限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第288回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その6』

2017-05-28 21:31:56 | 日記
前回

【8】肉食の習慣(1-1、P.246-259)

一般的にヨーロッパ人は肉を主食とすると考えられているが、実態をみると案外そうではない。時代や地域によってかなりの差があるので、一概には言えないが、ざっくり言って、貴族や特権階級は別として、一般庶民は我々が想像するほど肉を食べていなかった。とりわけ16世紀半ばから19世紀半ばまではかなり少なかったようだ。

よく知られているように、土地の生産性を考えると肉を食べるより、穀物を食べる方が遥かに多くの人を養える。(ざっと数倍から10倍)従って、人口が増えてくると、肉は一層贅沢品となってくる。

以上の点を頭に入れて、ブローデルの記述を見てみよう

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1600年ごろ、高地ザクセン地方のマンスフェルトの銅山の労働者たちは、彼らの賃金をもってしては、パン・オートミール・野菜で我慢するほかなかった。そしてニュールンベルクの織物職人たちは、非常に恵まれた立場にいながら、1601年にこういう不平を漏らしている。すなわち、規定によれば毎日肉を貰えるはずなのに週に3回しか貰えなくなった、というのである。
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職人たちの不満の背景には、人口が増えてきたので、賃金よりも物価の上昇が激しかったということが分かる。この結果、「穀物の価格がむやみに高くなったので、余分な買い物をする金はなくなってしまった。肉の消費量はその後長期間にわたって減少の一途を辿り、それは1850年ごろまで続いたのである」とブローデルは説明する。

実際の庶民生活の様子を具体的な数値で見てみよう。

フランスでは1751年から1854年にかけて全国平均で、一人が一年に食べる肉の量は23.5Kgであったという。ただし、この数字は大目に見積もっていると考える学者もいるとのことだ。一年あたり23.5Kgの肉の消費量と言えば、下図から分かるように、日本人が昭和35年(1960年)に食べていた量より少ないぐらいだ。ちなみに、平成18年(2006年)には日本人平均の肉消費量は約140Kg。

出典:農林水産省のHPより

このような数字を裏付けるように、ブローデルは 1829年の記事から次のような文を引用している。

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フランスの9割の土地では、貧民と小農とが肉を ― それとて塩漬けの肉だが ― 食べるのは週に一回のことに過ぎない。
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フランスの隣国・ドイツでは肉の消費量は更に少なく、 19世紀初頭のドイツの全国平均では年間一人当り 20Kgに達しなかったという。ただし、ドイツも中世末期には肉を100Kgも食べていたということだが、内臓なども含んだ量を指すものと私には思える。

最後に、現在、酪農王国として世界第2の農産物輸出を誇るオランダ(ネーデルランド)の当時の状況を見てみよう。


前回(2017/04/30)のブログでオランダでは料理が文化ではなかったという留学生の率直な意見を紹介した。その情景を裏付けるような絵画をブローデルは取り上げている。そして、次のようなキャプションを付けている。

Boerengezin aan de maaltijd(Farmer at the meal)、Egbert van Heemskerck ca. 1670
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17世紀後半の農家でのこの食事には、肉抜きの料理が大皿ひとつに盛られているにすぎない。もっとひどい場合もあった。やはりオランダでも、粥の食事の情景がそれである。

エグベルト・ファン・ヘームスケルク(1610―1680)による油絵
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この絵画が実情を正確に描写しているなら、オランダの貧民はかなり貧しい食生活を送っていたことになる。それでは、裕福な人はどうしていたのであろうか?ブローデルの言うところによると、食事が文化でなかったオランダでは裕福な人も同じく貧しい食事内容であったようだ。

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オランダでは、有産市民からして質素な暮らしをしていた。もちろんオランダの民族料理である《hutsepot》(英:hodge-podge)には牛なり羊なりの肉が入っていたが、細かく刻んであって、必ず惜しみ惜しみ用いていたのである。夕食はパンの残りを牛乳に浸したスープだけという場合が多かった。
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ところで、幕末に幕府からオランダに派遣された軍人に赤松則良という人がいる。

赤松は若いころ(14歳)からオランダ語を学び、また長崎の海軍伝習所にて操船に習熟した。1859年には咸臨丸に乗ってアメリカを往復した。幕臣として、幕末(1862年から1868年)に幕府の給費性としてオランダに留学した。このように、欧米に関してかなりの経験と知識を有していたため、幕臣であったにも拘らず、明治政府でも重用されて海軍中将まで出世した。晩年になって体験談をまとめ『赤松則良半生談』(平凡社東洋文庫)として公刊した。オランダ滞在やヨーロッパの他国の様子がかなり淡々とした筆致で描かれている。その一節に、イギリスへ旅行した時、イギリスではあらゆる点において贅沢であることにびっくりしたようだ。赤松は心の中で、「オランダ人は何と質素な生活をしているのだろう!」と感嘆の声を上げたに違いないと想像する。

