限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第58回目)『韓国ドラマの朝三暮四』

2017-03-26 21:44:57 | 日記
『朝三暮四』(ちょうさん・ぼし)とは『荘子・斉物論』に出てくる寓話で、猿使いが猿どもをまんまと騙す話である。人間である猿使いが猿の浅智慧を高みから見下しているのだが、荘子の言いたいのは、この類の話は人間界にも多いので気をつけよ、ということであろうと、私は解釈している。
【参照ブログ】
 惑鴻醸危:(第42回目)『朝三暮四のODA』

ところで、以前のブログ
 惑鴻醸危:(第36回目)『韓国歴史ドラマに学ぶ、両班のえげつない処世術』
で述べたように、私は、韓国の歴史ドラマが好きだ。とりわけ今から15年から20年ほど前(つまり、西暦2000年前後)の『往年の名ドラマ』ものが気に入っている。

最近、朝鮮史(正確には、高麗の歴史)の本
 『本当に悲惨な朝鮮史 「高麗史節要」を読み解く』
を上梓したが(発行予定日は2017年4月10日)、高麗の歴史を感覚的につかむために DVD をいくつか(武人時代、武神)購入した。ついでに『ホジュン 宮廷医官への道』、『龍の涙』のDVDも購入し、じっくりと見ている。

近年の韓国の歴史ドラマは、「イサン」あたりはまだ許せるが、最近のものはファンタジーや武闘シーンをやたらと強調しているので、まったくつまらなく感じる。それにひきかえ『龍の涙』などの往年ものでは、かなり史実に沿った筋立てになっているので見ていても興味が湧く。たとえば、宮廷内外のニュース掲示板(「榜」という)の文章を見ても、一応まともな内容だ。官位も歴史的に見て正確な内容なようだし、登場人物も、死亡したあとなどには必ず本貫などの付帯情報もきっちりと紹介してくれている。



このように、往年の歴史ドラマのシナリオは非常にしっかりと書かれているが、玉に瑕というか、使っている小道具にちょっとした手抜かりがある。当時のテレビ放映では誰も気がつかないだろうということで、手抜きをしたと考えられるが、現在では、ビデオで静止画として見る事ができるので、手抜きがもろバレになってしまっている。

具体的にいうと、『龍の涙』第97話では、趙思義(チョ・サイ)が太祖(李成桂)を引きずり込んで、太宗(李芳遠)に対して反乱を起こすが、その際に朝鮮東北部の将軍たちも賛同する手紙を送ってきたと言って、その手紙を眺めるシーンがある。その手紙の文面をビデオを静止させて読むと次のような文言が見えた。
 始皇自送至灞上。王翦行、請美田宅園池甚衆。始皇曰、将軍行矣、何憂貧乎。王翦曰、為大王将、有功終不得封侯、故及大王之嚮臣、臣亦及時以請園池為子孫業耳。始皇大笑。

これは(私の漢文検索システムで調べると)『史記』巻73、「白起王翦列伝」の文章である。秦が南方の荊を討とうとして李信に兵20万人を授けたが、大敗してしまった。それで、王翦に兵60万人を授けて是が非でも荊を征服してくれと始皇帝自らが頼みこんだ。大軍を授けられた王翦は、始皇帝の疑念をそらすために、わざと貪欲に財産(邸宅と田地)を要求する場面だ。

手紙は漢文なので、雰囲気は一応それなりに出ているが、文章の選定がまったくおざなりだ。しかし、まだこれは良いほうだ。歴史ドラマでは、両班の机の上には、たいてい何らかの書物が置かれているが、ある時、表紙が『書経』(だったか?)となっているにも拘らず、中身は仏教の経典(法華経だったか?)になっていた。本の中身が見えた時間はわずか数秒なので、手抜きをしたのだろうが、ビデオを静止してみると、すぐに判明することだ。

悪意は全くないのであろうが、プロデューサーたちは視聴者などには、分かるまいと思って油断していたのであろう。あるいはひょっとして、『朝三暮四』の猿使いのように高みから視聴者を小ばかにしていたのかもしれない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第300回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その143)』

2017-03-23 21:29:18 | 日記
前回

【242.時運 】P.3917、AD445年

『時運』とは「その時の世のなりゆき」という意味。このことばで思い出すのは、終戦の詔勅で安岡正篤の書いた「義命の存する所」という語句が「時運の趨く所」と書き換えられたことである。書き換えの理由としては、「義命」という言葉が辞書に無かったためとのことだ。

ところで『時運』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。 晋書と宋書にかなり多いことが分かる。当時の世相を反映した流行語として見る事もできるのではないだろうか。



さて、資治通鑑で「時運」の使われている場面を紹介しよう。ここでの主人公は、范曄で、現在に伝わる後漢書を著した人である。不平家の孔熙先の口車に乗せられて陰謀事件に巻き込まれてしまった。その結果自分一人だけでなく、一家誅滅の悲劇を味わうことになっ。

