限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・96】『Quo plus recipit animus, hoc se magis laxat』

2016-08-28 22:34:33 | 日記
リベラルアーツについての講演や企業研修などでよく質問されるのが「リベラルアーツはどのようにして学べばいいのですか?分野が広すぎてどこから手を付けていいのか分りません。」である。このような質問者の顔を見ると、たいていは几帳面で、性格的には「まじめにこつこつ」の、努力型である。

私の想像では、質問者の期待する答えは「これこれの本をこの順序に読みなさい。その時に考えるべきテーマはこれこれですよ」といういわば「読書ガイダンス」であろう。申し訳ないが、リベラルアーツの修得には、このようなガイダンスは存在しない。(他の人はどう考えているか分らないが、少なくとも私流のリベラルアーツでは存在しない!)

このように答えると、そこまでリベラルアーツの修得に胸ふくらんでいたのが、急にぺしゃんこになり、がっくりと肩を落としてしまうことだろう。中には、失望から恨みに変わり「こん畜生、金輪際、リベラルアーツなんかするもんか!」と内心むくれてしまう人もいるかもしれない。

それで、私はいつも次のように答えるようにしている。「何から始めてもいいですから、自分が疑問に思ったことを自分で解決しようとして下さい。自分の疑問を解くために、本を読みましょう。読むとまた新たな疑問が湧いてくることでしょう。その疑問が次々とドライビングフォースとなって読書が進むのですよ。」

資格試験や、入試と異なり、成果を期待せずに、まずは自分の疑問を解くことだけに集中しよう。疑問に対する答えを安直に求めないことだ。とことん自分の疑問にこだわることが大切である。世間の常識や、学識者のいうこと、はたまた、古典や権威者のいう事でもその説明が少しでも不審に思えるようであれば、徹底的に調べることだ。井戸掘りに喩えると数メーター掘っても水が出なくとも、諦めず次々と掘り進むような感じだ。知らず知らずの内に数百メーター掘り進んでいくと、やがて水脈に当たるだろう。それだけでなく温泉を掘り当てることだってある。

こういった努力のしかたは、何も私だけの考えではないようだ。

大倉財閥を一代で築いた大倉喜八郎は何事に対しても常に命懸けで臨んでいる。手がけた事を失敗するということがほとんど無かったようだ。全くその強運には恐れ入る。晩年になって口述筆記した(であろう)『致富の鍵』(大和出版)には次のような一節がある。

富はカスである「働く結果として富は自然に向こうからやってくるので、真の幸福はその働くうちにある。幸福を得てしまった渣滓(カス)、楽しんでしまった渣滓が富なので、富があるから幸福がくるという訳ではない。

大倉喜八郎の仕事ぶりがまさしく、リベラルアーツの修得の仕方である。彼のいう「働く」のがリベラルアーツの修得においては「自分の疑問を解決する」ことであり、その結果、手にする「富」とは「知識」である。功利的観点から、最小の時間で最大の効果を挙げるべく、がむしゃらに「知識」の修得を目指すのではなく、自分の疑問を解決しようと邁進することだ。そうするとその内に自然とカスのように「知識」がたまってくる。



ところで、富(金)に関しては、謙遜抜きで私には言う資格がこれっぽちもないので、知識に関してだけ申し添えると:
ある事に関して、最初はひとかけらの知識もなく、五里霧中で全く途方にくれているものだ。それでも自分の疑問の導くままに読書を積み重ねると、徐々に知識がたまってくる。そうすると、何故か分らないが自動的に知識が勝手に増えてくるような感覚になる。俗にいう「寝るだけで強くなる」ようなものだ。

この点について、私の愛読書であるセネカの倫理書簡集(Seneca, Epistulae morales ad Lucilium)の第108で、的確に次のように指摘する。

 【原文】 Quo plus recipit animus, hoc se magis laxat.
 【私訳】 智というのは、素直な心で求めれば、どんどん広がるものだ。
 【英文】 The more the mind receives, the more does it expand.
 【独文】 Je mehr die Seele aufnimmst, desto mehr erweitert sie sich.

結局、リベラルアーツの修得には、「読書ガイダンス」に従って計画的に着実に進めようという方針がもっとも不適切であるということだ。時間を気にせず、あせらず、自分の疑問や気持ちに素直に従って「成果を期待せず」読書を続けることに尽きる、と言っていいだろう。

【参照ブログ】
 【麻生川語録・30】『知のパラドックス - 知れば知るほど知らないことが増す』
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想溢筆翔:(第270回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その113)』

2016-08-25 21:23:51 | 日記
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【212.余燼 】P.3051、AD342年

『余燼』とは「火の燃え残り」という意味。『燼』は旧字体なので分らない人が多いかもしれないが、新字体を用いると「火尽」となる。つまり「燃え残り」というのは「燃料は残ってはいるが、その前に火が尽きてしまった」と解釈できる。これから派生して「高揚感や興奮がまだ醒めきっていない」状態を余燼と呼ぶ。

この現代的意味で漢文の『余燼』を解釈しようとすると、訳が分からないだろう。漢文の場合、ほぼ例外なしに『余燼』とは「戦争に敗けたが、生き残った敗残兵」を指す。物理的な意味はもちろんのこと、消えやらぬ興奮の『余燼』と言う意味は、でてこない。

