限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第205回目)『好奇心こそ知識の増進剤』

2017-04-23 18:16:55 | 日記
一昔前のことであるが、EQ(心の知能指数:Emotional Intelligence Quotient)という言葉が流行した。人の評価は従来の知能指数(IQ : Intelligence Quotient)では測れない、むしろ自分と他人の感情を的確に理解し、コントロールする能力(EQ)が重要だと力説する。現在ではこれら(IQ、 EQ)に加えて意志の力や好奇心も人を能力を示す指標だといわれている。米ジャーナリストの Thomas Friedman は人の評価において好奇心(QC:Curiosity Quotient)や情熱(Passion)はIQより重要だと述べて、次のような等式すら提唱している。


この等式の是非はさておき、意味するところは私も同感だ。このブログ『限りなき知の探訪』の最初に述べた
 『知識を与えるより、疑問を抱かせる教育』
がまさにこの趣旨である。

しかし、最近つらつら考えるに「疑問を抱かせる」から更に一歩進んで「仮説をもって考える」方がより一層重要ではないかと思い至った。ここでいう「仮説」とは、リベラルアーツの根本的精神である「健全なる懐疑心」を持って ― 世間の常識に囚われず ― 自分で考え出した仮説のことだ。当然のことながら、全ての「仮説」は検証を必要とする。それも、自分勝手な解釈や思い込みで判断するのではなく客観的な幾多の証拠に照らし合わせて検証することだ。この方法論に関しては次のブログに述べた。
【麻生川語録・16】『EBD -- Evidence Based Discussion』

数年前、『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』という本を上梓したが、私が資治通鑑を読もうという気になったのは、中国の権力闘争や桁外れの汚職、言語を絶する環境汚染などを見聞きするにつけ、どうも中国文学者たちのいう「すばらしき中国文明」に大いなる疑問を感じたのが発端である。この時、一応仮説として「現代の中国に見られるこれらの悪の部分は、 1980年代からの改革開放から起こった現象ではない」を立て、歴史的に検証するため資治通鑑というドキュメンタリーを読んだのである。

その結果は『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(や、今年(2017年8月)に出版する予定の資治通鑑の続編)に書いた通り、私の仮説が正しいことが実証された。資治通鑑を読んで培われた中国社会をみる鑑識眼で戦後の中国の権力闘争や社会の動きを見ると実にその基本構造がよく見える。あたかも表面からでは分からない疾患がレントゲンやMRIの画像データで、一目瞭然と判明するようなものだ。

中国はさておき、ヨーロッパについて言うと、私は 22歳の時にドイツへ1年間留学したが、その間、半年以上はヨーロッパ各地を旅行することに費やした。(ということで、ドイツ滞在は半年に満たなかったのだが。。。)その後、改めて日本におけるヨーロッパの歴史教育について考えてみると、中世に関する情報は実に少なく、かつ、極端にキリスト教中心の歴史的事変に偏向していることに気づいた。日本人の文化人の中には、キリスト教を理解しないとヨーロッパは理解できないという人がいるが、実際にヨーロッパに暮らしてみると ― 感覚的にしか言えないが ― 彼らの言動のうちキリスト教に基づく部分はたかだか1/3程度に過ぎないと感じる。後の部分は、ギリシャ・ローマの論理や弁論術であったり、あるいは、先住民族(ケルト人)時代からの習俗(例:クリスマス、イースター)であったりする。日本に置き換えてみると、仏教一色ではなく、神道や儒教、あるいは土俗のシャーマニズムの影響が今なお見られるようなものだ。

これらのことから私は「ヨーロッパにおけるキリスト教の影響度は中世においても低かった」との仮説を立てた。そして学校教育ではほとんど触れられることのなかった中世ヨーロッパの実生活を記述している本を探してかなり読み込んだ。例えば次のような本だ:
 『中世の秋 上・下』(中公文庫)ホイジンガ(堀内孝一・訳)
 『中世ヨーロッパの生活』(白水社・文庫クセジュ)ジュヌヴィエーヴ・ドークール(大島誠・訳)
 『中世ヨーロッパの農村の生活』(講談社学術文庫)ジョセフ・ギース、フランシス・ギース(青木淑子・訳)
 『中世ヨーロッパ生活誌 1・2』(白水社)オットー・ボルスト(永野藤夫・訳)
 『フランス文化史・Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(人文選書)ジョルジュ・デュビィ(前川貞次郎・他訳)
 『中世後期のドイツ文化』(三修社)H.F.ローゼンフェルト(鎌野多美子・訳)

これらの本は確かに中世ヨーロッパの民衆の生活について貴重な Evidenceを提供している。その意味で価値のある本であるが、そもそもの私の仮説(中世におけるキリスト教の影響度)について納得のいく説明はこれらの本の中には残念ながら見つからなかった。(あるいは、私の読み方が不足なのかもしれないが。)

さて、最近アナール派の巨匠、フィルナン・ブローデルの大著「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」を読み始めたことはブログ記事、
 沂風詠録『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ』
に書いた通りだが、この本は15世紀以降、つまり中世が終わったあとの話である。それで、アナール派の視点で中世を書いた本がないかと探したところジャック・ル・ゴフ(Jacques Le Goff)の書いた『中世西欧文明』(論創社)という本を見つけた。アマゾンの書評を読むと、かなり高い評価の本であることが分かった。ただ日本語の翻訳では原著に豊富にある写真や図版が大幅にカットされていることが分かった。

それで、原著の "La Civilisation de l'Occident medieval" を探して購入したところ、図らずもフランスのグランゼコールの一つである国立高等装飾美術学校(L'Ecole nationale superieure des arts decoratifs (ENSAD))のかつての蔵書が届いた。