 +++++++++++++++++++++++++++
そこで、孔熙先がころあいを見計らって范曄を口説いた「大将軍(文帝の弟の劉義康)は英断で聡敏であり、人だけでなく神々も慕っております。今は、職を解かれて南方へ左遷させられていますが、天下の人々はみな憤激しています。私は前帝から「大将軍をよろしく」との遺命を受けていますので、死をもって大将軍に報いるつもりでいます。現在は、世情も不安定で、天文の運行もめちゃめちゃです。このような状況は所謂「時運の至」というチャンスで、むざむざ見逃す手はありません。もし、我々の計画が天や人の心の願いに沿うものであるなら、英雄豪傑は連携し、宮廷の内外は呼応し、都周辺の兵も決起することでしょう。それなれば、我々に楯突く連中を皆殺しにし、大将軍を奉って天下に号令を掛ければ、逆らう者などいるはずもありません。私は、この七尺の身と三寸の舌で、謀をめぐらし実行し、成果はみなさまと分かち合いたいと思っています。貴卿はどう思われますか?」謀反の計画を聞かされた范曄は腰を抜かしてしまった。

熙先乃従容説曄曰:「大将軍英断聡敏、人神攸属、失職南垂、天下憤怨。小人受先君遺命、以死報大将軍之徳。頃人情騒動、天文舛錯、此所謂時運之至、不可推移者也。若順天人之心、結英豪之士、表裏相応、発於肘腋;然後誅除異我、崇奉明聖、号令天下、誰敢不従!小人請以七尺之身、三寸之舌、立功立事而帰諸君子、丈人以為何如?」曄甚愕然。
+++++++++++++++++++++++++++

毎度のことながら、資治通鑑(のみならず、中国の史書)には、謀反の計画や経緯が実にリアルに描写されている。あたかも警察調書を読んでいるようだ。范曄も最初は陰謀への加担を躊躇していたが、遂には陰謀に加わることになった。だが、土壇場で徐湛之の密告により、陰謀に加担した者たちは一網打尽につかまり処刑された。資治通鑑では処刑を目前に控えた范曄の虚勢と不甲斐なき最後をも克明に描き、歴史家としてではなく、一人の弱き人間としての范曄の実態を浮かび上がらせている。

さて、冒頭、「義命の存する所」について「辞書に載っていなかったので文言を変更された」ことを紹介したが、「義命」を二十四史で検索すると、少なくとも3ヶ所に見える。ただ、いずれも元史以降に見えるので、かなり近代的な用法と言えそうだ。
 『元史』巻148:義命に安(やす)んず(安于義命)
 『明史』巻169:況んや、義命に安(やす)んぜず(況不安義命)、
 『清史稿』巻511:今日、宜しく義命に安(やす)んずべし(今日宜安義命)

この3つの例から、確かに「義命の存する」というように、「存」ではなく、「安」という字と連結されているところから、「義命」とは「たとえ不満があったにしても受け入れるべき境遇」という意味であろうと推測できる。このことから、「義命の存する」という語句は確かに少し落ち着きの悪い言葉であるとの意見も納得できる。もっとも、それでは「時運の趨く所」の方が適切か、というと個人的にはそうでないと思っている。それでは、どう言えばよかったか、と言われると、答えに窮する。辞書というのは、単語から意味を調べることはできても、その逆は、全く不可能とは言えないまでも、非常に難しい。人工知能(AI)がこういった方面で助けてくれないものかと期待している。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

百論簇出:(第202回目)『論語に見る中国の建前論』

2017-03-19 21:19:49 | 日記
中国古典を真剣に読み出すようになってからかれこれ40年にもなる。当初は、故事成句の表現が簡潔な上、言葉の成り立ちが面白くて引き込まれた。例えば、以前のブログ
 想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』
で紹介した謝安の『屐歯(げきし)の折るるを覚えず』(不覚屐歯之折)などは、情景がありありと思い浮かび、言葉が長く記憶に留まる。

一般的に中国古典というと論語や孫子があがる。しかし、私は高校のときから荘子は好きであった。これらの本は、割とすらすらと読むことができた。しかし、孟子や荀子など、いわゆる弁論の武闘派の書となると論点の理解が追いつかず、何度か挫折した。しかし、何度か読むうちに論点の輪郭がつかめてきた。そうして分かったのは、伝説的な聖王である尭舜禹湯文武の業績を記録したといわれている『書経』や春秋時代の歴史を綴った『春秋』(一般的には『春秋左氏伝』)を読まないことには、論語などの真意が理解できないということであった。