続く。。。
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想溢筆翔:(第307回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その152)』

2017-05-25 21:57:03 | 日記
前回

【251.山積 】P.2442、AD258年

『山積』とは「山のようにうずたかく積ること」で、大抵は物(モノ)ではなく、抽象的な課題の場合が多い。「山積」は熟語というにはあまりにも簡単なので、中国の漢字辞典である辞海(1978年版)や辞源( 1987年版)には説明は見当たらない。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『山積』と類似の単語である「累積」「堆積」を検索すると次の表のようになる。




この表から分かるように「山積」は後漢時代以降に初めて使われだした、比較的新しい単語であることが分かる。また、資治通鑑で「山積」が使われている箇所をチェックすると、積まれた物(モノ)はほとんどが珍宝財貨や食糧、武具などである。抽象的なものが山積されるケースは少なく、わずかに「慚愧山積」や「罪戻山積」が見えるだけである。

さて、資治通鑑の中で「山積」が使われている場面をみてみよう。

三国志で最も有名な人物は蜀の諸葛孔明であるが、一族はそれぞれ、呉(諸葛瑾)と魏(諸葛誕)にも仕えていた。魏では司馬昭が実権を握ったことに身の不安を覚えた諸葛誕は部下と共に叛旗を翻した。(「諸葛誕の乱」

魏の大軍に敗け、寿春城に籠城して対抗するも、とうとう食糧も尽きた。そうなると城からの逃亡者も続出し、いよいよ寿春城も風前の灯となった。

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司馬昭自ら出陣して、包囲網を敷いた。寿春城の城壁で弓を構えている兵士は、魏の軍隊が寄せてくるのを見ても矢を射かけようとはしなかった。敵が全く戦意を喪失しているのを見て取った司馬昭は攻撃命令を出した。兵士たちは城の四面から太鼓を鳴らしながら城壁を乗り越えて攻めた。二月、城が落ちた。もはや守りきれないと覚悟した諸葛誕は、ただ一人だけ馬に乗り、部下を従えて櫓から突進して脱出しようとした。司馬昭の部下の胡奮が手下の兵士と共に諸葛誕を斬り、ついで、諸葛誕の一族を皆殺しにした。

諸葛誕の部下は数百人いたが皆、皆、礼儀正しい姿(拱手)で列を作り立っていたが、降参しなかった。一人づつ斬り殺して、降参するかと聞いても、最後まで誰一人として降参するものはいなかった。諸葛誕の救援に来て、同じく籠城していた呉の将軍である于詮は城が陥落すると「武士たるもの、主君から救援の命を受け、兵を率いてきたにも拘わらず敗れてしまっては、どうしてむざむざと降参できようか!」と言って甲冑を脱ぎ捨て、敵陣に切り込んで壮絶な戦死を遂げた。唐咨や王祚、それに呉の兵士1万人は皆降参した。山積みの武器が残った。

司馬昭身自臨囲、見城上持弓者不発、曰:「可攻矣!」乃四面進軍、同時鼓譟登城。二月、乙酉、克之。誕窘急、単馬将其麾下突小城欲出、司馬胡奮部兵撃斬之、夷其三族。

誕麾下数百人、皆拱手為列、不降、毎斬一人、輒降之、卒不変、以至於尽。呉将于詮曰:「大丈夫受命其主、以兵救人、既不能克、又束手於敵、吾弗取也。」乃免冑冒陳而死。唐咨、王祚等皆降。呉兵万衆、器仗山積。
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城が陥落し、諸葛誕は殺されたが、部下たちは、誰一人として死より生を選ばなかった。「背中で教える」という言葉があるが、諸葛誕がどのように態度で部下と接していたかの記述が全く無くとも、彼の人柄が伝わってくるエピソードではないだろうか。

続く。。。
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百論簇出:(第205回目)『土着の習俗によって変容する宗教』

2017-05-21 21:28:53 | 日記
「あなたの宗教は?」と聞かれると、大抵の日本人は「仏教」と答えるだろう。そして、仏教と聞いて思い浮かぶのは、仏壇とか先祖代々の墓などであろう。しかし、仏教とは元来インドの宗教であるのでインド人が共通にもっている輪廻転生のドグマが根底にあるはずだ。輪廻転生というのは、生けとし生ける者は、すべて悟りを得ない限り、永劫に生と死を経巡るという考えだ。それ故、生も一時、死もまた一時なのだと考える。