それで早速、ブローデルと並行して、和訳本を見ながらフランス語の部分を読み始めた。訳者・桐村泰次氏の文章は非常にこなれていて、分かりやすいので大いに助かっている。(ただし、段落分けが原文と異なっているのがちょっとしたキズではある。また、図版がないので、後で読み返すとき、原著のページ数との照合に手間がかかるのもささやかな難点だ。)

和訳本では写真や図版がカットされたということだが、原著を見るとこれら図版にもかなり長い説明文がついているので、この部分を訳すのは確かに大変だろうなと感じる。更に、現在ですら6000円と学術書レベルの高価な本なのに、写真や図を載せると軽く2万円は超えてしまい、ますます手が届かなくなるだろうと思う。

さて、本題の私の仮説についてであるが、読み進めていくと原著の P.158(和訳ではP.181)に次のような文を発見した。
【要旨】修道院によってヨーロッパは田舎にまでキリスト教がもたらされた。しかし、中世文明にとって修道院はあたかも砂漠の中のオアシスのように「森」の中の「点」に過ぎなかった。広漠たる未開墾の田園は先史時代にルーツをもつ伝統的な農村文明があり、キリスト教はその表面を彩る釉薬に過ぎなかった。

つまり、ゴフは中世において修道院がキリスト教を広めた功績は認めるものの、それが全てだというような過大な評価を戒めているのだ。この文章によって、私の積年の仮説がようやく正しいことが分かった。学生時代にヨーロッパに行って感じた時から勘定すると、実に40年も経ってようやく一つの仮説が検証されたことになる。確かに時間はかかるものの、仮説を持って本を読むと、理解する深みが随分と違うことを改めて感じる。
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想溢筆翔:(第304回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その147)』

2017-04-20 20:25:37 | 日記
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【246.衰弱 】P.1976、AD195年

『衰弱』とは「おとろえて体力や勢力が弱る」という意味であるが、たいていの場合、主語が生物である。しかし、漢文の場合は、主語が国家や政権など、無生物の場合もかなり多い。例えば「匈奴衰弱」(漢書、後漢書)、「周室稍稍衰弱」(賈誼新書)、「中国衰弱」(新五代史)など。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のように史記には見えず、漢書以降に見えるが、戦国策にも登場する単語であるので、かなり古い単語であることが分かる。



さて、資治通鑑で『衰弱』が使われている場面を紹介しよう。

後漢末、張超が雍丘で曹操の軍勢に包囲され、今にも陥落しそうになった。以前、張超の部下で、その時は袁紹の配下にあった臧洪は、直ちに救援に駆け付けたいとして、袁紹の許可を求めたが、許されなかった。とうとう、張超の城は耐え切れず陥落し、張超は自害して果てた。このことを恨んだ臧洪は袁紹に叛旗をひるがえした。袁紹は即座に軍をおくって臧洪の城を包囲した。籠城の備えがなく、食糧が底をついたので、臧洪は自分の愛妾を殺して、兵士に食わせた。皆、感動のあまり嗚咽するばかりであった(殺其愛妾以食将士。将士咸流涕、無能仰視者)。

そういった悲壮な頑張り甲斐もなく、とうとう城が陥落し、一人、臧洪だけが生け捕りにされて袁紹の前に引き立てられた。

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袁紹は将兵たち全員を集めた前で臧洪を詰問した。「臧洪よ、お前はなんでワシに背いたのだ?敗けたのだから、降参しろ。」臧洪は地にどっかと座り眦[まなじり]をつり上げてこういった。「袁氏は代々漢の王室に仕え、四世に亘って五人も大臣を輩出している、漢の王室に大恩があるというべきだ。ところが、今や漢の王室が衰弱したにも拘らず、サポートせず、逆にこのチャンスに王室を乗っ取ろうとし、数多くの忠臣を殺して勢力を張ろうとしているではないか!ワシはお前が張邈(張陳留)を「兄」と呼んでいるのを間近に見た。それなら、張邈の弟であり、またワシの主君である張超はお前にとっては弟分に当たるではないか。本来なら一緒に力を合わせて国のために尽くすべきなのに、お前は何だ、張超の城が陥落するのを、ただただ傍観していただけではないか!ワシは力が足りず敗けてしまった。お前の胸に刃を突き立てて、復讐できないのを悔しく思うことはあっても、どうして降参など考えようか!」袁紹は以前から臧洪をかわいがっていたので、どうしても降参させて、また部下に取り立てたいと考えていた。しかし臧洪の考えが頑として変わらないことを知るや、処刑した。

紹大会諸将見洪、謂曰:「臧洪、何相負若此!今日服未?」洪拠地瞋目曰:「諸袁事漢、四世五公、可謂受恩。今王室衰弱、無扶翼之意、欲因際会、希冀非望、多殺忠良以立姦威。洪親見呼張陳留為兄、則洪府君亦宜為弟、同共戮力、為国除害、柰何擁衆観人屠滅!洪惜力劣、不能推刃為天下報仇、何謂服乎!」紹本愛洪、意欲令屈服、原之;見洪辞切、知終不為己用、乃殺之。
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臧洪と共に城に立てこもったのは兵士だけでなく、一般人も一万人近くいた。籠城で食糧難になっても、誰一人裏切らなかったという。人としての真贋はこういった危機の時に判明するということだ。

続く。。。
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沂風詠録:(第286回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その4』

2017-04-16 22:09:55 | 日記
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【6】ハンカチ(1-1、P.237)