さて、『余燼』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、三国志から、唐まで使われていたが、その後はあまり使われていないことが分かる。



さて、資治通鑑で使われている場面をみることにしよう。五胡十六国時代、前燕の慕容皝が、高麗を攻めた。国都が陥落したので、国王の高釗が単身逃れて行った。冬も近づいてきたので、慕容皝が引き揚げようとした時のことだ、家来の韓寿が入れ知恵をした。

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慕容皝がまさに帰国命令を出そうとしていた時に、韓寿が次のようにアドバイスした。「高句麗は、屯田兵を置いて守れる所ではありません。今は国王が逃亡し、民も散り散りになって、山谷に潜伏していますが、我が軍がここを引き払えば、必ずや群衆や敗残兵を集め、将来かならず戦いを挑むに違いありません。ここは、国王の父の遺体を掘りだして車に載せ、また、捕えた国王の母を我が国にまで連れ帰ればきっと国王は服属することでしょう。その時に父の遺体と母を返してあげれば、恩を感じることでしょう。これがベストの策といえるでしょう。」慕容皝はそのアドバイスに従って、国王・高釗の父・乙弗利の墓を暴いて死体を車に載せた。さらに、高句麗歴代の王が蓄えた財宝をそっくり手に入れ、男女併せて五万人を捕虜にし、宮殿を焼き払い、丸都城を破壊してから帰還した。

皝将還、韓寿曰:「高句麗之地、不可戍守。今其主亡民散、潜伏山谷;大軍既去、必復鳩聚、収其余燼、猶足為患。請載其父尸、囚其生母而帰、俟其束身自帰、然後返之、撫以恩信、策之上也。」 皝従之。発釗父乙弗利墓、載其尸、収其府庫累世之宝、虜男女五万余口、焼其宮室、毀丸都城而還。
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いつもこのような文章(遺体を掘り起こして運ぶ)に出会うたびに、私は「死んでしまった肉体になぜそれほどまであつい思いを感じるのだろう?」と訝しく思ってしまう。孝が絶対善(というより、至高善)であった古代中国(およびその周辺地域)では先祖の遺体が粗末に扱われるのを何よりもおぞましく感じたようだ。この辺りの感覚の落差は、喩えて言えば、野球選手が股間にデッドボールを受けた時に悶絶する姿を、ご婦人方がご覧になって、その痛さを想像できないのと似ている。どちらも、他者の想像など及びもつかない「痛さ」なのである。

続く。。。
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沂風詠録:(第274回目)『颯爽たる辞職』

2016-08-21 09:09:44 | 日記
どの程度法則化できるか自信はないが、出処進退には人の性格がよく現れるようだ。先ごろの例では、某知事が見苦しいばかりにその地位にしがみつく一方で、某女史が「がけから飛び降りる覚悟」で選挙に臨んだ。そこまで華々しくはなくとも、正規社員と非正規社員の格差が騒がれているなか、一旦職を得たら、辞めたくともなかなか思い切って辞めれないものだ。

時代と国情が違うとは言え、中国の文人の中には颯爽と辞めていく人が晋代にはいた。田園詩人として有名な陶淵明がそうだし、故郷のナスと鱸魚の刺身を存分に味わいたいと言って職を辞した張翰もそうだ。

少し時代は下がって、南斉の卞延之や蕭眎素も、若くして官職を得たにも拘らず、素っ気なく辞職している。『南史』にはその様子が次のように描かれている。

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南史:巻72(中華書局・P.1766)

【卞延之】 卞延之は、20歳(弱冠)になると早くも上虞という町の長官に任命された。勝気な性格なので、上司である会稽太守の孟顗にあれこれと指図されるのに、我慢ができなくなって、官帽を脱いで地面に叩きつけてこういった。「私があなたに我慢しているのは、この官帽のせいだ。この帽子はあなたに返してやる。あなたは自身の才覚で出世したので、才能のある人物に対しても偉そうにふるまっていいのだと勘違いしている!」と言い放つや、衣を翻して、立ち去っていった。

卞延之、弱冠為上虞令、有剛気。会稽太守孟顗以令長裁之、積不能容、脱幘投地曰:「我所以屈卿者、政為此幘耳。今已投之卿矣。卿以一世勲門、而傲天下国士。」払衣而去

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南史:巻18(中華書局・P.499)

【蕭眎素】

蕭眎素は役人になり立ての頃、諸曁(現在の浙江省紹興市)の長官の役を希望した。ところが、現地について十日あまり経って、制服と冠を役所の門に懸けて立ち去った。

在位少時、求為諸曁令。到県十余日、挂衣冠於県門而去。
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蕭眎素のこのような所作は、現代用語でいう「新人類」的ではあるが、どうやら彼の一貫した態度であったようだ。『南史』ではその様子を次のように述べる。

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南史:巻18(中華書局・P.499)