それで、いわゆる「五経」である『書経』『春秋左氏伝』を読んだが、含蓄深い文句が多く、あたかも箴言集の趣があった。当時、まだ中国古典を良く知らなかった私には、人生の真理がいっぱいつまっているように思えた。「日本ではまだ縄文時代のときにこのようなすごいことを考えていた国があったのだ!」と中国の文明の高さとその叡智あふれる言辞に感嘆した。さらに書道や水墨画、それに象牙細工などが好きだったせいもあり、学生時代は中国美術とともに中国哲学の魅力にずっぽりはまっていった。

それから、何十年という月日が流れた。日中国交回復があって次第に中国で起こっていたいろいろな災厄(大躍進、文化大革命)の実態が報道されるようになってくるに従い、どうも古典の記述と実態との間に大きな乖離があることに気づきだした。(この点については『本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く』(角川新書)P.19 あたりに書いた。)しかし、当時の私はこの乖離・矛盾をどう解釈すればよいのかがさっぱり分からなかった。


【出典】斉国歴史博物館

そういった、もやもやした疑念が決定的にすっと晴れたのが 2004年から2007年にかけて読んだ、文字通り、大著「資治通鑑」のおかげだ。(この時、職場が変わったこともあり、半分ぐらい読んだところで、一時的に中断した。 2年ほどして再開したが、実質的には1年で読了したことになる。)

驚愕的な内容は多々あるものの、読後感想を一言で述べたのが角川新書の冒頭に示した次の文だ。
 『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして、中国人を理解することも不可能である

資治通鑑は私に本当の中国の姿を見る眼を開かせてくれたのだ。浅学菲才の私自身を、かつての偉人と比較するのはおこがましいのは重々承知でいうと:
 あたかも、仏陀が菩提樹の下で悟を得た如く、あるいは、パウロがダマスコで回心した如く、あるいは、アウグスティヌスがキケロの『ホルテンシウス』を読んでマニ教から決別した如く、あるいは、王陽明が龍場で大悟した如く。。。
(法華経や原始仏典などでは、このような「~の如く」と対句が何十連もでてくるのは、いかにもインド風のねちっこさだが、それをわざと真似てみた。)

そうして、開眼後に論語を読み直すと、今まで見えてこなかった孔子の建前論がくっきりと透けて見えてきた。世間では、論語に楯突くなど正気ではないと思われるだろうが、ごまめの歯軋りと思ってご寛容賜りたい。(以下、読み方は省略し、簡単に建前論の部分だけを説明する。)

1.子曰:「道千乗之国:敬事而信、節用而愛人、使民以時。」(学而編)
 国家が財政を節約モードにして、人民を慈しめば国は治まるという主張だが。

2.哀公問曰:「何為則民服?」孔子対曰:「挙直錯諸枉、則民服。」(為政編)
 正直者が官吏になれば、うまく治まるという主張だが。

3.「君子篤於親、則民興於仁。」(泰伯編)
 君子(為政者)が近親に手厚くすれば、人々が情け深く(仁)なるという主張だが。

4.「克己復礼為仁。一日克己復礼、天下帰仁焉。」(顔淵編)
 自らを正しく律して、礼を守るのが仁ということだ。自分が(為政者のことか?)このように仁を実践すれば天下の人々も皆、仁になるという主張だが。

5.季康子患盗、問於孔子。孔子対曰:「苟子之不欲、雖賞之不窃。」(顔淵編)
 貴卿(季康子)自身が欲望を抑えて人のものを強奪しなければ、誰も盗みなどしないよ、と警告するが。。。

6.「上好礼、則民易使也。」
 上(為政者)が礼を好めば、人々は従順になるという主張だが。

上に挙げた以外にも10条ぐらいあるが、論語の原文は断定的で、あたかも真理を述べているようであるが、実態はそうでなかったことは資治通鑑をはじめ史書ではその実例を挙げるのに事欠かない。つまり、論語に載せられている孔子の言葉は真理などではなく、言ってみれば単なる「~であればいいのになあ、という願望」に過ぎなかったのだ。

論語だけにとどまらず、経子書(いわゆる思想書)や史書などにもこのような類の文句は山とある。江戸時代の大坂の町人学者・富永仲基は東洋の二大文明であるインドと中国を「幻のインド、文の中国」と名づけたが、中国には「文」だけでなく、「幻」もつける必要があるのではないかと私は思っている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第299回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その142)』

2017-03-16 21:21:00 | 日記
前回

【241.疑獄 】P.612、BC126年

『疑獄』と言えば、昨今では大阪の某小学校がらみの事件がすぐに思い浮かぶが、従来の疑獄と比べると明らかに見劣りがするほど小粒だ。たかが数億の金で、何人もの議員が(あるいは何十人か?)、何日もかけて論じる話ではない。さっさとけりをつけてもっともっと重要な国家的課題にまじめに取り組め!と言いたい。