以前、ドイツへ留学した時に、"Im Bus soll man nicht Trumpet blasen." (バスの中でトランペットを吹くべからず)という(ような)句を聞かされたことがあった。「トランペットを吹く」とは文字通りの意味ではなく、鼻をかむことである。日本人と違って鼻が高い(大きい)人が多いドイツ人の中にはトランペットのような豪快な音をたてて鼻をかむ人がいる。それで、エチケットとしてバス(や公共機関)の中では鼻をかまないようにという忠告なのである。

ドイツでは当時(1977年)も(多分、今でも)鼻をかむ時は鼻かみではなく、ハンカチを使う。それも、一回つづ取り換えるのではなく、何回もかむ。そうして、かんだ後はポケットに突っ込んでおくと、体温(と乾燥している)おかげで、その内に乾いてくるので何度も使える。初めは、下品でバッチイと思っていたが、そのうち私自身もドイツ式にハンカチを使うようになった。

ハンカチで鼻をかむのは、日本人の清潔感からすると納得できないが、ヨーロッパではかなり上品だと考えられていたと、ルネッサンス期の文人・エラスムスの言を引用しながら、ブローデルは次のように述べる。

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ハンカチも贅沢品であった。エラスムスはその著作『礼儀作法集』のなかでこう説明している。―「帽子や袖を使って鼻をかむことは田舎者のすることである。腕や肘で鼻をかむのは菓子屋のすることである。また手鼻をかんで、ひょっとして同時に自分の服にその手を持っていったりしたら、不作法な点では五十歩百歩である。しかし、貴人からやや顔をそむけながら、ハンカチで鼻の排泄物を受けとめるのは礼儀にかなったことである。」
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このように、ハンカチで鼻をかむのは至って上品なマナーであるというが、 17世紀の初め、慶長遣欧使節でヨーロッパに行った支倉常長の一行が懐紙で鼻をかんだことに当時のヨーロッパ人は非常に驚いたようである。紙が安価に出回っていた日本と異なり、ヨーロッパではハンカチ以外の手段がなかったのであろう。もっとも、片方の鼻の穴を抑えて、もう一つの穴から空気を思い切り吹出すことでハンカチどころか手も汚すことなく手際よく鼻水を取り去る方法もある。当然のことながら、ハンカチ業界や鼻紙業界からは、営業妨害と指弾されている方法ではあろうが。。。



これらの記述を通して、ブローデルは、ヨーロッパが先進的になったのは、たかだかここ300年の、極めて最近の現象にすぎないことを述べようとしたのだと私は考える。逆の観点からいうと、現代の世界において、文明的と考えられているさまざまな思想は物質的には至って粗末な状況のヨーロッパにおいて育まれたのだということを知っておく必要がある。

日本では「和魂洋才」という言葉があらわすように、ヨーロッパの物質文明に対して、日本の精神文明があると誇る。幕末の学者・佐久間象山はもっと端的に「東洋道徳、西洋芸術」と述べた。この点においては、中国や朝鮮も同じように考えていたことは、「中体西用」(中国)、「東道西器」(朝鮮)という単語からでも分かる。しかし、ブローデルの指摘からもわかるように、歴史的にみれば、ヨーロッパが物質文明の恩恵に浴したのは、最近(300年前)だったことを思い至ると、東西文明の本質的な差は物質文明のある/なしではないことが分かる。表層的ではなく、物事に対する観点・考え方の根本的な差をつかむには、膨大なバックグラウンドの知識を必要とする。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第13回目)『下駄履きのシンデレラ』

続く。。。
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想溢筆翔:(第303回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その146)』

2017-04-13 21:32:46 | 日記
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【245.両雄不並立 】P.3926、AD446年

『両雄不並立』(両雄、並[なら]び立たず)とは、広辞苑によると「英雄は二人両立することはできず、必ず争って、どちらかが倒れる」とある。そして、出典として『史記』巻97の酈生伝を挙げる。しかし、史記の該当部分を見ると字句が多少異なっている。「両雄不並立」ではなく「両雄不倶立」(両雄、倶[とも]には立たず)である。広辞苑だけでなく、『日本国語大辞典』(小学館)にも同じく「両雄、並び立たず」の項目が挙げられているが、出典は同く史記という。ついでに『中国故事成語大辞典』(東京堂)を見ると、ここでは「両雄、並び立たず」の項はなく、史記の出典の通り「両雄、倶には立たず」として項を立てている。

すると一体「両雄、並び立たず」とはどこから出てきたのであろうか?資治通鑑の巻124に、この表現が表われる。その部分を見てみよう。

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仇池出身の李洪は住民を集めて「ワシは王になる」と宣言した。これを聞いた梁会は恐れて 氐王の楊文德に救けをもとめた。楊文德は「両雄は並び立たないものだ。もしお前がワシに味方するつもりなら、まず李洪を殺せ」。そこで、梁会は李洪を誘いだして斬り、首を楊文德に届けた。

仇池人李洪聚衆、自言応王;梁会求救於氐王楊文德、文德曰:「両雄不並立、若須我者、宜先殺洪。」会誘洪斬之、送首於文德。
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資治通鑑のこの部分は、『魏書』巻51に拠っているがそこでは「両雄不並、若欲須我、先殺李洪」となっていて、「立」という字が無い。結局、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)全体を検索しても、「両雄不並立」という句はここ、資治通鑑(巻124)の一ヶ所しか見えない。



ただ、史書以外で調べると、羅貫中の『三国志演義』(中国では、三国演義という)の第13回には「両雄不并立」の語句が見える。(「并」は「並」の異字体。)