蕭眎素は、梁の天監時代に丹陽の副市長(尹丞)になった。初めて登庁した日に、武帝(梁・蕭衍)が八万銭を下賜した。蕭眎素は一日の内に、すべて友だちに分け与えた。…性格的には落ち着いていて、欲望が少なかった。学問好きで、老荘的な清談に巧みであった。名誉や利益には関心を示さず、喜こびや怒りを顔に出すことはなかった。世俗的には役職をこなし、常識的な判断をした。決して威張ること身辺を飾らなかった。…家に居る時は、面会謝絶で、親戚以外の人には会わなかった。

蕭眎素、梁天監中、位丹陽尹丞。初拝日、武帝賜銭八万、眎素一朝散之親友。…性静退、少嗜慾、好学、能清言、栄利不関於中、喜怒不形於色。在人間及居職、並任情通率、不自矜尚、天然簡素。…独居屏事、非親戚不得至其籬門。
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蕭眎素は、劉裕が建国した宋(劉宋)の王室(孝懿皇后の弟の子孫)に連なる名門であるが、権力や財力とは無縁で洒脱な性格であったということだ。なお、卞延之、および蕭眎素のエピソードは唐の太宗が三年かけて読んだと言われる『太平御覧』(巻266)にも記載されている。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第23回目)『秋風とともに鱸魚の膾を想う』
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想溢筆翔:(第269回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その112)』

2016-08-18 21:22:55 | 日記
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【211.追随 】P.1986、AD196年

『追随』とは「あとに付き従う(follow)」というのと「追いつく(catch up)」の両方の意味がある。

現在よく使われる「追随を許さず」とは「追いつく」の意味である。しかし、漢文では(少なくとも資治通鑑では)「あとに付き従う」の意味で使われているようだ。

さて、『追随』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになる。



この表から分かるように、初出が後漢書と結構新しい単語である。しかし『南史』と『北史』以降ほとんど使われていない。つまり、『追随』という単語は、紀元前後から紀元後500年位のかなり短い期間しか使われなかったことが分かる。

『追随』の資治通鑑における初出の場面を見てみよう。時は、三国志の時代、呉の孫策が会稽に居すわる王朗を攻めた。

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孫策が兵を率いて浙江を渡った。会稽の功曹である虞翻は会稽太守の王朗に「孫策は優れた戦略家ですので、戦わずに逃げた方がいいですよ」と助言した。王朗はその忠告に従わず、兵を集めて固陵で孫策を撃退しようと考えた。孫策は数度にわたり水上で戦ったが王朗に勝てなかった。孫策の叔父の孫静が孫策に次のようなアドバイスをした。「王朗は難攻不落の城を守っているので、簡単には陥せないだろう。ここから南に10数キロメートルに査涜という所があるが、そこから敵陣に入ることができる。兵法には、「備え無き所を攻め、相手の油断しているところを撃て」と教える。」孫策はこのアドバイスに従って、夜になると数多くのかがり火を燃やし、あたかも多くの兵が駐屯しているように装った。そして軍を分けて秘かに査涜に向かわせ、高遷屯を襲撃させた。王朗は思わぬところから敵が攻めてきたので驚いて元の丹陽太守である周昕たちに兵を授けて迎え撃たせた。周昕たちは敗けて孫策に斬られてしまった。王朗は遁走した。虞翻は王朗を守りながら一緒に逃げ(追随し)、海上に出て東冶まで逃げたが、孫策に追撃されて、大敗北を喫した。それで、王朗は孫策に降伏した。

孫策遂引兵渡浙江。会稽功曹虞翻説太守王朗曰:「策善用兵、不如避之。」朗不従。発兵拒策於固陵。策数渡水戦、不能克。策叔父静説策曰:「朗負阻城守、難可卒抜。査涜南去此数十里、宜従彼拠其内、所謂攻其無備、出其不意者也。」策従之、夜、多然火為疑兵、分軍投査涜道襲高遷屯。朗大驚、遣故丹陽太守周昕等帥兵逆戦、策破昕等、斬之。朗遁走;虞翻追随営護朗、浮海至東冶、策追撃、大破之、朗乃詣策降。
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資治通鑑の本文には、胡三省によるほぼ同じ程度の分量の注釈がある。内容は主として、発音や語釈であるが、中には非常に詳細な地理誌な注釈もある。たとえば、上の文には「東治」という知名が出てくるが、これ関する注釈は実に1000語近くある。一切の説明は省くが、具体的には次のような内容だ。

