限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第265回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その108)』

2016-07-21 22:08:49 | 日記
前回

【207.無恙 】P.3888、AD440年

『無恙』(つつがなし)は現代では、すこし古風な言い方に聞こえるが、使われないこともない。旅行に出る人に対して「ご無事で!」という意味に使う。そもそも『恙』とは小さな虫で、学名を trombidiumといい、ダニの一種で、噛まれると伝染性の病気もうつるらしく、危険な虫であるようだ。その意味で『無恙』とは「恙虫に噛まれないようにご注意を!」という警告だ。

『無恙』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、史記から始まってずっと使われている。とりわけ特徴的なのは『恙』という字が使われるケースの8割は『無恙』ということだ。つまり『恙』が単独で使われたり、他の単語と組み合わせて使われることは極めて少ないのだ。(参考まで、『無恙』以外に『恙』が使われている熟語としては、疾恙、風恙、心恙、痾恙、微恙、亡恙などが見つかる。ちなみに、最後の2つは『無恙』とほぼ同じ意味を表わす。)



さて、資治通鑑で『無恙』が使われている場面を見てみよう。

南朝の宋の第3代皇帝・文帝の時代の話。文帝には劉義康という頭の回転がはやく、猪突型の実力派の異母弟がいた(少而聡察・率心逕行)。臣下には、兄の文帝より随分と人気があった。兄が病気の時、政治を独断ですすめたため、遂に兄から危険視され、有能な部下達が一網打尽に殺された。(一説には殺された人数は千人ともいう。)

劉義康は処罰されなかったものの、母親の会稽公主は気が気ではない。

 +++++++++++++++++++++++++++
暫くして、文帝が会稽公主の宴会に出席したところ、公主ははなはだ怯えているようすであった。公主は文帝の前に来て、丁寧なお辞儀をしたあと、悲しみのあまり床に崩れてしまった。文帝は、何事が起ったのかと訳が分からず、公主を助けおこした。公主がいうには「息子の義康はいづれは、陛下のお気に召さないようになるでしょう。お願いです、命だけは助けてください」と大声をあげて泣き出した。文帝ももらい泣きした。近くに見える父・武帝の初寧陵を指さして「心配しないでください、今ここで助けると約束しますよ。万が一その約束を破ったなら初寧陵に背くことになります。」そう言って、飲んでいた酒瓶を封じて、次のような書面とともに弟の義康に贈った。「貴方のお母さんの宴で我が弟を思い、残り酒を封じて送る。」おかげで、会稽公主が生きている間は、劉義康は無事で(無恙)いることができた。

久之、上就会稽公主宴集、甚懽;主起、再拝叩頭、悲不自勝。上不暁其意、自起扶之。主曰:「車子歳暮必不為陛下所容、今特請其命。」因慟哭、上亦流涕、指蒋山曰:「必無此慮。若違今誓、便是負初寧陵。」即封所飲酒賜義康、并書曰:「会稽姉飲宴憶弟、所余酒今封送。」故終主之身、義康得無恙。
 +++++++++++++++++++++++++++

一応は、会稽公主の涙で救われた劉義康であったが、結果的には、その後、人気の高さが逆に裏目にでて文帝から自殺を命じられることになった。仏教の信者であった劉義康は自殺を拒み、縊り殺された。享年43。



劉義康の悲劇の結末について、資治通鑑の編者・司馬光は次のように評す。

 +++++++++++++++++++++++++++
私(司馬光)の意見:文帝と劉義康の兄弟の愛情は始めは非常に親密であったが、最後には兄弟の情も、君臣の義も崩壊した。なぜそうなったかを探ってみるに、劉義康の部下の劉湛があまりにも権力を得ようとし過ぎたのが原因だ。詩経にいう「貪ぼり過ぎると、失敗する」とはまさにこの事をいうのであろう!

臣光曰:文帝之於義康、友愛之情、其始非不隆也;終於失兄弟之歓、虧君臣之義。迹其乱階、正由劉湛権利之心無有厭已。詩云:「貪人敗類」、其是之謂乎!
 +++++++++++++++++++++++++++

日本では、徳川家などを見ても、異母兄弟が互いに殺し合いするケースは少ないが、中国ではかなり多い。とりわけ春秋戦国時代などは誰かが即位すると、必ずと言っていいほど、異母兄弟は殺されるか他国に逃亡している。王座が一つしかない以上、血のつながった兄弟といえども中国人には敵にしか見えないらしい。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

百論簇出:(第192回目)『衣食足りて、礼節を知らず』

2016-07-17 19:22:06 | 日記
私も若い頃には分らなかったのだが、還暦を過ぎたこのごろになってようやく分かってきたことがある。それは、中国古典に書かれている多くの麗しき理論や表現は実は真理ではなく「あったらいいなあ~」という願望であることが多いということだ。中には、願望を通り過ぎて「妄想」のようなものも多い。

中国以外でこのような例を挙げると、古くはプラトンの「哲人国家」や、近年のマルクスの共産主義革命がこの「妄想」に該当する。一度も実現されたことが無いにもかかわらず、理念だけが一人歩きし、次第にその「妄想」を無批判的に信じる人が増えると「妄想」が「真理」に変貌する。

