限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第346回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その189)』

2018-02-22 10:57:02 | 日記
前回

【288.談笑 】P.1917、AD190年

『談笑』とは「笑ったりしながら、なごやかに話す」との意味。古くは孟子(巻12、告子章句下)に見えるが、王引之によると、この場合は「嘲笑」の意味であるとのこと。「笑う」動作が冷たいか、和やかか、の差であろう。

「談笑」と類似の単語「冷笑」「嘲笑」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。「談笑」が宋史に24回、使われているのが突出している。また「冷笑」や「嘲笑」は史書にはほとんど使われていないことが分かる。「嘲笑」は現在では通常「あざけり笑う」の意味で用いられるが、『北史』では、「諧謔(ジョーク)を言って人を笑わせる」のような意味で用いられている。中国も同じ漢字を使っているから同じ意味だと考えると、とんでもない誤解をすることもある、ということだ。



さて、資治通鑑で「談笑」が使われている場面を見てみよう。三国志の呉の英雄、孫堅は「度量が大きい」と言われているがそのことを裏付ける場面だ

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この冬(AD 190年)、孫堅が部下たちと魯陽城の東櫓で宴会していたところ、突然、董卓が数万人の軍隊を率いてやってきた。孫堅は酒壷を皆に回して、談笑し、兵士たちを整頓させ、勝手に動くなと命じた。その後、敵の騎兵隊が続々と増えてきたので、孫堅もようやく腰をあげて、部下たちを先導して城の中に入って行った。そして言うには、「先ほど、敵がやってきた時にすぐ立たなかったのは、急いで立つと、兵士たちが先を争って混乱し、踏み殺される者もでよう。そうなると、大混乱となり諸君も城に入れなかったかもしれないぞ。」董卓は、孫堅の軍隊が整然としているのを見て、これでは攻めても勝てないと考え、帰っていった。

冬、孫堅与官属会飲於魯陽城東、董卓歩騎数万猝至、堅方行酒、談笑、整頓部曲、無得妄動。後騎漸益、堅徐罷坐、導引入城、乃曰:「向堅所以不即起者、恐兵相蹈藉、諸君不得入耳。」卓兵見其整、不敢攻而還。
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孫堅は、敵の大軍が攻めてきても、慌てず、落ち着いて行動したおかげで、混乱することなく、全員が無事に城の中に入ることができた。危機の時に、大将があたふたしたら、下の者たちは一層混乱することを孫堅は重々承知していた。それで、自分の命が危いことを分かりつつ、軍全体を安全にすることを優先した。

漢の名将、韓信は高祖・劉邦を「陛下は兵に将たるあたわず、而して、将に将たるに善し」と評したが、「将に将たる器」というのは孫堅にも当てはまると言えよう。

続く。。。
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沂風詠録:(第298回目)『良質の情報源を手にいれるには?(その3)』

2018-02-18 18:04:51 | 日記
前回

【承前】

A-1.ギリシャ語辞書

A-1-2 Benseler Griechisch-deutsches Schulwörterbuch

1999年にギリシャ語の独習を始めた時、最初は簡便な辞書を使っていた。具体的には、英語では "An intermediate Greek-English lexicon"by Liddell and Scott で、ドイツ語では "Langenscheidt Taschenwörterbuch Altgriechisch"。Liddell and Scott の Intermediateは、充実した辞書でたいていの用途にはこれで間に合っていたが、Langenscheidtはあまりにも簡単すぎてすぐにもの足りなくなった。もっとも、この辞書には独希(Deutsch-Altgriechisch)部分があるので、現在でも重宝している。



ついでに言えば、この Langenscheidt のギリシャ語フォントは適度に丸みがついていて、私は大好きだ。と言うのは、ギリシャ語のフォントは、私の眼には、辞書出版の各社が勝手に作っているように思えて、なかなか趣きのあるフォントが少ない。とりわけ、フランスの出版社のギリシャ語フォントは私のセンスに合わないことが甚だしい。フランス語で、ギリシャ古典を読むには、Budeというシリーズがあるが、英語でいうLoebのようなものだ。ギリシャ語のフォントはと言えば、とても文化愛好の点ではヨーロッパでも屈指のフランスらしからぬダサいものだ。このようなフォントで印刷されれば、古典ギリシャ語を学びたくとも、学ぶ気持ちが失せてしまうであろう。

閑話休題

さて、Langenscheidt が物足りなくなったので、ドイツのアマゾンのサイト amazon.de でいろいろと調べると、Benseler の辞書に当たった。Schulwörterbuch というのは、日本語でいう「学習辞典」という意味で、ギムナジウムでギリシャ語を学ぶ学生のために編纂されたということが分かる。この辞書は送料こみで、6000円位するのだが、 Webでは中味は見ることができなかったが、思い切って購入したが、良い買い物だった。

Mengeでも取り上げた、 syrigma, syrinx, syrizo のBenselerの部分を下に示そう。



syrigma の部分に(syritto)とあるのは、、名詞の syrigma は動詞の syritto に由来するということを示す。すぐ下に syrizo,syritto があるが、Mengeで書かれていたような語源的な説明は一切ない。この辺りが、Schulwörterbuch の物足りないところであろう。

