限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第296目)『資治通鑑に見られる現代用語(その139)』

2017-02-23 17:14:49 | 日記
前回

【238.裁量 】P.3906、AD444年

『裁量』とは現代の日本語では「自分の考えで物事をとりはからって処理すること」という意味だ。辞源(2015年版)によると「裁」には「刪減」(削り減らす)や「節制」の意味があると説明する。
類似の単語としては、「裁度」があるというが、両者を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次のようになる。『裁量』の初出は後漢書、「裁度」は晋書であるので比較的新しい単語であることが分かる。



『裁量』を「刪減」(削り減らす)の意味に使われている個所を紹介しよう。
登場人物は前回取り上げた古弼

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八月、魏主(北魏の太武帝)が河西に狩りに出た。尚書令(秘書官)の古弼が宮廷に残り留守番をした。太武帝が古弼に狩猟の為に肥えた馬を送るように命じた。古弼はやせて弱弱しい馬だけを選んで送った。太武帝はかんかんに怒り「あのとんがり頭め、よくもワシの命令を勝手に削ったな(裁量)!帰ったら、真っ先に斬ってやるぞ! 」古弼の頭がとんがっているので、太武帝はいつも古弼を「筆頭」とからかっていた。古弼の下役たちは、一緒に殺されるのではないかと恐れ真っ青になった。古弼は落ち着いて言うには「臣下として君主の狩猟の楽しみを損なうのは罪としては小さいものだ。しかし、敵からの不意の襲撃に備えを怠る罪は大きい。現在の状況を見るに、蠕蠕の軍隊は強く、また南方の敵もまだ勢力を温存している。それで、国の為にと考えて敢えて、肥えて強い馬は軍に送り、やせて弱い馬を帝の狩猟に回した。処刑されることになっても後悔はしない!またこれはワシの一存で決めたことで、諸君に迷惑はかからないから安心しろ。」太武帝はこれをきいて、感心して「こういった臣下こそ、国の宝だ。」と言って、衣一揃いと、馬二匹、鹿十頭を古弼に贈った。

八月、乙丑、魏主畋于河西、尚書令古弼留守。詔以肥馬給猟騎、弼悉以弱者給之。帝大怒曰:「筆頭奴敢裁量朕!朕還台、先斬此奴!」弼頭鋭、故帝常以筆目之。弼官属惶怖、恐幷坐誅、弼曰:「吾為人臣、不使人主盤于遊畋、其罪小;不備不虞、乏軍国之用、其罪大。今蠕蠕方強、南寇未滅、吾以肥馬供軍、弱馬供猟、為国遠慮、雖死何傷!且吾自為之、非諸君之憂也。」帝聞之、歎曰:「有臣如此、国之宝也。」賜衣一襲、馬二匹、鹿十頭。
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自分の命より、国家防衛のことを重視したこの古弼の判断は、流石に太武帝から「社稷の臣」と言われただけの事はある。太武帝も腹の底ではもとから、古弼の正々堂々たる信念には反論できないと考えていたように思える。



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別の日、太武帝がまた山の北側で狩りをした。鹿を数千頭捕まえたので、荷車を 500台、至急に寄こすよう、使者を宮殿に差し向けた。ところが使者が去ってから太武帝は周りの者たちに「あのとんがり頭はきっと荷車を寄こさないだろうからお前たちの馬で運んでしまえ。」こうして、鹿を運んで行ったところ、40Kmほど行くと使者が古弼からの返事を持って戻ってきた。その文面には「今は秋の収穫の時節のまっさかりで穀物が平原一杯に稔っています。しかし、猪や鹿が喰い、鳥がついばみ、雨風が吹くと地面に落ちるので、朝に刈り取るのと夕方に刈り取るのとでは収穫量が3倍も違います。そこで、穀物の収穫を最優先したいと思いますので、悪しからず。」と書いてあった。太武帝は「やっぱり、ワシの言った通りだろう。とんがり頭(筆公)こそ、社稷の臣というべき人だ!」

他日、魏主復畋於山北、獲麋鹿数千頭。詔尚書発車五百乗以運之。詔使已去、魏主謂左右曰:「筆公必不与我、汝輩不如以馬運之。」遂還。行百余里、得弼表曰:「今秋穀懸黄、麻菽布野、豬鹿窃食、鳥鴈侵費、風雨所耗、朝夕三倍。乞賜矜緩、使得収載。」帝曰:「果如吾言、筆公可謂社稷之臣矣!」
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自分の命令が無視されても、平然と古弼を誉めた太武帝の太っ腹にも敬意を表すことにしよう!