マルクスの共産主義革命のケースでは、結局、彼の本来のシナリオであった成熟した資本主義社会からは一つの革命も起きず、識字率の低い国々で実現しなかった。民衆が共産主義の理念を正しく理解した結果、共鳴したので共産革命が成功した、という訳ではなく、革命家に扇動された民衆が無批判的に受けいれたから革命が成功したのだ。つまり、民衆にとっては共産主義であろうと XX主義であろうと、何だって構わなかったのだ。

一方のプラトンの「哲人国家」は、もともとプラトンの本は一般大衆がすんなりと読めるようなものでもなく、また理念としては、読み様によっては「真言立川流」とも受け取れるフリーセックス礼讚のような一節もある。それやこれやで、結局、無批判的に受けいれる民衆がいなかったおかげでマルクスのような悲劇を生まなくて済んだ。



さて、中国の古典に話を戻すと:

戦国時代にまとめられた『管子』という本がある。これは春秋時代の斉の宰相・管仲に仮託した法家の本に分類されているが、実際に読んでみると『呂氏春秋』『淮南子』『説苑』のような雑多な思想の寄せ集めである。(私の好みをいえば、このようなとらえどころなく無節操で猥雑な本の方が、読み応えを感じる。)

この『管子』の冒頭の《牧民編》に「衣食足りて礼節を知る」という人口に膾炙する文句がある。ただし、原文では「倉廩、実ちて、則ち礼節を知る。衣食、足りて、則ち栄辱を知る」(倉廩実、則知礼節;衣食足、則知栄辱)ではあるが。

私も昔は、この句を字義通り「経済発展と共に民衆のモラルが向上する」と解釈していた。ところが、冒頭で述べたように、年をとり、中国古典を数多く読んでくると『管子』のこの句も全然真理ではなく、単なる「妄想」に過ぎないことが透けて見えてきた。最近、こちらから頼んだわけでもないのに、私の確信を裏付けするために中国人がわざわざ日本にやってきたのだった!

というのも、先日、品川駅のホームでエレベータを待っていた時のことだ、私も含め3人の日本人はエレベータの戸の正面を空けて横側に並んで待っていた。戸が開いた、ちょうどその時、数メーター先から中国人の家族が戸の開いたエレベータめがけて突進してきた。待っている我々3人のことなどお構いなく、中国人のお母さんが旅行鞄を2つを押して、さっさと乗りこんだ。我々日本人はその素早い動作に、あっけにとられた。お母さんは乗り込んだが、お父さんと子供は、なにやら躊躇していた。そこで、私は自分のキャスターを押しつつ、エレベータに乗り込んでその中国人のお母さんに「出てください!ここに居る人達が並んで待っていたのですよ!」と注意した。2度ほど言ったが、全く効き目なく、それどころかお母さんは夫と子供に早く乗るようにせかす始末だ。私はもう一度強く「出てください!」と言って、強引にお母さんの旅行鞄の一つをエレベーターから押し出した。それでようやくお父さんが駆け寄ってきて、お母さんと残りの鞄をエレベータから取り出した。この間、中国人は「迷惑をかけた」と一言の詫びも無かった。このお母さんは中国から日本に旅行に来る位だから、中国社会ではそこそこ以上の社会的クラスの人であろう。つまり「衣食が足りた」人でありながら「礼節を知らない」のだ。

しかし、つらつら考えてみると、日本人も昭和30年代から50年代にかけて海外旅行した時には、現地でこのような無礼なマネもあったかもしれない。しかし、その後、2世代ほど経って現在では世界に冠たる「礼節」の国となっている。(礼節が過ぎて、気が詰まる場面もなきにしもあらずだ。)もし『管子』の「衣食足りて礼節を知る」が妄言ではなく真理だとすると、この場面を自分の目でみた中国人の子供が将来、大人になって海外に出た時には、礼節を心掛けるようになっているはずだ。

私の最新の著書『旅行記・滞在記500冊から学ぶ 日本人が知らないアジア人の本質』の最終章(P.347)にルール違反する外人に適切に対応できない日本人の欠点として次のように書いた。

 …外国人(だけではなく、日本人)がルールに違反した時、「ルールを守ってもらわないと困ります」「他人への迷惑を考えて行動して下さい」と感情的に声を荒げるだけで、なぜそのように行動してはいけないかと筋道だって説得できないでいる。さらに悪いことには、ルールを強制的に守らせるための方策や罰し方を知らない。

中国人でも、アメリカなどで暮らしている2世や3世などは現地のルールをきちんと守っている。それは、現地のアメリカ人はルール違反に対して、個人ベースでも厳しく対応するからだ。更にいえば、日中戦争時代、日本軍が支配した地域では、日本軍人が厳しく罰したため、中国人といえどもきちんと列をなして並んだと言われる。以上のことから考えると、『管子』の言葉が成立するためには、中国人には経済的豊かさだけでは不十分で、外的強制力という薬味が必要ではないかと思われる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第264回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その107)』