ただ、説明文は学生にも分かりやすくなっている。Menge では syrigma とは das Pfeifen(吹くこと)と説明し、後ほど c)に [一般的に叫び声、例えば象。 überhaupt Geschrei (z.B. des Elephanten) ] と追加の説明をする。 Benseler では、この説明が本文として書かれているので、見落とすことがない。( das Pfeifen, insbesondere Auspfeifen, dann der Ton der Pfeife oder der pfeifende Ton des Elefanten; überhaupt pfeifender, zischender Ton)

このBenseler のドイツ文は Menge と違って亀甲文字でなく、普通のローマ字であるのはうれしい。しかし、後日述べるが、フランス語―ギリシャ語の Bailly を使って、ギリシャ語の語源に興味を抱くようになってからは、Benseler では物足りなくなった。それで現在では、専ら Menge を使っている。それでもたまに、この Benseler を使って、ドイツ語がローマ字で印刷されていると、非常に読みやすく、緊張がほぐれる。

続く。。。
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想溢筆翔:(第345回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その188)』

2018-02-15 16:21:17 | 日記
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【287.狂暴 】P.4083、AD465年

『狂暴』とは「狂ったように暴れるさま」という。つまり動作に対して言う。「きょうぼう」には通常「凶暴」という漢字が使われるが、こちらの方はどちらかといえば、動作ではなく、性質を表すようだ。

「狂暴」に類した単語、「凶暴」と「強暴」の3つを二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下表のようになる。



3つの中では「凶暴」が一番多く使われていることが分かる。また、いづれも漢代以降に使われだした、比較的新しい単語であることが分かる。

さて、資治通鑑で「狂暴」が使われている場面を見てみよう。登場人物は前回も登場した、南朝・宋の廃帝、劉子業(以下、帝という)だ。またもや、無実にも拘わらず、沈慶之が犠牲になった。

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青州刺史の沈文秀は沈慶之の弟の息子である。赴任地(鎮)へ行くために、配下のものを引き連れて白下に宿泊した際、伯父の沈慶之に会っていうには「帝の狂暴さはごらんのように手が付けられません。遠からず、必ずや禍がふりかかりましょう。しかも我が一門は、帝から信頼されていますので、世間では我々も帝の一味だと言っています。しかも、帝のような人は愛憎がころころ変わります。とりわけ、疑い深い性格なので、思いもかけない難癖をつけられると、にっちもさっちも行きません。今なら皆と力を合わせれば帝を倒すことは全く難しくありません。このようなチャンスは滅多にありません。是非とも実行しましょう。」と再三、言ってついに涙をながして説得するも沈慶之は首を縦に振らなかった。沈文秀はしかたなく、赴任地へ出立した。

青州刺史沈文秀、慶之弟子也、将之鎮、帥部曲出屯白下、亦説慶之曰:「主上狂暴如此、禍乱不久、而一門受其寵任、万物皆謂与之同心。且若人愛憎無常、猜忍特甚、不測之禍、進退難免。今因此衆力、図之易於反掌。機会難値、不可失也。」再三言之、至於流涕。慶之終不従。文秀遂行。
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沈慶之は、甥の沈文秀の提案には賛成せず、あくまでも現在の帝を補佐して、政道を盛り立てていこうとした。ところが、帝は以前から、沈慶之をいつかの時点で殺そうと思っていた。ついに、もう一人の目障りな何邁を粛清する時に、必ずや沈慶之が文句を言うであろうから、その時についでに殺そうと画策した。予測どおりの進展となり、沈慶之は一族の沈攸之に殺されてしまった。中国の政変の常で、沈慶之、一人の死で終わるわけがなく、息子たちを含め多くの人間が巻き添えをくって死んだ。この部分の経緯は、この通りだが、流石に資治通鑑は、事件の劇的展開をつぶさに見せてくれる。概略では全くつまらない事件でも、ディテールまで読むと、ぞくぞくするホラー映画となるのが、資治通鑑の文章がもつ醍醐味だ。

続く。。。
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【座右之銘・111】『indisertam prudentiam quam stultitiam loquacem』

2018-02-11 18:34:15 | 日記
ディベートと聞くと、言論の格闘技で、相手を圧倒するような物の言い方をするものだと思っている人がいる。確かに、アメリカの大統領候補者の議論などを見るとそのような印象を持つのも無理はないと思える。しかし、「雄弁は銀、沈黙は金」という諺も西洋にはある。これはどうやら、元来はドイツ語の諺のようで、
 Sprechen ist silbern, Schweigen ist golden.
 (Speech is silvern, Silence is golden.)
というのだそうだ。

この諺の元になったかどうかは分からないが、すでに、ローマの雄弁家であるキケロ(『弁論家について』巻3-142)には次のような言葉が見える。
【原文】indisertam prudentiam quam stultitiam loquacem
【私訳】間抜けな雄弁より、気品ある訥弁
【英訳】uneloquent good sense to loquacious folly.
【独訳】Klugheit ohne Redegabe als redselige Dummheit

この句の前の文で、キケロは「教養ある人間は、雄弁と哲学の両方をマスターするべきである」と述べ、そして「もし、どちらか一方しか望めない場合には」と前置きしてから、この句を述べた。つまり、この句「indisertam prudentiam quam stultitiam loquacem」は望みうるベストではなく、次善のチョイスということになる。