続く。。。
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沂風詠録:(第283回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その1』

2017-02-19 22:29:55 | 日記
先日のブログ
 沂風詠録:(第280回目)『弘法に非ざれば、筆を選ぶべし』
で述べたように最近(2017年の1月)ブローデルの大著である『物質文明・経済・資本主義―15-18世紀』をフランス語で読み始めた。まだ全体の1/6程度しか読んでいないが、おおざっぱな感想を述べると、世評に違わず、名著であるとひしひしと感じる。とにかく、情報が質・量とも、圧倒的だ。私もしばしば経験することであるが、ちょっとしたことでも確証をとってから書こうとすると、かなり多くの資料を調べないといけない。その為には一行の情報をあつめるにも、数時間や下手をすると数日かかることも稀ではない。

この本には、そのような裏付けのとれた確証データが満載である。それも、想像するに、成書からの引用だけでなく、活字にもなっていないような当時(15-18世紀)の手書きの資料も調べているように思える。ブローデルには『地中海』という名著があるが、それを出版してから 20年以上の時間をかけて書き上げられたのがこの『物質文明・経済・資本主義―15-18世紀』である。流石に、じっくりと資料収集と分析に時間をかけた跡がありありと感じられる。

本稿はこの『物質文明・経済・資本主義―15-18世紀』に対する私の雑駁な感想を述べるものである。まとまった読書案内ではない。また、内容に関するレビューなどでも無い。単なる読書メモである点を誤解無きように願いたい。 尚、参照ページはみすず書房(村上光彦・訳)を示す。

【1】ペスト菌の消毒(1-1、P.100)

ヨーロッパではペストがしばしば流行したが、金持ちは家を逃げ出して伝染していない土地へ移った。病気のほとぼりがさめてから、ようやく元の家に戻るのであるが、その前に、家を消毒する。(どのようにするのかは不明) そして本当に消毒されているかどうかを試すために、そこらにいる貧乏人を雇い、数週間消毒後のそこに住まわせるという。その間に、その貧乏人がペストに罹らなければ、金を与えて退去してもらい、ようやく自分たちが住むという話だ。人の命がリトマス紙程度にしか考えられなかった当時の世相が良く分かる。

そういえば、昔、升田幸三という将棋の名人がいた。戦争で南洋に出征したが、胃腸が至って丈夫だったので、食糧がなくなった時に、部隊を代表して、どの草木や昆虫が食べれるかの人体実験をした。ゲテモノばかり試食させられて復員したときには慢性の胃腸病になってしまっていたようだ。その後も長らく胃腸の病気に苦しんだようで、好敵手の大山康晴に負けたのは、体調の差であったとも私には思える。才能を万全に開花できなく、残念なことだった。

【2】小麦と米(1-1、P.132 - 200)

世界の文化はムギ文化圏とコメ文化圏に大別できる(もっとも、南北アメリカ大陸はとうもろこしがあるが…)。面積的にも、文化的にもムギ文化の方が広いし、多様性がある。しかし、この本におけるブローデルの関心は文化面というよりむしろ、農業経済的な点にある。ムギの生産力はコメに圧倒的に劣るということを指摘している。大きな理由は次の2つだ。

1.小麦は連作できない

小麦は連作できないので、古代ヨーロッパでは耕作地を半分に分けて、一年置きに小麦を作っていた。中世ヨーロッパになって、三圃制を採用せざるを得なかったのも、これが理由だ。それ故、元・明時代に中国を訪れた西洋人は軒並み、米が連作できることに驚いたという。(1-1、P.141)

もっとも、ムギ文化圏では、小麦はかなり高級食材で、貧民は小麦は祭りなど、いわゆるハレの日々にしか食べることができなかったようだ。庶民は普段は、燕麦(オート)やライ麦を牛乳入りのおかゆやパンにして食べていた。

2.収穫率が低い

ムギの収穫率はコメの1/6程度であったという。つまり、連作が出来ないことから考えて、ムギ文化圏では面積あたり1/10の人口しか養えないということになる。現代では、肥料などや土地改良などで、当然のことながら、ムギの生産性はかなり上がっているが、伝統的に日本の集約農業は狭い面積でも十分家族を養っていけたことが分かる。つまり、西洋の大規模農業は土地が広いのは、特段、自慢することでなく、逆に土地の生産性が日本に比べて、かなり低いというかわいそうな状態であったのだ。



ところで、原書(フランス語)を読んでいて、いくつか語学的な観点で気付くところがあった。その例を2つばかり挙げよう。

convaincre(説得する、納得させる)という単語があるが、英語では convince である。どちらもラテン語の convincere (convinco) を語源とする。フランス語では、ラテン語の [i] の部分が [ai] と変化している。この差が私には非常に気にかかる。どうしてフランス語は [ai] と綴るにに、英語は [i] と綴るのだろうか? この点について調べて分ったのは、フランス語ではこの単語は9世紀ごろから使われていたことだ。当然のことながら、このフランス語の綴りが英語に入ったと推定される。ところが、OED(Oxford English Dictionary)を見ると、convince の一番古い例文は 1500年代である。

それでは、1500年以前は convince はどういう綴りであったのか?

OEDを更にチェックしてみると、フランス語からは、 convince の意味で convainquish という単語が1400年に入っていることが分かった。推定するに 1500年代に入って、ラテン語の正統な綴り通りの convince が使われるようになったのではないだろうか?