2016-07-14 07:42:15 | 日記
前回

【206.処分 】P.3310、AD383年

『処分』は、辞源(1987年版)ではまず、「処理、処置」と説明するが、別に「懲罰」の意味もあると説明する。

これら3つの単語(処分、処置、処理)を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。



「処分」と「処置」は非常に多く使われているが「処理」の使用頻度は、これらより格段に少ない。また「処分」と「処置」の使われている時期がずれていることが分かる。つまりおおざっぱに言って「処分」は晋書から使われているが、旧唐書からは「処置」の方が多く使われている。

資治通鑑で「処分」が使われている次の場面は、前秦の苻堅が東晋を叩き潰すために、60万の歩兵と 27万騎の大軍勢で全長400キロメートルにもわたり軍旗がはためいた。まさに東晋が国難に見舞われた時だ。(苻堅発長安、戎卒六十余万、騎二十七万、旗鼓相望、前後千里。)



誰もがもはや東晋の滅亡が間違いなしと思い、嘆き悲しんでいた時、ひとり謝安だけが泰然と構えていた。

 +++++++++++++++++++++++++++
この時、前秦の大軍が迫ってきたので、東晋の都・建康(今の南京)の人たちはパニックに陥った。将軍の謝玄が、宮廷に入り叔父の謝安に対策を尋ねたが、謝安は平然として「すでに、言ってあるとおりだ」と答え、それ以上、何も言おうとしなかった。謝玄は敢えてそれ以上尋ねる訳にはいかないので、部下の張玄に重ねて作戦を尋ねさせようとしたが、謝安はぷいと駕籠に乗って山荘に行ってしまった。そこに親友たちを集めて宴会を催した。謝玄と山荘を賭けて囲碁をした。謝安はいつもなら謝玄に勝てないのだが、この日は謝玄が戦争のことで頭が一杯で、劫を仕掛けられて、見事にやられてしまった。謝安は山荘で歓楽を尽くし、夜になってようやく都に戻った。

桓沖は敵の大軍に備えて、都の警備に精鋭三千人を配置しようとしたが、謝安はそれに阻止して、伝令を介してこういった。「朝廷の処分は既に決定済みだ。余裕のある兵士はいないはずだ。西藩の兵士は元の場所で防御につくように。」桓沖は謝安からの伝令に向かって「謝安は朝廷の重臣ではあるが、軍事に関しては素人だ。今、敵の大軍が押し寄せてきているというのに、遊んでばかりで、戦争経験未熟の若造(謝玄)に防衛させようとしている。味方の軍隊と言えば少人数で弱い。敗けるのは火を見るより明らかだ!」と嘆いた。

是時秦兵既盛、都下震恐。謝玄入、問計於謝安、安夷然、答曰:「已別有旨。」既而寂然。玄不敢復言、乃令張玄重請。安遂命駕出遊山墅、親朋畢集、与玄囲棋賭墅。安棋常劣於玄、是日、玄懼、便為敵手而又不勝。安遂游陟、至夜乃還。

桓沖深以根本為憂、遣精鋭三千入衛京師;謝安固卻之、曰:「朝廷処分已定、兵甲無闕、西藩宜留以為防。」沖対佐吏歎曰:「謝安石有廟堂之量、不閑将略。今大敵垂至、方遊談不暇、遣諸不経事少年拒之、衆又寡弱、天下事已可知、吾其左衽矣!」
 +++++++++++++++++++++++++++

この後、有名な淝水(肥水)の戦いで謝玄が敵の大軍を破った。その知らせを聞いた謝安が飛びあがって喜んだので、下駄の歯が折れたのに気付かなかったという逸話が残る。謝安といえども外づらは泰然と見せていても、内心は気が気ではなかったのだ。この時は、桓沖の悲観的予測は見事裏切られた。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』


続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

【座右之銘・94】『Animus facit nobilem』

2016-07-10 20:57:57 | 日記
楽聖・ベートーベンは Ludwig van Beethoven といい、ドイツ人であるにも拘らず名前にオランダ人のような小辞(van)が付く。それと言うのも、彼の先祖は元来、フランドル地方(オランダ南部/ベルギー北部)からドイツに移住してきたからだ。

オランダ語の van は英語でいう of で、ドイツ語の von や、フランス語の de 、およびイタリア語の di に対応するような単語である。出身地を名乗るというのは、王侯貴族に多い。それで、ある時みすぼらしい身なりのベートーベンがウィーンの法廷に呼び出された時、判事から次のように言われてからかわれた「君の名前には van が付いているが、一体、君のどこが貴族かね?」。この不遜な言葉に、ベートーベンは落ち着いて自分の頭を指さし「ここだ!」と答えた。ベートーベンは、誇るべきものは血統ではなく、個人の才能だと言った訳だ。



ベートーベンより遡ること千数百年、ローマの哲人セネカは次のような言葉で、ベートーベンの意図を表現した。
 【原文】Animus facit nobilem
 【私訳】貴族の証は(血ではなく)心だ
 【英訳】The soul alone renders us noble.
 【独訳】Der Geist ist es, der adelt.