この件もそうだが日本語では「疑獄」とは「政府高官などが関係した疑いのある大規模な贈収賄事件をいう」(広辞苑)と定義されるが、漢文ではニュアンスが異なる。辞海(1978年版)によると『謂訟案之可疑、而難断者』(疑念が多く、判定が下しにくい訴訟の案件)のことである。これからすると、今回の某小学校がらみの件は、漢文的には『疑獄』ではなく『易獄』といえそうだ。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。



漢の武帝の時代、疑獄が使われている場面を紹介しよう。

 +++++++++++++++++++++++++++
中大夫の張湯を廷尉(裁判官)に任命した。張湯は策謀を好み、悪知恵を働かせてうまく人を操っていた。当時、武帝は文学を愛好していたが、湯陽はごまをすって「文学大好き!」と公言していた。大儒の董仲舒や公孫弘の部下として働いていた一方で、千乗出身の兒寛をメッセンジャー(奏讞掾)としてあごでこき使っていた。そして昔ながらの法律を適用して判決を下した。

張湯のやり方は:武帝が罰したいと思う者を裁く時には獄吏の中でも残酷な者に当たらせ、逆に、武帝が罰を軽くしたいと思う者の時は、優しい獄吏に当たらせた。このようにしたので、武帝は張湯をとても気に入った。

張湯は自分の友人の子弟に対しては特に面倒をよく見た。さらに上司や大臣に対しては、時候の挨拶を欠かさなかった。それで、判決は刻薄で、かつ恣意的であったにもかかわらず、世間の評判は至って良かった。

中大夫張湯為廷尉。湯為人多詐、舞智以御人。時上方郷文学、湯陽浮慕、事董仲舒、公孫弘等;以千乗兒寛為奏讞掾、以古法義決疑獄。

所治:即上意所欲罪、与監史深禍者;即上意所欲釈、与監史軽平者;上由是悦之。

湯於故人子弟調護之尤厚;其造請諸公、不避寒暑。是以湯雖文深、意忌、不専平、然得此声誉。
 +++++++++++++++++++++++++++

このように、張湯は武帝や上司の受けが良かったのだが、武帝のご意見番ともいうべき汲黯は張湯の身びいきする、不公正なやり方について、武帝の前といえども憚ることなく公然と張湯を非難した。張湯は、最後には政敵に陥れられて自殺する羽目となったが、罪に問うほどでもなかったようだ。

ところで上で、史書で「疑獄」という文句が見えるのは漢書からだといったが史書以外に「疑獄」という文字は早くに『礼記』にも見える。『礼記』(王制編)では疑獄について、次のように説明する。
 「疑獄、氾与衆共之;衆疑、赦之。必察小大之比以成之。」
(疑獄は、氾(ひろ)く衆と共にす。衆疑えば、これを赦す。必ず小大の比を察して、もってこれを成す。)

この意味は、「判断が難しい場合は、大衆の意見を聞き、大衆が有罪に納得しないなら、釈放せよ。また刑罰を科す場合には、犯罪に対してむやみと重くならないようせよ。」と解釈できる。これを読むと、あたかも裁判が民主的に行われたかのような印象を受けるが、大抵のばあい、中国の古典に見えるこのような文章は「理想像」を描いていて、必ずしも実態を反映しているわけではないことを忘れてはいけない。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

【座右之銘・】『Nec ut lepidior fiat, sed ut modestior』

2017-03-12 20:00:28 | 日記
以前のブログ
【座右之銘・6】『古之學者爲己』
で、論語のの『憲問篇』にある
 『古之学者為己、今之学者為人』
 古(むかし)の学者は己のためにし、今の学者は人のためにする
という句を紹介した。日本人はたいていにおいて論語が大好きでこのような言葉を見ると、思わず膝を打って、「なるほど、西洋では自己主張しかないが、東洋には謙虚という美徳がある!」と単純に考えてしまいがちである。

しかし、世界は広いもので、目をぐっと見開いてみれば、これと同じ言葉が西洋にもある。もっとも、西洋といってもセム族の一神教に汚されていなかった古き良きローマ時代のことであるが。。。



紀元2世紀のローマにアウルス・ゲッリウス(Aulus Gellius)という文人がいた。現在に残る彼の本『アッティカ夜話』(Noctes Atticae)はエッセーの集成で、いわばローマ版『徒然草』の趣がある。

その冒頭の巻1、弟9節で、ピタゴラス教団の教育方針として、入門後しばらくの間(人によって異なるらしいが2年程度)は、しゃべることがご法度である。日光の陽明門の「みざる・きかざる・いわざる」ではないが「いわざる」修行が課せられるのである。

ゲッリウスの友人のタウルス(Taurus)は、このようにかつてのギリシャの賢人が制定した規則を褒めそやしたあと、現在(紀元2世紀)ではこのような思慮深き慎ましさはもはや亡くなってしまったと嘆く。そして、ギリシャの哲学者・プラトンの本を読む目的は次のようだと言う。
【原文】nec ut modestior fiat, sed ut lepidior.
【私訳】自らの分別を向上させるためでなく、見せびらかしのためにする
【英訳】not to gain in discretion, but in prettiness.
【仏訳】non pour acquérir de la modération, mais pour se donner de l'esprit.