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前漢志:冶縣,屬會稽郡。師古曰:故閩越地;光武改曰章安。晉志曰:建安郡故秦閩中郡,漢高祖五年,以立閩越王;及武帝滅之,徙其人,名為東冶;後漢改為候官都尉;及吳,置建安郡。洪氏隸釋據西漢志曰:會稽西部都尉治錢唐,南部都尉治回浦。李宗諤圖經曰:文帝時,以山陰為都尉治;元狩中,徙治錢唐,為西部;元鼎中,又立東部都尉,治冶;光武改回浦為章安,以冶立東候官。吳孫亮傳曰:五鳳中,以會稽東部為臨海郡。孫休傳:永安中,以會稽南部為建安郡。沈約宋志曰:東陽太守本會稽西部都尉。又曰:臨海太守本會稽東部都尉。前漢都尉治鄞,後漢分會稽為吳郡,疑是都尉徙治章安。續漢志:章安故冶,光武更名。晉太康記:本鄞縣南之回浦鄉,章帝立。未詳孰是。又曰:司馬彪云:章安是故冶。然則臨海亦冶地也。張勃吳錄曰:是句踐冶鑄之所,後分為會稽東、南二部都尉:東部,臨海是也;南部,建安是也。杜佑通典曰:後漢改冶縣為候官都尉,後分冶縣為會稽東南二都尉,今福州是南部,台州是東部。又曰:二漢會稽西部都尉理婺州。數說異同,各有脫誤,嘗參訂之。自秦置會稽郡,其治在今吳門;至順帝分置吳郡,而會稽徙郡於山陰。以浙江為兩郡之境,故錢唐在西漢時屬會稽,所以為西部治所;及會稽移於浙東,則西部亦移於婺女。回浦後改章安,乃會稽之東部,今台州蓋其地。冶縣則是南部,在吳屬建安郡,至唐遂為福州。太康記嘗云:回浦本鄞之南鄉,或云東部治鄞,因致休文之疑。然鄞及回浦皆西漢縣名,謂西漢割鄞而置縣,或未可知。至章帝時,回浦已非鄉矣。太康所紀,亦誤也。前志註會稽之冶縣云:本閩越地。續志曰:章安,故冶,閩越地,光武更名。因脫其中數字,故劉昭補註惑於太康記,而休文復不能剖判也。當云章安故回浦,章帝更名;東候官,故冶,閩越地,光武更名:於文乃足。此郡之末有「東部侯國」四字,卻是衍文,侯與候相近,而南部所治,故文有錯亂。班史註回浦為南部。司馬彪謂章安是故冶,張勃謂分冶為東、南二都尉,杜佑謂二漢西部皆在婺女,圖經以冶為東部,皆誤也。余按洪說甚詳,其言錢唐,西漢時屬會稽,所以為西部治所,此語亦恐有未安處。
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このような注釈をつけるには、単なる文学者や歴史学者ではとうてい務まらないことが分かるであろう。また単なる物知りでもダメだ。博学で探究心旺盛でないと難しい。胡三省は一度作成した注釈を戦争中の放浪の間に紛失したが、それでも落胆することなく、再度、このようなすごい注を付けた。いつもながら中国の文人の歴史や注釈にかける意気込みはとうてい日本人の及ぶところではない、と感嘆する。

続く。。。
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百論簇出:(第193回目)『源流へと遡るリベラルアーツ』

2016-08-14 22:02:38 | 日記
昨年(2015年)出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』には、「従来型リベラルアーツは捨てよう」と題して、私の考えるリベラルアーツ観を示した。そのなかで、観念的な物事の理解や止めて「手触り感」をもって理解することを強調した。そして「手触り感」をもって歴史的事項を理解する例としてフランス革命と遣唐使を挙げた。

ここでは「手触り感」を別の観点から説明してみよう。

『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということわざがある。暗闇のなか、ぼお~っと薄白く見えるのが幽霊だと怖がっていたが、勇気を出して近づいてみると、「な~んだ、ススキの穂」だった、という意味だ。

このことわざを下敷きとして、どこかに幽霊が出たという噂が広まった状況を考えてみよう。噂を聞いた人々は、幽霊を見ていないにも拘らず、あわてて幽霊が出たと言われる所から逃げ出すだろう。しかし、一人だけが皆が走るのとは逆の方向に走り出したとする。彼は逃げ出してくる人に次々と、幽霊はどこに出たとのか、と聞いてどんどんと幽霊の噂の発生源に近づいていった。そして遂に、最後の人に、幽霊はあの藪の中にいるとの話を聞いて、勇気を出して藪のなかに入っていった。そこで、彼がみたものは、白い褌が樹の枝に掛かって風に揺られている光景であった。「な~んだ、これが幽霊なのか」と一人納得した。

さて、翌日の新聞を見ると次のような記事が載っていた。「某市に、昨日、幽霊が出ました。住民はパニックになって走り出したため、数名のけが人が出た模様。皆さんも幽霊が出た時には、落ち着いて避難してください。」

この幽霊騒動を例にとって、世の中で一般的に言われているリベラルアーツと「手触り感」のあるリベラルアーツの差を説明しよう。

世の中でいうリベラルアーツとは、あたかも幽霊が出たとの情報を鵜呑みにするかのように、世の中に流布している定説や既成概念の本性を確認することなく、伝聞や権威者の言うことをそのまま述べているような個所が多い。とりわけ文明論のように、カバーする範囲が広いテーマを扱っているような場合、得てして常識的な知識の延長、あるいは現代の状況を過去にそのまま投影して、結論づけているようなケースが、一流の学者にも間々見られる。すなわち、誤謬やクリシェ(cliche)の拡大再生産をしているのだ。その上ご丁寧にも、それに自分の見解を付け足しているのが、一般的なリベラルアーツ教育の実態と言っていいだろう。