つまり、いくら貴族の血統だと誇っていても、心が卑しいと高貴とは言えないということである。(そういえば、最近、一流大学の助教授まで務めた某知事が辞職した。公金を私的贅沢のために流用して、世間から指弾されたようだが、立派な学歴でも心は卑しかったということだろうか。)

中国の古典の一つ、《易経》の「蠱・上九」に 「王侯につかえず、その事を高尚にす」(不事王侯、高尚其事)という言葉がある。セネカの「Animus facit nobilem」 と易経の「高尚其事」は時代や民族は違えども、同じ趣旨であり、金言といえよう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第263回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その106)』

2016-07-07 14:59:29 | 日記
前回

【205.虚妄 】P.3943、AD450年

『虚妄』とは国語辞典には「うそ、いつわり」と説くが、ふつうのうそとどのような違いがあるか分り難い。漢英辞典では「fabricated、invented」と説明するが、これによって「虚妄」とは「こしらえたウソ話」つまり、「わざとらしい、でっちあげたウソ話」というニュアンスのある単語であることが分かる。

「虚妄」と類似の言葉に「荒唐無稽」(こうとうむけい)があるが、どうやらこれは日本でしか通用しない単語のようだ。というのは「荒唐無稽」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する一ヶ所も見つからない。似た単語の「荒誕無稽」は明史に一回だけ見えるが、一般的とは思えない。下記の表から分かるように「荒唐、荒誕、無稽」は単独では使われるが、連語にして使われないことが分かる。



さて「虚妄」が資治通鑑で使われている場面を見よう。

南北朝時代、北魏に仕えた、漢人宰相の崔浩が中心となって史書を編纂した。この時、北魏帝室の出身部族である拓跋部の風俗をあまりにもありのままに描いたため、今や中国の貴族然としている北魏王朝の人々にとっては、祖先のみすぼらしい姿を見せつけられて、いたたまれないほどの恥ずかしさを感じた。太武帝は激怒し、責任者の崔浩を投獄した。このことを聞いて皇太子の拓跋晃はいそいで、師の高允を自分の居る東宮に呼び寄せてかくまった。というのは、高允も崔浩とおなじく、史書の編纂に深くかかわっていたため、殺されてしまうと考えたからだ。

 +++++++++++++++++++++++++++
崔浩が収監されると、魏の太子が高允を自分の居る東宮に呼び寄せて、宿泊させた。翌朝、太子は高允と一緒に、父帝に面会に行ったが、宮門に至ると高允にこういった。「父帝にお目にかかったら、私が先生を父帝に紹介する。父帝から下問があれば、ただ私のいう通りに答えてほしい。」高允が「それは一体どういうことですか?」と尋ねても太子は「入れば、分かることだ。」と答えた。太子が父帝に詫びて「高允は小心者ですが、何事もきっちりとする人です。また、位も低い者ですので、崔浩の言いなりに従ったまでです。どうか、容赦のほど、お願いします!」父帝の太武帝が高允に問うた。「史書は、全部崔浩が書いたのか?」高允が答えて「太祖記の部分は前著作郎の鄧淵が書きました。先帝記と今記は私と崔浩が共同で書きました。もっとも崔浩は仕事をたくさん抱えていたので、出来た文を承認することが多く、実際の文章は崔浩より私の方が多い位です。」太武帝は怒って「それなら、お前は崔浩より重罪ということだな!生きておれまい!」

これを聞いて、太子は驚いて「高允は位が低いので、父帝の威厳に怯え、気が動転してあらぬことをしゃべっています。先ごろ、私が直接高允に確認した所、文章は全部崔浩が書いたと申しておりました。」太武帝は高允に「太子のいうことは本当か?」と尋ねた。高允は「私の罪は誅三族に該当するほどの重罪だと分かっていますので、なんでいまさら虚妄を申しましょうか。太子殿下は長年私の講義を受けられていましたので、私が殺されるのを憐れんで、なんとか活かそうとなさっているのです。事実、太子からそのような質問を受けたこともなく、私もかような答えをしたこと覚えはありません。これが正直なところです。」太武帝は太子に向かって「なんと正直な人だ!なかなか普通の人のできることではない。殺されようとしても、言い逃れしないのは「信」のある証拠だ。臣下が君主を欺かないのは「貞」だ。よし、特別に赦すだけでなく、顕彰しよう。」といって、高允を釈放した。

及崔浩被収、太子召允至東宮、因留宿。明旦、与倶入朝、至宮門、謂允曰:「入見至尊、吾自導卿;脱至尊有問、但依吾語。」允曰:「為何等事也?」太子曰:「入自知之。」太子見帝、言「高允小心慎密、且微賎;制由崔浩、請赦其死!」帝召允、問曰:「国書皆浩所為乎?」対曰:「太祖記、前著作郎鄧淵所為;先帝記及今記、臣与浩共為之。然浩所領事多、総裁而已、至於著述、臣多於浩。」帝怒曰:「允罪甚於浩、何以得生!」

