようなものだ。いわば『びっくりぽん』の連続だ。当然、分からないことや誤解も多いだろうが、それでも(読み)進んでいくと、確固としたものがその内、心のなかに芽生えてくる。無から有が生まれてくる瞬間だ。

このような観点で、今、興味をもっているのが高麗の歴史だ。高校の歴史では隣国・韓半島の歴史に関しては、古代の百済・新羅、高麗時の元寇、秀吉の朝鮮出兵、それと韓国併合以降の歴史と非常に雑駁なことしか習わない。あたかも、日本との関連が少ない時代は韓半島には何も歴史的なことは起っていないかったかのようだ。その結果、近代の韓国併合の歴史だけが異様に大きく取り上げられ、それも自虐史観に基づいた極めて歪んだ韓半島のイメージが固定化されつつある。つまり、韓半島の民族を貫いている太い精神的な柱を全くつかめずにいる。

このような欠落の多い歴史観を形成した原因の一つは、日本では高麗の歴史が全く知られていないことだと、私は考えている。その証拠にどのような大きな書店(ジュンク堂、八重洲ブックセンター)に行って朝鮮・韓国の棚を見ても、高麗関係の本はほとんど見つからない。高麗は500年も続いた王朝である。その歴史が日本では全く知られていないことは、異様を通り越している。

数年前にこのことに気付いてから、高麗に関する本や情報を集め始めて、この度、ようやく基本文献(『高麗史』『高麗史節要』『高麗史提綱』)を揃えることが出来た。前者の2つは、韓国のサイトに全文がアップロードされている。最後のものは、日本の国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にPDFファイルがある。

元寇の部分が気にかかっていたので、『高麗史節要』の後半部分を読んでみたが、今まで分らなかった高麗(及び韓半島)の民族性がいくつかの点で非常にクリアーになった。この点については、来月 Wedge社から出版するアジア旅行記の本にその一端を述べるが、いづれ、資治通鑑に関するダイジェスト版を出版したように、高麗の歴史に関するダイジェスト版を出版したいと考えている。
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想溢筆翔:(第254回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その97)』

2016-05-05 20:56:47 | 日記
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【196.重複 】P.3039、AD340年

『重複』とは『同じ物がかさなること』で、『重』も『複』も『かさなる』という意味があるので、『重複』とはまさに『かさなり、かさなる』という極めて冗長な単語だ。漢字は元来、一字で意味を充分に表現できるようになっていたことから考えると、このような、冗長な単語は新しいことが推定できる。実際、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『重複』を検索すると、次表のように、三国志以降にしか見られない、比較的新しい単語だとわかる。



資治通鑑の初出部を見てみよう。

時は、西晋が倒れて、五胡十六国時代の後趙。第三代の皇帝である石虎の治世、占領地域に対する苛斂誅求はとても我々の想像の域を超える。民の悲惨な状況をみてみよう。

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後趙王の石虎は司州、冀州、青州、徐州、幽州、并州、雍州の七州の人民を徴兵した。成人男子が五人いれば、三人を、四人いれば、二人を採った。それに鄴城の旧兵を合わせて、五十万人を集め、船を1万隻用意させた。黄河から海を経由して穀物を一百万斛を楽安城に運搬させた。さらに遼西、北平、漁陽の1万戸あまりの家を兗州、予州、雍州、洛州の四州へ強制的に移動させ、幽州から東の白狼県に至るまでの地域に屯田させた。人々の馬をすべて召し上げた。馬を供出せずに隠した者は全て、腰斬の刑に処した。それで合計、四万頭の馬を入手した。宛陽に人馬を集めて、大々的な閲兵パレードを行い、前燕を攻撃するぞと宣言した。