この句を読んでいると、以前、東大の卒業式で大河内一男総長が「肥った豚よりも痩せたソクラテス」と言ったという事を思い出す。
本来は、ジョン・スチュアート・ミルの次の言葉が出典だそうだ。
"It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied;better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied."
【注意】もっとも大河内総長の文句には誤解があったとウェブ上の記事は伝える。

キケロの言葉に重ね合わせると、得々としゃべっている弁士を内心では憐れんでいる教養人、という図式が浮かびあがる。ショーペンハウアーに共感を抱いていた、元・東大教授の斎藤忍随氏によると、「賢者の集まりにおいては、愚者の飾りはただ沈黙のみ」というサンスクリットの箴言もあるようだ。歴史的に見ると、「弁論」(rhetoric)は日本人には馴染みが薄い。「弁論術」の教科書を読めば、すぐさま実践で使えるようになると早とちりしてはいけない。弁論術をものにし、正しく使えるようになるには、相当の訓練を必要とするということだ。
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想溢筆翔:(第344回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その187)』

2018-02-08 22:48:36 | 日記
前回

【286.詰問 】P.4079、AD465年

『詰問』とは「相手を責めて問いただすこと」の意味。つまり、単に質問するというのではなく、相手に落ち度などがあるという前提で「問うて責める」という意味だ。ところが、「詰」は辞海(1978年版)でも辞源(1987年版)でも単に「問」という意味をまずは掲げる(同義語提示)。しかし、辞源(1987年版)では2番目の意味として「審訊」を挙げ、《礼記・月令》の注を引いて「詰、謂問其罪窮治之也」(詰とはその罪を問い、これを窮治するのいい也)と説明する。ここでようやく「責める」のニュアンスがあることが分かる。

「詰問」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように、漢書が初出だと分かる。



さて、資治通鑑で「詰問」が使われている場面を見てみよう。

南朝・宋の廃帝となった劉子業(以下、帝という)が王族の一人、義陽王の劉昶(りゅう・ちょう)を疑って殺そうとした場面。

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徐州刺史で義陽王の劉昶は、むかしから世祖(孝武帝、劉駿)から嫌われていた。それで、民間では、劉昶が反乱を起こすだろうという噂が流れていた。この年(AD 465年)にその噂が一段と大きくなった。帝(劉子業)は常々、周りの者につぎのように言っていた。「ワシは即位してから、反乱に対して警戒を怠ってきた。なんとも、頭の痛いことだ!」劉昶は典籤である蘧法生に帝に奉る書を与えて都の建康へ送り、入朝の許可を求めた。帝は法生に向かって次のように言った「お前の主である義陽王は太宰と組んで謀反を起こそうとしていると言うではないか!ワシは、ちょうど征伐しようと思っていたところだ。もし、都に戻ってくるというのは好都合だ!」そして、何度も蘧法生に「義陽王が謀反を企んでいると言うのに、なぜ知らせなかった?」と詰問した。蘧法生は恐ろしくなって彭城に逃げ帰った。帝はそこで、軍隊を出動させ、劉昶を討伐せよと命じた。都の内外では厳戒態勢がとられた。帝自ら、軍隊を率いて揚子江を渡った。沈慶之に諸軍を統括させ。先鋒隊とした。蘧法生が彭城に戻るや、劉昶は即座に兵を集めて立ち上がった。檄を自分の統治する領土内の各地に飛ばしたが、誰も応ぜず、劉昶の送った使者を斬った。将軍や補佐の文官も武官もみな劉昶に従わなかった。劉昶はこれでは到底反乱を起こせないと悟り、母と妻をすて、愛妾を引き連れて、供のもの数十人と共に馬に乗って北門から北魏に逃亡した。劉昶は学問がある上に、文章も上手であったので、北魏では重んぜられた。公女を娶り、侍中、兼、征南将軍、兼、駙馬都尉に任ぜられて、丹楊王にも封ぜられた。

徐州刺史義陽王昶、素為世祖所悪、民間毎訛言昶当反;是歳、訛言尤甚、廃帝常謂左右曰:「我即大位以来、遂未嘗戒厳、使人邑邑!」昶使典籤蘧法生奉表詣建康、求入朝、帝謂法生曰:「義陽与太宰謀反、我正欲討之。今知求還、甚善!」又屡詰問法生、「義陽謀反、何故不啓?」法生懼、逃還彭城;帝因此用兵。己酉、下詔討昶、内外戒厳。帝自将兵渡江、命沈慶之統諸軍前駆。法生至彭城、昶即聚兵反;移檄統内諸郡、皆不受命、斬昶使;将佐文武悉懐異心。昶知事不成、棄母、妻、攜愛妾、夜与数十騎開北門奔魏。昶頗渉学、能属文、魏人重之、使尚公主、拝侍中、征南将軍、駙馬都尉、賜爵丹楊王。
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義陽王(劉昶)は南朝・宋の王族の一員でありながら、故国を逃げ出して、敵国である北魏に亡命した。北魏も義陽王(劉昶)を素直に受け入れただけでなく、北魏の帝室の公女を嫁した。このあたりを読むと、中国というのは、現在でこそ一国ではあるが、本来はヨーロッパのように、幾つも民族や言語の異なるブロックの集まりであることが善く分かる。