太子懼曰:「天威厳重、允小臣、迷乱失次耳。臣曏問、皆云浩所為。」帝問允:「信如東宮所言乎?」対曰:「臣罪当滅族、不敢虚妄。殿下以臣侍講日久、哀臣、欲匄其生耳。実不問臣、臣亦無此言、不敢迷乱。」帝顧太子曰:「直哉!此人情所難、而允能為之!臨死不易辞、信也;為臣不欺君、貞也。宜特除其罪以旌之。」遂赦之。
 +++++++++++++++++++++++++++

『北史』(巻31)によると、上で述べた事件で、崔浩はじめ小使まで、128人全員を五族(五等親までの親族全員を処刑)するとの太武帝の勅令が下った時、高允はあまりにも酷いと処刑の実施を自分の判断で止めた。太武帝は何度も早く処刑するようにと催促をしたが、それでも拒んだ。とうとう、太武帝は高允から殺そうとしたが、この時も太子のとりなしで、ようやく太武帝が高允の意見に納得した。おかげで、崔浩の親族だけは皆殺しにされたが、他の人たちは本人だけの処刑に留まり、数千人もの親族は処刑を免れた。



高允は、清廉さにおいても際立っていた。

地方官吏として勤めていたとき、同僚が一斉に賄賂で捕まったときに、一人だけ清らかであると誉められた(皆以貪穢得罪、唯允以清平獲賞)。

後日、高位・高官に登っても、相変わらず質素な家に住んでいた。ある時、その噂に驚いた文成帝(拓跋濬)は自(みず)から高允の家に赴いて、あまりのみすぼらしさに驚き、さっそく大量の穀帛(絹布、粟)を下賜した(是日、幸允第、唯草屋数間、布被縕袍、厨中塩菜而已。帝歎息曰:「古人之清貧、豈有此乎!」即賜帛五百疋、粟千斛)。

廉退の人、高允は98歳の長寿を全うした。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第17回リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム開催

2016-07-03 09:07:01 | 日記
リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム、7月 30日に開催。

出口治明会長の 5000年史は、1700年からは 50年単位になっている。今回は、いよいよ20世紀の後半部分を詳しくお話しをして頂く

タイトルは: 20世紀の世界、その2 ~第二次世界大戦まで~

出口会長の講演の前に、私の方から
 『知的情報収集法(前編) 欧文編+読書法、Web情報』
と題して下記の趣旨の話をする予定である。

 ------------------------------
前回(2016年4月2日)のフォーラムでは『整版印刷・活字印刷 日本と朝鮮の比較』と題して、印刷技術の発展を題材として、日本と朝鮮の国民性などを比較しながら話をした。その後、聴衆者の一人からアンケートに次のような意見が書かれていた。

(要旨)あるテーマを調べる時に、どういう手順で物事を進めているのか、またどうすれば、該当分野の専門書や実物を見つけることができるのか、教えて欲しい。

この質問には、一種答えづらい雰囲気がある。というのは、泥棒が盗みの手口をばらすと、仕事がしにくくなるようなものだからだ。しかし、思い切って私の情報収集の方法について述べることにしようと思う。情報収集の基本は、本を読むことであるが、この際、どのような本を選んだらよいのか、またどのように読めばよいのか、という読書法から始まって、図書以外の情報収集、とりわけWeb情報の検索の仕方まで幅広い。

一度に全部話すにはボリュームが多すぎるので、便宜上、今回と次回の2回に分けて話をしようと思う。今回は、読書の仕方と外国語(西洋語)を中心として知的な情報収集について話す。
 ------------------------------

今回は、場所がまたまた変わっていますので、ご注意ください!
申し込みはこちら ==> http://kokucheese.com/event/index/410153/

それでは、当日会場でお会いしましょう。

 ******************* 第15回:開催概要 *******************

日時:2016年7月30日(土)(14:30 講演開始(14:00開場),17:00終了予定)
開催場所: 東京都千代田区丸の内1-5-1 新丸の内ビルディング10階
      京都大学東京オフィス
住所:東京都
参加費: 1,000円(税込)
懇親会費:4,000円(税込)講演終了後2時間程度

スケジュール
14:30 -- 15:10 麻生川の講演 『知的情報収集法(前編) 欧文編+読書法、Web情報』
15:10 -- 16:10 ライフネット生命保険(株) 出口治明 代表取締役会長による講演 
 【5000年史Part.16 20世紀の世界、その2】 ~第二次世界大戦まで~

 参考図書:
 1.「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史
 2.「全世界史」講義 II近世・近現代編:教養に効く! 人類5000年史

------------------------------
16:10 -- 16:30
  質疑応答、討議
  司会:麻生川静男

終了後、先着40名(程度)で懇談会を行います。

  =========== 参考情報  ===========

【本フォーラムの目的】

グローバル時代に、活躍すべきヤングエグゼクティブ(幹部候補生:学生、会社員、公務員)がグローバルリテラシーを身につける為のリベラルアーツ教育を実施する。本フォーラムでは、産学協同プロジェクトなどを企画し、その研究・教育の成果を社会還元する。また、積極的にシンポジウム・セミナー、ブログ、出版などの活動を行う。

【教育活動】
  ヤングエグゼクティブのリベラールアーツ教育
  ヤングエグゼクティブのリーダーシップ教育
  非日本人のヤングエグゼクティブの日本文化の理解促進