それは、楊彪が横暴極まりない2人の将軍、李傕と郭汜を仲たがいさせて、相討ちさせようとたくらむ場面。楊彪は自分の妻を郭汜の妻の所に送って、郭汜が李傕の妻と密通しているとのニセ情報を流させた。そのガセネタを真に受けた郭汜の妻が夫に李傕を用心せよと勧めた。

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楊彪の妻が帰ろうとすると、郭汜の何度もお礼を言って別れた。数日して、郭汜がまた李傕の所での宴会に出かけようとすると、郭汜の妻は「李傕は腹黒い人です。ましてや「両雄、並び立たず」というではありませんか。もし、あなたが酒に毒を盛られて暗殺されれば、私はどうすればいいの?」。郭汜は取り合わなかったが、妻がしつこく言うのでとうとう宴会に行くのを止めた。夜になって李傕が宴会の食事を届けてくれた。郭汜の妻はひそかにそれに毒を盛って差し出すと、郭汜は喜んで食べようとしたが、妻は「外から来た食事を毒見しないで食べるものでしょうか?」と言って、まず犬に与えると、犬はたちどころに死んでしまった。この後、郭汜は李傕を疑うようになった。

彪妻告帰、汜妻再三称謝而別。過了数日、郭汜又将往李傕府中飲宴。妻曰:“傕性不測、況今両雄不并立、倘彼酒后置毒、妾将奈何?”汜不肯听、妻再三勧住。至晚間、傕使人送酒筵至。汜妻乃暗置毒于中、方始献入、汜便欲食。妻曰:“食自外来、豈可便食?”乃先与犬試之、犬立死。自此汜心怀疑。
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上に書いたように「両雄不並立」は一ヶ所しかないが、同趣旨の語句は二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)を検索するといくつか見つかった。
 ○『此勢不両雄』(史記。巻75)
 ○『両雄不倶立、両賢不並世』(史記。巻113、漢書。巻95)
 ○『一栖不両雄』(後漢書。巻72、資治通鑑。巻61)
 ○『両雄不倶処、功名不並立』(晋書。巻44)

ところで、上の『三国志演義』の文を読むと、だいたい漢文の語法で理解できることが実感として分かる。『三国志演義』は明代に書かれたが、『後漢書』や『三国志』の文をベースとしているため、擬古文とでもいう文体だ。しかし、明時代の口語はすでにかなり文章文とは乖離していた。このことは、300年ほど前の南宋時代に書かれた『朱子語類』を読めばよく分かる。『朱子語類』の文は私には禅の語録以上に分かりにくい。誰か『朱子語類』をオーソドックスな漢文に翻訳してくれないかなあ、と期待しているのだが。。。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第54回目)『侮ってはいけない!四字熟語は由来を理解しよう』

続く。。。
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沂風詠録:(第285回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その3』

2017-04-09 20:14:40 | 日記
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【4】フォーク(1-1、P.236)

インド人は指を使って食事するのが一般的だ。日本人の感覚では、固形のものであれば(パン、お菓子、果物など)は指を使って食べるも差支えないが、カレーのような液状のものは手がべたつくので、いささか抵抗を感じる。しかし、逆にインド人は食べ物は舌の味覚だけでなく、手ざわりという触覚でも味わうべきだと考えているらしい。

ずっと以前(1984年)、アメリカ留学中にインド人の学生とプロジェクトを一緒にして、親密になり、アパートに呼ばれたことがあった。その時、数人のインド人学生もいたが、非インド人は私一人であった。普段は彼らもナイフとフォークで西洋式の食べ方をしているが、内輪の食事では、皆、指を使って食べていた。私も真似をしてみたが、まるで離乳食を食べる幼児のように、顔や手がカレーでべたべたになってしまった。アメリカの大学に留学するぐらいであるから、彼らは全員カーストの高いランクに所属するが、それでも指を使う習慣の方がよいと考えていることに驚かされた。

指を使って食べるというのは、現代ではインドの専売特許のように思われるが、歴史を見てみると、ちょっと前(100年~300年)までは東アジア(日中朝)を除き、全世界的な現象であった。ブローデルはその状況を次のように説明する。

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フォーク(はっきり言うがフォーク[食卓用の])やふつうの窓ガラス ― 両者はいづれもヴェネツィア伝来の品である ― も、16世紀および17世紀にはいまだに贅沢品であった。
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フォークのような単純な食事道具でさえ、贅沢品であったいうことに驚いてしまう。

この節では、スプーンやナイフに関する説明はないが、(手元に本がないので、確かなことは言えないが)木製スプーンはもう少し前からヨーロッパにはあったようだ。しかし、食卓にはスプーンは一つで皆で回し使いしていた。ナイフはフォークと同じ時期にはあったようだが、主人だけが持っていて、使うことができた。つまり、1700年ごろまではヨーロッパ人もインド人のように指を使って食事していたということだ。

それと比べると、中国では古代にすでに箸が発明されていたことは、次の有名な話からも分かる。

殷朝最後の王で暴君(と言われている)紂王が象牙で箸を作ったとき、賢人の箕子が「爲象箸、必爲玉杯」(象牙で箸を作ったのなら、器は必ず宝玉[jade]で作るに違いない)と嘆いた。箕子は、紂王が必ずや贅沢にふけるにちがいないと直感した。残念ながらこの不吉な予感は的中した。

中国文明の影響を強く受けた東アジアの国々は日本も含め、箸は早くから使われていたと思われる。そのせいであろう、日本人には指で食事をするのを忌避する心情はかなり根強い。