ところで、義陽王(劉昶)は、たとえ疑われたとは言え、故国を捨てて敵国・北魏に逃亡した。日本人には到底考えることのできない生き方だ。古代ローマではコリオラヌス(コリオラーヌス)という武将がいたが、敵国に逃亡しただけでなく、後に、故国のローマを攻めた。いづれにせよ、日本人の倫理観や価値観だけで世界中の現象を理解するのはなかなか難しいことがよく分かる。

【参照ブログ】
 希羅聚銘:(第34回目)『敵方に亡命したコリオラーヌス』
 希羅聚銘:(第35回目)『コリオラーヌスの母、自由の国で死にたいと』

続く。。。
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百論簇出:(第217回目)『尊厳死の権利』

2018-02-04 18:00:56 | 日記
最近(2018/01/21)、保守の評論家である西部邁氏が「自裁死」したとの報道があった。多摩川での入水自殺だそうだ。私はクリスチャンでないので、自殺が必ずしも神に対する冒涜だとか、悪徳だとは思わない。ただ、(多分)入水自殺がかなりの苦しみを伴うものだと思うので、可哀そうだとおもう。

最近のブログ
【座右之銘・105】『Mendacium neque dicebat nequepati poterat』
に、古代ローマ有徳の士・アッティクスが人生の最後において、苦しみを逃れるために尊厳死を選んだと次のように述べた。

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アッティクスは大富豪であったにも拘わらず、最後まで質素な生活スタイルを変えなかった。老年(77歳)になって直腸ガン(?)の痛みに耐えきれなくなって、家族に餓死することを宣言し、飲食を一切断って5日後に逝った。誠に潔い人であった。自分の生に尊厳を持てる限り、精一杯生き抜いた(vixit)人であった。(合掌)
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自分の人生を途中で放棄したのではなく、精一杯、生き抜き、最後の段階で、不治の病による堪えがたい苦しみと、自分が人生で果たすべき役割を勘案して死を選んだということだ。



現在、欧米諸国ではキリスト教の伝統にも拘わらず、尊厳死(death with diginity, euthanasia)が認められている国、州がある。具体的には、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、カナダ、アメリカ(カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、コロラド州、バーモント州)。この考えは、「個人の自由」が何よりも貴いという彼らの伝統に根差しているように私には思える。よく見かけるように、病床では医師が本人の意志を無視して、勝手に不要な延命手術や延命治療をするが、西部氏はそういった「個人の自由」を侵害するような医療行為に対して断固反対したのだ。もし、尊厳死が認められる国であったなら、アッティクスのように、死に行く人が後に残る家族や友人に看取られてに安らかな最後を迎えることができたはずなのに、現在の日本では本人も苦渋の決断をし、残った者も事件性の死のために、警察やマスコミに対して、手間のかかる後始末をさせられる破目となってしまう。

日本の現行法律に尊厳死の条項がないのは、邪推すれば医師の儲け口をなくすことに医師会が反対しているように私には感じられる。死刑制度にしろ、尊厳死にしろ、現在の日本には死に対しては、極力議論を避けようとする風潮がある。何かと言えば、日本人は「ほっこりした」「気配り」を大切にすると言いながら、実態はそれに反することも多い。老老介護の問題もそうだが、社会全体にどこかしら、非常に非人間的な側面を感じる。

近年の働き方改革、生活保護、教育の無償化の議論にしてもそうだが、このような問題が持ちあがる都度、何らかの既得権益者の代弁者の見えない大きな圧力をかけて、結局、問題の本筋とは無関係な制度が出来上がり、本質がほとんど改善されないまま、不要なところに莫大な税金が投入されてしまう。高橋まつりさんや西部邁氏の死が犬死に終わらないように願う次第だ。
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想溢筆翔:(第343回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その186)』

2018-02-01 18:01:17 | 日記
前回

【285.抑制 】P.4074、AD465年

『抑制』とは「おさえとどめること」という意味。この語は、辞海(1978年版)にも辞源(1987年版)にも載っていない。但し、Webの漢典には、「圧抑控制」と説明する。(説明というより、圧と控をつけて四文字熟語にしただけの話だが。)また、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でも下の表のように合計 7回しか見えない。その内資治通鑑で4回使われている。「抑制」が日本では通常に使われていることを考えると、別の単語が使われていたと考えられる。ただ、現在の中国語では「抑制」が日本語と同じ意味で使われているようだ。明らかに明治以降、日本語から中国語に取り入れられた単語である。



資治通鑑で「抑制」を使われている場面を見てみよう。南朝宋の第5代皇帝に就任した劉子業が目障りな実力者を殺した場面。

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廃帝となった劉子業(以下、帝という)がまだ幼いころにすでに気が短く凶暴であった。即位した当初は、太后や大臣たち、および戴法興を恐れて遠慮していたが、前年に太后が亡くなり、帝自身も歳をとるに従い、ようやく本性を現して勝手にふるまうようになった。戴法興はそこで、帝を抑制しようとして、帝に向かって「このような振る舞いをなさるとは、営陽王の二の舞になってもいいのですか!」そう言っても、帝には全く応えなかった。帝がかわいがっている宦官の華願児に無暗と褒美を与えた。戴法興はいつも、この命令を改ざんして減らしたので、華願児に恨まれていた。