どうだろう、論語と同じ嘆きがここに見ることができるのではないだろうか?

冒頭の句『Nec ut lepidior fiat, sed ut modestior』はこの文句を逆にして、タウルスが本来、現代人 ― と言っても、1800年前の現代人ではあるが ― に求めていたものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第298回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その141)』

2017-03-09 20:17:33 | 日記
前回

【240.間道 】P.326、BC204年

『間道』とは「抜け道」の意味。辞海(1978年版)では「間道」を「僻径也」と説明する。「僻」とは「偏った」という意味なので、「本道ではない」との意味と解釈できる。一方、辞源(1987年版)では「間道」を「微道、小道」と説明する。この説明では、間道は単なる「物理的な細道」と解釈されかねない。これでは、説明不足だ。

ところで「間道」の「間」の字であるが、日本では「間道」と書くが、中国の辞書である、辞海も辞源もどちらも「閒道」と書いている。諸橋の大漢和によると「閒」が正字で「間」は「閒」の俗字であるとのこと。類似の例としては「歩」がある。普通は「止」の下に「少」と書くが、第3画の点が欠けている字が正字である。
しかし、このような字が使われているのを見たことのある人は極めて少ないことだろう!

さて、『間道・閒道』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。


これから分かるように、史記の時代から使われている古い単語である。ここで紹介するのは「背水の陣」の故事で有名な場面。漢の名将、韓信が趙を攻めた時、敵陣では智謀の士の広武君(李左車)が急襲しようと提案したのに対して、将軍の成安君(陳余)が「策略を使うなど君子の振る舞いにあらず!」と却下したところだ。

 +++++++++++++++++++++++++++
韓信がスパイから敵は広武君の奇襲案を採用しなかったと聞いて、大変喜んだ。そして、軍を率いて山を下っていった。そして、井陘口の手前の8Kmのところで宿営した。夜なかに、軍隊に出発を命じた。軽騎兵を二千人選び、銘々に赤旗を一本づつ持たせ、間道を通って山の中に身を隠して趙軍の見えるところで待機せよ、と伝令した。そして念を押して「趙軍が我軍が逃げると見ると、必ず陣地をからっぽにして我軍を追いかけるから、その時に敵の趙の陣地にすばやく侵入し、趙の旗を抜いて、我が漢の赤旗を立てよ。」さらに部下の武将たちに晩飯の用意があると言って「今日は趙を打ち破って共に会食をしようぞ!」と告げた。将軍たちは内心、冗談だと思ったが「はい」と元気よく返事した。

韓信使人間視、知其不用広武君策、則大喜、乃敢引兵遂下。未至井陘口三十里、止舎。夜半、伝発、選軽騎二千人、人持一赤幟、従間道萆山而望趙軍。誡曰:「趙見我走、必空壁逐我;若疾入趙壁、抜趙幟、立漢赤幟。」令其裨将伝餐、曰:「今日破趙会食!」諸将皆莫信、佯応曰「諾。」
 +++++++++++++++++++++++++++

結果は、ご存知のように弱兵でも「背水の陣」のため、逃げ場がなく誰もが必死で戦ったので、予想に反して強敵の趙軍を打ち破ることができた。広武君は捕らえられたが、韓信は縄を解かせ、丁重にもてなしてちゃっかり戦略の知恵を借りた。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

沂風詠録:(第284回目)『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ・その2』

2017-03-05 21:31:03 | 日記
前回

【3】とうもろこし(1-1、P.213)
コロンブスがアメリカ大陸に到着して、ヨーロッパとアメリカ大陸の交通が盛んになって、南米からは各種の食物が旧大陸に紹介された。中でも、とうもろこし、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、ピーマンなどはその後の旧大陸の食生活を大幅に変えた。とりわけ、とうもろこしとジャガイモは旧大陸(特にヨーロッパ)の飢饉を救う、救荒作物として大きな役割を果たした。

それだけでなく、ヨーロッパの農民にとっては、とうもろこしは現金収入を得る手段となった点について、ブローデルは次のように記述する。

 +++++++++++++++++++++++++++
…この穀物(とうもろこし)は収穫量が豊富だから、その割合が増大するにつれて商品となる小麦の生産が増大した。農民はとうもろこしを食べて小麦を売った。小麦の価格は(とうもろこしの)ほぼ二倍もしたからである。

…ローラゲー地方(Lauragais、ツールーズの南東40Km)においても、「十七世紀には、またとりわけ十八世紀には、とうもろこしが農民の食べ物の大部分を受け持ったので、小麦を海外通商向けの栽培に回すことができた。」
 +++++++++++++++++++++++++++