日本の仏教観からみると、インド・バラナシのガンジス河畔で火葬にされた遺体がガンジスにそのまま流されるのは何とも理解しがたい。日本の仏教で重要視される骨拾いや、墓、あるいは位牌などというものは、本場インドでは昔からなかった。これらの習俗は、仏教が中国に入ってから儒教の先祖崇拝の様式を取り入れたもので、日本にはインド本来の仏教ではなく中国化された仏教が伝播されたのだ。中国化は、仏教の根本教義すら捻じ曲げてしまった。インドでは飲酒は殺人と同じぐらいの悪行であるが中国や日本では全く骨抜きになってしまった。つまり、仏教という名前は同じでも、内実は中国や日本古来の土着習俗に感化され変容したのであった。

眼を西洋に向けてみよう。

現在、ヨーロッパに旅行すると、都市には必ず有名な大伽藍(カテドラル)が威容を誇り、地方では城塞かと見間違えるばかりに堅牢で宏大な修道院が聳え立っている。外観だけに止まらず、カテドラル内部の絢爛豪華には圧倒される。これらを見ると「キリスト教は何と派手なことが好きな宗教だ」と思ってしまうことだろう。

しかし、イエスの本来の教えは全く逆であった。新約聖書・マタイ伝(Matt 19-24)の次の文から分かるように、キリスト教は元来、質素を尊び、あらゆる贅沢を禁じていた。

 富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい

【ギリシャ語原文】


【ラテン語訳・Vulgata 】Facilius est, camelum per foramen acus transire, quam divitem in regnum coelorum intrare.

ところで、上の聖書のラテン語訳は、フランス語が分かる人であればほとんど辞書を引くことなく理解できるであろう。仏教の経典も、現代の我々にとっては難しい漢文のように思えるが、五胡十六国から南北朝にかけて、仏教が民衆レベルにまで普及した時には、辻説法の法師が仏典を唱えていると、民衆は聞き入ったとの話がある。つまり、仏典は当時の民衆レベルの漢文であったという訳だ。東西とも、経典は耳で聞いて理解できるものであったということが分かる。

【閑話休題】

さて、中世になって教会に富が集中するに従って建築、絵画、音楽、内装、のすべての面において豪奢を極めるようになった。そういった贅沢な風潮を嫌い、アッシジのフランチェスコなどはキリスト教の原点である「清貧」を標榜(モットーと)し、托鉢修道会を創設した。しかし時代とともに修道院ですら、現在見るような質素とは程遠い様相を呈している。

なぜ、現在のキリスト教の教会がイエスの教えに反するようになったのであろうか?

キリスト教が普及する以前のヨーロッパの歴史を遡ってみるとその原因らしきものが朧げながら見えてくる。かつて、ヨーロッパの各地に住んでいたと言われるケルト人が作り出したケルト美術を見ても、また、地中海を制覇したギリシャ・ローマの建築物を見ても分かるように、ヨーロッパ人は文様(デザイン)にしても、構築物にしても元来、華美な(ゴージャス)ものが好きだった。清貧を尊ぶキリスト教を受け入れた時には、アニミズムや多神教とともに、そういった土着の華美な習俗を打ち捨てた。しかし、キリスト教がローマ帝国の国家宗教となってから、次第に土着のヨーロッパ人の感性がキリスト教の本体部分を変えていったのだ。それは、あたかも仏教が中国や日本において土着の文化によって大きく変容したのと同工異曲と言える。
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想溢筆翔:(第307回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その151)』

2017-05-18 22:23:08 | 日記
前回

【250.経営 】P.3094、AD359年

『経営』とは現在では「会社・事業などの経済的活動をすること」の意味で用いられる。しかし、漢文の文脈ではニュアンスがかなり異なる。辞源(1987年版)に拠ると次の3つの意味があるとのこと。
 1.建築、営造、2.規画創業、3.周旋往来

「経営」は「営を経[へ]る」と訓読みできる。3.の意味では「営」は「軍営」にも使われるように「住む場所」と解釈できるから、「住居を転々と変わる」というのが「経営」と言うことも可能だと理解できる。現在用いられている意味はこれら3つの説明には該当する項目は見当たらないが、強いて言えば 2.に近いと言える。

一方、辞海(1978年版)は、古典籍だけでなく現代の言葉も含み、辞典と百科事典の両方の役割を果たすだけあって、「経営」の説明に上に挙げた以外に、現代的意味の「Management」も挙げる。

日本の漢和辞典を見てみると、なぜ「経営」が Managementという意味を持つようになったのかが分かる。『漢字源』(学習研究社)では「直線の区画を切るのを経といい、外がわをとり巻く区画をつけるのを営という。あわせて、荒地を開拓して畑をくぎるのを「経営」といい、転じて、仕事を切り盛りするのを「経営」という。」と説明する。