【5】窓ガラス(1-1、P.236)

さて、上の文で、ブローデルは窓ガラスも贅沢品であったと述べているが、その理由は材料費というよりカリウムを含むガラスの製造方法に難があったからだ、として次のように述べる。

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15世紀には、カリウムではなくてソーダを使って、透明度が高くて伸ばしやすい素材ができるようになった。そこでつぎの世紀(17世紀)には、加熱に石炭が使えたおかげで、窓ガラス製造がイギリスに広まった。
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つまり、草木を燃やして得ることのできるカリウムを含むガラスは、展性が足りないので、大きな板ガラスは作り難かったということが分かる。上の説明ではイギリスで板ガラス製造が盛んになったと述べるが、時代は下って明治維新前後は板ガラス製造の中心はフランスであったようで、(手元に本がないので確認できないが)明治初期の『米欧回覧実記』ではフランスのガラス工場を視察していた(との記憶がある)。

ところで、化学に関係する単語であるが、ここに出てくる、カリウムという単語は原文のフランス語では potasse (英:potash)となっている。日本語のカリウムはドイツ語からの輸入語であるので、ドイツ語を読んでいるぶんには化学用語は簡単に理解できるが、仏文や英文では都度、頭の中で変換しないといけない。

これに類する話だが、アメリカのCMU(カーネギーメロン大学)に留学したてのころ、教授の部屋でいろいろと質問された時に、「ところでメイトリックスは知っているだろうな?」と聞かれた。「メイトリックス?」初めて聞く単語なので、知らないと答えると、教授はとたんに失望した表情を浮かべ、「メイトリックスを知らないと、苦労するぞ」と小言を言いながら、黒板で説明してくれた。見ていると、行列のことなので、「それはマトリックスですね!」と私が言ったところ、同席していたもう一人の、オーストリア生まれの教授は膝を叩いて、「そう、我々はドイツ語でマトリックスと言っている」と助け舟を出してくれた。

普段は気づかないが、意外なところで学術用語は今なおドイツ語が健在なのである。

続く。。。
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想溢筆翔:(第302回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その145)』

2017-04-06 22:19:18 | 日記
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【244.徴発 】P.812、BC67年

『徴発』を「他人から物を強制的に取り立てること」と広辞苑は説く。しかし、辞海(1978年版)や辞源(1987年版)には「向民間徴集夫役及物品、以給公用」 (民間から夫役や物品を集め、公のために用いる)と説明する。つまり「官憲」が「強制力」を伴って徴収する意味であることが分かる。

二十四史では史記に一例あるが、本格的には漢書から使われていることが分かる。



資治通鑑で使われている場面は、武帝の時に法を勝手に解釈して、罪なき人をも陥れた、いわゆる酷吏の「舞文曲筆」の様を描いたもの。

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当初、武帝の治世下では、民から物品や賦役を徴発することがたびたびあって、庶民は落ちぶれ、疲弊してしまった。それで、食うにこまった民は已むにやまれず、犯罪を犯したが、その数甚だ多かった。それで、張湯や趙禹のような酷吏連中は法令の条文を追加した。例えば「見知故縦」(知人が犯罪を犯したのを見たにもかかわらず通告しなかった者を罰する)や「監臨部主」(監督不行き届きで犯罪者を見逃したものは、連連座させる)法律を作った。「深故之罪」(微罪にも拘わらず投獄された者)には罪を緩くしたが、その一方で、「縦出之誅」(取調べもせずに釈放された者)は厳しくした。

それからというもの、法の抜け穴を使って姦詐を働くものが増大した。禁止事項がやたらと増え、条文が複雑になった。それで、文書が役所に満ち溢れ、役人はとても全てに目を通すわけにはいかなくなった。いろいろな事件に対して、地方の役所の判断がばらばらで、ある地方ではOKでも、別のところでは罰せられるといったありさまだ。この混乱に乗じて、狡猾な役人は、賄賂を受け取り、裁判の結果を左右するようになった。この商売は結構繁盛した。賄賂を出せば、生きて出獄できるが、賄賂を渋ると死刑にされた。識者の中には冤罪だと嘆く人もいた。

初、孝武之世、徴発煩数、百姓貧耗、窮民犯法、姦軌不勝。於是使張湯、趙禹之属、条定法令、作見知故縦、監臨部主之法、緩深、故之罪、急縦、出之誅。

其後姦猾巧法転相比況、禁罔寖密、律令煩苛、文書盈於几閣、典者不能睹。是以郡国承用者駮、或罪同而論異、姦吏因縁為市、所欲活則傅生議、所欲陥則予死比、議者咸冤傷之。
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先ごろ(と言ってもすでに50年にもなるが)、文化大革命時に、冤罪に泣いた人が何百万人もいたことだろうが、その根源がすでに紀元前から延々と続く中国の伝統であることがこの文からも分かる。法の抜け穴を利用して、賄賂や甘い汁を吸うといった、いわゆる「腐敗官僚」も何も最近になってでてきたわけでもない、

中国の史書とともに、共産党内部の実態を生々しく描いたドキュメンタリー(例:『毛沢東の私生活』『周恩来秘録』『趙紫陽 極秘回想録』)を合わせて読むと、なぜ毛沢東が資治通鑑を17回も熟読したか、その心がよく分かる。今回の文に見るように、資治通鑑に現れる姦計・術数は 20世紀においても立派に通用するのだ。ビスマルクが言ったように歴史に学んだのはなにも「賢者」だけではないのだ。
(注:ビスマルクの言葉の正しい解釈については『社会人のリベラルアーツ』P.60 を参照のこと。)