帝が華願児に街中にでて、民が謳っている歌詞を調べさせたところ、華願児は宮中に戻ってきて帝に「街中では誰もが『宮中には天子が二人いる。戴法興が本物の天子で、帝が偽物だ。』また、帝は宮中の奥深くにいるので外界と接触できないことをいいことに、戴法興が太宰(劉義恭)や顔師伯、柳元景らとグルになっています。来客がいつも数百人いて、官民ともその勢力になびかない人はいません。戴法興は先帝(孝武帝)に仕えていたので、長年にわたり宮中に勢力を張っています。今、戴法興は新たに他人と組んで王朝を起こそうとしています。そうなるとこの玉座も帝のものではなくなることでしょう。」このように唆されたので、帝は戴法興を罷免し、故郷に戻るよう命じた。その後、更に遠方に移した。八月、戴法興に死を賜った。

廃帝幼而狷暴。及即位、始猶難太后、大臣及戴法興等、未敢自恣。太后既殂、帝年漸長、欲有所為、法興輒抑制之、謂帝曰:「官所為如此、欲作営陽邪!」帝稍不能平。所幸閹人華願児、賜与無算、法興常加裁減、願児恨之。

帝使願児於外察聴風謡、願児言於帝曰:「道路皆言『宮中有二天子:法興真天子、官為贋天子。』且官居深宮、与人物不接、法興与太宰、顔、柳共為一体、往来門客恒有数百、内外士庶莫不畏服。法興是孝武左右、久在宮闈;今与他人作一家、深恐此坐席非復官有。」帝遂発詔免法興、遣還田里、仍徙遠郡。八月、辛酉、賜法興死。
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なんともでたらめな話ではないか!戴法興に落ち度が全くないにも拘わらず、宦官の讒言で宮廷から追い出されただけでなく、自殺させられた。ここには書かれていないが、当然のことながら、戴法興の子孫も無事ではすまなかったはずだ。

学校の歴史では、中国の政治体制は専制君主制だった、と習うが、資治通鑑の記事から政治の実態を見るとそうではなかったことが分かる。ここに見られるように実際には全く権力のない宦官のような人間の一言、二言で帝の気持ちが大きく左右されていた。つまり、中国という国は名目上は皇帝が専制的に治めていたようでも、実際には精神的なあやつり人形にすぎない皇帝はかなり多くいた。

続く。。。
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【座右之銘・110】『saepius opinione quam re laboramus』

2018-01-28 22:05:03 | 日記
中国の有名な故事成句の一つに『杞憂』というのがある。
『列子』の天瑞篇に載っているが、昔、杞の国で、すこし知恵の足りない人が、天地が崩れて落ちるのを憂えた。それを聞いた人が、「天や星は空気の集まりなので、たとえ落ちて当たっても、あたかも風に吹かれるほどのものだ。傷つくことはないから心配するな」となだめた。この説明は、前提条件(天や星は空気の集まり)が正しいかどうかの実証はされていないとはいえ、論理的にはある程度納得できるものをもっている。ただし、空気が落ちてくる時のスピードによっては、体が耐え切れないほどの衝撃を受けることがあることは見逃していると、現代の物理学を知っている人間は言える。


【出典】最近の調査によると、人間の体はだいたい20%が水分で、80%がストレスだってさ。

いづれにせよ、杞の人が要らぬ心配をしてくれたおかげで、「杞憂」という味わい深い語句を我々は得ることができた。それに反して、管見では、西洋ではこれに該当するぴったりとした単語はなさそうだが、フレーズとなるとセネカの『ルキリウスへの道徳書簡・13』に次のようなフレーズがある。
【原文】saepius opinione quam re laboramus(Seneca, Epistal 13-4)
【私訳】人は多くの場合、事実よりも空想に憂う。
【英訳】we suffer more often in imagination than in reality.
【独訳】öfter leiden wir unter einer Einbildung als unter einer Tatsache.

セネカの主張は、人は将来に起こるであろう不幸なできごとを勝手に妄想し、それをだんだん大きく膨らまし、ありもしないことで苦しむバカなことをしているというものだ。将来に起こるかどうか分からない不幸は現実には今起こっていないのであるから苦しみではない。だから不幸が起こってから対処法を考えても遅くない、と楽観的に構えておけ、というものだ。しかし、根底には、どのような状態になっても賢者たるものは心を揺り動かされてはならないというのが、セネカの信奉するストア派の一貫した主張である。つまり、実際に不幸が襲ってきたときが、賢人かどうかが試される時であるから、むしろウェルカムだとも言う。

セネカの主張からすると、杞憂したことが実際に発生すれば、それは自分が賢人であることを示す格好のチャンスとなると言うことだろう。
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想溢筆翔:(第342回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その185)』