漢文においては「経営」は書経や国語にも見えている古い単語である上に、古代から現代にいたるまで非常に多く使われてることは次の表からも分かる。


さて、資治通鑑で「経営」が用いられている場面を見てみよう。北には五胡十六国、南には東晋が勢力を張っていた時代、石勒によって建国された後趙では、第三代の石虎が死去すると後継争いで国が混乱した。東晋はチャンスとばかり攻撃準備を進めたが。。。

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七月、褚裒に征討大都督の称号を与え、徐、兗、青、揚、予の五つの州の軍事を担当させた。褚裒は兵士3万人を率いて彭城に赴いた。異民族の支配を受けていた北部の人々は喜んで次々と投降してきた。その数、一日に千人にも登ることもあった。晋の朝廷では、皆、こうなれば異民族に支配されている領域(中原)を取り戻すことも可能だと楽観視する人もでた。光禄大夫の蔡謨だけが一人、賛同せず、知り合いに次のように言っていた。「異民族を追い払うことができるのは誠に喜ばしいことではあるが、却ってこれが我が朝廷の憂いの始まりとなるだろう。」「どういうことですか?」と尋ねられて、蔡謨は「好機を逃さず人々を苦しみから救うことができるのは聖人か英雄でなければ不可能です。並みの為政者は自分の人徳と能力とを顧みて、できる範囲で政治を行うのがよいでしょう。しかし、現今の状況を見るに、為政者の出来るキャパシティを超えて経営しているだけできっと人々を一層苦しめることになるでしょう。その兆候はすでに現われていて、統治する才能もなければ戦略もなく、思い通りにいかず、財力や知恵も尽き、どうすればよいか途方にくれている始末です。これで、朝廷が安泰ということがあるはずがありません!」

秋、七月、加裒征討大都督、督徐、兗、青、揚、予五州諸軍事。裒帥衆三万、径赴彭城、北方士民降附者日以千計。朝野皆以為中原指期可復、光禄大夫蔡謨独謂所親曰:「胡滅誠為大慶、然恐更貽朝廷之憂。」其人曰:「何謂也?」謨曰:「夫能順天乗時済生於艱難者、非上聖与英雄不能為也、自余則莫若度德量力。観今日之事、殆非時賢所及、必将経営分表、疲民以逞;既而才略疏短、不能副心、財殫力竭、智勇俱困、安得不憂及朝廷乎!」
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上の文中「経営」は「経営分表」(分表を経営する)の部分に見られる。「分表」とは「分施、分給」という意味であるから、このコンテキストでは「経営」は「投降者たちに食糧を配給する」という意味で、Managementの意味と解釈できる。

続く。。。
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【麻生川語録・44】『上から溢れる知識、底から漏れる知識』

2017-05-14 19:51:28 | 日記
かつて、韓国の宮廷ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』が大流行したが、元ネタは朝鮮王朝実録に残されたわずか数行の記事であったという。そのわずかの情報からでも数十時間に及ぶドラマが作成された。「無い袖は振れぬ」という言葉は韓国の辞書には無いのかもしれない。しかし、日本も隣国を笑ってはいられない。というのは、現在放映されているNHKの大河ドラマの『おんな城主 直虎』もそうだが、毎年毎年、戦国大名や幕末の物語が続く。いい加減、種が尽きていそうなものだが、それでも何かとネタを見つけてきては一年もののドラマに仕立てあげる。しかし、如何せん、いつも同じような時代背景と歴史上の登場人物では、ストーリーは見ないでも想像がつく。制作する方もする方だが、視る方も視る方で、よくも飽きもせず付き合っているものだと感心する。

そう言えば、子供の頃、近くのそろばん塾においてあった少年サンデーや少年マガジンを何度も何度も繰り返して読んだことを思い出す。ストーリーは完全に知っているのだが、それでも麻薬中毒患者のように、また同じ本に手が伸び、ストーリーに没頭していた。その内に、ばかばかしくなって同じ漫画を何度も読むのを止めたが、世の中にはまだまだ馴染みのストーリーにどっぷりと浸る快感から抜けきっていない人が多いと見える。

しかし、このような性癖はなにも現代にだけ見られるものではない。考えてみると、過去の人々にとって書物は入手が困難な上、大層高価だったので、私にとっての少年サンデーや少年マガジンのように、何度も何度も同じ本を擦り切れるまで読むしかなかったのであろう。 それ故、時間を費やした割には知識の広がりが少なかったと思われる。(もっとも、知識の幅が狭い/広いと人間の良し/悪しとは全く関係ないのは言うまでもない。)