●暖炉の説明で、Kachelhofen という単語が使われている(1-1、P.404)。これはドイツ語で、辞書を引くと、Kachelhofen という単語は見つからないが、真ん中の[h] が欠けている Kachelofen は見つかった。その意味は「タイル製暖炉」(耐火レンガを積み、外側に壁タイルを張った暖炉)。 Kachel とは壁タイルであるので、それに ofen が付いた綴り、つまり [h] のないほうが正しいと私には思える。しかし、Webには Kachelhofen の写真がいくつも出ていることから考えて、Kachelhofen という言い方もあったのかもしれない。

なかなか、いろいろな面で教えられるところの多い本である。
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想溢筆翔:(第295目)『資治通鑑に見られる現代用語(その138)』

2017-02-16 20:08:19 | 日記
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【237.劇職 】P.3902、AD443年

『劇職』は日本語では「激職」と書くが、漢文ではこの字(激)では用例が見つからない。『劇職』と類似の言葉の「激務」に関しても、同様に漢文では「激」の字では見つからない。辞海(1978年版)によると『劇』とは「尤甚也」(もっともはなはだしい)と説明する。一方、辞源(2015年版)ではもう少し丁寧に「極、甚。形容程度深。含義随文而異」と説明する。つまり、「甚だしいという共通の概念の単語ではあるが、文によってニュアンスが異なる」との意味だ。

『劇職』と『劇務』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果を下に示す。



この表を見ると、どちらも南北朝時代(5世紀から6世紀)に始めて使われだしたので、かなり新しい用語であることと言える。資治通鑑では2ヶ所に見えるが、最初の場面を見てみよう。

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魏主(北魏の太武帝)が柔然との戦いを終え、朔方にまで戻ってきた。そこで、皇太子に政務全般を見るよう詔を下した。それに付け加えて次のように述べた「功臣たちは長年、実によく働いてくれた。皆に爵位を与えるから家に戻ってよい。ただし、時々h朝廷に来て、一緒に食事を楽しみながら、世間の実情を話ながら、政策論争をしようではないか。今後は、二度と劇職がないように配慮しよう。また、優秀な人物を推挙したら官僚に採用しよう。」

魏主還、至朔方、下詔令皇太子副理万機、総統百揆。且曰:「諸功臣勤労日久、皆当以爵帰第、随時朝請、饗宴朕前、論道陳謨而已、不宜復煩以劇職;更挙賢俊以備百官。」
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皇太子(拓跋晃)に政務全般を任せると宣言した。翌年の年初から実際に優秀な臣下のサポート(輔弼)を受けて皇太子が政務を担当した(魏太子始總百揆)。重臣4人は東宮四輔と呼ばれたが、なかでも古弼は太武帝に「社稷之臣」と絶賛された。しかし、後年、太武帝が亡くなり、孫の文成帝が位に就くに及び職を解かれた上に、家族に無実の罪が被せられて処刑された(『北史』巻25)。中国(や韓国、北朝鮮)では、昔だけの話ではなく、現在においてもそうだが、権力者や高官といえどもも一寸先は恐ろしい程の暗闇だ。

続く。。。
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【座右之銘・100】『礼者徳之輿、敬者身之基』

2017-02-12 21:27:01 | 日記
中国の戦乱期であった、五胡十六国時代の北涼に沮渠蒙遜という人がいた。蒙遜は最終的には、王位に就くのであるが初めからエリートコースに乗っていた訳ではなかった。しかし、悪魔の所業とも言えるような策略を用いて、邪魔になる者を着実に一人ずつ消し、遂に王の位に上り詰めた。しかし、後継者に恵まれず、蒙遜の死後数年にして北涼は滅亡することになる。

その理由は、礼儀を軽視したところにあると、北魏の李順が次のような句で的確に表現した。
 『礼者徳之輿、敬者身之基』(礼は徳の輿[こし]、敬は身の基)

この句を私なりに解釈すると:
 「徳というものは目に見えないが、それを目に見える形で表現したのが礼(礼儀)であり、敬意を弁えるのが人としての基本である。」

この句から想像するに、蒙遜には人徳がなく、その人徳のなさは不遜で無礼な態度に表れていたという事になる。



ところで、中国とは遠く離れているが、これと同じ趣旨のことをローマの哲人・セネカが『 De beata vita ・幸福なる生活』(27, 26-7)で次のフレーズで表現している。
 "Suspicite virtutem"(have respect for virtue)
 "Favete linguis"(be favorable with your toungues)


つまり、これら2つのフレーズは『徳を崇[あが]め、不遜な言葉を慎め』という意味に解釈できる。過去を振り返ってみると、この句に該当する出来事は私自身にも、また私の回りにもたくさん見てきた。自戒もこめて、この句『礼者徳之輿、敬者身之基』を意味をかみしめている。
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想溢筆翔:(第294目)『資治通鑑に見られる現代用語(その137)』

2017-02-09 15:11:33 | 日記
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【236.疲弊 】P.3895、AD442年

『疲弊』とは、「つかれ、よわること」という意味。辞源(2015年版)を見ると、『疲弊』とは「困苦窮乏」と説明する。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果を下に示すが、まず後漢書が初出であると分かる。さらに、明代以降には全く使われていないことも分かる。つまり、現代中国語では『疲弊』の意味には別の単語が使われているということだ。ついでに言うと、『疲弊』という単語は『南史』には全く見えないが、『北史』には 15回も見えることから、『疲弊』は北方の言い方であった事も分かる。