2018-01-25 16:22:54 | 日記
前回

【284.左遷 】P.954、BC32年

『左遷』とは「高い官職から低い官職落とすこと」をいう。三国志の学者・韋昭は次のように説明する。「一般的に右が貴く、左が賤しい。これ故、俸禄やランクを落とすことを『左遷』という」(地道尊右、右貴左賤、故謂貶秩為「左遷」)

「左遷」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。初出は、史記であり、前秦時代には使われていなかった単語のようだ。かなり頻繁に使われているが、後漢書と陳書には見えない。解せないのは、後漢時代には「党錮の禁」があって、宦官と士大夫が激突し、政治が大混乱したにも拘わらず「左遷」が全く使われていない。私だけかもしれないが、なんだか妙な感じがする。



さて、資治通鑑で「左遷」が使われている場面を見てみよう。前漢の末期、元帝が音曲に耽溺し、宦官に政務を委ねたため、宦官が勢力を大きく伸長した。その筆頭が石顕であった。石顕の勢いを象徴するのが、太子太傅という高官の蕭望之をも自殺に追い込むことができたという一件だ。しかし、その絶頂も元帝が崩御し、成帝が即位すると、脆くも崩れさり、今度は一転して暗澹たる運命をたどることになる。

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(成帝は)石顕を長信中太僕に転出させ、年棒を中二千石に落とした。石顕は帝の信任を失い権力の座を追われたので、丞相と御史大夫はここぞとばかり、石顕のかつての悪事を帝に暴露した。石顕の一派である牢梁や陳順はいづれも皆免職となった。石顕は妻子と共に故郷へと向かったが、前途を悲観して、絶食して旅の途上で死んだ。そこで、石顕の引きで官途に就いたものは全員免職となった。少府の五鹿充宗は玄菟太守に左遷させられ、御史中丞の伊嘉は鴈門の都尉に降格させられた。

司隷校尉で涿郡出身の王尊は次のような弾劾文を上奏した。「丞相の匡衡、御史大夫の張譚は、石顕らが権力を独占して、勝手なことをして人々が大いに困っていたことを知っていたにも拘わらず、適切な時期に告発して処罰しなかった。それどころか、阿諛追従して石顕と、ぐるになって皇帝を欺き、国政を誤らせた。大臣の職務を全うしなかったと言うべきだ。…」

激烈な上奏文に、匡衡は身の置き所がないぐらいに縮みあがって、冠を脱いで、自分の罪を認め、丞相と侯爵の印綬を返還したいと申し出た。成帝は、新たに即位したばかりなので、大臣を罰したくなかった。それで、逆に王尊を左遷して、高陵令に格下げした。しかし、官僚の多くは、それでも王尊を慕うものが多かった。

石顕遷長信中太僕、秩中二千石。顕既失倚、離権、於是丞相、御史条奏顕旧悪;及其党牢梁、陳順皆免官、顕与妻子徙帰故郡、憂懣不食、道死。諸所交結以顕為官者、皆廃罷;少府五鹿充宗左遷玄菟太守、御史中丞伊嘉為鴈門都尉。

司隷校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚、知顕等顓権勢、大作威福、為海内患害、不以時白奏行罰;而阿諛曲従、附下罔上、懐邪迷国、無大臣輔政之義、皆不道!…」

於是衡懼、免冠謝罪、上丞相、侯印綬。天子以新即位、重傷大臣、乃左遷尊為高陵令。然群下多是尊者。
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上の文で分かることは次の2つだ

【1】権力は一連托生
顕官(この場合は、石顕)が失脚すると、関係者は善行/悪行や罪の有り/無しに関係なく、同時に失脚するということだ。つまり、派閥というのは文字通りの一蓮托生である。現在でも、先ごろ重慶の書紀であった孫政才が失脚したが、その際に、重慶市関係者も(一時的か恒久的かは分からないが)巻き添えを食った。詳細は下記の記事参照。

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…中国には「川に落ちた犬は徹底的に叩け」との常套句があるが、孫氏の場合もその例に漏れておらず、重慶市幹部10数人が取り調べを受けているほか、党大会への出席資格がある重慶市代表団43人のうち、3分の 1の14人が代表団のリストから外されていることも分かった。…
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【2】正しい指摘でも逆に左遷

王尊の指摘は正統ではあったが、皇帝の気に入らなかったので、無実にも拘わらず逆に左遷させられる破目となった。ちょうど、司馬遷が李陵をかばったために不当にも武帝に宮刑に処せられたのと状況は似ている。そこで、司馬遷は筆の力を借りて『伯夷叔斉伝』では、恨みをこめて「天道は是か非か」(天道、是邪非邪)と暗に武帝の所行を糾弾した。中国の歴史をずっと眺めると中国では「非」のケースが日本よりかなり多いと私には思える。

この意味で、中国では最高権力者とそれ以外は、大きな差があるということが分かる。つまり、最高権力者というのは、孫政才と毛沢東とを比較しても分かるが、悪事をしていても我が身が安全に保てるのが最高権力者で、罪を問われるのが最高権力者でない人、ということだ。

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ところで、本論の主旨とは関係のない話だが、資治通鑑全文に句点を打ち、書き下し文にした公田連太郎という人がいる。辻双明の『禅骨の人々』には公田連太郎先生の話が載っているが、非常な勉強家でかつ仕事熱心な人で常人には真似できない程、膨大な仕事量をこなした人だった、との記述がある(ように記憶している。)また、他人の漢文力をめったに誉めない吉川幸次郎も公田連太郎だけは、「先生」と呼び、公田の漢文解釈力については「自分が見た限り、間違いは一つもない」と敬意を表している。