現在から過去を見れば、過去の人々が書物から得ることのできる知識は狭い、と言っているが、現代でも分からないことは多々ある。例えば、ビッグバンの瞬間や宇宙のダークマターの存在、などについて権威ある科学者たちが侃侃諤諤と議論しているが、百年前の金星人や火星人の存在について科学者たちが真剣に議論していたのと同様、後世からみれば噴飯ものの議論が堂々とまかり通っているのではなかろうか。

もっとも、現代でもまだ分からないことが多いと言っても、現代の我々がアクセス可能な情報の範囲は極めて広い。しかし、このような状況でも主体的に取りに行かない限り、大河ドラマの視聴者のように狭い範囲に閉じ込められてしまう。視聴者だけでなく、情報を提供する側(つまり、本の執筆者やマスメディアの編集者)も狭い範囲の情報だけを何度も使い回しすることで自己満足に陥っていることがある。

この点について考えてみよう。

私は現在(2017年5月)まで、4冊の本を出版し、またこのブログでは 1000本以上の記事を書いている。頭の中を整理して文章化してみると、普段は気づかないような情報の欠如や、根拠のない思い込みをしていることに、しばしば気づかされる。それと同時にまとまった考えを文章にして書く(アウトプットする)には、情報・知識を取り込んでから、かなり長い熟成期間が必要だということも分かった。

比喩的にいうと、サラダボールのような器に上から情報・知識がポトリポトリと滴り落ちてくる。それらが器に十分蓄えられると、その内に熟成して発酵する。その内に、器の上の縁からある考えが一挙に外に溢れ出る。溢れ出た後は器の水位がかなり減少する。そこで、また情報・知識がポトリポトリと溜まり、残っている情報・知識と混ざり合い、発酵するのを待つのだ。

しかし、このようなやり方は時間がかかるので、時間短縮のため、器の底に穴をあけるという便法がある。そうすると、穴から情報・知識がぼとぼとと漏れ出てくる。しかし、その内に器はすぐにすっからかんとなってしまう。そういう状態になると、何かをアウトプットしようと思えば、上から注ぎこまれたものを未消化のまま出さざるを得なくなる。


【出典】The Health Culture

先ごろ(2017/4/17日)亡くなった、渡部昇一氏の本に『発想法 リソースフル人間のすすめ』というのがある。昔に読んだので記憶が定かでないが、確か、外国語も含め、いろいろな方面に関心をもてば、自分から発信できる情報・知識が尽きることなく発酵し、器の『上から溢れる』というようなことを指摘していたように思う。残念なことに、現今の世の中、数多くの(自称、他称問わず)知識人の本には、『底から漏れる』類のものが実に多い。器が空になっても次々と出版するため、如何せん、内容は似たり寄ったりで、大河ドラマのようにちょっと読めばすぐに底が割れてしまう。

かのヒポクラテスは「ゆめゆめ貴重な時間を無駄にするな」という意味で『芸術は長し、人生は短し』(Ars longa, vita brevis)との名言を残した。短い人生の間に精一杯、知識の幅を広げようとすれば、本の取捨選択眼を磨かなければならない。著名人の本といっても『上から溢れる』良書もあれば、『底から漏れる』駄本もある。著名人というだけで安心して読書をしていると、同じ趣旨のことを繰り返し聞かされるだけで、一向に知識は広がらず、人生はあっという間に過ぎてしまう。
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想溢筆翔:(第306回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その150)』

2017-05-11 21:17:07 | 日記
前回

【249.溺死 】P.755、BC83年

『溺死』とは文字通り「水におぼれて死ぬ」ことと理解できる。というのは「溺」とは「おぼれる」と訓ずるからである。しかし、辞源(1987年版)で「溺」の説明に「死於水曰溺」(水に死ぬを溺という)とある。つまり「溺」にはすでに「溺死」の意味もあるということになる。ついでに言えば、「溺」は「小便をする」という意味もある。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『溺死』を検索すると次のようになる。



これから分かるように「溺死」は史記には見られず、漢書から用いられていることが分かる。史書では漢書が初出であるが、「経史子集」の「子」の分野、つまり儒学以外の学問分野では「列子」や「荘子」にはわずかであるが見られる(『荘子』・盗跖篇「尾生溺死」)。

資治通鑑で『溺死』の初出場面を見てみよう。前漢・昭帝の時代、西南地方(現在の四川省あたりか?)の蛮族が反乱を起こした。

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西南夷の姑繒と葉楡が再度反乱を起こした。それで、水衡都尉の呂辟胡を派遣して益州の軍を率いて攻撃させようとしたが、辟胡が到着しない内に蛮族が益州の太守を捕まえて殺した。蛮族が勢いに乗って呂辟胡にも襲いかかってきた。呂辟胡の兵士で戦死ないしは溺死したものが4000人以上もいた。