それとは逆に、幽霊の噂の出所(でどころ)に向かって走りだした人のように「手触り感」のあるリベラルアーツとは、定説をそのまま信用するのではなく、常にその源流に遡ることを信条とする。定説の根拠をチェックしていくと、中には確証がなく、単なる仮説や思い込みに過ぎないものをベースにして立論しているものがいかに多いかに気づく。(例:和辻哲郎の『風土』)

結局、自分なりに納得する人生観と世界観を構築するには、ここで示したように、定説の源流まで遡るリベラルアーツに依る必要がある。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第144回目)『リベラルアーツを極めるための読書法』
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想溢筆翔:(第268回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その111)』

2016-08-11 23:26:47 | 日記
前回

【210.都市 】P.493、BC168年

『都市』とは、現在では city の意味に用いる。辞海(1978年版)には「一般にいう大都会のこと。人や物資が集まる所」(謂通都大邑、人物湊聚之処也)と説明する。辞書にはこのように説明するが、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索してみると「都の広場」のような使われ方も見える。例えば次のような例が晋書に見える。

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晋書(中華書局):巻127(P.3170)

怪賊・王始が太山にごろつきを数多くあつめ、自らを「太平皇帝」と名乗り、父を太上皇、兄を征東将軍、弟を征西将軍に任じた。慕容鎮が王始を攻めて生け捕りにし、都の広場(都市)で処刑することにした。処刑に先だって、父や兄弟の居場所を問い詰めたところ、王始はとぼけて「太上皇帝は混乱を避けるために避難された。征東将軍と征西将軍はどさくさにまぎれて兵に殺されてしまった。朕だけが一人無事である。」それを隣で聞いていた妻が怒って「そのへらず口をやめないか!その口のせいでこうなったのに!」王始が妻にむかってなだめるように「皇后よ、昔から破滅しない家は無かったし、滅びなかった国があるか!」と言った。

妖賊王始聚衆于太山、自称太平皇帝、号其父為太上皇、兄為征東将軍、弟征西将軍。慕容鎮討擒之、斬於都市。臨刑、或問其父及兄弟所在、始答曰:「太上皇帝蒙塵於外、征東、征西乱兵所害。惟朕一身、独無聊賴。」其妻怒之曰;「止坐此口、以至於此、奈何復爾!」始曰:「皇后!自古豈有不破之家、不亡之国邪!」
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この王始のケースでは「都市」はあきらかに、処刑の場所を表わしている。

しかし、現在使っている意味の都市のケースもある。その一例を資治通鑑から引用してみよう。

漢の晁錯(ちょうそ)が文帝に意見書を提出した文の中に農民は疲弊する一方で、商人は贅沢をする、と述べた一節が見える。

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(以上、述べたように農民は働けど働けど苦しい生活を強いられていますが)一方、商人はと言えば、大商人ともなれば、貯蓄を元に、利子を集めて一層裕福になります。小商人でも店にいて販売するだけで日銭を稼ぎ、日々、都市で遊び暮らしています。需要があれば、その足元を見て、買値の倍で売ります。それで、商人の家では、男は田を耕さず、女は機織りしなくても綺麗な服を着、食事も贅沢に肉を食べることができます。農夫のような苦しみをせずに、百倍から千倍もの稼ぎを得ることができます。そして、蓄えた財力で王侯貴族と付き合いをするので、官僚をもしのぐ権力を手にして、一層、裕福になります。

而商賈、大者積貯倍息、小者坐列販売、操其奇贏、日游都市、乗上之急、所売必倍。故其男不耕耘、女不蚕織、衣必文采、食必粱肉;無農夫之苦、有仟伯之得。因其富厚、交通王侯、力過吏勢、以利相傾。
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この文章は、今から2200年も前のものであるが、中国の現状を批判した文章だといっても誰も驚かないことだろう。



ところで「都市」という単語には「諸市」(もろもろの町)という意味があると、清代の学者である王念孫が『晏子春秋集釈』次のような注をつけて解説している。

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晏子春秋集釈 巻第四

王念孫の説明:「晏子の本には「国之都市」という単語があるが、ここでいう「都」は「諸」と同じ意味である(交換可能な字ということ)。従って、「都市」というのは「諸市」という意味でもある。一国の中には市は一つしかない、というわけではないので、「都市」とは「諸市」の意味である。後の人は「都」という字は「諸」の借字(当て字)であることを知らず、間違って「都邑」の「都」の意味に解釈した。

(王念孫云:「案晏子本作「国之都市」、「都」「諸」古字通、「都市」、即「諸市」也。国中之市非一、故曰「諸市」、後人不知「都」為「諸」之借字、而誤以為「都邑」之「都」。)

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「都市」には city とは別の意味もあるということがわかる。
続く。。。)
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【座右之銘・95】『Praesentia invidia, praeterita veneratione prosequimur』

2016-08-07 21:58:19 | 日記
中国文化の一つの大きな特色として、尚古趣味を挙げることができる。「尚古」とは「古き良き時代」というように何でもかんでも昔がよかったと懐古する風潮をいう。「尚古」は紀元前5世紀孔子のころに、既に色濃く現れている。孔子にとっての理想の古代は尭舜や周王朝建国初期の聖人・周公旦の時代であった。ただ、その後、誰も孔子が理想とした当時の人々の暮らし振りが、本当に称賛しているような理想的なものであったかどうかという事を科学的、あるいはすくなくとも論理的に検証しなかった。あたかもエデンの園を理想的な時代と無邪気に信じるユダヤ教徒、あるいはキリスト教徒のように、尭舜を無条件で理想の時代としたことが、その後の中国思想の発展を阻害した最大の要因のように私には思える。