ところで、以前のブログ
 百論簇出:(第149回目)『還暦おじさんの処女出版(その3)』
に書いたように私が角川の『本当に残酷な中国史』を出版する際、漢文の読み誤りがあっては読者に失礼だと思い、公田連太郎の続国訳漢文大成(全16巻)を購入した。

現在でも時たま参照するが、都度、新たに教えられる点が多々あり、感謝している。ところが、今回、上の部分を読んでいる時、図らずも公田の読み間違いを見つけた。


ここで、左側の文が公田の書き下し文で、右側の文が中華書局の文である。

公田の文では、司隸校尉の王尊が丞相の衡と御史大夫の譚を弾劾したと述べ、その弾劾内容が「知顯等顓權勢…」と解釈している。一方、中華書局の文(注釈を省略)では、
 司隸校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚、知顯等顓權擅勢…」
と区切って、弾劾内容の文が「丞相の衡と、御史大夫の譚は…」となっている。

この部分の、「丞相衡、御史大夫譚」という書き方は丞相の匡衡の姓である「匡」や御史大夫の張譚の姓である「張」を省略している。この全体の文はここに掲げたように「石顕遷長信中太僕…」から始まっている。つまり、丞相の匡衡の名前が初めてここで登場する訳だが、資治通鑑の書き方として、初出の人名は地の文では必ず姓をつけるのが通例だ。しかるにここでは、初出にも拘わらず「匡」が省略されているということは、これは地の文ではなく、中華書局のように王尊の上奏文の内容だと解釈するのが妥当だ。

史記に「智者千慮、必有一失。愚者千慮、必有一得」(智者も千慮に必ず一失あり。愚者も千慮に必ず一得あり)とあるが、まさしく公田のような智者にも些細なミスがあり、それが愚者に見つけられてしまったという次第。。。

続く。。。
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百論簇出:(第216回目)『コンピュ―タ碁から学ぶ人としての生き方』

2018-01-21 22:39:29 | 日記
以前のブログ
 百論簇出:(第206回目)『人智がAIに及ばなくなった将棋と囲碁』
ではコンピュ―タ碁の王者・AlphaGOを取り上げ、AlphaGO同士の対戦の棋譜を鑑賞したところまで述べた。昨年以降、AlphaGOはさらに進化してAlphaGO Zeroというとてつもなく強いレベルのコンピュ―タ碁も出現した。

その強豪のAlphaGO Zero 同士の対戦棋譜が下記のサイト
【アルファ碁ゼロの棋譜】レート4775~5185【AlphaGOZero】
に載っていた。その内、いくつか鑑賞して、感じるところがあったのでそれを述べてみたい。

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【1】すらすらと勝つ

以前の人間(李世ドル、柯潔、井山裕太など)との対戦では、コンピュ―タはかなり人間寄りの(つまり、ギャラリー受けする)手を打っていたが、コンピュータ同士の対戦となると、実にお互いに平々凡々(と見えるような)な手を打っている。まるで、往年の名棋士である呉清源や高川秀格のような手で、どこかで激しい競り合いや、戦いが起こるでもなく、すらすらと勝ってしまっている。喩えていえば、起業して一発大きく勝負にでるか、それとも地方公務員となって地道に生きるかの選択では後者のような手だ。当然、終盤ともなると、双方のコンピュータも気付いているので、敗け方のコンピュータが乾坤一擲の勝負を仕掛けてもよさそうなものだが、そういった見せ場が全くなく、ロウソクが消え入るように終局する。

誤解の無いように言っておきたいが、呉清源の碁にはすらすらとは全く対極の力戦(りきせん)の名局もかなり多い。とりわけ橋本宇太郎や坂田栄男とは、ハラハラドキドキ感満載の対局が多い。これは彼らの力量が呉清源とかなり接近していたことに加え、呉清源の本来の棋風が力戦であったからだと私は思っている。しかし、このような相手は少なく、大抵の場合、呉清源がそこまで力を出し切らなくても勝つことのできた、いわば格下の相手との対戦が多かったので、全般的に呉清源の残された棋譜には「すらすら感」が漂っているということだ。



【2】ポカやミスがない

コンピュータソフトも完全ではないので、たまには、見落としもでる。李世ドルがAlphaGOに勝った唯一の局が「石頭絞り」というミスをしたが、これは学習不足ということでポカではない。一方、人間同士の対戦では、思いがけないポカやミスがドラマを生む。私が個人的に今だに「残念だ」と思うのは、将棋の話であるが、1997年のNHK杯の決勝戦で、故・村山聖八段が羽生善治四冠に惜敗した一局だ。村山聖八段が九割九分まで勝っていながら、終盤で致命的な一手でミスをしたために優勝を逃してしまった。その後暫くして、村山聖八段は30歳にならずして不帰の客となった。村山聖八段は当時、すでにガンがかなり進行していたという。脳に十分な酸素が巡らなかったせいで、意識が朦朧となってしまったせいではないかと私は勝手に想像している。(合掌)