西南夷姑繒、葉楡復反、遣水衡都尉呂辟胡将益州兵撃之。辟胡不進、蛮夷遂殺益州太守、乗勝与辟胡戦、士戦及溺死者四千余人。
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漢の軍隊に対して、蛮族はゲリラ戦を挑み、漢の軍隊に多数の死者が出たというのがこの記事だ。

日本でも奈良時代末期から平安時代の初期にかけて奈良王朝から東北に派遣された軍隊は蝦夷に大敗している。『続日本紀』によると、789年6月の戦いでは「官軍の戦死者25人、敵の矢で負傷した者245人、川で溺死した者1036人、泳いで逃げた者1257人」(官軍戦死廿五人。中矢二百四十五人。投河溺死一千卅六人。裸身游来一千二百五十七人。)という。この記述からいろいろなことが分かる。例えば、戦死者より溺死者が40倍もいたということや、戦場に止まらず逃げ去った者が非常に多かったことなど。このような記述を見ると、日本民族は昭和の軍国主義が鼓吹したような根っからの兵士ではなかったことが分かる。本来の日本人は尚武の気質が希薄である、と私は思っている。

続く。。。
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【座右之銘・102】『qui nihil agere videntur maiora agunt』

2017-05-07 20:29:39 | 日記
前回、中国(論語)と同趣旨の言葉がローマにもあったことを紹介したが、今回も引き続きそういった例を紹介しよう。

荘子に「無用の用」という言葉がある。一見、使い道のない役立たずの物でも、必要なのだ、と荘子一流の寓話で説明する。荘子の主張のポイントは「用の有り/無し」は、単に観点の相違に過ぎないということで、用が無いように見えるのは、見る者の視野が狭いのだという。この考えをさらに押し進めると「無為而無不為」(無為にして為さざるなし)という点に至る。つまり、何も為さないように見えるものが実は全てを為すのだ。ちなみにこの句「無為而無不為」は荘子に3ヶ所(知北遊篇、庚桑楚篇、則陽篇)、見える。また、老子にも同じく3ヶ所(37章、38章、48章)見える(ただし、 38章では「無為而無以為」と表記)。

ところで、老荘思想というのは、退嬰的で世間から隠遁するという消極的な生き方を勧めていると理解されている。ローマの哲学でいえば、エピクロス(Epicurus)の思想に近い。それと覇を争っていたのが、ストア派である。一般的には、エピクロスは社会との関わり合いを断つことをモットーとするので非社会派と見なされ、反対にストア派は社会と積極的に関わり合いを持ち、社会改革を志向するので社会派と見なされる。



しかし、両派の原典をじっくり読んでみると、このような表面的な比較は的を得ていないことが分かる。どちらも、感情ではなく理性に基づいて行動し、貧困や苦悩にも耐え忍ぶ強靭な精神力を尊び、寡欲で質素に生きよ、と説く。この点において、両者は個人としての生き方にでは差は認められないが、社会とのかかわりあい、つまり政治的活動において、エピクロス派は否定的であるのに対してストア派は肯定的である点が異なる。

それ故、セネカはストア派であるにも拘わらず、しばしば自著のなかでエピクロスの言葉を引用し、また自身もエピクロス的な言い回しもする。例えば、今回取り上げた『qui nihil agere videntur maiora agunt』であるが、セネカの道徳書簡集(第8)に見える言葉で、一見するとエピクロスの言葉かと思ってしまうかもしれない。
【原文】qui nihil agere videntur maiora agunt
【私訳】何も為さないように見える者が、すごいことを為す
【英訳】those who seem to be doing nothing are doing greater things.
【独訳】die nichts zu leisten scheinen, leisten Größeres.

ところで、明治維新に際して西郷隆盛は偉大な功績を遺したが、勝海舟によると坂本竜馬は西郷について次のように評したという。
 「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら、大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう…」

老荘の「無為而無不為」(無為にして為さざるなし)という句で「何も為さないもの」と言うのは、一般的には「自然」と理解されるが、人に置き換えても意味は通ずると私には思える。つまり「ぼおーっとしている者」が一番大きな仕事をするということだが、西郷のような人のことを言っているのではなかろうか。西洋でも中国でも、そして日本でも、人物の器の大きさについての評価は共通していると言える。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第140回目)『エピクロス派とストア派 - 類似と相違』
 沂風詠録:(第159回目)『エピクロス派とストア派 とストア派- アタラクシアを巡って』
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想溢筆翔:(第306回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その149)』

2017-05-04 20:39:02 | 日記
前回

【248.装束 】P.3067、AD345年

『装束』(しょうぞく)は古文の授業で「狩装束」などとしてよく見かけた単語で、「衣服、dress」の意味。ところが中国の辞書をチェックすると、服(dress)以外の意味も載っている。辞海(1978年版)には (1)猶云束装也(出発の準備をする)、(2)謂整飭服飾也(服装を整える)と説明するし、辞源(1987年版)も同じく、(1)束装、整理行装(出発の準備)、(2)打扮(服装のこと)と説明する。