さて、資治通鑑には『疲弊』は57ヶ所と、かなり多い。ここに挙げるのは、北魏の太武帝が漢人宰相の崔浩の忠告によって高台を建築する場面。

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魏主(北魏の太武帝)が皇帝用の馬車に乗って道壇に参り、符籙(免許状)を受けた。旗や幟(のぼり)はみな青色であった。これ以降、皆、帝位に就く者は皆、符籙を受けることが慣習となった。道士の寇謙之は、また「高い楼を持つ静輪宮を作って俗世間の音に煩わせられないようにすべき」と進言した。つまり、帝が天の神に接することができるようにとの配慮で言ったものだ。崔浩が帝にアドバイスして高い楼を建築させたものの、工費ばかりかかって、何年経っても一向に完成しなかった。太子の拓跋晃が父帝を諌めてこう言った「天と人とは一緒にできません。卑賤な者と尊貴な者は元から定まっていて、接触することはできません。この道理は揺るがすことはできません。それなのに今、宮廷の財力を消耗し、民を疲らして(疲弊百姓)、無駄なことをしています。一体何をしようとしているのですか?もし、寇謙之のいう通りならば、楼を作らずに東方にある泰山にでも登る方がまだ実現できるのではないでしょうか?」太武帝は太子のいう事を無視した。

魏主備法駕、詣道壇受符籙、旗幟尽青。自是毎帝即位皆受籙。謙之又奏「作静輪宮、必令其高不聞鶏犬」。欲以上接天神。崔浩勧帝為之、功費万計、経年不成。太子晃諌曰:「天人道殊、卑高定分、不可相接、理在必然。今虚耗府庫、疲弊百姓、為無益之事、将安用之!必如謙之所言、請因東山万仞之高、為功差易。」帝不従。

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日本は中国から儒教と仏教は取り入れたが道教はごくわずかしか取り入れていない。それも、道教の真髄ともいうべき、不老長寿、錬金術(仙丹)などのイカサマ術は、風水の一部を除き全く取り入れていない。古代日本人のこの理性的な判断のお蔭で、後世、どれほど無用な土木工事や不要な出費がなされずに済んだことかと、ありがたく思う。ついでに、儒教の天人合一思想も取り入れなかったのも実に賢明な判断であった。

日本と比べるとお隣の朝鮮では、儒教だけでなく、風水もまともに取り入れたため、李朝時代の両班たちが何百年もの長きに渡って(まだ、現代にも続いているようだが)墓地の陣取りゲームにそれこそ、命がけで戦っているようだ。その実態は尹学準 の『韓国両班騒動記 ―“血統主義”が巻き起こす悲喜劇』に詳しく書かれている。我々日本人の感覚ではとるに足らないようなことで、数百年もド根性を入れて延々と醜い争いを繰り広げているかれら両班の執念と比べると、現在の竹島問題など、正直「まだまだ年季が足りんなあ~」と思ってしまう。

続く。。。
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沂風詠録:(第279回目)『漸染之易性』

2017-02-05 21:58:25 | 日記
墨子は日本ではほとんど取り上げられることがないが、中国人の考え方を知る上では必読の書だと私は思っている。その理由は儒教の考えとほぼ180度違っているとも言えるからだ。しかし、墨子の存命時には、天下を二分するほどの強大な影響力を持ちながら、2000年以上も全く無視された存在であったからだ。中国の政治の本流は儒家の思想が貫流していたので、中国を理解するには儒学の理解が欠かせない。しかし儒学は歴史的な積み上げが分厚いのでなかなか理解しがたいところがある。それで、いささか抜け道的ではあるが、てっとり早く儒学を理解しようとするなら、薄っぺらい墨子の本を読むことだ。要は、集合論でいうと、(A)を理解しようとすれば、(Not A)を理解すれば早いということだ。さらに、荘子の本に登場するカリカチュアライズされた儒者の姿も合わせて考えれば、儒学の欠陥(と同時に長所でもあるが)がくっきりと見えてくるであろう。

上で、長年、墨子が無視されたと言ったが、中華人民共和国が成立してからは、反権力の立場で農民戦争を指示したとの理由で共産党が持ち上げたようだが、墨子自身が聞いたらどの程度納得するか、疑問だと私は思っている。

それはともかく、墨子の『所染編』には次のような話がでてくる。

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墨子が糸を染める者の作業を見て溜息をついて、こう言った「糸と言うのは青に染めれば青になるし、黄にそめれば黄色になる。染色剤を替えれば色が変わる。単色だけでなく、五色にも染めることができる。染まるところには気をつけないといけない!」単に糸だけでなく、国もまたそうだ。

子墨子言見染糸者而歎、曰:染於蒼則蒼、染於黄則黄、所入者変、其色亦変、五入必、而已則為五色矣!故染不可不慎也!」非独染糸然也、国亦有染。
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と前置きして、本論である政治の話に「染」まるに、良い染まり方と悪い染まり方があると述べる。かつての聖王(舜、禹、湯王、武王)は立派な部下に補佐されたので今だに尊敬されているが、反対に暴王(桀、紂、厲王、幽王)は悪辣な部下達にたぶらかされてしまって悪名が万世に伝えられることになったと述べる。