ここで、ブローデルが述べているのは、小麦を生産している農民は、自分が作った小麦を食べずに、とうもろこしを食べて、小麦は換金作物として販売し、現金を得ていたという事実だ。



これと相似形の事実が日本が併合した当時の朝鮮にも見られた。(手元に本が無いので、以下、記憶を辿って述べる。)

現在の韓国の教育では、戦前の日韓併合時に日本が朝鮮から米を奪取したかのように、子供に教えているそうであるが、これは全くの事実誤認である。確かに日本の東北地方が冷害に遭って米不足のため、日本から強制的に(ただし、ちゃんと支払いをして)朝鮮から米を輸入したことが一時期はあった。しかし、36年間の併合の大半の期間では、日本でも米の生産量が消費量を上回っていたので、輸入する必要性は全くなかった。しかるに、朝鮮の農民は、現金を得たいので無理やり日本に輸出していたのが実態のようだ。もっとも、朝鮮では米以外の雑穀や豆類は豊富にとれたので朝鮮の人々は別段栄養が悪かったり、飢餓になったりしたわけではない。逆に、米を売ることで、現金を得た農民は生活が豊かになったと喜んでいたわけだ。

日本と朝鮮という二国間の米の輸出問題を考えるのではなく、ヨーロッパ諸国における、小麦ととうもろこしの関係を考えると、朝鮮の農民の米輸出はとりたてて問題にする点は全くないことが分かるだろう。

ところで、「遼東の豕」という語がある。中国の遼東のある村に白豚が生まれた。そのあたりの豚は灰色や黒色なので白豚は珍しい。それで、皇帝に捧げようと考え、白豚を連れて都に上る途中の村々で白豚をたくさん見るようになり引き返した。つまり、自分では珍しいものだと思っていたのは自分の知識が狭いせいで、世の中にはその程度のものなら数多く存在するという喩え話だ。(出典は『後漢書』朱浮伝)

私は従来から思っているのだが、リベラルアーツで必要なのは世界各国の過去の歴史をファクトベースでしっかりとつかみ、互いに比較することである。視点を広く持つ、つまりズームアウトすることで、そこまで見えなかった問題の本当の点が明らかになってくる。ズームインをしすぎて近距離から見ていると「遼東の豕」のように世間が見えなくなる。この意味で、ブローデルの描く、15世紀から18世紀のヨーロッパの惨めな生活実態を知ることは、観念的に「ヨーロッパは先進国」というありきたり(cliche)のヨーロッパ観を打ち砕くとともに、日本の過去の生活が必ずしもそれほど悪くはなかったことも分かる。

続く。。。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第297回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その140)』

2017-03-02 10:58:18 | 日記
前回

【239.評論 】P.1823、AD169年

『評論』とは現代では「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論じること」と言う意味である。

辞源(1987年版)では「評」を「是非や高下を品論す」(品論是非高下)と解釈し、『評論』を「批評論議」と簡潔に説明する。一方、辞海(1978年版)では「評」を「一般的に物事の是非や美悪について、思う所を述べることはおしなべて「評」という」(凡対於事物之是非美悪、有所平議、皆謂之評)と説明する。

『評論』と類似のことば「品論 品評 批評 平議」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索した結果を下記にしめす。


これから、『評論』は後漢の時代から始まり、隋のころまでの期間に使われていた単語であることが分かる。また、現代日本でよく使う批評は中国では全く使われていなかったことが分かる。

さて、資治通鑑で始めに『評論』が使われているのは、後漢時代、党錮の禁によって数多くの士人が刑戮に罹った時、申屠蟠は処罰を一切免れた場面である。

 +++++++++++++++++++++++++++
党錮の禁が初まる前、范滂たちが政治について批判していた時、公卿たち以下、官僚はこぞって范滂たち、党人に迎合した。都にいた大学生たちも、競って范滂たちの真似をし、「まさに今から文人政治が始まり、野賢たちもまた官僚に登用されるだろう」と期待した。そういった中、一人、申屠蟠だけはため息をつき、次のように言った「昔、戦国時代、処士(未官の者)が勝手に政治について言いたい放題に言っていた時、列国の王たちは、処士を先生と崇めて迎い入れ、箒をもって道を清めるありさまだったが、最後には、秦の始皇帝によって、焚書坑儒の禍に遭ってしまった。今の状態はまさにあの時と同じだ。」

こう言って梁と碭の間にある地域で隠棲した。大きな樹木によりかかった掘立小屋を作り、下僕と同じ所に寝起きして暮らした。その後、2年して、范滂たちが党錮の禁で投獄や処刑されたが、たった一人、申屠蟠だけは超然として評論を免れた(罪に問われなかった)。