「束装」は「出発の準備をする」(to bundle up one's possessions for a journey)という意味だ。つまり『装束』は字の順序を逆にした『束装』と同じ意味もあるということになる。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『装束』と『束装』を検索すると下の表のようになる。どちらも三国志以降の比較的新しい単語であるが、最近(明以降)はほとんど使われなくなった単語であることが分かる。



資治通鑑で『装束』が使われている場面を見てみよう。

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桓温がかつて雪の降った日に狩りに出ようとしたが、たまたま劉惔に出会った。劉惔は桓温の服装があまりにもものものしいので、「お前さんはなんでこんな恰好をしているのだ?」とからかうと、桓温は笑って「ワシがこのように武装しているので、貴卿が安心して坐談していられるのではないか!」と言い返した。

桓温嘗乗雪欲猟、先過劉惔、惔見其装束甚厳、謂之曰:「老賊欲持此何為?」温笑曰:「我不為此、卿安得坐談乎!」
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劉惔の伝は『晋書』巻75にあるが、そこには「子供の頃から落ち着いていた。…家は貧しく、草鞋[わらじ]を織って生計をたてていた。粗末な家に住んでいたが、こせこせしていなかった。」と評されている。(少清遠、…家貧、織芒屩以為養、雖蓽門陋巷、晏如也)

劉惔は貧乏で、身なりはみすぼらしかったが、評価した人もいたようで明帝の皇女と結婚した。残念なことに36歳の若さで亡くなった。その時、孫綽が読んだ弔辞(誄)で
 「居官無官官之事、処事無事事之心」
 (官に居りては官官の事なく、事を処しては事事の心なし)


と誉め称えたが、これが名文句だと評判になった(時人以為名言)。

この句を私なりに解釈すると:
「国の重責を担う官僚であったが、出世にあくせくしたり、ずるい策略を弄することはなかった。また、何を処理するにしても、粛々と済まし、決して大げさにすることがなかった。」

晋の詩人・陶淵明の「五柳先生伝」に描かれている洒脱な隠士を彷彿とさせる。

続く。。。
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沂風詠録:(第287回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その5』

2017-04-30 21:52:17 | 日記
前回

【7】庶民の食事(1-1、P.243)

現在では、フランス料理は中華料理と並んで世界の2大料理であることに誰も異論はないであろう。しかし、歴史的に見ると、フランス料理が自慢できるようになったのはつい最近、つまりフランス革命(1789年)以降のこと、である。フランス革命で王政が倒されたので宮廷の料理人たちも宮廷から街中へ放り出された。しかたなく、銘々が料理店を開店したので、フランス料理なるものが一般化したという。そもそも、フランス料理の濫觴は1533年、イタリアのカトリーヌ・ド・メディシスがアンリ2世に輿入れした時に、フランスの不味い料理など我慢できないと、フィレンツェから料理人を連れてきた時にある。フランス王室では、材料や調理法に贅と工夫をこらしてた。その結果、当時の料理本に載せられているように種々の洗練された料理が作られたがはたして一般庶民はどのような食事をしていたのであろうか?

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【要旨】ヨーロッパでは、15世紀、16世紀以前においては本格的に贅沢な食事(洗練された食事)などなかった。この点においてヨーロッパは中東や中国などより遅れていた。フランスの地方料理の500年にわたる伝統をほめる人がいるが、はたしてどれほどの人がその恩恵に浴していたのだろうか?
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ここに見るように、ブローデルの指摘は、現在みられるフランス料理の伝統は確かに否定できないものの、それは社会の極一部の上流特権階級の伝統でしかなかったということだ。ブローデルの基本理念は社会の一部にしか見られない特殊事象を麗々しく記述することではなく、社会全体を通貫している大きな流れを記述することである。それ故、フランス料理についても、この点を強調する。

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[農民は]粟かとうもろこし( le paysan se nourrit de millet ou de maïs)を食べて、小麦を売っていた。週に一回塩漬けの豚肉を食べるだけで、家禽・卵・小山羊・仔牛・仔羊……などは市へ持ってゆくのであった。… 農民の、すなわち人口中の絶対多数の食品は、特権人士向きの料理書にある食品とはなんの関わりもなかった。
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この部分を読んで思い出したことがある。以前、京都大学で留学生向けの英語の授業『日本の工芸技術と社会』(Craftsmanship in Japanese Society)のテストでオランダの女子学生が料理について次のように記述したことで、日本の料理文化との差を思い知らされた。