ところで、この墨子のいう「漸染之易性」(徐々に染まると性格が変わってしまう)傾向については、以前のブログ
 【座右之銘・92】『tam malorum quam bonorum longa conversatio amorem induit』
で紹介したが、セネカが『心の平静について』の中で『長く付き合うと、良きにつけ悪しきにつけ、愛(いと)おしくなるものだ』と述べている趣旨と同じだと言える。
(ちなみに、この「漸染之易性」という句の出典は後漢書・巻28の「馮衍伝」)

ここで話題をがらりと変えて、語学上達について一言述べたい。

世間では「語学=英語」と考え、 TOEICだのTOEFLだのと、問題集を解く事ばかりに関心が向いているようだが、もう少し高い視点から言語を見て欲しい。言語とは脳の中を公開するための道具である。従って語学とは「人間の思考形態」を知ることであると言える。「何故このような言い方をするのか?」あるいは「世の中の文物をどのようにカテゴリー化しているのか?」という点を語学を通して追及するということだ。一番目の疑問は syntax(統辞法)に関連し、二番目の疑問は vocabulary(語彙)に関連する。

確かに問題集では、これら2点について、分析的な解説(それも微に入り細を穿つ重厚な解説)がなされているので、一見、学習成果があがりそうなものだが、本当の所はどうだろうか?一般性があるか分らないが私の個人的な経験から言うと、墨子のいう「染」まることがポイントである。具体的には、毎日、すこしずつでもいいから原文を読むことだ。確かに社会人には多少困難なことかもしれないが、隙間時間を活用すれば方法は見つかる。僅かずつでも1ヶ月、 2ヶ月と続けていく内にだんだんその言語に「染」まってくるのが実感できる。

私の経験から言うと、語学には才能などは全く必要ない。根気が全てだ。(ただし、「話す」は別で、生まれ持った才能が重要なファクターを占める。本稿でいうのは専らヨーロッパ語の文章読解力の話)

辛抱強く続けることができるためには、根性だけでは無理で、何らかの「仕掛け」が必要だ。最も重要な「仕掛け」は何ヶ月も興味を持続して読むことができる分厚い本を見つけることだ。世間の常道とは逆の言い方になるが、薄っぺらい本ではだめで、読了まで6ヶ月以上かかる大冊を選ぶことだ。どっぷりと「染」まるには、とにかく長時間かけないといけない。

次なる「仕掛け」は最近のブログ
 沂風詠録:(第280回目)『弘法に非ざれば、筆を選ぶべし』
に述べたように読むつど感銘をおぼえるような素晴らしい辞書をひくことだ。とりわけ、語源について、該当言語だけでなく、広く他の言語、とりわけヨーロッパ語であれば、インド・ヨーロッパ語族全般にわたる解説があるような辞書が望ましい。例えば英語であれば若干高いが次の2冊の辞書がお勧めだ。

●"The Universal Dictionary of the English Language", by Henry Wyld
 ISBN-13: 978-1853269400

●"An Etymological Dictionary of the English Language", by Walter Skeat
ISBN-13: 978-0486440521

老子に『千里之行、始於足下』(千里の行も足下に始まる)という言葉があるが何事も始めなければ始まらない。語学も原文を5000ページ読めば、かならずその言語に「染」まり、「漸至佳境」(だんだんと面白くなる)はずだ。どうだろう、英語の苦海から抜け出し、語学の大海で泳いでみようではないか!
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想溢筆翔:(第293目)『資治通鑑に見られる現代用語(その136)』

2017-02-02 21:24:13 | 日記
前回

【235.払拭 】P.3886、AD440年

『払拭』とは「はらい、ぬぐって、すっかり取り去ること」という意味だが、辞源(1987年版)には「除去塵垢」とある。前漢の劉向の『新序』にも出ている字句であるが、二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)にはほとんど使われていない。合計で7回使われているが、明以前では、実質的に宋書、南史、資治通鑑(と遼史)に1回ずつ見えるだけである。しかし、三書はいづれも、ここに取り上げる同一の事件について言及している。

時は、劉宋の文帝の御代、文帝の弟の劉義康が兄より強い勢力を持つに至ったので、文帝が恐れをなして行動をおこした場面。

 +++++++++++++++++++++++++++
文帝の弟の劉義康は司徒で彭城王であるが、文帝とはすでに険悪な仲になっていて、いつ反乱を起こすかもしれないと思われた。それで、文帝は先手を打って、十月に弟の懐刀の劉湛を逮捕し、裁判にかけた。そして、詔を下してその罪悪を公に非難し、投獄して誅殺した。さらに劉湛の3人の息子、黯、亮、儼とその仲間の劉斌、劉敬文、孔胤秀ら八人も処刑した。…