【研究活動】
 教育の仕方をいろいろと試して、個人と組織を育てる手法を開発し、成果を書籍化

【リベラルアーツ教育の必要性】

ビジネススクールではとかく目先の経営技術に終始し、グローバルビジネスの根源をなす文化背景にまで注意が向けられない。そのため、グローバル拠点で多様な文化背景をもった人たちを統率できないリーダーが多い。

そのような欠陥を補うため、東西それぞれの文明の根源的な文化や思想・思考様式を議論を通して学んでいく。それも、夫々の文明を別個に学ぶのではなく、常に複眼的視点で包括的にとらえていく。『教える・覚える』というような通常の講義方式ではなく、『気づく・自分の意見をもつ』ために議論や発表を主体とする。

議論のテーマは、古今東西の歴史、宗教、哲学、科学技術史、などの文理統合した幅広い分野から選択する。受講者のヤングエグゼクティブは将来的には、グローバル拠点でリーダーとして活躍することが期待される。

以上
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第262回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その105)』

2016-06-30 16:51:24 | 日記
前回

【204.嗚咽 】P.4065、AD463年

『嗚咽』(おえつ)とは「むせび泣く、すすり泣く」という意味。もともと「嗚」とは「あー」という音であり、「咽」とは「塞(ふた)がる」という意味であるので、「あー、あー」と声を詰まらせながら泣く動作を示す単語だ。

類似の単語に「歔欷」(キョキ)というのがある。これも「むせび泣く、すすり泣く」という意味であるが、「K」という子音(双声)を持つので、どちらかというと「しゃくりあげて泣く」という感じであろう。この「歔欷」(キョキ)は、前後をひっくり返して「欷歔」(キキョ)ともいう。さらに、類語として、「涕泣」「泣涕」「啼泣」などもある。

これら6つの単語(嗚咽、歔欷、欷歔、涕泣、泣涕、啼泣)を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次のような結果となる。



この表から、涕泣、泣涕、啼泣は、史記にも見られる古い単語であるが、歔欷は漢書以降にみられる単語であると分かる。さらに、嗚咽、欷歔は後漢書や三国志以降に見られる比較的新しい単語であるということも分かる。

史記より前では、例えば、春秋左氏伝には、涕、泣、啼は、それぞれ一字で用いられてはいるが、連語では用いられたケースは見あたらない。さらに歔、欷に関しては、春秋左氏伝には見えないが、楚の屈原の『楚辞』には「歔欷」は数回見える。



さて、資治通鑑で『嗚咽』が用いられている場面を見てみよう。

紀元5世紀、南朝・劉宋の孝武帝(劉駿)は殷淑儀をこよなく愛した(鍾愛した)。愛妻を亡くしたショックで、精神的に完全にぼーっとなってしまって、政務が手につかなかったようだ。(上痛悼不已、精神為之罔罔、頗廃政事

 +++++++++++++++++++++++++++
孝武帝は殷貴妃を葬ったが、群臣たちを連れてたびたび墓に詣でた。部下の劉徳願に向かって「亡き殷貴妃のために、哭してくれまいか。悲しそうに泣いてくれたら厚く褒美をとらせるぞ。」劉徳願はとたんに、声をあげて泣き、胸を叩き、足摺をし、涙や鼻水で顔がくしゃくしゃになった。この演技に大層満足をした孝武帝は褒美に劉徳願を予州刺史(州知事)に任じた。ついで、医者の羊志にも同じく殷貴妃の為に哭せと命じた。羊志もまた嗚咽して非常に悲しい声で泣いた。後日、ある人が羊志に「貴卿は一体どうして急に涙が出てきたのか?」と尋ねたところ、羊志は「あの日はワシの亡妻のことを思い出して泣いたまでだ」と答えた。

上既葬殷貴妃、数与群臣至其墓、謂徳願曰:「卿哭貴妃、悲者当厚賞。」徳願応声慟哭、撫膺 擗踊、涕泗交流。上甚悦、故用予州刺史以賞之。上又令医術人羊志哭貴妃、志亦嗚咽極悲。他日有問志者曰:「卿那得此副急涙?」志曰:「我爾日自哭亡妾耳。」
 +++++++++++++++++++++++++++

中国では、昔から葬式などで死者のために哭するのが礼に定められている。しかし、いつもいつも泣ける訳ではないので、葬式には専門の「泣き女」を雇うのが慣習のようだ。羊志は孝武帝から「泣いて見ろ」と言われたがそう簡単に泣ける訳ではないが、自分の亡妻を思い出して、泣くことができたという次第。

儒教では礼教といわれる程、礼の細かいルールにうるさいが、結局、このように表面的につくろっていただけの人が大多数だったと推定できる。

ところで、孝武帝の殷淑儀の鍾愛ぶりは度を超していたようで、死んでもその俤が忘れられず、とうとう棺桶を取り換えるという口実で、埋めた死体を取り出させた。その死に顔は、まるで生きているかのようだったと《南史・巻11》は伝える。
 (及薨、帝常思見之、遂為通替棺、欲見輒引替覩屍、如此積日、形色不異。