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例えば、今回の回答の一つにオランダの学生が料理について書いていた文章の中に『日本では、料理が一つの文化となっている。しかし、オランダでは料理が文化だ、というと皆、笑いこけてしまうに違いない。なぜならオランダでは料理というのは、単にジャガイモを腹いっぱいに食べて、栄養をとるもの、というのが伝統的な理解だ。』という趣旨の文章があった。オランダでは、ありふれた料理でも色や形の異なった皿にいれ、盛り付けを工夫して見た目を考えて出すという我々日本人なら当たり前の感覚が存在していなかったのである。
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オランダだけでなく、ゲルマン系の国々の料理に対する国際評価はラテン系に比べて高くない。私の実感として、これらの国々の料理は、掛け値なしに質素で、栄養が偏っているとの印象がある。この原因は寒冷な気候のために洗練された料理文化を構築するという条件に恵まれなかったからではないかと思う。南欧のように種々の植物が豊富に取れる条件がなく、とにかく生き延びることがやっと、のような低い生産性では、食べられるだけでも幸福だと思ったことであろう。この点からすれば、中国南部から東南アジア・インドにかけての植生の豊かさは、うらやましいほどの多彩な食文化を形成した。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第126回目)『英語講義:日本の工芸技術と社会・テスト』

続く。。。
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想溢筆翔:(第305回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その148)』

2017-04-27 21:41:54 | 日記
前回

【247.端緒 】P.3943、AD450年

『端緒』とは「物事のはじまり」という意味。辞源(1987年版)の説明は「頭緒」とそっけないが、辞海(1978年版)には「頭緒曰端緒、如理糸緒、必循其端也」(頭緒を端緒という。糸には端があるように、必ず物事には始まりがある)と丁寧に説明する。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『端緒』を検索すると下の表のようになるが、これから分かるように、歴史的にはあまり使われていない単語であることが分かる。



さて、資治通鑑で『端緒』が使われている場面を見てみよう。北魏の政治体制の構築に貢献した崔浩であるが、国史編纂で鮮卑族拓跋部の風俗をありのまま記述したため、太武帝の怒りをかい、親族(五族)皆殺しの極刑に処せられた。この時、崔浩と同じく国史編纂に携わっていた高允は、太武帝に「自分も崔浩と同罪だ」と言った。高允は、太子の先生であったので、太子の必死にとりなしによって、ようやくのこと死を免れた。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第263回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その106)』

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それから暫くして、太子が高允をなじって言うには「人間というのは、状況をちゃんと理解すべきではないでしょうか。私は先生が殺されずに済むように、端緒を開いたのに先生は私の言うとおりしなかったので、帝が激怒したではありませんか。あの時の事を思い出すたびに、今でも心臓がどきどきします。」高允が答えていうには「歴史というのは、人主の善悪を隠さずに記録するものですが、それは将来の人間へ訓戒を与えるためです。君主は歴史に悪くかかれる事を憚って、わがままな行いを自制するのです。崔浩が帝の聖恩を独り占めにし、我欲がありすぎたため廉潔も帳消しとなり、自分の愛憎の感情に引きずられて公平さを欠いてしまったのです。これが崔浩の罪です。朝廷で起こったことを記録し、国家の得失を論ずるのは、史官の一番の基本です。従って、崔浩がありのままを記述したのは別に咎めるべきことではありません。私は崔浩とまったく同じことをしたのですが、結果的には崔浩は汚辱にまみれて殺され、私は逆に栄誉を得て生き永らえています。本来的には2人のしたことは全く変わりません。誠に、陛下の度重なる慈愛あふれる処遇に感謝しますが、これからも史官の本分に恥じる行いはしないつもりです。」太子は、その言葉に感動し、誉め称えた。

他日、太子譲允曰:「人亦当知機。吾欲為卿脱死、既開端緒;而卿終不従、激怒帝如此。毎念之、使人心悸。」允曰:「夫史者、所以記人主善悪、為将来勧戒、故人主有所畏忌、慎其挙措。崔浩孤負聖恩、以私欲沒其廉潔、愛憎蔽其公直、此浩之責也。至於書朝廷起居、言国家得失、此為史之大体、未為多違。臣与浩実同其事、死生栄辱、義無独殊。誠荷殿下再造之慈、違心苟免、非臣所願也。」太子動容称歎。
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太武帝が崔浩が編纂した国史の記述に激怒して崔浩の親族を皆殺しするのを見ても高允は動じることなく、「自分も崔浩と同罪だ」と堂々と述べた。史実を、時の帝王の気に入るように書き換えるのは国史編纂者のすべきことではないとの強い自覚をもっていた。それ故、史書は「善以為式、悪以為戒」(善はもって式となし、悪はもって戒めとなす)と言われたのだ。

続く。。。
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