この傾向はその後、強められこそすれ、弱まることはなかった。宋代に入って所謂、宋学の基礎を据えた程子は次のように述べたと言われる。
 敢えて自らを信ぜす、而してその師を信ず、故に久しくして、後に通ず。
 (不敢自信而信其師、故久而後通)

この句の言わんとする所は、「学問(儒学)を修める上で、肝要なのは自分で原因追求することではない。ひたすら先師のいうことを一字一句、聞いた通りそのまま理解することだ」と理解される。
(もっとも、朱子の『晦菴集巻四十三・撰書知旧門人問答』では「程子所謂、不敢自信而信其師」となっている。)

程子のこの考えは、私の考えるリベラルアーツの根本である「健全な懐疑精神を持つ」こととは対極の考えである。私は、古代そのものや、古代の賢人の智慧を否定するわけでない。それどころかむしろ積極的に「東西の古典を読もう!」と古典を読むことを煽っている。その理由は、古典を読むことで「時代を超越して通用する人生観、価値観が分かる」からである。(『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』第3章、祥伝社)

そうは言っても、古典や過去の偉人や賢人を絶対視することには私は反対だ。古典や賢人意見といえども、あくまで自分の考えを確立するための材料にしか過ぎない。自分で納得するまでとことん考え抜くことがリベラルアーツを学ぶべき者の心すべき最も重要な点であると考える。



さて、尚古趣味は何も中国に限ったわけではなく、歴史的にリベラルアーツ発祥の地である西洋にもあったと知ると、読者の中には意外に思われる方もいることだろう。

紀元前後の帝政ローマ時代の歴史家・Velleius Paterculus(ウェッレイウス・パテルクルス)の『ローマ世界の歴史』(Histriarum Libri Duo)の第2巻には次のような句が見える。
 【原文】Praesentia invidia, praeterita veneratione prosequimur.
 【私訳】現代は胡散くさい目で眺めるが、古代は畏敬の念で見る。
 【英訳】We regard the present with envy, the past with veneration.
 【独訳】Auf die Gegenwart schauen wir mitscheelem Blick, auf die Vergangenheit aber mit Bewunderung.

Velleiusのいう古代とはこの場合、共和制ローマを指しているようで、共和制という輝ける理想が現代(帝政ローマ)では輝きを失ってしまったと嘆いているようだ。矮小化された喩えて恐縮だが、この文句を卑近な例で置き換えてみると、若い時代の恋の過ちも、歳をとると rosy に見えてくる、とでもいう事だろうか?
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想溢筆翔:(第267回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その110)』

2016-08-04 22:20:31 | 日記
前回

【209.戒厳 】P.2557、AD279年

『戒厳』とは「警戒を厳にすること」という意味であり、現在と全く同じ意味に用いる。「戒厳」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のように、初出は三国志であるが、一般的に使われるようになったのが晋書からだと分かる。当時から今と同じ意味であったことは資治通鑑の初出の次の引用文からも分かる。



時は、晋の武帝(司馬炎)の時代。三国志時代からの念願であった、中国全土の統一のため、武帝が呉を征伐するよう部下たちから促された。

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益州刺史の王濬が次のように上疏した「孫皓は不品行で、非道な行いを繰り返しています。直ちに征伐すべきと考えます。というのは、もし孫皓が死ぬようなことがあって、賢王が呉の王位を継ぐとなると強敵となります。私は呉への進撃に備え、過去七年間、船を作り続けていますが、中には既に壊れだしている船もあります。さらに、私は70歳にもなっているので、いつ死んでもおかしくありません。今挙げた三つの理由のどれが欠けても全国統一は困難になります。どうか、陛下、今の好機を逃さないよう、お願いいたします。」この上疏を読んで、武帝はようやく呉への遠征を決心した。会安東将軍の王渾は孫皓が逆に攻めのぼってくるとの情報をもたらした。それで、国境地帯には警備を厳しくするよう(戒厳)命じた。朝廷では、明年に出陣することを決めた。

益州刺史王濬上疏曰:「孫皓荒淫凶逆、宜速征伐。若一旦皓死、更立賢主、則強敵也。臣作船七年、日有朽敗;臣年七十、死亡無日。三者一乖、則難図也。誠願陛下無失事機。」帝於是決意伐呉。会安東将軍王渾表孫皓欲北上、辺戍皆戒厳、朝廷乃更議明年出師。
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どの国でもそうだが、歴史というのは、決まって勝者が編纂し、それが後世に伝えられる。中国も基本線はその通りだが、なにしろ国土が広い上に、筆まめな文人が多いので、客観的資料も数多く存在している。資治通鑑や『宋名臣言行録』の引用文献を見ても、非常に多くの資料を参考にして編纂していることが分かる。そのために、当時の政権にとっては都合の悪い話も、案外多く記録に残されている。