これ以前に、殷景仁は病気で五年もの間、療養していたので文帝に会う事はなかったが、秘かに手紙で情報をしきりに交換していた。多い時は日に十数通ものやりとりをして、朝廷の政治案件は大小となく尽く殷景仁の意見を求めていた。この通信は極秘にされたので事情を知る者はいなかった。劉湛を収監した日の朝、殷景仁は服と冠の塵を払って(払拭衣冠)綺麗にしておくよう命じたが、周りの者はだれもその意図が理解できなかった。当日の夜、文帝が華林園の延賢堂に赴き、殷景仁を呼び寄せた。殷景仁はまだ足が痛いと言ったので、クッションつきの輿(タンカのようなものか?)で席まで運ばせた。劉湛たちの処分については殷景仁に一任することに決めた。



上以司徒彭城王義康嫌隙已著、将成禍乱、冬、十月、戊申、収劉湛付廷尉、下詔暴其罪悪、就獄誅之、并誅其子黯、亮、儼及其党劉斌、劉敬文、孔胤秀等八人…

初、殷景仁臥疾五年、雖不見上、而密函去来、日以十数、朝政大小、必以咨之;影迹周密、莫有窺其際者。収湛之日、景仁使払拭衣冠、左右皆不暁其意。其夜、上出華林園延賢堂、召景仁。景仁猶称脚疾、以小牀輿就坐;誅討処分、一以委之。
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文帝(劉義隆)と弟の劉義康の権力のつばぜり合いで文帝が機先を制して、秘かに殷景仁と図って弟の部下達を一網打尽にした。劉義康は支えてくれる部下がいなくなったので、自ら辞表を提出した(義康上表遜位)。

殷景仁が下僕には服と冠を払拭させたのは、必ず文帝から呼び出しがかかることを見越したものだが、この話は漢の建国の功労者の蕭何が死んだ時に、曹参が「さあ、ワシが首相になる番だ」(吾将入相)と予言した故事を思い出させる。

続く。。。
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沂風詠録:(第280回目)『自分の性格に合わせて生きる』

2017-01-29 20:55:26 | 日記
先日(2017年1月1日)のブログ
 百論簇出:(第199回目)『生き方を考えさせるリベラルアーツ』
で、リベラルアーツの最終目的は「人としての生き方」をつかむことだと述べた。「人としての生き方」は普段、仕事や雑用に追われているとあまり考えることはないが、普通でない事態例えば:
 ○組織(会社・官庁・団体)の方針と自分の生き方が相反する時
などには真剣に考えざるを得ないであろう。
 こういった時にどういう判断を下すか、どういう行動をとるかで、その人の考え方、生き方、つまり哲学が、試される。
と述べた。

組織の方針が自分の生き方に相反している時には2つの方法があるだろう。一つは、自分の生き方を封じて、組織に合わせる方法だ。もう一つは、結果はどのようになろうとも、ともかくも自分の生き方のままに生きる方法だ。この2つの生き方のうち、どちらにしろ厄介な問題が持ちあがることはいうまでもない。



誰もが悩む問題であるが、ローマの哲人セネカの『De Vita Beata』(幸福な人生について)は後者の方がよいと次のように述べる。
 【原文】Beata est ergo vit conveniens natuae suae
 【私訳】それ故、幸福な人生とは自分自身の性格に応じた生き方をすることだ。
 【英訳】The happy life, therefore, is a life that is in harmony with its own nature.
 【独訳】Glücklich ist daher ein Leben, wenn es seiner Natur entspricht.

老荘思想では「無為自然」という単語で「自然のままに生きる」ことを推奨するが、セネカの考えは、「自然にままに生きる」と言っても万人が同じような生き方をするのではなく、あくまでも個々人の性格に合わせて、主体的に生き方を選べと言っている点が異なる。

ここの個所だけではこの文の意味が分りにくいが、『De Vita Beata』(幸福な人生について)全編を通してセネカは次のように主張しているように私には読めた。
 名誉が欲しいなら名誉を求めて生きるもよし。金が欲しいなら金にいきるもよし。ともかく、自分の情熱が注げるものを見つけて生きよ。生き方は人にアドバイスを求めるものにあらず!

「主体性を持って生きよ」とは実に単純な言葉ではあるが、自分が本当に何に一番情熱を傾けることができるのか、を見つけるのは思うほど易しいことではない。一生かかっても見つからないかもしれないが、かといって探さないかぎり見つからないものでもある。今までの人生より、これからの人生の方が長い人には、日々の仕事に流されてしまったり、あるいは世間の目ばかりを気にして時を過ごし、老年になって後悔することの無いようにしてほしいものだと願う。
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想溢筆翔:(第292目)『資治通鑑に見られる現代用語(その135)』

2017-01-26 20:22:44 | 日記
前回

【234.灌漑 】P.1371、AD35年

『灌漑』とは「田畑に水を注いで行き渡らせる」ことをいう。それぞれの字の意味を辞海(1978年版)で調べてみると、『灌』は「漑也」と説明する。それで、『漑』を見ると「灌也」と説明する。これでは、何百万回引いても意味が解らない! それで、今度は辞書を変えて、辞源(1987年版)を見ると『灌』は「澆水(水をそそぐ)」と説明する。『漑』は「灌注」と説明する。う~ん、これも分り難い!しかし、辞源の方がすこしはましだ。結局、以上のことから判明したのは『灌漑』は同じ意味の字が2つ並んでいてどちらも「そそぐ」の意味であるということだ。つまり、無理に灌漑といわなくとも「水をそそぐ」で充分意味が通じるということだ。