【3】ハラハラドキドキ感が感じられない

囲碁の醍醐味の一つが、大石同士の攻め合いである。部分的に数個ずつの石の取り合いのようなチマチマしたものではなく、数十個もの大石同士の肉弾戦(ガチンコ勝負)もある。江戸時代の名人本因坊丈和が阿波の素人棋士の四宮米蔵と闘った文政4年2月15日の局(十番碁第9局)がそうだ。また、丈和がまだ葛野丈和と名乗っていた時、早熟の天才・服部立徹(後の井上幻庵因碩)と、文化11年9月11日の勝負はもっとすごい。ついでに言うと、大正末年(1926年)に行われた本因坊秀哉名人と雁金準一七段の院社対抗戦の初戦は、序盤から大石の大捕り物となり、素人顔負けの力碁(ちからご)で一般大衆が熱狂したという。
こういった棋譜を並べてみると、囲碁の醍醐味を満喫できる、実にいづれの対局もギャラリー受けする素晴らしい名勝負だ。

こういった勝負は、考えてみるにどちらかに読み落としがあるために大石同士が攻め合う破目に至るのである。コンピュータであればそういった危機的な局面の前に、大やけどしない段階で、軽く損切りをするので、こういった局面は理論的には「絶対に」出てこない。つまり、ギャラリー受けする棋譜をコンピュータ囲碁(およびコンピュータ将棋)に求めても詮無いことなのだ。この意味で、現在将棋界を賑わしている、藤井聡太四段の将棋はハラハラドキドキ感が満載なのでギャラリーとしては楽しい。

【4】ストーリー性がない手を打つ

将棋が子供に人気なのは、勝負の目的が「王を取る」と非常に単純であるからだ。一方、囲碁の最終目的は「陣地を多く取る」という事は誰もが知っているが、どのように囲めばいいかという手段に関しては非常に漠然としている。しかし、数理的観点から囲碁を見ると、打つ手は必然的にその局面で陣地を得る期待値が最大(極大)の手でなければいけないはずだ。つまり、次の一手というのは、それまでの経緯とは全く無関係に、その局面全体を見渡して、一番得になる場所に石を置くべきなのだ。人間であれば、局面を静止画として見ているのでなく、一つのストーリー、つまり「石の流れ」の観点で見ているので、今までの経緯、つまり石の流れを無視した手を選択することはなかなか人情として難しい。この点で人間の打つ手というのは、水墨画であり、コンピュータの打つ手は油絵に喩えることもできよう。コンピュータには囲碁の手順からストーリーを紡ぎだすことは不可能だ。

【5】人としての生き方を考えさせる

さて、このようにコンピュータ碁(AlphaGO Zero)同士の対戦を見ていて、ふと、人としての生き方を考えさせられた。それは、コンピュ―タ碁は、すこしでも有利な手が見つかれば、それまでの経緯に全く関係なく、ためらわず有利な手の方を選択するという点だ。その節操の無さは、稀代のプレーボーイのドンファンやカサノバをも優に凌ぐ。人間の生き方に置き換えてみると、コンピュータのように何でもかんでも、利益第一主義に生きていると、お金は貯まるかもしれないが、その人の生き方のポリシーや人生観というものが全く感じられない。この意味で、コンピュータ碁(コンピュータ将棋)は人として生きていく上で「志」「信念」は大切だと教えてくれる恰好の教師ではなかろうか。

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さて、コンピュータ碁のフィーバーが過ぎて、冷静になって考えてみると意外にも今後の進展に関してはバラ色でない景色が見えてきた。それは、私が囲碁や将棋にもとめているのはハラハラドキドキ感であるが、強いコンピュータソフトは「すらすら」と勝つことしか出来ない。残念なことに、こういった棋譜が定石化すると、いわば重苦しい管理社会そのものになってしまうのではないだろうか。

少し前まで、1990年ごろの日本の囲碁は、はっきり言って「陣取りゲーム」であった。半目でも勝ちは勝ちとして、くんずほぐれつの戦いを意図的に避ける軟弱な態度を良しとしたのが日本の囲碁界の主流の考えであった。(当然、例外もあった。結城聡は力戦を敢えて選択した棋士であったが、いかんせん、相手が応じないのですらすら碁になる場合もかなりあった。)

そういった日本の囲碁界の因習を大胆にぶち壊したのが李世ドルや中国棋士たちであった。彼らの深い読みと鋭い踏み込みに、日本の棋士は全く歯がたたなくなり、ようやく日本にも井山裕太七冠が率先して戦いの碁を仕掛けてくれて、今やかなり様がわりした。将棋界も同じく故・大山名人の受け将棋ではなく、藤井聡太四段が一手違いの激しい勝負を仕掛けている。

確かに絶対的基準からすればプロ棋士といえどもコンピュータソフトには勝てない、弱い棋士だらけである。しかし、感情とストーリー性を持つ人間棋士同士の棋譜の方が、遺産となって後世に残っていくのではないかと思う。人としての生き方も、損得勘定で決める人生ではなく、ポカやミスもあるが情熱をもって人生を切り拓いていくのがよいと、コンピュ―碁が教えてくれている。
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