初、范滂等非訐朝政、自公卿以下皆折節下之、大学生争慕其風、以為文学将興、処士復用。申屠蟠独歎曰:「昔戦国之世、処士横議、列国之王至為擁篲先駆、卒有坑儒焼書之禍、今之謂矣。」

乃絶迹於梁、碭之間、因樹為屋、自同傭人。居二年、滂等果罹党錮之禍、唯蟠超然免於評論。
 +++++++++++++++++++++++++++

後漢末、世の中が混乱していた。党錮の禁では処刑されたり、処罰を受けたものが数百人いた(罹党錮、或死或刑者数百人)、と後漢書は伝える。だれもが政権にすがりついて、尊貴を求めてようとしていた時代、一人、申屠蟠だけは時代の趨勢を見通していたようだ。 74歳まで生きたという。

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

百論簇出:(第201回目)『物(ブツ)からつかむ文化のコア』

2017-02-26 14:53:07 | 日記
私のリベラルアーツ観に関しては、すでに幾つかのブログや、一昨年(2015年)に出版した『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』に詳しく述べている。その中でも、私が強調したいのは、次の一節だ(P.116):
 通常、日本の文化や社会問題を考える時に、神道、仏教、儒教といった思弁的なもの、つまり思想・哲学・宗教・社会科学の観点から考えがちである。しかし私はそれよりも、日本人が得意とする手を動かした工芸や技術からのほうがよく分かると考えている。その理由は、日本文化の本質は物(ブツ)に色濃く反映されているからである。

しかし、残念ながらリベラルアーツを修得しようとする人々の中でこの点に関心をもつ人はあまり多くないように思える。ところが、数年前に私のこの考えと同じ視点で各国の文化のコア(真髄)をつかまえようとしていた人がいることを知った。その人とはフランスの大歴史学者のフェルナン・ブローデル(Fernand Braudel)だ。おこがましいのを重々承知で、彼と私の視点がどのように似ているかについて紹介したい。

先日のブログ
 沂風詠録:(第280回目)『弘法に非ざれば、筆を選ぶべし』
でも書いたように、現在、ブローデルの大著『物質文明・経済・資本主義―15-18世紀』を読んでいる。
(私の読書メモは ブログ記事として沂風詠録『ブローデルの大著「物質文明」読書メモ』として現在連載している。)

読みだしてからすぐに非常な親近感を感じた。それは、彼の視点が私の視点に非常に似ているからだ。ブローデルのこの本は 15世紀から18世紀のヨーロッパの歴史について書かれているが、取り上げられているテーマはどれも人々が日常的に使っているもの(例:食物、酒、服、塩、暖炉など)がほとんどだ。通常、歴史と言えば「砂をかむように味気ない」年号や王や政治家、体制・制度などの名前のオンパレードである。暗記モノが至って苦手な私などは辟易してしまう内容のものが多い。ところがブローデルのこの本にはそういうものに関する記述は必要最低限にとどまっている。その上、生活実態を記述する態度にしても、通常の本に取り上げられているような、王侯貴族、あるいは文人のような社会のごく一部の特殊層ではなく、もっぱら一般庶民の生活実態に焦点を当てて、ヨーロッパの隅々に至るまで目が行き届いている。さらには、それ以外の地域にも言及されていることも多い。



たとえば、『日常性の構造』(日本語訳・6分冊の第1冊目)の第4章では、服装の流行について延々と述べられている(日本語訳の1-1、P.420から 30ページ分)。そこには、ヨーロッパ近代の人々が服装(それに髪形、ヒゲ)の流行をいかにやっきになって追いかけていったかに関して数多くの実例が紹介されている。彼の意図は、単に「ヨーロッパ各地には、こういう流行がありました」と紹介することではなく、ヨーロッパとそれ以外の地域(具体的にはイスラム圏、中国、インド、それに我が日本も!)と比較することで、ヨーロッパ人の流行に対する熱意のバカバカしいさを示すことにあった。

そもそも、服というのは暑さ・寒さから身を守るという主目的が達成できれば事足れり、のはずが近代のヨーロッパ人はそれに満足が出来ず、服本来の目的・用途から逸脱した服飾流行という虚像を熱心に追い求めたのだった。彼の感性の鋭さは、一見バカバカしく見える服装の流行という現象から、ヨーロッパ人のイノベーション能力(新規性・想像力)の高さを見抜いたことだ。(P.438、P.439)つまり、服という物(ブツ)を各文化圏をまたがって比較してみると、実に大きな差異が見られると指摘する。何故、そのような差異が生まれるに至ったかという点をブローデルは考察し、そこに各文化圏のもつ文化コアの本質的な差を見つけたのだ。

私は、図らずもブローデルを読むことで、従来からの私の主張である
 「物(ブツ)から文化のコアをつかむことが可能であり、同時に、文化の本質的な差を理解するためには必要不可欠の作業である」
ことを確信できた次第だ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