趙王虎命司、冀、青、徐、幽、并、雍七州之民五丁取三、四丁取二、合鄴城旧兵、満五十万、具船万艘、自河通海、運穀千一百万斛于楽安城。徙遼西、北平、漁陽万余戸於兗、予、雍、洛四州之地。自幽州以東至白狼、大興屯田。悉括取民馬、有敢私匿者腰斬、凡得四万余匹。大閲於宛陽、欲以撃燕。
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成人男子の半分を強制的に徴兵し、馬も全て − 当然無償で! − 召し上げるなど、日本の戦国大名でもこの話を聞くとびびってしまいそうだ。さらに5万人から10万人にも及ぶ民を強制移住させたのだ。日本では、大名があちこちと移ることはあっても、住民が数百人ならいざ知らず、このように大人数を強制移住させた、とは聞いたことがない。



このようにして石虎は戦争の準備を整えて、前燕に侵攻しようとしたが、迎え撃つ前燕の慕容皝は敵の弱点を見抜いていた。

 +++++++++++++++++++++++++++
前燕の王である慕容皝は諸将に言った。「石虎は楽安城の守りを十二分に(重複して)固めたと思っているが、その分、薊城の一帯は防備がおろそかになっている。今、もし間道を通って不意打ちをくらわせば、きっと勝つことができるはずだ。」

燕王皝謂諸将曰:「石虎自以楽安城防守重複、薊城南北必不設備、今若詭路出其不意、可尽破也。」
 +++++++++++++++++++++++++++

慕容皝の見込みどおり、後趙の守りの手薄な所を攻めて大勝利を得た。3万戸もの家を略奪し、数千人の人民を連れ去ってきたのだ。守備隊長の石光は怖気づいて全く手出しができなかったという。

続く。。。
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百論簇出:(第188回目)『時代遅れの形而上学』

2016-05-01 22:45:17 | 日記
現代においても、哲学者と言えばギリシャの3大哲学者のソクラテス、プラトン、アリストテレスの名が挙がる。学生時代にプラトンを始めてドイツ語で読んで以来、ソクラテスの論理の運び方には常に感心する。もっとも、これは私だけの感覚かもしれない。なぜならソクラテスの話し方は日本人が一番馴染みにくいタイプであるからだ。論理構成は緻密でありながら、実に冗長(lengthy)に話すからだ。その上、論理も必ずしも一本線を進むのではなく、あっちへふらり、こっちへふらりと迷走する。しかし、詳細に検討すると、その一歩一歩の論理は非常に着実であることに驚くだろう。

もっとも、ソクラテスは自分では書き物を一つも残していないので、現代の我々がソクラテスのこのような話しぶりを知るのは、プラトンやクセノフォンの書き物、あるいはゴシップ記事満載のディオゲネスの『ギリシア哲学者列伝』の記事からであるので、必ずしもソクラテス自身が、上で述べたような話しぶりであったのかは定かではない。

古代ギリシャ人のこのような、焦点が定まらない話しぶりは現代人は苦手とする。その点、アリストテレスは、不幸にも(!)講義録の草稿のような物しか残っていず、その文章のいずれもが実に素っ気ない書き方だ。しかし、逆にこのような書き方のほうが現代人の好みにぴったりなのだ。それ故、アリストテレスの『形而上学』がギリシャ哲学の根本経典と認められるようになったのは、アリストテレスにとっては、誠に不幸中の幸いであった。(なぜなら、彼の書き物は死後数百年、誰にも関心を払われずに放っておかれたので、草稿の束だけが生き残ったからだ。)

さて、形而上学的な認識論と言えば、現代においてでさえアリストテレスの『形而上学』に言及せずに済ます訳にはいかない。分量的に岩波文庫で2冊本なので、容易に入手でき、分量的にはたいしたことはない。もっとも、私自身はギリシャ哲学は西洋語(ドイツ語、英語、ギリシャ語)で読む主義なので、岩波文庫本はたまに参照にする程度でしかないが、実にこの翻訳は分り難い。