続く。。。
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百論簇出:(第203回目)『リベラルアーツの取り組み方について』

2017-04-02 22:45:06 | 日記
ライフネット生命の出口会長と私が共同開催している「リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム」は先日(2017/2/11日) 18回目を迎えた。共同開催とはいえ、私も出口さんもそれぞれ講演スタイルに関しては自己流を貫いている。出口さんの講演テーマは紀元前3000年から現代までの「人類5000年史」だし、私はリベラルアーツに関して、そのつどトピックを変えて話をしている。また、出口さんは話すテーマのPPT資料を会場の入り口で配布しているが、私は、当日は何も配布せず、後日PPT資料をサイトにアップしてダウンロードできるようにしている。私も出口さんもどちらも方式を統一しようと言い出したことはなく、それぞれが自由(リベラル)にやりたいようにしている。

ありがたいことに毎回、80人~100人が参加されている。数多くの熱心な方々に出席して頂いて、開催者としては、うれしいと同時に責任感も感じている。さらに感謝しないといけないのは、フォーラムの最後に配布するアンケートにかなり多くの人がしっかりとコメントを書いて頂いていることだ。いろいろと要望はあるが、その一つに私の講演についての要望で、講演資料をあらかじめ配布して欲しいというものだ。この意見は、通常の教育現場であれば、確かにもっともなことだろう。実際、私もかつて、京都大学や他の大学で教えていた時には必ず、資料は事前配布していた。しかし、現在行っているこの種の講演や企業研修では、資料を事後配布することにしている。

何故か?その理由は、リベラルアーツというものの本質と密接に拘わっている。

世間の一般の理解ではリベラルアーツとは「教養的な知識をつけること」と理解されているようであるが、これでは中高校の詰め込み教育の延長に過ぎない。私が考えるリベラルアーツの心髄とは、まさしく「リベラル」という単語に重心がある。リベラルとは、自由の意味とともに「自立」というニュアンスを強く持つ。さらに「自立」的になるには、「健全な懐疑心」を持つということも非常に重要なファクターとなる。「健全な懐疑心」とはやみくもに人の揚げ足とりをしたり、逆に、人の言うことを無批判的に受け入れるるのではなく、「本当にそうなのだろうか?」「どうしてそう言えるのか?」「他に考えられないのだろうか?」など、人の意見をベースに自分なりに疑問を抱いて、自らの頭で考え、最終的に自分自身の意見をしっかり確立することだ。この「健全な懐疑心」を持つようにすることこそがリベラルアーツ教育の心髄なのだ。



現在の日本の中高校生の勉強は、勉強本来の意味を逸脱し、高校や大学の合格に焦点を当てた受験勉強になっている。そこでは短期間にたくさん覚えた者が勝者となる。その結果、余計なことは考えず、好き嫌いは度外視して、有用な情報をたくさん覚え込む、という習性が身にこびりついてしまっている人が多い。しかし、リベラルアーツの修得に際しては、このような習性は悪癖なのだ。覚えるという受動的な態度ではなく、個人個人がもつ目的意識、あるいは志向性に応じて、見聞きするものの中から、自分の感性にあったテーマを取捨選択すべきなのだ。

ところが、講演で資料が事前配布されていると、話を聞くよりも、得てして手元の資料を読んだり、メモをしっかり取ることに精神が集中されてしまいがちになる。そうなると、「メモは残ったが、心には何も残っていない」になりかねない。私が資料を事前配布しないのは、まさにこういったことがリベラルアーツの本質に抵触(contradict)すると考えているからだ。私が希望するのは、参加者が下を向いてメモをとることではなく、前を見て、私の話をじっくり聞いてもらうことだ。その結果、聞いたことの大半は忘れてもらっても構わないから、各人が自分の琴線(ハート)に響くものを掬いあげてもらいたい。

1時間足らずの講演のなかで、心に響くことがたとえ一言であったとしても、その一言でその人がある方向に動きだすことがあれば、それで私の使命は果たしているのではないかと思っている。一言でも各人が自分なりにしっかりと咀嚼し、その後の人生が有意義になる方が、たくさんの知識を詰め込んでみたものの未消化でいるよりもずっと良いことだと私は思っている。論語に、「過猶不及」(過ぎたるは猶[なお]及ばざるがごとし)という言葉あるが、知識においても活用せず死蔵している量だけを誇ることは問題がある。

【参照ブログ】
百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』
百論簇出:(第187回目)『チャート式脳の弊害(補遺)』
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想溢筆翔:(第301回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その144)』

2017-03-30 19:08:45 | 日記
前回

【243.帰順 】P.3922、AD446年

『帰順』とは「反逆の心を改めて、服従すること」と広辞苑は説明する。中国の辞書を見てみよう。辞海(1978年版)では「謂親付服従、不復違逆也」(親しく付き、服従する。また違逆しないこと)と説明し、辞源(1987年版)では「帰付順従。多指投降」(帰付、順従する。多くの場合、投降をいう)と説明する。つまり、単に従順になるというだけではなく、「反逆しない」という意味が背後にはあるということだ。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、晋書(正確に言えば、三国志には一回あるが)から使われていることが分かる。「帰順」という行為がそれ以前に無かったわけではないので、別の単語が使われていたということになる。