続く。。。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

百論簇出:(第191回目)『自由の陶酔感』

2016-06-26 19:59:18 | 日記
先ごろ(2016/6/23)、イギリスでは国民投票によってEUからの離脱が決定した。理性的に考えると、EUから離脱することで経済的には打撃を蒙るのはかなり明白だ。離脱派もそれぐらいの事は分かっているが、その不利益を補ってあまりあるのが、自国の政治・経済・外交を自分たち自身で決めることが出来る『自由』を再び手にしたということだ。

離脱派が口にしたもう一つのキーワードが『独立』である。「イギリスは植民地ではあるまいに何からの独立か?」と訝かしく思うかもしれない。それはEUという(彼らにとっては抑圧的な)組織からの独立である。

『自由』や『独立』は、ヨーロッパの歴史では最も重んじられている概念であり、何千年にもわたりヨーロッパ人社会を太く貫いてきた。明治以降、日本はヨーロッパの政治・経済を初め、文物制度をくまなく取り入れたにも拘らず、これらの2点と『プリンシプル・原則』は、言葉の表面づらだけが取り入れられたに過ぎなかった。つまり、本当の意味で日本人は『自由』や『独立』の意味を理解していないように私には思える。
(この点については、前著:『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(ISBN-13: 978-4396615406)の第4章『ヨーロッパ文化圏のコアを探る』や以前のブログ
 百論簇出:(第133回目)『不必要な愛国心、必要なのは。。。(その3)』
に述べた。)



しかし、世界を見渡してみると、日本以上にこれらの概念を理解していない国々は多い。たとえば、隣国の北朝鮮などがそうであろう。また、中国では、中華人民共和国憲法では麗々しく「言論、出版、集会、結社、行進及び示威の自由」(第35条)、「人身の自由の保証」(第37条)を謳っている。しかし、これらの自由は我々が考えるようなものでないのは、第51条の次の規定が優先するからである。
 「中華人民共和国公民は、その自由及び権利を行使するに当たって、国家、社会及び集団の利益並びに他の公民の適法な自由及び権利を損なってはならない。」

この一文によって、現実的には全ての自由の権利が政府の恣意的判断によって完全に空手形と化すのである。このような欺瞞的手法は、何も中華人民共和国になってから考案したものでなく、中国伝来の手法であることは、以前のブログ
 沂風詠録:(第192回目)『リベラルアーツとしての哲学(その4)』
で大明律の『工律・河防』を例にとって述べた。

さて、中国はさておき、可哀想ではあるが、北朝鮮では大多数の国民は、有史以来いまだかつて一度たりとも完全な(full-fledged)自由というものを体験したことがない。つまり、北朝鮮の人々には自由が奪われているという感覚がないので、自由のありがたみが理解できないでいる。(最近の脱北者の内で、若い女の子、Yeonmi Parkのスピーチ参照:Escaping from North Korea in search of freedom

自由という抽象的な単語では理解しにくいので、酒を例に取って説明しよう。

例えば、一家全員が酒を飲めない家庭に育った人がいるとしよう。家に酒がない上に、家族の誰も酔っぱらったことがないので、酒の陶酔感を知らずに育つであろう。しかし、たまたまある時に、酒を飲む機会があったとする。体質的にアルコールの消化酵素を持っていると、生理的反応の必然的結果として、ほろ酔い感から、陶酔感を味わうのは間違いない。一度この味を知ると(アル中にならないまでも)酒のない生活は考えられないだろう。

EU離脱によって、(離脱派の)イギリス人が自由を手にする陶酔感は、多分、我々には想像できないことであろうし、その真逆の北朝鮮の人たちが考えている「国家統制下の自由」の概念もまがりなりにも自由の陶酔感を知っている我々には想像できないものであろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第261回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その104)』

2016-06-23 22:58:33 | 日記
前回

【203.遊戯 】P.785、BC74年

『遊戯』とは現在では、主として「幼稚園や小学校で行う遊び」を指す。しかし、元来は「遊び、戯(たわむ)れる」という意味である。現代語でいうと「レクレーションや、おふざけ」に該当する概念だ。

単語としては、戦国時代の楚の詩人、屈原の『楚辞』にしばしば登場するので、二千数百年もの歴史ある古い単語であることが分かる。



しかし、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索すると、史記から始まって、旧唐書までは見えるが、その後、宋史から元史までは全く使われていない。その後、明史では皇帝の低落ぶりを非難する場面に7回使われている。最後の史書である、膨大な清史稿には「遊戯」はわずか1回しか使われていない。これから、どうやら近年になって「遊戯」は別の単語に置き換わったものと推測される。



さて、資治通鑑での「遊戯」の初出は、前漢の昭帝が崩御したため、実力者の霍光が劉賀(昌邑王)を帝位に就けたところに見える。王から帝になった劉賀(昌邑王)は何かと不行跡が多かったので、上官皇太后に呼び出された。自分の目の前で臣下たちが皇太后に廃位する理由を縷々陳述するのを冷や汗を流しながら聞かされた劉賀(昌邑王)であった。