弁明めくが、ギリシャ哲学を西洋語で読むというと、何やらスノビッシュ、衒学的、と思われるかもしれないが、実際に読み比べてみると、日本語の方が実に分りにくいことが納得できるであろう。その原因は、日本の翻訳者が、やさしいギリシャ語をわざわざ難解な漢語に訳すからである。特にプラトンの書いた、ソクラテスの対話篇などでは、ギリシャ語の原文では日常単語であるのが、日本語の翻訳では、学問的で非日常的な漢語に置き換わっている。これでは、ギリシャ哲学を知ってもらおうとして訳しているのに、わざわざギリシャ哲学嫌いを製造しているようなものだ。その点、西洋語の翻訳(特に Schleirmacherのドイツ語訳)は実に素朴な日常単語を多用するギリシャ語の素直な翻訳である。



話を元に戻して、アリストテレスの『形而上学』であるが、私はこの本が今でも認識論のベースとなっていることに、大いに疑問を感じる。というのは、アリストテレスが認識していた、(地理的な)世界像や(物理学的な)宇宙像というのが現在では間違っていることが分かっているにも拘らず、認識論だけが正しいというのはありえないからだ。それにも拘らず、『形而上学』で頻出する『形相』や『質料』をベースに人間の認識の仕方を考えるのは、あたかもあたかも、天動説ベースに宇宙論を語っているようなものだ。

現在では、かつての形而上学が対象としていたいろいろなテーマ ―例えば、物質、存在、魂、意識 ― は、とっくの昔に、それぞれ物理学、素粒子論、心理学、脳科学のテーマとしてそれぞれの分野の学者が深く追求している。それぞれの分野の進展が新しい知見をもたらしてくれたおかげで、物を考える我々の視点が全く変わってしまったものもある。例えば、良く知られているようにカントの大著『純粋理性批判』はニュ―トン力学をベースとして構築された。つまり、時間と空間はそれぞれ独立であり、かつ所与のものであり、絶対的だと考えられたのだ。しかるにアインシュタインが発表した相対性理論とその後の素粒子論によって、時間と空間は独立ではないと分かった。さらには、物質とエネルギーは等価であるということも分かった。つまり、物理科学、天体科学の進展で、それまで盤石だと思われていたカント哲学のベースの不備が透けて見えてきたというわけだ。(もっとも、カント哲学の不備はアインシュタインの相対性理論を待つまでもなく、夙に指摘されていたのではあるが。。。)

かつて錬金術は卑金属から化学的作用で金を作ることを目指していたが物理学の進展で不可能だと証明された。(元素を変えるには原子核の陽子と中性子の数を増減させるないといけないが、それは化学的反応では無理だ。)また、熱力学によって、永久機関は作れないことが証明された。つまり、錬金術や永久機関について、これ以上、議論をするのは時間の無駄であるのだ。それと同様に、アリストテレスの宇宙論や、カントのニュートン力学ベースの形而上学について議論することは時間の無駄なのだ。

結局、相対性理論と素粒子論にベースを置かない形而上学は愚論であるのだ。しかるに、現在でもアリストテレスやカントをベースに形而上学を論じるのは、あたかも化学を学ぶ代わりに錬金術を学び、熱力学を学ぶ代わりに永久機関学を学ぶようなものだ。そのような『形而上学』は全くのエセ学であり、何ら学問の進展に寄与するものではない。
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想溢筆翔:(第253回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その96)』

2016-04-28 23:19:34 | 日記
前回

【195.博聞強識 】P.3746、AD422年

『博聞強識』とは、「知識豊かで記憶力のよい」をいう。現在の日本語では『博覧強記』という言い方が一般的であろう。

しかし、中国古典では、『博○強△』の言い方には様々なバリエーションがある。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果、多い順に並べると、
 3回以上:博聞強記 博聞強識 博学鴻儒 博学強記 博覧強記 博学強識
 2回:博物強記 博物強識 博文強識
 1回:博識強記 博識強正 博渉強記 博通強記 博聞強学 博学強覧 博学強覧



この表から分かることは、「博覧強記」という日本で知られている言い方は、『宋史』と『元史』でしか見られないということである。つまり、鎌倉時代に宋や元に行った禅僧(道元など)によってもたらされたのではないかと推察される。