さて、資治通鑑で「帰順」が2番目に出てくる場面を見てみよう。南北朝時代の宋が南の林邑国(今のベトナム北中部)の態度が悪いと言って、攻撃する場面。

 +++++++++++++++++++++++++++
以前、林邑王の范陽邁は宋に使者を送り、入貢して来たとはいうものの、相変わらず国境付近に進入し略奪を止めなかった。その上、貢納した品々もわずかな量で、それも粗悪なものばかりであった。そこで宋・文帝(劉義隆)は交州刺史の檀和之に命じて林邑を討伐させた。南陽の宗慤は代々儒者の家柄であったが、宗慤は一族の中でひとりだけ武術が大好きであった。そして常に「どうか、風に吹かれて、何万里もの大海原を渡ってみたいものだ」と嘯いていた。そこへ、檀和之が林邑を討伐するという噂を聞きつけた宗慤は、進んで従軍を志願した。正式に振武将軍に任命されるや、先鋒隊として出発した。范陽邁は中国の軍隊がやってくると聞くと、使者を派遣し、連れ去ってきた中国の民(日南民)を戻し、さらに金一万斤と銀十万斤を贈る旨伝えた。文帝は檀和之に詔を送り、こう伝えた「もし、范陽邁が約束を実行するなら、帰順を許す」。

檀和之が朱梧戍に到着し、府戸曹参軍の姜仲基たちを范陽邁のもとに送ったところ、范陽邁に拘束されてしまった。それを聞いた檀和之は軍を進め、林邑の将軍、范扶龍が率いる軍隊を区粟城に取り囲んだ。范陽邁は将軍・范毘沙達送り救出させようとしたが、宗慤は兵を待ち伏せさせて、范毘沙達の軍を攻撃して、打ち破った。

初、林邑王范陽邁、雖進使入貢、而寇盗不絶、使貢亦薄陋;帝遣交州刺史檀和之討之。南陽宗慤、家世儒素、 慤独好武事、常言「願乗長風破万里浪」。及和之伐林邑、慤自奮請従軍、詔以慤為振武将軍、和之遣慤為前鋒。陽邁聞軍出、遣使請還所掠日南民、輸金一万斤、銀十万斤。帝詔和之:「若陽邁果有款誠、亦許其帰順。」

和之至朱梧戍、遣府戸曹参軍姜仲基等詣陽邁、陽邁執之;和之乃進軍囲林邑将范扶竜於区粟城。陽邁遣其将范毘沙達救之、宗慤潜兵迎撃毘沙達、破之。
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林邑は宋に朝貢していた、ということは、表面的には両国は平和な関係にあったはずだが、実際には林邑は国境付近を略奪していたことがこの文から分かる。外交交渉では、問題が解決できないと悟った宋の文帝は武力行使に出たわけだ。中国は、平和な時期においても国境近辺は常に異民族の侵入と略奪が絶えなかったということが分かる。中国だけでなく、大陸の国家はどこも同じような状況にあっただろうと思われる。それを思うと、日本は、戦国時代も含め、いかに平和であったかということをしみじみと感じる。

続く。。。
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惑鴻醸危:(第58回目)『韓国ドラマの朝三暮四』

2017-03-26 21:44:57 | 日記
『朝三暮四』(ちょうさん・ぼし)とは『荘子・斉物論』に出てくる寓話で、猿使いが猿どもをまんまと騙す話である。人間である猿使いが猿の浅智慧を高みから見下しているのだが、荘子の言いたいのは、この類の話は人間界にも多いので気をつけよ、ということであろうと、私は解釈している。
【参照ブログ】
 惑鴻醸危:(第42回目)『朝三暮四のODA』

ところで、以前のブログ
 惑鴻醸危:(第36回目)『韓国歴史ドラマに学ぶ、両班のえげつない処世術』
で述べたように、私は、韓国の歴史ドラマが好きだ。とりわけ今から15年から20年ほど前(つまり、西暦2000年前後)の『往年の名ドラマ』ものが気に入っている。

最近、朝鮮史(正確には、高麗の歴史)の本
 『本当に悲惨な朝鮮史 「高麗史節要」を読み解く』
を上梓したが(発行予定日は2017年4月10日)、高麗の歴史を感覚的につかむために DVD をいくつか(武人時代、武神)購入した。ついでに『ホジュン 宮廷医官への道』、『龍の涙』のDVDも購入し、じっくりと見ている。

近年の韓国の歴史ドラマは、「イサン」あたりはまだ許せるが、最近のものはファンタジーや武闘シーンをやたらと強調しているので、まったくつまらなく感じる。それにひきかえ『龍の涙』などの往年ものでは、かなり史実に沿った筋立てになっているので見ていても興味が湧く。たとえば、宮廷内外のニュース掲示板(「榜」という)の文章を見ても、一応まともな内容だ。官位も歴史的に見て正確な内容なようだし、登場人物も、死亡したあとなどには必ず本貫などの付帯情報もきっちりと紹介してくれている。



このように、往年の歴史ドラマのシナリオは非常にしっかりと書かれているが、玉に瑕というか、使っている小道具にちょっとした手抜かりがある。当時のテレビ放映では誰も気がつかないだろうということで、手抜きをしたと考えられるが、現在では、ビデオで静止画として見る事ができるので、手抜きがもろバレになってしまっている。

具体的にいうと、『龍の涙』第97話では、趙思義(チョ・サイ)が太祖(李成桂)を引きずり込んで、太宗(李芳遠)に対して反乱を起こすが、その際に朝鮮東北部の将軍たちも賛同する手紙を送ってきたと言って、その手紙を眺めるシーンがある。その手紙の文面をビデオを静止させて読むと次のような文言が見えた。
 始皇自送至灞上。王翦行、請美田宅園池甚衆。始皇曰、将軍行矣、何憂貧乎。王翦曰、為大王将、有功終不得封侯、故及大王之嚮臣、臣亦及時以請園池為子孫業耳。始皇大笑。