また、同じ意味の字なので、論理的には逆さまにしてもいいはずだと思える。実際、日本では「灌漑」とだけしか使わないが、漢文では逆の順序、つまり「漑灌(がいかん)」も使われている。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でこの2つの単語を検索すると、下のような結果になる。



これから分かるのは、どちらの単語も漢書以降に成立したということだ。また、宋の前まで(ざっくり言ってAD1000年)まではどちらも同じような頻度で使われていたが、宋以降は「灌漑」に統一されたことが分かる。理由は分らないが、私が勝手に推測するに多分「カンガイ」の方が口調が良いのであろう。

さて、資治通鑑には『灌漑』は2回使われているが、その最初に使われたのが後漢時代、西方の遊牧民の羌を馬成と馬援が平定した場面だ。

 +++++++++++++++++++++++++++
馬成たちが河池に住む部族を打ち破って、ついに武都を平定した。先零に住むもろもろの羌族たち数万人が集まって漢人の集落を略奪して、浩亹隘を防衛線とした。馬成と馬援は敵陣にまで深く突入して、大いに打ち破った。降伏した羌族の人たちを天水、隴西、扶風の諸郡に移動させた。朝廷での議論で、朝臣たちの中には金城郡は破羌県よりもまだ西方にあり遠すぎる上に強盗も多いので、統治を放棄した方がよいという意見が多かった。

馬援が上書して次のように述べた。「破羌県より西には城が多く、また堅牢で、守るのが楽である。また土地は肥えていて、灌漑用の水路も整備されている。もし羌族を湟中に置き去りにすれば、それこそ害をなして、我々に休む暇も与えないことでしょう。放棄すべきではありません。」光武帝はこの案に賛成した。

馬成等破河池、遂平武都。先零諸種羌数万人、屯聚寇鈔、拒浩亹隘。成与馬援深入討撃、大破之、徙降羌置天水、隴西、扶風。是時、朝臣以金城破羌之西、塗遠多寇、議欲棄之。

馬援上言:「破羌以西、城多堅牢、易可依固;其田土肥壌、灌漑流通。如令羌在湟中、則為害不休、不可棄也。」帝従之。
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馬援は、この後、ベトナム遠征でも手柄をたてた名武将で、清廉な人であった。しかし、没後、光武帝の娘婿にでっちあげの罪をかぶされて、名誉を剥奪されてしまった。このような理不尽なことは中国ではよくある話ではあるが、長い年月の内には真実が明らかにさるものだ、というのが歴史の示す所である。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第13回目)『濡れ衣を着せられた馬援』
 通鑑聚銘:(第18回目)『馬后の賢と謙』

続く。。。

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沂風詠録:(第280回目)『弘法に非ざれば、筆を選ぶべし』

2017-01-22 21:04:40 | 日記
最近(2017年の1月)ブローデルの大著である『物質文明・経済・資本主義―15-18世紀』を読みだした。というのは、一昨年、祥伝社から出版した『社会人のリベラルアーツ』(P.70)にこの本が「非常に有意義な本である」と述べておきながら、恥ずかしながら完読していなかったからだ。それで、遅まきながら、みすず書房の訳本と共にフランス語の原本(ハードカバー)も購入し、読み始めた次第だ。

ブローデルの格調高い(i.e. 難しい)フランス語の原文は一読しても分からない個所も所々にあるので、和訳をこっそり偸み見しながら読んでいる。そうすると同じ個所を何度も読むことになるので、一日わずか10ページほどしか進まない。まだ150ページほどしか読んでいないが ― 全部で1500ページなので、1/10過ぎた所 ― 噂に違わず名著であることに感心することしきりだ。他の類書とは異なり、ヨーロッパ全土はもちろん、モンゴルや中国・日本にまで目配りが行き届いているのは感心する。それに加えて、実にこまかなディテールの記述もある。例えば、アムステルダムの証券取引所で、プロの株屋が素人をカモにするくだりには次のような記述がみられる。
「…取引所の開いている時間にこれらの店(証券会社)の一軒に強気筋の一人(プロの株屋)が入って来る。人々は彼に株の相場をたずねる。彼はその時点で株価に1―2パーセント上のせしたものを答える。そして小さな手帳を取り出して何か書き込むふりをするが、実は何も書いていない。それは、彼が実際に記したのだと思わせ、ある株を、それがもっと値上がりするのではないかという懸念から、買いたいという気持ちをかき立てるためにしているのだ。」
(「交換のはたらき」和訳本 P.114)

このような調子に、ブローデルの記述によって、当時の情景が彷彿と浮かんでくる。まだ残り、9/10があるので、読み終えるまでには優に半年近くはかかるだろう。

そもそも、あまりフランス語が得意でない私がどうしてフランス語の本を読むかと言えば、内容もさることながら「英語の単語力の増強」(vocabulary building)のためである。生意気に聞こえる事を充分承知の上で言えば、最近、英語の本を読んでいても、知らない単語があまり出てこないので、辞書を引く回数がめっきりと少なくなった。この調子だと単語力が全く伸びないので、対策を考えていた。それで思いついたのが、フランス語の本だとかなり辞書を引かないといけないということだ。フランス語で辞書を引かないといけない単語といえばラテン語系の単語がほとんどである。中には英語に入っている単語もあるが、英語の普通の文章ではあまり見かけない単語のことが多い。