また『博通強記』という言い方もあるが、これは二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)には見当たらず、顔師古が漢書などに付けた注の中にわずかにみられる。ひょっとして、顔師古が間違って書いたのかもしれない。

『博聞強識』は資治通鑑では2回使われているが、2回目の個所を見てみよう。時は南北朝時代で、北には北魏があり、南には宋(劉宋)があった。北魏の2代目皇帝・拓跋嗣は名臣が多いと自慢していた。

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拓跋嗣(北魏・明元帝)は大いに悦んで侍臣に次のように言った。「長孫嵩は徳の高い旧臣であり、四人の君主に仕えて社稷(国)をよく支えてくれた。奚斤は頭の回転が早い上に、智謀があり、その名声は四方に鳴り響いている。安同は世情に通じていて事務処理能力も高い。穆観は政務に熟達していて、わしがいわんとする所をぴたりと当てる。崔浩は博聞強識(もの知りで記憶力が抜群)であり森羅万象を詳しく観察する。丘堆は特段優れている所があるわけではないが、宮廷ではどっしり構えているので、皆安心できる。この六人で太子を補佐してくれるので、わしはお前たちと国境を巡行して、服従しない者どもを成敗すれば、天下を得たと言えよう。」

大悦、謂侍臣曰:「嵩宿徳旧臣、歴事四世、功存社稷;斤弁捷智謀、名聞遐迩;同暁解俗情、明練於事;観達於政要、識吾旨趣;浩博聞強識、精察天人;堆雖無大用、然在公専謹。以此六人輔相太子、吾与汝曹巡行四境、伐叛柔服、足以得志於天下矣。」
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北魏は王朝としては150年程度の、どちらかというと短命の部類であるが、文化的には独自のものをもっていた。仏教文化では、雲崗や龍門の石窟寺院が有名だし、書道の観点から言えば碑文の字体に独特の味がある。

大学時代、中央公論の書道全集を見ていたころ、北魏の石碑のなんともごつごつした字体は野暮ったく、稚拙で粗野のように思われ、全く好きになれなかった。私の一番の好みは、欧陽詢と褚遂良であった。欧陽詢の凛とした端正さ、褚遂良の流麗な筆使いにしびれていた。それで、北魏の石碑だけでなく、マツコ・デラックスのような肉太の顔真卿の字体も好きではなかった。

それから、うん十年たった今では、もちろん欧陽詢と褚遂良は依然として大好きであるが、北魏の石碑もマツコ・デラックスの顔真卿も一面では素晴らしいと感じる。許容範囲が広くなったのか?感性が鈍ったのか? はたまた、書の真髄を悟ったのか?

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』

続く。。。
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【座右之銘・93】『ego vero bona mea mecum porto』

2016-04-24 21:10:08 | 日記
『古事記』に、兄と夫の板挟みになった女性の哀しい話が載っている。

沙本毘売命(狭穂姫命ともいう)は垂仁天皇の皇后であったが、兄の狭穂毘古が垂仁天皇を殺して帝位を奪おうと企み、妹に短剣を渡して、昼寝している間に刺せと命じた。垂仁天皇が沙本毘売命のひざまくらで昼寝をしている時に刺そうとしたが、どうしても刺し殺すことができず、涙を流してしまった。その涙で昼寝から醒めた垂仁天皇は事情を聞いて、狭穂毘古の館を攻めた。妹の沙本毘売命は、兄の館に逃げ込んだ。垂仁天皇は戻ってくるよう説得したが、沙本毘売命の兄と運命を共にする決心は変わらなかった。結局、館は火に包まれて燃え、兄妹とも焼死してしまった。自分の子供や夫より兄を大切にしたのだ。