ただし、王朝が倒れる時の最後の帝王に関しては、比較的悪い話が多い。しかし、非難している文章を見ると、画一的な文句が頻繁に登場する。記録されている文句がどの程度真実であるかどうか、疑問が湧くケースも多い。この場合でも、呉の王、孫皓は「荒淫凶逆」と書かれているが果たして一方的に暴君と決めつけていいのかどうか、私には判断できない。

続く。。。
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【麻生川語録・42】『語学力のヒステリシス』

2016-07-31 19:25:30 | 日記
物理化学の現象は何も無機物にだけ適用されるものでもなく、我々人間にも同じ法則が成り立つ。18世紀、イタリアの物理学者のガルバーニが、ひょんなことからカエルの足に金属が触れると、あたかも生きているかのように、足がぴくっと動いたことに気づいて、神経が導電体であることが分かり、神経といえども、物理化学現象に支配されているのだということが証明された。当然のことながら、脳の働きや神経の仕組みの解明において医学はその後飛躍的な発展を遂げた。

このように、人間の脳といえども心理面だけでなく、物理化学的に考えてみると、納得できることが多い。一つの例を挙げると、人間の能力をヒステリシスの観点から考えてみることだ。

ヒステリシス(hysteresis)とは「物質の状態が、現在の条件だけでなく、過去の経路の影響を受ける現象」(デジタル大辞泉)と説明されている。日本語では履歴現象という。もっとも、この説明を見て、理解できる一般人ははなはだ少ないのではないだろうか。分りやすく例でヒステリシスを説明してみよう。

屋台などで売っている、細長い飴棒を両手でつかむように持って、少しひねってみよう。そしてそのまま手を離さず、元の位置まで逆方向にひねってみよう。手の位置が元に戻った時、飴棒は元のようにまっすぐであろうか?たぶん、ねじった時についた歪みが幾分か残っているだろう。もし、ゴムのような棒ならそういった事は起きず、元の真っ直ぐな形に戻る。つまり、飴棒は手の位置が元の場所にもどっても、それまでにどちらの方向にどの程度の速さで捩じったかによって残る歪の大きさが異なるということだ。これが過去の経路の影響を受ける現象という意味だ。ふーてんの寅さん流にいうと「てめーが、なめた飴玉なんぞ、いくらきれいに洗って、もとのように見えたって、ばっちっくて食えるかー!」ということだ。


【出典】鍵善良房の豆平糖

ところでヒステリシス(hysteresis)とヒステリック(hysteric)は綴りが似ているので、チェックしてみると、どうやら同じ語源から来ているようだ。どちらも「後の(英語のlater)」という単語、hysterosと関連している。

さて、ヒステリシスの話を持ち出したのは、私自身の体験から、語学力にもヒステリシスがあるということを言いたいからだ。



そもそもヒステリシスとは、上の図のようになるが、「語学力のヒステリシス」の場合、このグラフの横軸が語学学習に費やした時間、縦軸が語学力ということになる。

そうすると、このヒステリシスの図が示しているように、語学力は、費やした時間や投下した努力に比例して、すんなりとは伸びてくれないものだ。始めのうちは、時間をかけたがさっぱり、進歩が無いように思える。ところが、ある時点から急にさあ~っと分かってくる。そうすると、語学力というのは緑色のカーブが示すように短期間の間にぐんぐんとアップする。時間に応じて素直に伸びずに、急にがくんと伸びるような関係を数学的には非線形(線形関係にない)という。皆さんも体験するように、水泳もある時から急に泳げるようになるのと同じだ。

ここまでなら、誰でも体験するので、わざわざここに持ち出すまでもない話だが、私が最近体験したのは、このヒステリシスのグラフの赤の部分、つまり語学学習を止めてしまった後の語学力の後退フェーズの話だ。

私は最近は、取り立てて英語(だけでなくドイツ語、フランス語など)に対して、会話とか読書などに時間を費やしていない。しかし、時たま英語での講演を頼まれたり、外人と面談しないといけない時がある。雑談なら大したことはないのだが、講演ともなると、やはりしっかりした英語を話す必要がある。それで、英語の感覚を取り戻すために、俄か仕立てで英語力を取り戻さないといけない。その為の方策として、YouTubeでしっかりしたまともな講演(TEDなど)を数日、びっしりと聞く。また、同時に英語の分厚い本を集中して読む。そうすると、しばらくすると、かつての英語の感覚が戻ってくる。

こういうことを数回して、気がついたのだが、語学力にはヒステリシスがあるということだった。もし、ヒステリシスが無いとすると、さぼったら、そのさぼった時間に比例して語学力が大幅に低下しないといけないはずだが、幸運にも、語学力にはヒステリシスがあるため『一旦ある程度の高いレベルにまで到達したら』怠けていても落ちるには、時間がかなりかかるということを身をもって検証したという次第だ。古い諺の『雀百まで踊り忘れず』がこの語学力のヒステリシスの上のカーブ(赤色)を表わしている。

Bad News:
ただ、この語学力のヒステリシスだが、上でも断っているように『一旦ある程度の高いレベルにまで到達』した場合にはヒステリシスカーブの目がぱっちり開いているが、到達レベルが低いと、目がほとんど開かず、従って怠けると、これまた急激に低下するようだ。。。
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想溢筆翔:(第266回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その109)』