それでフランス語の本を読むことにしたのだが、フランス語の辞書をひく時、仏和にはあまり頼らずに、仏仏辞典や仏英、仏独をひくのが良いと思い実行している。この時、重要なのは良い辞書を選ぶことだ。最近、たまたま神保町の古本市ですばらしい仏仏辞典を入手した。『ボルダス・ロゴス仏仏大辞典』といい、分厚い電話帳のような大きさで、3000ページを越える大冊だ。駿河台出版社がフランスの会社から版権を買って、もとの3分冊を日本で1冊本にして1982年に出版した。以前、図書館などでちょくちょく見かけたことがあったが、漠然と「嵩たかい本だなぁ」との印象しかもたなかった。

ところが、実際に購入して使ってみると、実に良い辞書だと分かった。今まで使っていた定番の Petit Robert よりはるかに語義が明瞭で、その上、我々のような外国人にはわかりづらいニュアンスまで細かく書いてくれているので大助かりだ。例えば、culotte (半ズボン)という単語で両者(ロゴス仏仏大辞典とPetit Robert)を比較してみよう。

まず、Petit Robert では
Vêtement masculin de dessus qui couvre de la ceinture aux genoux… ( opposé à pantalon; Cf. Les sants-culottes)

男性用下半身用の服、腰から膝まで覆う…(pantalon の反対;sants-culottesを参照のこと)

と説明する。これから男物の半ズボンであることが分かる。

一方、ロゴス仏仏大辞典では、半ズボンであるという説明に引き続き当時、貴族は半ズボンをはくが、庶民は長ズボン(pantalon)をはいていた、と歴史的背景を説明する。
(詳しくは下記の文を参照のこと。)


このように、ロゴス仏仏大辞典は文化背景を分りやすく解説しているだけでなく、語源欄も実に詳しい。それに対して、Petit Robert の語源欄は素っ気ない。さらに、単語にまつわる陰影、例えば侮蔑語(pejoratif)、象徴語(figuratif)、廃語(vieux)、など)もついても丁寧に解説しているので、意味を理解するにに大いに助けとなる。

フランス語の意味については、ロゴス仏仏大辞典よりも一層、詳しく歴史的展開について説明しているのが "Dictionnaire Historique de la Langue Française" (Alain Rey)である。これは数万円もするので買うのを躊躇するが、思い切って購入して使いはじめると、投資を悔いることが絶対にない良書であることを発見するであろう。私はフランス語だけでなく、英語やドイツ語の類似語の歴史を知るにも重宝している。ついでに言うと、ロゴス仏仏大辞典の語源欄を見ていて気付いたのだが、フランス語の中には、かなり多くのイタリア語系(bonassa, girandole)やフランマン語(オランダ語)系(例:havre, kermesse)の単語が入っている。これから考えると、昔はイタリア、フランドル地方の方がフランスよりある面では文化が進んでいたと考えられる。

さて、仏英辞典、仏独辞典をひくのも良いと書いたが、注意しないといけないのは、― 私の経験則では ― 仏英辞典は半分近くのケースで裏切られることだ。例えば、次のような単語を仏英辞典でひいてみよう。
 【仏】péremptoire(断固とした) ==> 【英】peremptory
 【仏】clandestin (秘密の) ==> 【英】clandestine

これでは全く説明になっていない!(もっとも英語の単語をもともと知っていれば話は別だが。しかし、その場合はそもそも、これらの単語を仏英辞典はひかないだろう…)

一方、仏独辞典ではこういった事態はほとんど起きない。(私の経験則では 1/50 程度)
 【仏】péremptoire ==> 【独】entscheidend, unwiderlegbar
 【仏】clandestin ==> 【独】heimlich, geheim

これらドイツ語の単語は、極めて一般的な ― つまり、小学生でも分かる易しい ― 単語なので意味が簡単に理解できる。これから分かるように英語は語彙の面からいえば『疑似フランス語』なのである。

ところで、「弘法筆を選ばず」とは人口に膾炙する諺ではあるが、実態は異なっていた。弘法大師(空海)は31歳で入唐したが、わずか2年で帰国した。しかし、その間、恵果和尚から灌頂を受け、密教の極意を会得して帰国したので当時の中国仏教の頂点を極めた。しかし、それだけでなく筆や墨の製法についても技術的にすばらしいものを日本に持ち帰った。その後、日本の筆や墨のレベルが格段に上った。空海はどのような筆でも上手に書くことができた。(ただ、本当に書くときはしっかり良筆を選んだそうではあるが。)

しかし、我々凡人はなまじっか空海の真似などせず、しっかりと良い筆を選んで書くことが重要であろう。筆と領域を全く異にするが、良い道具を選ぶことは、同じように非常に重要である。語学に関して言えば、なんと言ってもまずは良い辞書を揃えることだと私は思っている。
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