話は変わるが、古代のギリシャやローマの戦いでは、決まって大きな町が狙われる。町を何万にも兵で包囲し、食糧攻めにする。籠城している側の食糧が尽きるか、あるいは戦意を無くすまで待つのが攻め手の常套手段であった。陥落すると、町は略奪され、町の住人は殺されるか、命は助かるものの奴隷として売り飛ばされるか、どちらかであった。

どの町の出来事は記憶が定かでないが、あるギリシャかローマの町が陥落した時、攻撃した側の将軍が人情味あふれ太っ腹で、男どもは皆殺しにするが、女達は自由に町から出て行ってよいとの許可を与えた。その上、自分の力で持てるだけのものを持ち出してもよいとまで言った。その時、女たちはみな、力を振り絞り、それぞれの夫を背負って行ったという。(ただし、未婚の女達が誰を背負ったのかは、確かではないが。。。)

古代、ヨーロッパの女たちは、沙本毘売命と違い、兄よりも夫を大切にしたということだ。

さて、本題の『ego vero bona mea mecum porto』とは、紀元前後のローマの文人、ウァレリウス・マクシムス(Valerius Maximus)の『著名言行録』(Facta et dicta memorabilia)の巻7-2 に載せられている。

その昔、ギリシャの都市、プリエネ(Priene)が敵に攻められた時、市民は皆、家財道具や金銀財宝を山と積んで逃げたが、ただ一人、ビアス(Bias)だけは手ぶらで逃げた。その様子をみた人が、ビアスに「あなたはどうして何も持っていないのですか?」と尋ねた。するとビアスが「とんでもない、財産は全て持っていますよ!」と答えた。ビアスにとって唯一の財産とは、金銀財宝でも、他の誰でもなく、彼自身であったのだ。流石にビアスはギリシャの七賢人の一人と言われるだけのことはある。
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想溢筆翔:(第252回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その95)』

2016-04-21 22:27:12 | 日記
前回

【194.掌握 】P.933、BC37年

『掌握』の文字通りの意味は「手の中(掌)に握る」ということである。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)では下記の表から分かるように、合計で76回見える。初出は史記であるので、相当古い単語だ。ただし『春秋左氏伝』には見えないので、戦国時代以降の単語であると分かる。また、近代になるとあまり用いられなくなることから、どちらかというと古代に多く用いられた単語であると分かる。



資治通鑑では14回見えるが、その中でも初期のケースを見てみよう。

時は、前漢末の元帝の時代。蕭望之を始めとする儒者と宦官の間の政権闘争が激しくなり、結果的には宦官が実権を握ることになる。その中でも石顕の勢いは並ぶ者がない程であった。その様子を見てみよう

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石顕の威光は日々に高まっていき、公卿を始めとしてみな石顕を恐れて、一足歩くにもびくびくしていた。石顕と同じ宦官仲間で中書僕射の牢梁、同じく宦官仲間で少府の五鹿充宗らと盟友関係を結んだ。彼らにすり寄ってくるものは皆、高い官位を得た。それで、世間では次のようなざれ歌をつくった。「牢や、石や、五鹿客や!大臣の印章はぞろぞろ、紐はぶらぶら!」

石顕威権日盛、公卿以下畏顕、重足一迹。顕与中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結為党友、諸附倚者皆得寵位。民歌之曰:「牢邪、石邪!五鹿客邪!印何纍纍、綬若若邪!」
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資治通鑑では石顕の羽振りの良さをこのように、述べたあと、石顕の内心の不安を次のように描写する。
 『石顕は政界の頂点にいて、全ての事柄を掌握しているとは自負していたものの、天子が周りの者たちの意見に動かされて、自分を遠ざけるのではないかと恐れていた。』
 (石顕内自知擅権、事柄在掌握、恐天子一旦納用左右耳目以間己…)


石顕は自分の力はあくまでも皇帝の支持があればこそ、ということをよく知っていた。元帝の死去と共に石顕の権力も砂上の楼閣のごとく崩れ落ちた。最後は、家族と共に故郷に戻る途中、憂悶死した(石顕与妻子徙帰故郡、憂懣不食、道死)。

続く。。。
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