2016-07-28 18:07:30 | 日記
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【208.構成 】P.2081、AD208年

『構成』とは現在の日本語では「いくつかの要素を組合わせてつくること」(form, compose, constitute)の意味で用いる。しかし漢文の場合、それだと意味が通じない。

漢文では『構成』とは「人を陥れることをたくらむ」という意味で使われる場合がほとんどだ。『構成』の「構」を中国の辞書で調べると、まず辞源では「謀を図(はか)る」(図謀)と説明する。次に、辞海では「無理やりこじつけて、でっちあげるのを構という」(付会成之曰構)と説明する。つまり、『構成』という単語は、他人を陥れるために、ありもしない罪を捏造するという気の滅入るような権謀術数の世界の言葉なのだ。ちなみに『構成』に続く語句は次のように、いずれもこの禍々(まがまが)しいニュアンスを増幅するものばかりだ。
 「構成禍、構成其罪、構成禍災、構成疑似之端」

『構成』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次の表のようになるが、特徴的なのは、古代から使われている単語ではあるものの、旧唐書以降ぷっつりと使われなくなったことである。唐以降、中国人が心を入れ替えて人を陥れることを止めた訳ではないから、きっと別の(もっとエゲツナイ?)単語を使うようになったのだろう。



資治通鑑での『構成』の初出の場面をみてみよう。

孔子20代の子孫と言われる孔融は、天才肌ではあったが、あからさまに人を見下すような傲慢な所があった。彼の悲劇は、たまたま同時代に曹操なる、文人として、また武人としても極めて優れた絶対権力者がいたことである。

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太中大夫の孔融が、市で公開処刑された。孔融は自分の才能と家門の高さを誇り、それまで幾度も曹操を侮辱したり、曹操の意図に逆らった勝手気ままな発言を繰り返していた。曹操は、孔融が世間の人々から重んじられているので、表向きは奇矯な言動を容認しているかのごとく振る舞っていたが、はらわたは煮えくり返っていた。かつて孔融は曹操に「古代の制度を復活し、都から数百キロ内は政府の直轄地にして諸侯を建てるべきでない」との意見書を提出した。ここに至って、曹操はこのまま放っておくともっと過激な政治的発言をするかもしれないと神経をとがらせた。

さて、孔融は郗慮といがみ合っていたが、郗慮は曹操が孔融を嫌っているのを知るや、孔融の罪を捏造(構成)しようと考えた。そこで、部下で、丞相の軍謀祭酒の路粋に次のような上書を書かせて提出させた。「孔融はかつて北海に住んでいましたが、漢王朝が混乱していると見るや、仲間をあつめて政府の転覆を図りました。孫権(呉)の使いが来たときも盛んに本朝(魏)をそしりました。それに加え、かつて平民の禰衡と放言の限りを尽くし、互いに相手を持ち上げました。禰衡が孔融に『孔子は死んでいない、あなたこそ孔子そのものだ』と言うと、それに答えて、孔融が『顔回も生き返った、あなたこそ現代の顔回だ』と不遜極まりない発言をしました。重罰の処すべきと考えます。」曹操はこの上書を証拠として、孔融だけでなく妻子も併せて捕え、全員を処刑した。

太中大夫孔融棄市。融恃其才望、数戯侮曹操、発辞偏宕、多致乖忤。操以融名重天下、外相容忍而内甚嫌之。融又上書、「宜準古王畿之制、千里寰内不以封建諸侯。」操疑融所論建漸広、益憚之。

融与郗慮有隙、慮承操風旨、構成其罪、令丞相軍謀祭酒路粋奏:「融昔在北海、見王室不静、而招合徒衆、欲規不軌。及与孫権使語、謗訕朝廷。又、前与白衣禰衡跌蕩放言、更相賛揚。衡謂融曰『仲尼不死』、融答『顔回復生』、大逆不道、宜極重誅。」操遂収融、幷其妻子皆殺之。

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孔融の身からでたさびとはいえ、ちょっとした放言で自分の首が飛ぶだけでなく、一族数十人の命まで奪われたのが、歴史的中国の恐ろしさである。(この点において、中国が一向に進化(あるいは退化?)していないことは、数十年前の文化大革命でも証明された)。

孔融が本当に政府転覆計画を真剣に考えたのかどうかは、当然、詮索は不要だ。カエサルは妻に不倫の噂が立っただけで離婚した。何故、調べもせず、噂だけで即離婚したのかと問われて「カエサルの妻たるもの、疑われるだけでダメだ。」と答えた。この伝と同じく、中国の「謀叛(謀反)」というのは、実行しなくても考えが頭をちらっとでもかすめても、実際に謀叛したのと同罪なのだ。(参照:『古代中国の刑罰』中公新書、富谷至、P.125)

以前からこのブログの『惑鴻醸危』シリーズで、あることないこと、失言・放言・妄言、を重ねている私などは、このような法律が我が日本でも施行されたなら、すぐに投獄されることは間違いないと確信している。

続く。。。
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