これは(私の漢文検索システムで調べると)『史記』巻73、「白起王翦列伝」の文章である。秦が南方の荊を討とうとして李信に兵20万人を授けたが、大敗してしまった。それで、王翦に兵60万人を授けて是が非でも荊を征服してくれと始皇帝自らが頼みこんだ。大軍を授けられた王翦は、始皇帝の疑念をそらすために、わざと貪欲に財産(邸宅と田地)を要求する場面だ。

手紙は漢文なので、雰囲気は一応それなりに出ているが、文章の選定がまったくおざなりだ。しかし、まだこれは良いほうだ。歴史ドラマでは、両班の机の上には、たいてい何らかの書物が置かれているが、ある時、表紙が『書経』(だったか?)となっているにも拘らず、中身は仏教の経典(法華経だったか?)になっていた。本の中身が見えた時間はわずか数秒なので、手抜きをしたのだろうが、ビデオを静止してみると、すぐに判明することだ。

悪意は全くないのであろうが、プロデューサーたちは視聴者などには、分かるまいと思って油断していたのであろう。あるいはひょっとして、『朝三暮四』の猿使いのように高みから視聴者を小ばかにしていたのかもしれない。
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想溢筆翔:(第300回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その143)』

2017-03-23 21:29:18 | 日記
前回

【242.時運 】P.3917、AD445年

『時運』とは「その時の世のなりゆき」という意味。このことばで思い出すのは、終戦の詔勅で安岡正篤の書いた「義命の存する所」という語句が「時運の趨く所」と書き換えられたことである。書き換えの理由としては、「義命」という言葉が辞書に無かったためとのことだ。

ところで『時運』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。 晋書と宋書にかなり多いことが分かる。当時の世相を反映した流行語として見る事もできるのではないだろうか。



さて、資治通鑑で「時運」の使われている場面を紹介しよう。ここでの主人公は、范曄で、現在に伝わる後漢書を著した人である。不平家の孔熙先の口車に乗せられて陰謀事件に巻き込まれてしまった。その結果自分一人だけでなく、一家誅滅の悲劇を味わうことになっ。

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そこで、孔熙先がころあいを見計らって范曄を口説いた「大将軍(文帝の弟の劉義康)は英断で聡敏であり、人だけでなく神々も慕っております。今は、職を解かれて南方へ左遷させられていますが、天下の人々はみな憤激しています。私は前帝から「大将軍をよろしく」との遺命を受けていますので、死をもって大将軍に報いるつもりでいます。現在は、世情も不安定で、天文の運行もめちゃめちゃです。このような状況は所謂「時運の至」というチャンスで、むざむざ見逃す手はありません。もし、我々の計画が天や人の心の願いに沿うものであるなら、英雄豪傑は連携し、宮廷の内外は呼応し、都周辺の兵も決起することでしょう。それなれば、我々に楯突く連中を皆殺しにし、大将軍を奉って天下に号令を掛ければ、逆らう者などいるはずもありません。私は、この七尺の身と三寸の舌で、謀をめぐらし実行し、成果はみなさまと分かち合いたいと思っています。貴卿はどう思われますか?」謀反の計画を聞かされた范曄は腰を抜かしてしまった。

熙先乃従容説曄曰:「大将軍英断聡敏、人神攸属、失職南垂、天下憤怨。小人受先君遺命、以死報大将軍之徳。頃人情騒動、天文舛錯、此所謂時運之至、不可推移者也。若順天人之心、結英豪之士、表裏相応、発於肘腋;然後誅除異我、崇奉明聖、号令天下、誰敢不従!小人請以七尺之身、三寸之舌、立功立事而帰諸君子、丈人以為何如?」曄甚愕然。
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毎度のことながら、資治通鑑(のみならず、中国の史書)には、謀反の計画や経緯が実にリアルに描写されている。あたかも警察調書を読んでいるようだ。范曄も最初は陰謀への加担を躊躇していたが、遂には陰謀に加わることになった。だが、土壇場で徐湛之の密告により、陰謀に加担した者たちは一網打尽につかまり処刑された。資治通鑑では処刑を目前に控えた范曄の虚勢と不甲斐なき最後をも克明に描き、歴史家としてではなく、一人の弱き人間としての范曄の実態を浮かび上がらせている。

さて、冒頭、「義命の存する所」について「辞書に載っていなかったので文言を変更された」ことを紹介したが、「義命」を二十四史で検索すると、少なくとも3ヶ所に見える。ただ、いずれも元史以降に見えるので、かなり近代的な用法と言えそうだ。
 『元史』巻148:義命に安(やす)んず(安于義命)
 『明史』巻169:況んや、義命に安(やす)んぜず(況不安義命)、
 『清史稿』巻511:今日、宜しく義命に安(やす)んずべし(今日宜安義命)

この3つの例から、確かに「義命の存する」というように、「存」ではなく、「安」という字と連結されているところから、「義命」とは「たとえ不満があったにしても受け入れるべき境遇」という意味であろうと推測できる。このことから、「義命の存する」という語句は確かに少し落ち着きの悪い言葉であるとの意見も納得できる。もっとも、それでは「時運の趨く所」の方が適切か、というと個人的にはそうでないと思っている。それでは、どう言えばよかったか、と言われると、答えに窮する。辞書というのは、単語から意味を調べることはできても、その逆は、全く不可能とは言えないまでも、非常に難しい。人工知能(AI)がこういった方面で助けてくれないものかと期待している。

続く。。。
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