 +++++++++++++++++++++++++++
……劉賀(昌邑王)は、昭帝の遺体がまだ宮殿にあるにもかかわらず、お構いなしに宮殿の楽府から勝手に楽器を取り出し、お抱えの楽人を引き入れ、太鼓を打ち鳴らし、歌い、ダンスをした。それだけでなく、宮廷楽団の楽器奏者も無理やり引き入れて大合奏をした。帝専用の乗り物(法駕)に乗って、北宮や桂宮を駆け巡り、ブタとじゃれたり、虎を同士を闘かわせたりしていた。また、皇太后の小馬車を無断で借用し、官奴を御者にして宮廷内で遊戯をした。さらに、亡帝の女官の蒙たちと淫乱を恣にした。そして『告げ口をした者は、腰斬りの罪に処すぞ!』と脅した。そこまで聞いて、太后は「もうよい!人の子として、ここまでの悖乱の行いをするものか!」と怒りをあらわにした。劉賀(昌邑王)は、椅子から降りて、突っ伏した。

……大行在前殿、発楽府楽器、引内昌邑楽人撃鼓、歌吹、作俳倡;召内泰壱、宗廟楽人、悉奏衆楽。駕法駕駆馳北宮、桂宮、弄彘、鬬虎。召皇太后御小馬車、使官奴騎乗、遊戯掖庭中。与孝昭皇帝宮人蒙等淫乱、詔掖庭令:『敢泄言、要斬!』--」太后曰:「止!為人臣子、当悖乱如是邪!」王離席伏。
 +++++++++++++++++++++++++++

まだ20歳にもならない、劉賀(昌邑王)は王から帝になったうれしさに舞い上がってしまい、歓楽を極め尽くすことができると錯覚したようだ。それで、昭帝の喪(当時は大体1ヶ月程度)が明けていないにも拘らず、楽人を呼んで音楽会をしたり、猛獣同士の闘いを見学したり、はては先帝の女官たちとセックスをしたりと、思う存分青春を謳歌した。このような乱行のために僅か一ヶ月満たずに帝位を追放されてしまった。

なにやら、最近、某知事が贅沢三昧の末、詭弁や涙の懇願も甲斐なく、あっけなく知事の座を追い出されたのとどこか似ているような。。。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

沂風詠録:(第273回目)『轍鮒の幸福感』

2016-06-19 18:37:02 | 日記
荘子は私の最も好きな思想家である。発想が非常に柔軟な上に、見事なレトリックで、物事の本質を衝く警句を巧みに繰り出す。例えば、「轍鮒の急」という言葉がある。荘子は、世俗や権力に媚びることを潔しとしないので、いつも金欠であった。が、とうとう堪らず粟(穀物)を監河侯に借りに(つまり、せびりに)行った。想像するに、普段から、人を小ばかにした高踏的な荘子の態度を内心では憎んでいた監河侯はこの時とばかりに冷たく次のようにあしらった。「今、手元に金がないが暫くすると、大金が手に入るので、そうすれば喜んで一部をお貸ししようと」。僅かの穀物も与えようとしないで、荘子の貧乏をいびって溜飲を下げようとしたのだ。瞬時に意図を悟った荘子は、頭にカチンときて「轍鮒の急」のたとえ話をし、監河侯の誠意の無さに報いた。

「轍鮒」とは、文字通り、車の轍に溜まった雨水の中の鮒(フナ)をさす。車の轍というからには、深さが数センチを超えることはない。似たような表現は『淮南子』にも「牛蹄之涔、無尺之鯉」(牛の蹄にできた窪みに住む鯉(コイ)に一尺(30cm)を越えるものはない)と見える。

いくら小さな鮒でも数センチの水たまりではその内、干上がってしまうのは目に見えている。それで急いで対処しないといけないというのが、「轍鮒の急」だ。大抵の人は、この鮒の運命・境遇を悲観的に見るだろう。しかし、よく言われるように、コップに水が半分入っているのを見て「まだ、コップには水が半分残っている」と楽観的に考える人もいるように、この鮒はつかの間の幸福感を味わっていると考えることもできる。



もっとも、最近の日本ではいろいろと津波や洪水にまつわる災害が多発しているので、少々気がひけるが、たとえば次のような状況を考えてみよう。

水に落ちた人がいたとする。水中で、アップアップしているが、たまに水面から顔をだして、空気が吸えた時には、「ああ、うれしや、空気が吸える!」と思うのではないだろうか。次の瞬間には、また沈んでもがくことになっても、つかの間の幸福感を味わう時間はあった。一方、我々は日頃、存分に空気が吸えるが、そのことを一瞬たりとも、幸福と感じたことはないだろう。それは、空気を吸えることがあまりにも当たり前すぎるからである。これから、水に落ちた人が感じた幸福感は空気そのものにあったのではなく、その人の心の持ち方にあったことが分かる。

これから忖度するに、「轍鮒の急」の鮒は、たしかにわずかな泥水の中でもがいてはいるものの、水を得ることで息をすることができるという、暫しの幸福感を味わっている、と言ってもいいだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加