想溢筆翔:(第296回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その139)』

2017-02-23 17:14:49 | 日記
前回

【238.裁量 】P.3906、AD444年

『裁量』とは現代の日本語では「自分の考えで物事をとりはからって処理すること」という意味だ。辞源(2015年版)によると「裁」には「刪減」(削り減らす)や「節制」の意味があると説明する。
類似の単語としては、「裁度」があるというが、両者を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次のようになる。『裁量』の初出は後漢書、「裁度」は晋書であるので比較的新しい単語であることが分かる。



『裁量』を「刪減」(削り減らす)の意味に使われている個所を紹介しよう。
登場人物は前回取り上げた古弼

 +++++++++++++++++++++++++++
八月、魏主(北魏の太武帝)が河西に狩りに出た。尚書令(秘書官)の古弼が宮廷に残り留守番をした。太武帝が古弼に狩猟の為に肥えた馬を送るように命じた。古弼はやせて弱弱しい馬だけを選んで送った。太武帝はかんかんに怒り「あのとんがり頭め、よくもワシの命令を勝手に削ったな(裁量)!帰ったら、真っ先に斬ってやるぞ! 」古弼の頭がとんがっているので、太武帝はいつも古弼を「筆頭」とからかっていた。古弼の下役たちは、一緒に殺されるのではないかと恐れ真っ青になった。古弼は落ち着いて言うには「臣下として君主の狩猟の楽しみを損なうのは罪としては小さいものだ。しかし、敵からの不意の襲撃に備えを怠る罪は大きい。現在の状況を見るに、蠕蠕の軍隊は強く、また南方の敵もまだ勢力を温存している。それで、国の為にと考えて敢えて、肥えて強い馬は軍に送り、やせて弱い馬を帝の狩猟に回した。処刑されることになっても後悔はしない!またこれはワシの一存で決めたことで、諸君に迷惑はかからないから安心しろ。」太武帝はこれをきいて、感心して「こういった臣下こそ、国の宝だ。」と言って、衣一揃いと、馬二匹、鹿十頭を古弼に贈った。

八月、乙丑、魏主畋于河西、尚書令古弼留守。詔以肥馬給猟騎、弼悉以弱者給之。帝大怒曰:「筆頭奴敢裁量朕!朕還台、先斬此奴!」弼頭鋭、故帝常以筆目之。弼官属惶怖、恐幷坐誅、弼曰:「吾為人臣、不使人主盤于遊畋、其罪小;不備不虞、乏軍国之用、其罪大。今蠕蠕方強、南寇未滅、吾以肥馬供軍、弱馬供猟、為国遠慮、雖死何傷!且吾自為之、非諸君之憂也。」帝聞之、歎曰:「有臣如此、国之宝也。」賜衣一襲、馬二匹、鹿十頭。
 +++++++++++++++++++++++++++

自分の命より、国家防衛のことを重視したこの古弼の判断は、流石に太武帝から「社稷の臣」と言われただけの事はある。太武帝も腹の底ではもとから、古弼の正々堂々たる信念には反論できないと考えていたように思える。



 +++++++++++++++++++++++++++
別の日、太武帝がまた山の北側で狩りをした。鹿を数千頭捕まえたので、荷車を 500台、至急に寄こすよう、使者を宮殿に差し向けた。ところが使者が去ってから太武帝は周りの者たちに「あのとんがり頭はきっと荷車を寄こさないだろうからお前たちの馬で運んでしまえ。」こうして、鹿を運んで行ったところ、40Kmほど行くと使者が古弼からの返事を持って戻ってきた。その文面には「今は秋の収穫の時節のまっさかりで穀物が平原一杯に稔っています。しかし、猪や鹿が喰い、鳥がついばみ、雨風が吹くと地面に落ちるので、朝に刈り取るのと夕方に刈り取るのとでは収穫量が3倍も違います。そこで、穀物の収穫を最優先したいと思いますので、悪しからず。」と書いてあった。太武帝は「やっぱり、ワシの言った通りだろう。とんがり頭(筆公)こそ、社稷の臣というべき人だ!」

他日、魏主復畋於山北、獲麋鹿数千頭。詔尚書発車五百乗以運之。詔使已去、魏主謂左右曰:「筆公必不与我、汝輩不如以馬運之。」遂還。行百余里、得弼表曰:「今秋穀懸黄、麻菽布野、豬鹿窃食、鳥鴈侵費、風雨所耗、朝夕三倍。乞賜矜緩、使得収載。」帝曰:「果如吾言、筆公可謂社稷之臣矣!」
 +++++++++++++++++++++++++++

自分の命令が無視されても、平然と古弼を誉めた太武帝の太っ腹にも敬意を表すことにしよう!

続く。。。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加